上杉鷹山

「受けつぎて 国の司(つかさ)の身となれば 忘るまじきは民の父母」。
上杉治憲(はるのり)[後の鷹山(ようざん)]が米沢藩主に就いた1767年(明和4年)、17歳で詠んだ歌である。意訳すれば、「国守(藩主)とは民の父であり母。今、自分がその立場になったからには、民の父母としての心がけを片ときも忘れるまい」との決意だ。当時、米沢藩の借財は約20万両(現在に換算して約100億円)もあった。国内でもっとも貧しい藩とやゆされ、重税にあえぐ農民は土地を捨てて逃げ出すほどだった。

1769年(明和6年)、19歳で米沢入りした鷹山は大倹約令を発する。自らも、食事は一汁一菜、ふだん着は木綿、生活費をそれまでの7分の1に切りつめ、藩政改革への強い意志を示す。藩(国)の繁栄は、民の心身の健康と為政者(いせいしゃ)への信頼がなければ達成できない。このことを明確に意識していたのだろう。

しかし、改革には抵抗がつきまとう。1773年(安永2年)に譜代の重臣7名が反乱、いわゆる「七家(しちけ)騒動」が起きる。このとき鷹山は、2名を切腹に、5名を追放した。また、1782年(天明2年)には、改革派近臣に発覚した収賄の不正に容赦せず、禁固処分とした。人事に公平公正を欠けば、組織は内側から瓦解(がかい)する。部下は、人事のありようにトップリーダーの器量を観察するものだ。

そして鷹山は、財政・産業・教育の改革にも臨み、既成の概念や慣行を取り払った。

例えば、ロウソクを作るための漆、養蚕用の桑、和紙の原料となる楮(こうぞ)の各100万本植樹や、縮織(ちぢみおり)業の開始など新しい産業の育成に力を入れたほか、武士の帰農を奨励した。また、代官(地方役人)の世襲制を撤廃し、藩校・興譲館は身分や年齢を問わず門戸を開き、人材の育成と登用にも努めた。

郷村教導出役(ごうそんきょうどうしゅつやく)(*)には「天道(てんどう)を敬うこと、父母への孝行、家内を睦(むつ)まじく、親類親しむこと」など道徳教化を任せた。

鷹山が藩政建て直しに着手してから50余年、1823 年(文政6年)には米沢藩の借財はほとんど返済されたうえ、軍用金5千両を蓄蔵するまでになった。

「してみせて、言って聞かせて、させてみる」。藩主を頂点とする身分階層制が確立した江戸中期に、鷹山ほど柔軟な発想を持ちえた為政者(いせいしゃ)はまれである。