浦上四番崩れ

浦上四番崩れ
明治4年から岩倉具視を正使とする総勢百名に上る「岩倉使節団」が、国書の提出や海外列強と結んだ不平等条約改正の予備交渉のため奔走していたことは有名な話だが、「ある事件」に対する明治政府の方針が、欧米諸国との外交交渉のネックとなっていたことはあまり知られていない。ある事件とは「浦上四番崩れ」と呼ばれるキリスト教徒への弾圧事件である。江戸時代末期に長崎県の浦上地区で起こったカトリック信徒の大量捕縛を、明治政府が引き継いだもので、御一新によって旧習が打破され解放されるかと思いきや、最終的な処遇は「文明開花」のイメージとは懸け離れたものとなった。
明治政府は総勢3000人ものカトリック信徒を村ごと「総流罪」とする決定を下し、およそ6年間にわたって身体拘束や拷問などの虐殺行為を容認した。
当時の政府の基本方針は、「神道国教主義」だった。天皇の宗教的権威を復活させ、すべての神社を国家祭祀の施設とし、国民を天皇の臣民として教化することを目論んでいた。そこで、キリスト教などは「天皇の神格化」とは相容れない宗教を改めて排撃すべきとして再浮上したのである。浦上地区の役人たちは、カトリック信徒たちに改宗を迫り、それを拒まれると信徒たちに向かってこう吐き捨てた。「この宗旨は久しい以前から御禁制になっている。御維新になっても変わるものではない。天皇の御祖先たる皇大神宮を拝まないとはなんという国賊じゃ」。流刑先の一つである長州藩(山口県)では、神官がカトリック信徒に対し、「日本にいて外国の宗旨を奉ずるような奴は日本人じゃない。外国に出て失せろ。日本の土を踏むことは相成らぬ、宙を飛んでいけ」などと罵った。

「勘弁小屋」に「雁木牢」
これらの言葉の暴力は、ほんの序章に過ぎなかった。全国各地の流刑先で信徒たちを待ち構えていたのは、身体的・心理的虐待であった。
信徒たちは毎日呼び出され、砂利の上に正座させられ、「改心しろ」と怒鳴られて鞭やウナギ鋏(刃の部分にトゲのついた、ウナギを捕まえる時に用いる鋏)で暴行を加えられた。「殺すぞ」と脅迫されてはこん棒で殴られ、頭から血が噴き出ると、塩を振りかけられてさらに殴打された者もいた。

説得が困難だと判断された者は「勘弁小屋」に放り込まれた。
「勘弁小屋」とは、四畳半一間の牢屋で、小さな差入れ口を除いて窓はなく、床に一枚筵が敷いてあるだけ。二十日間でも三十日でも食料を与えないまま放置され、飢餓状態に追い込まれた末に棄教を申し出る者が続出したという。中央政府の視察員として岩国の収容施設を訪れた外務権大丞(たいじょう)の楠本正隆が、信徒の衰弱し切った様子にショックを受け、待遇の改善を申し入れるほどであった。
しかしこの「勘弁小屋」などはまだ可愛い方で、「三尺牢」「雁木牢」と呼ばれる箱では、入れられた者の大半は気絶した。特に「雁木牢」は半畳くらいの狭い檻で、上下左右から尖った杭が打ち出してあり、立てば頭を打ち、座れば尻を突く作りであったため、常に中屈みの状態になっていなければならない、という身の毛のよだつ拷問器具だった。このような蛮行が各地の収容施設で展開されていたが、当時の日本の政治家たちは誰も問題視しなかった。ストップがかかったのは「外圧」によってだった。
明治3年、英国代理公使アダムスが「カトリック信徒が残酷な取扱いを受けている」という告発を、在日外国人向けの英字新聞で目にし、明治政府に是正を訴えたのが始まりだ。政府は虐殺の事実を否定したが、アダムスが食い下がったため、渋々実態調査を行うこととなった。

「磔刑にしないだけマシ」
流罪決定直後に行われた英米仏独の4カ国の公使と三条実美、岩倉具視ら政府首脳との会見内容をみると、双方が何をもって「寛容」と捉えるかの「尺度」があまりにも隔絶していたことがよく分かる。岩倉は「従来キリシタンに対する処罰は磔刑であった」といい、「しかし今ではそれも和らげられたことはお認め頂きたい」などと弁明した。
それに対し、独公使のフォン・ブラントは、「彼らをその宗教故に流罪に処することなしに、そのまま構わないでおくことはご無理でしょうか?」と当然の提案をしたが、岩倉は、信徒がキリスト教を棄てさえすれば、「全員釈放することになっている。従前の法律ではこれは認められていなかった」と述べ、「穏便の取り計らい」「寛大な扱い」であることを重ねて強調した。
仏公使のウートレーは、「貴国で穏便といわれていることと、われわれが考えている穏便はずいぶん違うようだ」と驚きを露わにし、家族を離散させ、財産を取り上げることが「寛大の処置」だとはとても思えないと釘を刺した。
つまり明治政府は、「流罪」を悪いことだとは全然思っていない。むしろ「以前は磔刑だったんだからソフトになった」と言っているのだ。事実、岩倉は、ウートレーの反発に「ご異議があるのには驚き入ったしだいである」と呆れてみせた。外交官の寺島宗則の主張は、宗教弾圧ではなく国法に反する行為(ミカド崇拝の拒否)への処罰、という苦し紛れの論理だった。
「我国の政治制度とミカドの権威は、我国の宗教を土台に成り立っています。ミカドは国民が敬礼尊崇する天照大神ならびに天孫の御後裔であらせられます。キリシタンは、全ての国民が神聖なるものとして考えなければならない対象を公然と軽侮するのです。彼らは天照大神をまつる神社への参拝を拒否します。このことは、取りも直さずミカドを侮蔑し奉る所以であります」。
だが「岩倉使節団」はその後、米国大統領のユリシーズ・S・グラントや、英国女王のヴィクトリアなどと会見した際に、キリスト教禁制を解くように勧告され、説諭されたのであった。副使の木戸孝允は、「宗教と和)通商は関係ない」などと反論したりもしたが、キリスト教禁制が信教の自由を前提とする欧米諸国との条約改正の障害になっている事実に触れ、使節団はこれまでの見解を改めざるを得なかった。
明治政府は、明治6年、キリシタン禁制の高札を撤去し、流罪に処した信徒たちを解放した。全国各地に移送された3394人の信徒のうち死亡した者は662人にも及んだ。度重なる改宗の強要、監禁、拷問などの非人道的行為により、生き残った者の多くは肉体的にも精神的にも深刻な被害をこうむった。
これが岩倉たちが外国公使団に口酸っぱく説明した「格別に寛大にして刑外の処置」の実態であった。
島崎藤村の小説『夜明け前』ではないが、当時の日本は未だ夜明けには程遠かったのである。