藤堂高虎

  一度仕えた主君には一生忠節を尽くすのが武士の務め、つまり「忠臣不事二君」(忠臣は二君に事(つか)えず)とい割れている。そのため十人の主君に仕えた藤堂高虎は変節漢とか無節操との悪評がつきまとっているが、「忠臣不事二君」は近世武士道の道徳観念であって、藤堂高虎が生きた戦国時代の武士道にはそのような儒教的な厳格さはなかった。働きに見合う恩賞がなく、また仕える主君にそれだけの器がないとすれば主家を替えるのは当然で、下剋上の時代は主君殺しさえあった。藤堂高虎は単に立身出世のために主君にすり寄ったのではなく、己の生きる道を全うするために権利を逆用したのである。
  藤堂高虎が変節漢と白眼視されるのは、豊臣旗下で出世しながら、秀吉の死後、その恩顧に報いず徳川家康に臣従したことによるのである。藤堂高虎は外様ながら家康から「国に大事ある時は高虎を一番手とせよ」とまで信頼され、そのため譜代衆の羨望と嫉妬を呼び、そのような陰口になったのである。

 藤堂高虎は主君を何人も替えたが、裏切りや寝返りは一度もしていない。仕えた主君それぞれに、持てる能力を懸けて忠節を尽くしている。高虎は築城の名手として何度も縄張奉行を務めた。城は高度の国防機密で、とくに築城の基本には秘術が込められる。高虎が世評通りの裏切り者であるならば、そのような人物に築城を任せるはずはなかった。

 藤堂高虎は時代が求めるものを察知し、それに応えられる能力を磨き知識を深めた。長崎駐在時に西洋の城を聞き学び、後に独自の輪郭式築城法を編み出し、京都では商人から経済の何たるかを吸収し、刀槍の働きに加え、合戦での裏方の役割、軍資金、武器、食糧調達などの重要性と秘訣を学んだ。

 藤堂高虎は視野が広がるにつれ、秀吉の統治に限界を見たのだった。秀吉は「人たらし」といわれ使われ上手だが、人の上に立ち人を使いこなす器量に欠けていた。秀吉の下ではもはや自分を活かす道はないと感じたのであろう。戦国の乱世は終息に向かい、時代は武断から文治へ、統治権力は徳川家康に収斂することを予感したのであろう。
  天下が定まった後、家康は武断派に高禄を与えて政権中枢から遠ざけ、文治派は小禄ながら権限を与えるという手段で人事配置を行った。高虎はその能力を活かし中枢で仕え、譜代大名格に遇されるまでになった。

 高虎は「忠臣不事二君」どころか「七度主君を変えねば武士とはいえぬ」と意識し、主家を替えるだけの能力と実力を備えてこそ一人前の武士というつもりだったのだろう。