小早川隆景

戦国武将・毛利元就を「地味な超人」と評したのは作家・山本七平氏だが、言い得て妙である。元就は、武略・知略・計略のいずれにおいても織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三傑に勝るとも劣らないと言われながらも、ついに天下に覇を唱えることなく、中国10か国120万石だけを領国として生きた。領国経営にあたったのは毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の三兄弟である。なかでも三男・隆景は、元就の遺誡「三子教訓状(さんしきょうくんじょう)」を愚直に守り抜いた「律儀な超人」であった。

「三矢の訓」の逸話にもなる元就の遺誡は「兄弟が力を合わせ毛利の家名を守れ」としている。長男・隆元の死後は甥の輝元を盛り立て、隆景は水軍を率いて海を、次男・元春は山を固め「毛利の両川(りょうせん)」として武名を馳せた。

隆景は武人であると同時に沈思熟考の人だった。宣教師ルイス・フロイスは「この殿(隆景)は深い思慮をもって平穏裡に国を治め、日本では珍しいことだが伊予の国には騒動も叛反もない」(日本史)と記している。また、多くの歴史家も「知将」「智将」「賢将」「仁将」、「戦国一の分別者」と呼ぶ。

「毛利の両川(りょうせん)」に、天下取りの機会がなかったわけではない。1575年(天正3年)の大阪湾・木津川河口海戦で織田水軍を破っている。1581年(天正9年)の備中・高松城の戦いでは、秀吉軍3万ときっ抗した。しかし、天下に肉薄し得たいずれの戦いにも深入りを避けている。

本能寺の変を知った秀吉が、明智光秀討伐の中国大返しに転じた際も、「追撃すべし」とする兄・元春を制し、「(秀吉と交した)和ぼく誓紙の血が乾かぬうちに追撃するのは不義であり、信長の死に乗ずるのは不祥」として動かず、さらに1583年(天正11年)、秀吉が信長後継を決定づけた賤ケ岳の戦いも傍観している。

天下取りの野心を持たなかった、ということなのか。いずれにしても父・元就の「競って天下を望まず」現状を維持せよの遺訓にどこまでも忠実だった。

反乱、撹乱(かくらん)、謀反、違約。時にはそれが正義にもなっていたこの時代に、隆景の思考と行動は、「毛利家の安泰」を軸に回転しつづけた。秀吉はそうした隆景の態度を信頼し、後に豊臣政権の五大老に任じ、「日の本は、西方は小早川隆景に、東方は徳川家康に任せれば安泰」と評している。隆景の「相手を打ち負かすことだけが生き延びる術でない」という姿勢は、今のBizスタイルにおいても通用する生き方ではないだろうか。