長宗我部元親

 長宗我部元親は土佐(高知)に生まれ、一領具足(いちりょうぐそく)の農兵を率いて四国を席巻し信長、秀吉、家康の三傑に伍して覇者をめざした。しかし「天の時、地の利」に味方されず、不運の武人であった。

 1538年に生まれた元親は信長より5歳若く、秀吉の2歳年下、家康の3歳年上である。初陣は1560年5月27日で宿敵本山氏を破ったの長浜戸ノ本合戦である。

 奇遇であるがその8日前の5月19日、27歳の織田信長が桶狭間合戦で今川義元を討っている。この時、秀吉は信長旗下の足軽一兵卒であり、家康(松平元康)は今川義元の人質の身で今川軍の先鋒にあった。ほとんど同時に乱世の舞台に立った四人は、以来、不思議な運命の糸にあやつられ交錯していく。

 元親が土佐国(高知)を平定したのは、国を継いで15年後の1575年である。南海道(紀伊、淡路、讃岐、伊予、土佐)と西海道(九州全土)を手中に治め、さらに天下をめざすが、これは父・国親の遺志を継いだ元親の生きる目標であった。

 そこへ立ちはだかったのが信長である。一度は「四国は切り取り勝手」の朱印を与えながら、元親の勢力が拡大すると一転して「阿波南部と土佐は与えるが、阿波北部と伊予は返上せよ」と迫った。元親はこれを拒否し、激怒した信長は四国征伐に乗り出すが、出兵前日の15826月2日、本能寺の変に斃(たお)れts。あやうく生き延びた元親は、残る讃岐国の切り取りと四国統一を急いだ。
そして秀吉との確執。1584年家康は織田信雄と組んで秀吉と対峙(小牧長久手の合戦)。元親は家康と通じ、秀吉の背後を突いて挟撃する密約を結んだ。しかし讃岐攻略に手間どり軍勢2万の派兵準備が整ったのは秀吉が家康と和睦(わぼく)した後のことだった。「援兵の報せが10日早ければ、秀吉を討つことができた」と家康は残念がり元親は中央に進攻する千載一遇の好機を逃した。
  秀吉は元親の背信を許さず四国征討の兵を繰り出す。彼我(ひが)の実力差は歴然で元親は降伏した。10年かけて切り取った領地はすべて没収され残されたのは土佐のみであっ。

 元親の感慨は「悪しき時代に生まれ来て、天下の主に成り損じ候」であった。この時代、中央と辺地との地勢の差は「天下獲り」の意気だけで埋め切れるものではなかったのである。1599年、元親は61年の生涯を終える。
  生者必滅(しょうじゃひつめつ)、会者定離(えしゃじょうり)。1600年元親の跡を継いだ盛親(もりちか)が関ヶ原合戦で遁走、土佐は家康に没収され豊臣家は滅亡した。盛親は1615年大坂夏の陣で再び家康に歯向かうが捕縛され斬首された。ここに長宗我部氏が滅亡した。

盛者必衰(じょうしゃひっすい)、有為転変(ういてんぺん)。盛親の死後252年を経た慶応3年(1867年)、信長が「鳥無き島」とあざけった辺地の土佐、薩摩、長州、肥前の若者らが維新を達成。家康に始まる徳川幕藩体制は15代をもって終えんした。
泉下(せんか)の長宗我部元親は、この成り行きをどんな思いで眺めていただろうか。中央と辺地との地勢の差。信長、秀吉、家康の三傑と同時に乱世の舞台に立つ時の運。それでも覇者をめざした武将、長宗我部元親から学ぶものは、今のBizスタイルにおいても多いのではないだろうか。