堀勝名

 

熊本藩第八代藩主・細川重賢(ほそかわしげかた)は、疲弊した藩政を立て直し「肥後に鳳凰(ほうおう)あり」と称えられた名君である。改革は多岐にわたり、思想は今日にも新しい。その「宝暦の改革」を主導したのが堀平太左衛門勝名。勝名は、重賢が示した改革の理念哲学を懸命の実務で応え、藩再生の道筋をつけた。

 

江戸期、諸藩の財政難はいずれも同様で、なかでも肥後熊本藩の困窮ぶりはひどく、庶民からは「新しき鍋釜に細川と書き付け置けば金気は出ず」と揶揄(やゆ)されたほど。重賢が藩主に就いた延享4年(1747年)は、そういう苦難の時機だった。

 

物心の貧困は無気力を呼び、倫理道徳の弛緩(しかん)を誘う。藩政立て直しの要諦(ようてい)は人事。重賢は、まず長年藩政を牛耳ってきた重臣(家老や奉行)らを排除し、代わって家禄わずか500石の軽輩だが、堀勝名の才能を見込み、直属の大奉行に抜擢し権限を集中させた。行政機構の簡素化だ。勝名は、中下級藩士から志ある者を要職に就け、分権と責任を明確にした。

 

熊本藩の発明として特筆されるのが法制改革。それまでの斬首刑と追放刑に、笞刑(ちけい)(*1)と徒刑(ずけい)(*2)を加え、囚人を労働力として活用することとし、さらに「刑法局」を設置し、行政と司法を完全に分離するという日本の法制史上、画期的な改革を行った。当時の幕府にもない制度で、明治維新の100年以上も前のことである。

 

「旧典なりといえども治平久しく、今に至りては時勢人情に齟齬(そご)し、処置の当(あた)らざることあり」と勝名は言う。前例に学ぶことは大切だが、こだわりすぎては実状に即した判断ができない。つまり、事を大胆に改めるとき、先入観にとらわれるな、ということであろう。

 

笞刑の導入に際し、勝名は自分の身体を打たせて痛みの強弱を体験してからむち打ちの回数を決めたという。また米作の実情を把握するため自ら稲を植え、収穫までに要する手間と労働力を量り、その実体験をもとに領内検地(宝暦の地引き合い)を行った。後には、藩内七カ所の蔵屋敷に年貢米が入りきらず、屋敷外に米俵を山積みした年もあった、と伝えられるほど米作収入が安定した。

 

そのほか、藩校時習館と武芸所を建て、軽輩や農家、商家の子弟も入学を許可して人材の発掘と育成に努め、藩内に病人や若年死者が多かったことから薬草栽培園「蕃滋園(ばんじえん)」や医者の養成機関「再春館」を設立している。

 

「地位が人をつくる」という。だが地位を与えれば誰もがその立場にふさわしく成長するものではない。将の将たる素質とは、自己が属する組織全体について構想をもっているかどうか、である。

 

堀勝名には、軽輩の身ながらも熊本藩(属する組織)の在りようについて、たゆみない思索と絶え間ない研鑚があったのだろう。

 

内面に蓄積した構想は満を持し、大奉行の地位を得てから一気に実行に移され「宝暦の改革」という実を結んだ。

 

軽輩ながら組織の在りようについて、たゆみない思索と絶え間ない研鑚を続け、抜擢したリーダー(肥後鳳凰)が示した改革の理念哲学を懸命の実務で応え、実績を出した藩士、堀勝名から学ぶものは、今のBizスタイルにおいても多いのではないだろうか。