立花宗茂

 新渡戸稲造は武士道精神を「義」から説き起したように、義は武士の掟の中で最も厳格な教訓である。武士にとって卑劣なる行動、不正なふるまいほど忌むべきものはない。「義」はすなわち人の行うべき正道である。

 新渡戸が「武士道」を著すとき、念頭にしたのはこの武士ではないかという漢(おとこ)がいる。豊臣秀吉が「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と称えた立花宗茂である。関ヶ原の戦いでは西軍に属し敗れてしまうが、徳川時代に人望と力量を認められ、旧領復帰を実現した唯一の大名である。

 

立花宗茂の生い立ち

 1567年8月19日、立花宗茂は九州の雄・大友宗麟の家臣だった高橋紹運を父に豊後国(大分県)で生まれた。父・高橋紹運は歴戦の猛者と名を馳せ、立花宗茂は伊達政宗や真田幸村と同い年で小さい頃から優秀だった。

 高橋紹運の嫡男が立花宗茂であるが、立花宗茂は高橋家を継がずに15歳で同じ大友家臣の雷親父こと立花道雪(戸次道雪)の養子になった。立花(戸次)家は跡取りになる息子がいなかったので、婿養子を取って家を継がせたいと考えていた。そして日頃から付き合いのあった紹運の息子が素晴らしいという話を聞いて、婿養子として家を継がせたいとした。立花(戸次)道雪はぜひ貰い受けたいと申し出たが、高橋家では跡継ぎがいなければ困るので、父・紹運は最初この話を断った。だが道雪がその程度で引き下がるはずもなく繰り返し懇願されてついに承諾することなった。15歳で立花道雪の養子となったが、これは立花家と高橋家が力を合わせて戦国期を乗り切ろうとしたからある。

 立花(戸次)道雪は主君である大友宗麟に対して幾度と諫言し、落雷を刀で斬ったという伝説が残るほど豪胆な人物である。歴戦の武功が認められ「西大友」と称された名門・立花家を継ぐことになるが、主家である大友家を裏切った立花城主・立花鑑載(たちばな あきとし)を討った後だったため、道雪は立花姓を名乗らなかった。

 立花宗茂の若かりし頃は強力な個性をもった実父と養父に従いながら九州北部で過ごした。雷オヤジである立花道雪の半端なく厳しい教育を受け、道雪の娘・立花誾千代と結婚した。この娘がのちに「女城主」として知られる立花誾千代(たちばなぎんちよ)である。立花城は城下に博多湾を望む重要な場所に位置し、信頼できる武将として戸次道雪に任されていた。立花宗茂は戸次道雪ととも立花城を守った。

 

立花宗茂の初陣
 実父養父と後ろ盾されがあったが、立花道雪は城を一つ落とすほどの武将に成長していた。17歳の頃には遠征に向かう人々の留守を預かり、既に大友家中でも重きを成すようになっていた。立花宗茂はのんきではあったが、立花宗茂は武将らしく締めるべきところは締めていて、謀反の兆しがあった家臣は容赦なく粛清した。この辺のギャップはまさに戦国時代の人という感じられる。1584年に立花道雪が病死するとと立花宗茂は立花家を担うことになる。

 1585年、大友氏は薩摩島津氏の猛攻に遭い紹運が華々しい討死を遂げると、大友家は少しずつ揺らぎ始めた。耳川の戦いで負けると優秀かつ忠実な家臣が次々といなくなってしまった。

 衰勢の大友氏を見限り多くの武将が逃亡し裏切るなかで、立花宗茂は「主家が衰えた時こそ身を尽くすのが真の忠義」と奮戦し、島津氏相手にして数々の武功を挙げた。筑前立花城に籠った立花宗茂はわずか500の兵で島津勢を逆に駆逐した。

 立花宗茂の行動はただひとつ信義であった。立花宗茂の判断は「有利か不利か」ではなく「信義に適うか否か」であった。天に誓って恥じることなしである。秀吉は宗麟の要請を受けて九州征伐へやってくると、宗茂の働きを見た秀吉は大喜びし、立花宗茂の島津勢との武功を誉め、立花宗茂に筑後柳川13万5千石を与え大名に取り立てている。これで立花宗茂は大友家臣ではなく一国の主となった。

 その後も一揆の鎮圧や小田原征伐で功績を挙げ、戦いが強い上に温厚であったため領民からの信頼も良かった。

 

朝鮮の役

 朝鮮の役(1592年〜1597年)では日本勢の中で最も勇名を轟かせた戦いぶりや指揮力を発揮した。味方の救出に行って自ら刀が鞘に収まらなくなるほど奮闘し、それを伝え聞いた柳川の人々からも「鬼将軍」と言われた。

 碧蹄館(ペクチュガン)の戦いでは、明と朝鮮の連合軍15万余に対しわずか2千騎で先駆け、白兵戦の末に日本軍を勝利に導いた。秀吉の死による撤退戦では、敵陣に孤立した加藤清正と小西行長を「これを見捨てれば日本武士の恥」として救出した。加藤清正は宗茂の仁義に「日本無双の勇将」と謝した。

 

関ヶ原の合戦

 1600年の天下分け目の関ヶ原合戦では、秀吉が「東の本多忠勝、西の立花宗茂」とまで評した武将なので、当然、徳川家康もその武勇を脅威と感じ東軍へ引き入れようと画策した。徳川家康は立花宗茂に50万石の恩賞で誘うが「太閤殿下のご恩を忘れて義に背いて生きんよりは死するに如かず」と拒絶した。「九州の武士はかくあるべし」と豊臣方に参陣し大津城を攻略した。

 西軍で参加したが、大津城を攻めている間に関が原本戦が終わってしまい、宗茂が活躍する間もなく趨勢が決まってしまった。関ヶ原では本戦に間に合わなかったが「もしも宗茂が間に合っていたら西軍が勝っていたかもしれない」と言われるほどだった。
 関ヶ原の本戦はあっけなく敗退したが、勝敗や利害を度外視し、ただ「義」によってのみ関ヶ原に臨んだ武将は宗茂と大谷吉継だけであった。当然のことながら納得行かず、立花宗茂は大坂城へ入って西軍の総大将・毛利輝元へ「まだやれる」と進言したが、輝元は元々やる気がなく無駄足になった。

 関ヶ原の戦い後、筑後柳川への帰途するが、実父・紹運の敵の島津義弘と遭遇した際は「寡兵とみて討つは武士の信義にもとる」として、むしろ義弘の護衛を申し出た。義弘は宗茂の義侠に感激し、以来、友誼を結ぶことになる。

 関ヶ原で敗れ柳川領を没収された宗茂は一介の浪人になり、流浪の日々は赤貧を洗うがごとしで、一時はお寺に厄介になった。しかし宗茂に随った20数名の家臣が懸命に宗茂支えた。家臣たちが方々で日銭を稼いで主を養った。そこまでさせるほどの人格者であったことがわかる。
 当時の逸話として、その日暮らしをしていた宗茂一行は、当然のことながら食べるものに困り、少しでも炊いた飯を長持ちさせようと飯を天日干しにしていた。しかし彼らの留守中に雨が降ってきてそのままにしておけば当然濡れてしまって台無しになった。しかし留守を預かっていた宗茂は取り込もうとしなかった。普通なら家臣は怒ルはずだが「さすが殿、細かいことはお気になさらない」と泣いて喜んだとされている。
 また「家臣が米の消費を少なくするため、粥にして宗茂に出したところ「汁は自分でかけるから、お前たちがそこまで世話を焼かなくてもいい」と言った話もある。
 このような宗茂の人柄は敵将だった徳川家の人々にも惜しまれ、援助を受けることができた。

 

立花宗茂の復活

 大坂の陣における功績を徳川秀忠から評価され、大坂夏の陣から五年後「もう逆らう心配はない」と見られたのか、旧領・柳川を再び与えられ復活する。関が原の後に許された西軍大名は何人かいますが、宗茂は旧領をそのまま与えられた唯一の例であった。

 1604年に2代将軍秀忠の相伴衆(しょうばんしゅう)に取り立てられ、2年後には奥州棚倉(福島県)に1万石を与えられ復権した。さらに1620年には20年ぶりに柳川領主に11万石に返り咲いた。  悠々自適な隠居生活に入ることになるが、宗茂の活躍はまだ続いた。既に70歳を超えていたのに、年島原の乱に出陣し城攻めの時には往年と変わらぬ活躍を見せ若い大名達を鼓舞した。1642年で亡くなるまで戦場に生きた文字通り最強武将であった

 新渡戸が「武士道」の副題としたThe Soul of JAPAN(日本の魂)とは立花宗茂の烈々たる士魂のことである。同時代の名だたる武将らが「武士の中の武士」と称えた立ち居ふるまいは、まさに八風吹けど動ぜず武士の鑑(かがみ)であった。