加藤清正

五常(仁、義、礼、智、信)の武将」 ~加藤清正(かとう きよまさ)~

加藤清正

陰謀が渦巻き、無情と非情が充満する戦国の世。望まぬ参戦を強いられることも、骨肉の闘争に流血する時もある。その息苦しく緊張した時代に、「人の価値とは知恵や才覚ではない。天地に恥じぬ生き方をしてこそ、人の一生は意味あるものとなる」と、時勢に臆せず堂々闊歩した剛直漢(ごうちょくかん)がいた。情義の武将、加藤清正である。

木下藤吉郎(豊臣秀吉)に採りたてられた清正は、終生、豊臣家への報恩(ほうおん)と忠誠を貫いた。秀吉の戦争は清正の戦いそのもので、奮闘は忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)。「賤ケ岳七本槍」(賤ケ岳の戦い)と称えられ、「鬼士官」(朝鮮の役)と怖れられた。

しかし清正の真骨頂は戦場の凄気(せいき)ではない。五常(仁、義、礼、智、信)に潔癖な「天地に恥じぬ生き方」である。慶長5年(1600年)天下分け目の関ヶ原の戦いでみせた行動と情義こそ人間・加藤清正の本性であろう。

清正は豊臣家の恩顧に報いるはずの西軍に参陣しなかった。石田三成が信用できなかったからだ。伏線は朝鮮の役にあった。極寒と飢えに耐えながら戦う将兵たちの、いわば現場の苦難を知らず、ただ後方で指揮を執るだけの文治派官僚。あまつさえ秀吉への讒訴(ざんそ)によって謹慎させられた清正にとって、三成は五常をわきまえぬ下衆(げす)であった。

その三成が旗頭とあっては西軍に組みするはずもなく、東軍へも積極的に参戦せずに九州にとどまった。清正が加勢したのは朝鮮で苦楽をともにした戦友である。関ヶ原で敗れた筑後柳川の立花宗茂には玉砕を思いとどまらせ、禄を失った家臣を召し抱えた。宗茂は朝鮮で窮地を救ってくれた恩人である。肥前の鍋島勝茂、薩摩の島津義弘にも家康に恭順の意を表すよう説得し、結果、本領は安堵された。

天下の形勢は将たる器として家康のもとに収斂(しゅうれん)しつつある。このうえの戦いは無益であり無意味だ。「人は一代、名は末代」、清正は、今生(こんじょう)を意味あるものとするために限られた命を生き切ること、その大切さを諄々(じゅんじゅん)と戦友に説いたのである。

ただ、家康を信用してのことではない。慶長16年(1611年)家康と秀頼の会見を実現し、両者の融和をはかった清正だが、その時も秀頼の側を離れず、家康に不穏の動きがあれば懐中にしのばせた短刀で刺し違える覚悟だった。

関ヶ原の戦後は領国経営に専念する。土木・治水工事、干拓・開墾事業、街道と城下町の整備、南蛮貿易。肥後の風景はまたたく間に変貌し、農作物の増産、町村の活況を目の当たりにした領民は清正に傾倒し慕うようになる。「清正は肥後気質の琴線に触れる人柄であったにちがいない」(司馬遼太郎)。肥後人は清正の行政に、徴税や労役を課すだけのそれまでの戦国領主とは別の姿を実感したのである。

毎年7月第4日曜日、熊本は「せいしょこ(清正公)まつり」で賑い、善政の事跡は「せいしょこさんの、さしたこつ」(清正公のなさったこと)として伝承されている。

この戦国と、関ヶ原後の領国経営を「天地に恥じぬ生き方」で貫いた、「五常(仁、義、礼、智、信)の武将」~加藤清正(かとうきよまさ)から学ぶものは、今のBizスタイルにおいても多いのではないだろうか。