寛永文化

寛永文化
 江戸時代初期の文化は、桃山文化を引き継いだが、戦乱の世が終わり次第に新しい傾向が見られるようになった。この当時の文化を3代将軍徳川家光の元号から寛永文化(かんえい)という。寛永文化は桃山文化と元禄文化に挟まれた江戸時代初期の文化である。

 寛永文化の中心は京都で、中世以来の伝統を引き継ぐ町衆勢力と後水尾天皇を中心とする朝廷勢力が、封建制を強化する江戸幕府に対抗する形で古典文芸・文化の興隆を生み出した。しかし京都は内陸都市であったため、水運ネットワークに乗る事が出来ずに経済はしだいに低迷し、代わりに上方の経済の中心となった大坂が中心となり約80年後に元禄文化が花開く事になる。

 

朱子学
 江戸幕府は公的な学問として朱子学を採用した。朱子学は人間の感情を抑制する道徳学としての性格が強く、「主君に絶対の忠誠を誓い上下の秩序を重んじる学問」で幕藩体制維持に都合がいい倫理的思想であった。朱子学は室町時代には五山の学僧が学んでいたが、江戸幕府の公的な学問として採用されたことになった。朱子学は京都の相国寺(しょうこくじ)の禅僧藤原惺窩(せいか)によって広められ、門人の林羅山は徳川家康に招かれた。羅山の子孫は林家と呼ばれて幕府代々の儒者として仕えた。

 

藤原惺窩(せいか)
 それまで仏儒兼学とされてきた儒学を仏教から切り離し、独立した学問として探求したのが藤原惺窩である。それゆえ惺窩を近世朱子学の祖という。京都相国寺の僧だった惺窩は朱子学の探求を抱いたが、かなわなかった。しかしその願いは朝鮮出兵の際に捕虜となった朱子学者姜沆(きょうこう)との交流という形で果たされた。のち僧籍を離れた惺窩は儒学者として朱子学の啓蒙に努めた。惺窩を祖とする京都の朱子学グループを京学派という。

 

林羅山

 惺窩の高弟の一人が林羅山である。羅山は道春の法号を名乗り、法体で儒学を教えた。それは儒学者はまだ僧侶として扱われていたからである。儒学が独立した学問として幕府に認知され、儒学者が他の武士同様に蓄髪俗体(ちくはつぞくたい)を許されるのは、羅山の孫信篤(のぶあつ)の時代まで待たねばならない。
 江戸時代になって林羅山が武家政治の基礎理念として再興した。林羅山は徳川家康に招かれ、林羅山の子孫は林家とよばれ幕府代々の儒者として仕えた。

 羅山は惺窩の推薦によって家康に仕え、以後、秀忠・家光・家綱の侍講(じこう)となって幕政に参与した。ただし羅山の朱子学は徳川家存続に都合の悪い放伐論や易姓革命などの危険思想を骨抜きにした日本的朱子学というべきものだった。羅山が上野忍ヶ岡(しのぶがおか)に開いた家塾(弘文館)は、のちに幕府の梃子入れで官立化への道を歩んだ。

 

建築

 建築では家康を祀るために築かれた日光東照宮をはじめとする霊廟建築(れいびょう)が広がり、神社建築では精巧かつ豪華な権現造が用いられた。日光東照宮は幕府安泰を加護する神として徳川家康をまつっている。豪華絢爛な建造物は幕府権力の強大さを天下に見せつけるものである。家康は、当初、久能山(静岡県)の簡素な東照社に葬られていたが、3代将軍家光に日光に改葬された。天海の主張によって、山王一実(さんのういちじつ)神道によって家康の神号は東照大権現(とうしょうだいごんげん)という権現号を採用した。秀吉を豊国大明神とした先例により明神号を嫌ったためである。本殿と拝殿を石の間で結ぶ建築様式を権現造という。

 日光東照宮が幕府権力を象徴するものなら、京都では伝統的建築として数寄屋造(すきやづくり)の桂離宮修学院離宮が建てられ格調高い公家文化を象徴している。

 桂離宮は智仁親王の別荘として桂川のほとりに建てられた。この地は月の名所で、書院造に草庵風茶室を加味した数寄屋造と、それを取り巻く回遊式庭園からなる。桂川から水を引いた中央の池の周囲に、古書院・中書院・新御殿の書院群と茶屋や堂が配置されている。過剰な装飾を排除した簡素な美しさは、日光東照宮の対極にある。ブルーノ・タウトが「泣きたくなるほど美しい」と絶賛してから広く知られるようになった。

 修学院離宮は後水尾天皇山荘として建てられ、上皇自らが設計し造営したと伝えられる。上の茶屋と下の茶屋から成る。明治時代に離宮となり大修理されて中の茶屋が付加された。

 突き出した舞台が有名な寄棟造の清水寺本堂もこの時代の建築物である。思い切って物事を決断することを「清水の舞台から飛び降りる」という文で有名である。

 

絵画
 絵画では狩野派から狩野探幽(たんゆう)が出て、幕府の御用絵師として活躍し、名古屋城・二条城などに多くの障壁画を描いた。大徳寺方丈襖絵(ふすまえ)などの作品を残している。また京都では上層町人出身の俵屋宗達があらわれ風神雷神図屏風(ふうじんらいじんずびょうぶ)では大胆な構図と色彩の作品を生み出した。京都の三十三間堂の風神・雷神像(彫刻)を参考にしたといわれる。広い画面の左右に天鼓(てんこ)をめぐらした白い雷神(雷神は菅原道真の怨霊であり、従来忿怒の赤い姿で表現されるのが常だった)、風袋(ふうたい)を両手に持つ緑の風神をユーモラスに描いている。非常に装飾性の強い作品である。宗達の作風は、のちの尾形光琳ら琳派の装飾画に大きな影響を与えた。狩野派に破門された久隅守景(くすみもりかげ)

は夕顔棚納涼図屏風を描いた。これは農民の親子3人が、夕顔の棚の下で夕涼みしている庶民的な題材を描いている。
 俵屋宗達、尾形光琳とともに琳派の創始者として本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)がいるが、本阿弥光悦は絵画の他に蒔絵(まきえ)や楽焼(らくやき)と呼ばれた陶芸を残し舟橋蒔絵硯箱(まきえすずりばこ)が有名である。楽焼は手づくねで成形し低温で焼いた陶器である。

 

有田焼
 文禄・慶長の役で朝鮮から陶工が強制連行され、登窯・上絵付の技術をわが国にもたらした。有田では磁器の生産が始まり、酒井田柿右衛門が中国から赤絵の技法を学び、独自の上絵付の技法を完成させた。代表作に色絵花鳥文深鉢(いろえかちょうもんふかばち)がある。
 有田焼には古伊万里(こいまり)・柿右衛門・色鍋島(いろなべしま)の三様式がある。古伊万里が明代末期の赤絵の伝統を継承し、柿右衛門は純日本的な赤絵をつくった。色鍋島は鍋島藩の窯で独自の色彩をはなった。 
 そのほか島津氏の薩摩焼、毛利氏の萩焼、松浦氏の平戸焼などが有名である。

 

文学
仮名草子:江戸時代初期に書かれた教訓・娯楽・啓蒙等にわたる読み物類を総称して仮名草子(かなぞうし)という。平易な仮名文で書かれているため、この名がある。浅井了意(あさいりょうい)の「東海道名所記」、如儡子(じょらいしなる人物による「可笑記(かしょうき。おかしき)」などがある。

俳諧:室町時代に流行した連歌の発句(五七五)のみを独立させた文芸を俳諧という。松永貞徳が俳諧の式目を定め、機知に富む俳諧を詠んだ。貞徳の一派を貞門派(ていもんは)といい、高弟に北村季吟(きぎん)ら貞門七哲(しちてつ)がいる。

書道:近衛信尹(このえのぶただ)、松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)、本阿弥光悦ら三人が能書家として有名で「寛永の三筆」という。しかしその書風は三者三様であった。

茶道 :侘茶(わびちゃ)の系譜を引くのは千宗旦(そうたん)で、父は千少庵、母は利休の娘で宗旦流の祖となった。生涯仕官せず乞食宗旦と呼ばれた。仕官しなかったのは、祖父利休の非業の死が原因とされている。「乞食宗旦」と呼ばれたのは、まるで乞食が修行を行っているかのように清貧だという意味で、その茶風は利休の侘茶をさらに徹底させたものである。
 いっぽう新趣向の茶を創出した大名茶人に古田織部(ふるたおりべ、小堀遠州、片桐石州(かたぎりせきしゅう)らがいる。それぞれを祖とする流派を、織部流、遠州流、石州流という。

 そのほか、生け花(後水尾天皇・池坊専好)、禅(沢庵宗彭・一糸文守・鈴木正三)などが挙げられる。