高山右近

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康―戦国の天下を睥睨(へいげい)した三傑と向かい合い、その権力に怖れおののくでも、媚びへつらうでもなく、ひたすら自我の赴く(おもむく)ところ、愚直に、また寡黙に歩み続けた武将がいた。「利休七哲」(*1)にも列したキリシタン大名、高山ジュスト右近である。

 右近がキリスト教の洗礼を受けたのは12歳。霊名のドン・ジュストは「義人」の意。

信仰を深めるにつれ、「汝(なんじ)、殺すなかれ」という“宗門の掟”と、戦場の殺生を避けることができぬ“戦国の掟”との間で、苦悩することになる。二つの掟は決して調和することなく、その矛盾はやがて試練となって立ちはだかる。

最初の試練は天正6年(1578年)、主の荒木村重が信長に反逆したのだ。信長は村重配下の有力武将である右近に神父オルガンティーノを差し向け、味方するなら信仰も布教も許す、抵抗するなら教会を破壊し宣教師も処刑すると恫喝した。

比叡山焼き討ちで僧侶3千人余の首を切り(1571年)、伊勢長島の一揆鎮圧で2万人余を殺戮した(1575年)信長のことである。説得を拒めばキリシタン弾圧は現実になるだろう。しかし、信長に従えば恩義ある村重を裏切ることとなり、人質として差し出した妹と子の命は奪われるだろう。

 多くのキリシタンを犠牲にしてまで村重と肉親の命を護るか、それとも骨肉の愛を捨てて仲間の助命と信仰の道を採るか。苦悶し呻吟(しんぎん)の末に右近が下した結論は、武士を捨てること、であった。高槻城主(大阪府高槻市)の座を父友照に返上し、着の身着のままの姿で城を出たのである。

信長は高山父子を赦した。権謀うごめく戦国の世、不信が交錯する下剋上。だからこそ、代償を求めぬ右近の無私の行動に感じ入り、高槻領を安堵したのだ。

次の試練は天正15年(1587年)秀吉が突如発した「伴天連(バテレン)追放令」。大名の地位を守るか、信仰を貫くか。二者択一を迫る秀吉に、蒲生氏郷、黒田官兵衛、小西行長らは宗門を捨て保身を図った。右近は「棄教したふりをすれば…」という忠告を断り、信仰の道を選んだ。結果、所領を没収され、一介の浪人の身となる。

 そして慶長19年(1614年)徳川家康によるキリシタン禁教令と国外追放令。この時も従容(しょうよう)として処分を受け入れ、家族ともどもマニラ(フィリピン)に追われた。船底の43日間に疲労し、現地到着のわずか40日後に昇天、63歳だった。

 右近の後半生は傍目(はため)には悲愁(ひしゅう)に映るが、心は求道の愉悦(ゆえつ)に満たされていた。ジュスト右近の晩年の姿を描いた画がある(*2)。横顔にかげりはなく、家康に「兵をもたせるなら一騎当千の価値がある」と言わしめた武将の殺気はない。端然として、口の端にかすかな笑みも感じられ、一つの境地を得た者の至福の表情である。

高山右近は、時代と向き合うことに不器用すぎたのか、時代の側がこの個性を扱いかねたのか。戦国史に特異な軌道を刻み、キリシタンの一期を全うした。

この二つの掟から一つの境地を得た「至福の武将」高山ジュスト右近から学ぶものは、今のBizスタイルにおいても多いのではないだろうか。