藤堂高虎

  一度仕えた主君には一生忠節を尽くすのが武士の務めである。つまり「忠臣二君に仕えず」が当たり前とされ、そのため8人の主君に仕えた藤堂高虎は変節漢とか無節操との悪評がつきまとう。しかし「忠臣不事二君」は近世武士道の道徳観念であって、藤堂高虎が生きた戦国時代の武士道にはそのような厳格さはなかった。「忠臣二君に仕えず」は江戸時代の儒教的思想の影響による。

 主君から働きに見合う恩賞がなく、また主君にそれだけの器がないとすれば、戦国時代は主君を替えるのは当然のことで、下剋上の時代は主君殺しさえあった。藤堂高虎は単に立身出世のために主君にすり寄ったのではなく、己の生きる道を全うするために家臣としての権利を逆用したのである。
  藤堂高虎が変節漢とされるのは、豊臣家の旗下で出世しながら、秀吉の死後その恩顧に報いず徳川家康に臣従したことによる。藤堂高虎は外様ながら家康から「国に大事ある時は高虎を一番手とせよ」とまで信頼され、そのた羨望と嫉妬を呼び、そのような陰口になったのである。

 藤堂高虎は主君を何人も替えたが、主君を裏切りったことや寝返ったことは一度もない。藤堂高虎は持てる能力を全て懸けて主君に忠節を尽くしている。主君を何人も替えたのはただ運が悪かっただけである。

 

藤堂高虎の主君

 1556年1月6日、藤堂高虎は近江国犬上郡藤堂村(滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれた。長兄の高則は早世し、藤堂氏は先祖代々の小領主であったが、戦国時代に没落しており農民に身を落としていた。藤堂高虎の身長は6尺2寸(約190センチメートル)の大男だった。

 まず藤堂高虎が仕えたのは浅井長政であった。織田・徳川連合軍と対峙した姉川の戦いで初陣を飾り、この武功によって浅井長政から備前長船(びぜんおさふね)の刀と黄金一枚をもらっている。

 しかし不意のいさかいから同僚を殺害して逃走した。高虎は逃走して行方をくらますがそのため主君を変えざるを得なかった。小谷城の戦いで浅井氏が織田信長によって滅ぼされると、次に浅井家の重臣だった阿閉貞征(あつじさだゆき)に使えた。阿閉貞征は信長と内通し浅井家を滅亡させ、本能寺の変では明智光秀に加担して秀吉の長浜城を占領したことから、高虎は主君に値しない人物と判断、1ヵ月で見切りを付けた。阿閉氏の元を出奔し浪人生活を送っていた高虎が空腹のあまり、三河吉田の吉田屋という餅屋で三河餅を無銭飲食し、そのことを店主の吉田屋彦兵衛に正直に白状して謝罪した。だが店主・彦兵衛は「故郷に帰って親孝行するように」と諭され路銀まで与えられた。吉田屋の細君もたまたま近江の出であった。後日、大名として出世した高虎が参勤交代の折に立ち寄り、餅代を返したという話が伝えられている。ちなみに高虎の旗指物は「三つ餅」。白餅は「城持ち」にひっかけられているとも言われている。
 三人目の主君・磯野員昌(いそのかずまさ)は、姉川の戦いで本拠地の佐和山城で信長軍に降伏に追い込まれ、高虎もこの降伏を機に磯野家を離れることになる。しかし高虎は員昌の息子・行信(ゆきのぶ)を自分の配下に入れ面倒を見るなどしている。磯野家を離れてからも仕えた主君の家を存続させた。
 四人目の主君は織田信長の家臣・津田信澄(つだのぶすみ)であるが、戦功を上げても禄が加増されず不服に思った高虎は出奔した。つまり現代風に言うと「営業成績を上げたのに、昇給がなかったので不満に思って辞めた」ということになる。

 

羽柴秀吉との関係
 五人目の主君は羽柴秀吉(豊臣秀吉)の弟・羽柴秀長(はしばひでなが)だった。高虎は羽柴秀長を大変慕っており、秀長の下で数々の功績を残している。
 秀長が亡くなってからは、若い養子の秀保(ひでやす)を盛り立てるため奮闘し、秀保が早逝して主家が断絶すると、主君二人を弔うため高虎は出家して高野山に隠棲する程忠義を尽くした。

 そのことを知った秀吉が高虎の功績を惜しんで還俗させ、伊予宇和島(愛媛県宇和島市)に7万石を与えた。このことから豊臣秀吉が高虎の六人目の主君となった。しかし藤堂高虎は視野が広がるにつれ秀吉の統治に限界を感じた。秀吉は「人たらし」といわれ使われ上手だが、人の上に立ち人を使いこなす器量に欠けていた。高虎は秀吉の下ではもはや自分を活かす道はないと感じたのである。

 

徳川家康との信頼関係

 家康は大坂夏の陣で功を挙げた高虎を賞賛し「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」と述べたと言われている。徳川家臣の多くは主君をたびたび変えた高虎をあまり好いていなかったが、家康はその実力を認めていた。大坂夏の陣で高虎がとった捨て身の忠誠心を認め、晩年は家康は高虎に信頼を寄せた。
    関ヶ原の合戦では大谷吉継、大坂夏の陣では長宗我部盛親隊という常に相手方の特に士気の高い主力と激突している。関ヶ原以降、徳川軍の先鋒は譜代は井伊、外様は藤堂というのが例となった。なお、高虎は大谷吉継の墓を建立している。戦国の乱世は終息に向かい、時代は武断から文治へ、統治権力は徳川家康に収斂することになった。秀吉亡き後、高虎が選んだのは秀吉の敵方である徳川家康だった。高虎はこの最後の7番目の主君のために粉骨砕身して尽くすことになる。家康襲撃の企みがあるとの噂を聞きつけたときは、高虎が自ら徹夜で家康の警護にあたり、関ヶ原の戦いでは、家康のために自分の弟を人質に差し出すなどしている。

 天下が家康に定まった後、家康は武断派に高禄を与えて政権中枢から遠ざけ、文治派には小禄ながら権限を与えるという手段で人事配置を行った。高虎はその能力を活かし中枢で仕え、譜代大名格に遇されるまでになった。

 高虎は「忠臣不事二君」どころか「七度主君を変えねば武士とはいえぬ」と意識し、「主君を替えるだけの能力と実力を備えてこそ一人前の武士」というつもりだった。
 当然、このような高虎を快く思わない者も多く「豊臣恩顧の大名でありながら、秀吉が亡くなるやいなや家康に尻尾を振るとは何事か」と咎められるが、高虎は「己の立場を明確にできない者程、いざというときには頼りにならない」と答えている。
 このように当時から、高虎は世間からは酷評されていたが、高虎自身が活躍した戦国時代においては「自分が仕える主君は自分で選ぶ」という判断力と決断力がなれば家臣も守れず生き残れなかったのである。

 このような経緯を辿っていくと、高虎は決して「裏切りで主君を変えるようなことはなかった」ことが分かる。主君と定めた人物には常に忠義を捧げ、天下人である秀吉や家康にも信頼され、土豪の身分から伊勢・津32万石の大名にまで出世したのである。

 高虎は自分が死んだら嫡子の高次に伊勢から国替えをしてほしいと家康に申し出た。家康が理由を訊ねると「伊勢は徳川家の要衝でしかも上国でございます。このような重要な地を不肖の高次がお預かりするのは分に過ぎます」と答えた。しかし家康は「そのような高虎の子孫ならこそ、かかる要衝の地を守らねばならぬ。かつて殉死せんと誓った二心の無い者たちに守らせておけば、もし天下に大事が起こっても憂いが無いというもの。そちの子孫以外に伊勢の地を預けられる者などおらぬ」と述べた。
    秀忠がある日開いた夜話会で、高虎は泰平のときの主の第一の用務は家臣らの器量を見抜き、適材適所につけて十分に働かせることと述べた。次に人を疑わないことが大切で、上下の者が互いに疑うようになれば心が離れてしまい、たとえ天下人であろうと下の者が心服しないようになれば、肝心のときに事を謀ることもできず、もし悪人の讒言を聞き入れるようなことになれば、勇者・智者の善人を失うであろうと語った。家康はのちにこの高虎の言葉を聞いて大いに感動した。

 1616年、死に際した家康は高虎を枕頭に招き「そなたとも長い付き合いであり、そなたの働きを感謝している。心残りは宗派の違うそなたとは来世では会うことができぬことだ」と言った。その家康の言葉に高虎は「なにを申されます。それがしは来世も変わらず大御所様にご奉公する所存でございます」と言うとその場を下がり、別室にいた天海を訪ね、即座に日蓮宗から天台宗へと改宗の儀を取り行い「寒松院」の法名を得た。再度、家康の枕頭に戻り「これで来世も大御所様にご奉公することがかないまする」と言上し涙を流したとされている。

 

築城の名手

 高虎は武勇だけではなく城郭建築の腕前があった。加藤清正・黒田如水と同じ「戦国三大築城名人」の一人に数えられ、高虎は築城の名手として何度も縄張奉行を務めている。当時の城は高度の国防機密で、特に築城には秘術が込められる。高虎が世評通りの裏切り者ならば、そのような人物に築城を任せるはずはなかった。

 藤堂高虎は長崎駐在時に西洋の城を聞き学び、後に独自の輪郭式築城法を編み出した。京都では商人から経済の何たるかを吸収し、刀槍の働きに加え、合戦での裏方の役割、軍資金、武器、食糧調達などの重要性と秘訣を学んでいる。慶長の役では順天倭城築城の指揮をとった。この順天倭城は明・朝鮮軍による陸海からの攻撃を受けたが、全く敵を寄せ付けず撃退に成功し城の堅固さが実戦で証明された。また武勇や築城だけではなく津藩の藩政の基礎を築き上げた内政手腕のほか、文学や能楽、茶の湯を嗜む文化人でもあった。

 

赤木城
 高虎が築城した代表的な城のひとつとして、秀長配下時代に築いた「赤木城」がある。赤木城は高い石垣で堅牢なことが特徴で、石垣は4メートル程度で、規模は決して大きいものではないが、当時としては最先端技法であった野面積み(のづらづみ)という技法を取り入れている。野面積みとは自然の石をそのまま積み上げる技法で、頑丈で排水性が良いことから大阪城でも採用されている。
 その後、秀長が亡くなり、秀吉に召し抱えられた高虎は、伊予の「板島丸串城(いたじままるぐしじょう、後の宇和島城)」を与えられ、この城の大改修に取り掛かったが、その最中に朝鮮へ出兵し大改修は中止となった。しかし帰国した高虎は、板島丸串城の改築を再開させ、朝鮮の城の特徴である正方形の本丸を「五角形」の堀で囲んだ総構えを取り入れた。外側からは四角と見せかけ、敵が攻め込むと空角である死角から不意の攻撃をしかけることができる、実に実践的で巧妙な城であった。このように戦場での経験を活かし、かつ最先端の技術を取り入れ、築城の名人として知られるようになった

 赤木城は赤木川の北岸にある標高約230メートルの丘陵に築かれた。尾根を利用した中世山城の形式を引き継ぎながら、複雑な虎口の形態、石垣の多用など、近世城郭の手法が採用されているため、中世から近世への移行段階の城と位置付けられている。

 当時の熊野北山は秀吉による検地への反発から大規模な一揆が頻発していた。そのため秀吉から紀州を任された秀長配下の藤堂高虎が、一揆鎮圧の拠点として1589年頃に、この赤木城を築いた。一揆を鎮めるためであるが、交通の要所でもない山深い里に不釣り合いな立派な城を築いたのは、秀吉が熊野の豊富な森林資源に目を付けたという説や、支配した領地を統治し豊臣家の威光を示すためとも言われている。
  平成4年から13年をかけて、石垣の積み直しや遊歩道の設置など復元整備を行なった赤木城跡の主郭から、美しい棚田や赤木の町が一望できる。


江戸城
 江戸城は、室町時代に太田道灌によって築かれ、1590年に徳川家康が入府して居城となった。家康が天下平定をし、時の為政者にふさわしい城に改修するため、天下普請が繰り返され、本格的な工事が開始されたのは、家康が将軍職を息子の秀忠に譲った1604(慶長9)年頃と言われている。 新しい江戸城の縄張りは、築城の名人である藤堂高虎に任された。
  家康は江戸城を公的には儀式の場、私的には居住空間にして、本丸を広くしようとしたが、高虎はまだ実戦にも対応できる城にしておくべきであるし、当初の計画通りに改修した。その後、1867年、徳川最後の将軍となった慶喜は、二条城で天皇家に大政を奉還し、徳川幕府の治世は幕を下ろた。
 1868(明治元)年、徳川家側の最高責任者である大久保一翁と勝海舟、大総督府下参謀の西郷隆盛の会談が行なわれ、江戸城の無血開城が決定した際、江戸城は東京城と改められ天皇家の居城たる皇居となりました。1968(昭和43)年からは、東御苑として、本丸、二の丸、三の丸の一部が一般公開されている。

 

今治城
  今治城(いまばりじょう)は、関ヶ原の戦いの戦功により伊予半国20万石を拝領した藤堂高虎が、瀬戸内海に面した海岸に築いた平城で、豊臣家を慕う西国大名を監視する役割を担っていた。
 今治城は広大な水堀と反りのない直線的な石垣、脆弱な地盤を安定させるための幅広い犬走り(石垣の下の道)、侵入者の方向感覚を失わせ、能率的な都市経営を目指した升目状の城下町設計など、最新の技術を盛り込んで築かれており、高虎の代表作ともいえる。
  築城当時は海水を引き入れた三重の堀に囲まれ、海から堀へ直接船で出入りできるなど、海上交通の要所であることの利を最大限に活かした構造になっていた。本丸には、五重塔に似た構造の「層塔型」の五重の天守が築かれていた。これまでは安土城の天守に代表されるような「望楼型」の天守が主流であったが、高虎が「層塔型」を創始して以降、規格を統一することで工期を短縮できるという利点があることから、その後一気に「層塔型」の五重の天守が主流になった。

 今治城は明治維新で建物のほとんどが取り壊され、内掘と主郭部の石垣を残すのみとなったが主郭は城跡として整備されている。

 

加藤嘉明との対立
 加藤嘉明は加藤清正や福島正則らと共に賤ヶ岳七本槍の一人として名を馳せたほど武勇に優れ、かつ冷静沈着な名将で「沈勇の士」と謳われていた。慶長の役において加藤嘉明と功を競い仲は良くなかった。高虎の領地が今治藩、嘉明のそれが伊予松山藩と隣接していたことも事情にあるとされている。

 しかし陸奥会津藩主の蒲生氏が嗣子無く改易されたとき、徳川秀忠は高虎に東北要衝の地である会津を守護させようとした。この時、高虎は「私は老齢で遠方の守りなどとてもできませぬ」と辞退した。秀忠は「では高虎は誰がよいと思うか」と質問すると「伊予の加藤嘉明殿です」と答えた。秀忠は「そちは侍従と不仲だったのではなかったか」と訊ねた。当時の加藤嘉明は伊予20万石の領主で、国替えがなれば40万石の太守になり30万石の高虎より上になる。しかし高虎は「遺恨は私事でございます。国家の大事に私事など無用。捨てなければなりませぬ」と答えた。後にこれを聞いた加藤嘉明は高虎に感謝して和解したとされている。

 

何度も主君を変える
    高虎は何人も主君を変えたことから、変節漢あるいは走狗といわれ、歴史小説などでは否定的に描かれることが多い。しかし室町時代では家臣は自分の働きに見合った恩賞を与え、かつ将来性のある主君を自ら選ぶのが当たり前であり、何度も主君を変えるのは不忠でも卑しいことでもなかった。高虎は取り立てて血筋がよかったわけでもないにもかかわらず、彼は己の実力だけで生き抜いてきた。織田信澄に仕えていたときにも大いに功績を挙げたが、信澄は高虎を嫌って加増しようとしなかった。そのため高虎は知行を捨てて浪人し羽柴秀長のもとで仕えたのでる。
    高虎は豊臣秀長に仕えていた時分には忠実な家臣であり、四国攻めの時には秀長に従って多大な功績を立てている。また秀長が亡くなるまで忠節を尽くしている。幕末の鳥羽・伏見の戦いで、藤堂氏の津藩は彦根藩と共に官軍を迎え撃ったが、幕府軍の劣勢を察すると真っ先に官軍に寝返り、幕府側に砲撃を開始した。そのため幕府軍側から「さすが藩祖の薫陶著しいことじゃ」と、藩祖高虎の処世に仮託して皮肉られたという。だが一方、寝返った藤堂家は官軍の日光東照宮に対する攻撃命令は「藩祖が賜った大恩がある」として拒否している。この津藩の寝返りが藤堂高虎の悪評を決定づけてしまったため、高虎にはありもしない悪評がつきまとうようになった。

 

家臣への対応
    高虎は8度も主君を変えた苦労人のため人情に厚く、家臣を持つことには頓着せず、暇を願い出る者があるときは「明朝、茶を振る舞ってやろう」と言ってもてなして自分の刀を与え「行く先がもしも思わしくなければいつでも帰ってくるが良い」と少しも意に介さなかった。またその者が新たな仕官先で失敗して帰参を願い出ると、元の所領を与えて帰参を許した。この高虎の行為に家臣が反発すると「臣僕を使うのに禄だけでは人は心服しない。禄をもらって当然と思っているからだ。人に情けを掛けねばいけない。そうすれば意気に感じて命を捨てて恩に報いようとするものだ。情けをもって接しなければ、禄を無駄に捨てているようなものである」と述べた。
    戦国時代並びに江戸時代初期まで、主君が死ぬとその後を慕って殉死する者が絶えなかったが、高虎はこれを厳禁とした。生きていれば頼りない嫡子の高次を支えてくれる有能な人材であるためだった。そこで国元において箱を書院に置き「自分が死んだら殉死しようと考えている者はこの箱に姓名を記した札を入れよ」と命じた。開けてみると40人余の札があり、続いて駿府屋敷でも同じ命令を出すと30人余が名乗り出た。高虎は70人余の名を書いて駿府の家康を訪ね「私が死んだら殉死を願い出る者がこんなにいる。皆、忠義の者で徳川家の先鋒として子々孫々までお役に立つ者たちです。ですので上意をもって殉死を差し止めて下さい」と嘆願し、家康も了承した。高虎は家康の書状を受け取ると70人余を集めて家康の上意であることを伝えた上で「殉死を願い出た者は殉死したも同然である。家康公の厳命に背いてはならぬ。殉死は絶対に許さぬ」と自分の死後は腹を切らずに切腹したつもりで藤堂・徳川両家のために働くように命じた。この70人の中に1人だけ命令に同意しない者がいた。彼は合戦で右腕を失っており、生き長らえても役には立たないから自分は殉死させてほしいと願い出た。しかし高虎は許さず、家康もこれを聞かされて「藤堂は我が徳川の先鋒。命令に違えて1人でも殉死したら藤堂の先鋒を取り消す」と厳命したため、その者も生きることに同意した。
    江戸時代を通じて津藩藤堂家の家臣は高虎のある遺訓を座右の銘とした。それは「寝屋を出るよりその日を死番と心得るべし。このように覚悟極まるゆえに物に動ずることなし。これ本意となすべし」であった。つまり高虎は毎日を今日こそが死ぬ日だとの覚悟を持って生きよと家臣に言い聞かせたのである。現在、伊勢の津城跡には高虎の騎乗像と共にこの遺訓を記した碑が建っている

 

その死

 高虎について「神祖(家康)の神慮にかなっていただけでなく、今の大御所(秀忠)も世に頼もしく思い、家光公も御父君に仰せられる事の多くを、この人(高虎)に仰せになった」とあるほど徳川3代の将軍に信任を受けていた。

 本領の津藩のほかに幕府の命で、息女の輿入れ先である会津藩蒲生家と高松藩生駒家、さらには加藤清正死後の熊本藩の執政を務めて家臣団の対立を調停し、都合160万石余りを統治した。これらの大名家は、高虎の存在でかろうじて家名を保ったと言え、彼の死後はことごとく改易されている。

 高虎は死去する5年前に嫡子の高次に対して遺言を遺している。わかりやすくいえば「仁義礼智信、1つでも欠ければ諸々の道は成就しがたい」である。高虎は人の上に立つ人間には五徳が絶対不可欠であり、これを心に戒めて高次に文武両道に励むように求めた。

 ただ当時は既に泰平の世であるため、戦国を経験した者から詳しく聞いて指針にするように述べている。他に奉公の道に油断なく励む事、人の意見はよく聞いて常に良き友人と語り合い意見してもらい、身分の上下を問わずに良き意見は用いる事、人をもてなす場に遅刻しない事、長酒はしてはならない事を述べている。特に奉公の道は厳しく説いており「主君がお尋ねの折には、直ちに参上せよ。虚病と偽るなどはもってのほかで、気ままな心持ちであってはならぬ」と戒めている。他には「年貢に携わる代官の報告もよく聞き、懇ろに召し使う事、戦いにおいて兵糧、玉薬が続かなければ長陣もかなわないので、侍と実務の代官は車の両輪のように思え」「武家として鉄砲・弓・馬以下の家職を忘れてはならず、諸侍には憐憫の情をかける事」などを諭している。その上で最後に「自分は小者から苦労して今の地位を得た事を考えれば、これくらいの遺訓を守る事は苦労ではなかろう」と高次に釘を刺している。

 高虎の身体は弾傷や槍傷で隙間なく、右手の薬指と小指はちぎれ、左手の中指も短く爪は無かった。左足の親指も爪が無く、満身創痍の身体であり、75歳で高虎が死去した際に若い近習が遺骸を清めて驚いたと言われている