美の世界にようこそ


 美とは何なのか? 古代の哲学者から今日の脳科学者に至るまで、真面目な説明がもっともらしく為されているが、意味不明の説明が長々と続くだけで、その内容は分裂気味である。
 人は美を好み、美から喜びを得ようとする。芸術家は美を追求するが、美の追求の結果が生活の糧であり、生活の糧のために美を追求しているわけではない。
 また美には自然美もあれば造形美もある。形状美もあれば機能美もある。スポーツマンのような清々しい男性美もあれば、日本舞踊のような女性美もある。
 もちろん善悪にも同じく美がある。美しい生き方に涙を流すこともあればその逆もある。傲慢なオヤジに対し、間抜けな顔で化粧をする女性に対し、このブタどもと嘔気を覚えることがある。爽やかな坊主頭の高校球児でさえ、眉を形良く剃ってインタビーに答えている。シワくちゃなのに異様に白い歯の芸能人が多い。婆さんまでもスマホを持ち、これはかつて婆さんまでもがミニスカートを履いていた時代を彷彿させる。
 人は常に美を目指し、美に憧れているが、彼らの美は見た目であり、心を鍛えての美学、生き方の美学ではない。しかし美の評価は人それぞれ違うので、どんなに「見た目は美ではない」と叫んでも、見苦しいだけである。美の反語は醜であるが、美醜を判断するのは本人であり、他人はそれを評価するだけである。
 美の判断は、好みと同じで、最終的には好き嫌いである。味覚と同じで好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、ただそれだけである。そのため自分の美学を強要しても相手が納得しないことが多い。
 これまで長々と述べたが、美を哲学で、善を倫理で考えるからピントがずれるのである。なぜ生き、なぜ死ぬのか。なぜ美醜や善悪を判断するのか。このようなことをヒトは知ることは出来ないのである。むしろ知らないことを知るべきである。これを「無知の知」というが、ソクラテスの言葉である。
 美は人間の本能ではなく、神が与えた本性である。美は言葉を超えたもので、美の輝く存在、これを人間が分析すること自体が間違いなのである。
 パスカルは「人間は考える葦である」と言ったが「人間は美を感じる葦である」、デカルトが「われ思う ゆえに我あり」と述べたが「われ感じる ゆえに美あり」である。美とはまさに、これで以上でも、これ以下でもない。
物事は簡単に考えれるほど美しい。