白虎隊

「生き残った白虎隊士」~飯沼貞吉(いいぬまさだきち)~

飯沼貞吉

幕末戊辰(ぼしん)戦争最後の舞台となった会津鶴ヶ城。その城の三層階に、飯盛山で自刃した白虎隊十九士の肖像画が飾られている。歳は数えで16と17。今でいえば中学三年か高校一年の少年たちだ。面影にあどけなさが宿る。この肖像画にはもう一人、加わるはずであった若者がいる。名を白虎隊士中二番隊・飯沼貞吉という。

慶応4年(1868年)8月23日未明、官軍の猛攻を避け飯盛山に退いた白虎隊は、「捕虜になって敵の恥辱を受けるより、いさぎよく自刃し武士の本文を明らかにする」道を選ぶ。貞吉も、母ふみから贈られた「あずさ弓むかふ矢先はしげくとも ひきなかえしそ武士(もののふ)の道」を反芻(はんすう)し、覚悟を定め「同僚の者が咽喉を突き、あるいは腹をかき切って倒れるので遅れてはならぬと脇差の鞘をはらい、力を込めて咽喉(のど)に突きたてた」(*1)。しかし急所がはずれたのか、人事不省(じんじふせい)のまま奇跡的に一命を取り留め、武具役人 印出新蔵(いんでしんぞう)の妻ハツに救出されたのだった。

死ぬべき時に死ぬことが武士の道とされた時代である。死に損なうことがどれほど恥ずべきことか、貞吉の心中は自責の念が渦巻いたことだろう。
しかし、偶然に通りかかった印出ハツに始まる運命的な邂逅(かいこう)は、あたかも「この若者を死なせてはならぬ、次代に生かせ」という天の意思があったかのようである。

蘇生してのち施療した長岡藩軍医、生活を庇護した楢崎頼三(ならざきらいぞう)(*2)、勉学を指導した林三郎(*3)、電信界への道を拓いた藤沢次謙(ふじさわつぐよし)(*4)。彼らは登場の順序、時と場所まで定められていたかのように現れ、貞吉を死から生へと導いた。

電信修技校に学び明治5年(1872年)、工部省(後の逓信省、現在の総務省)に任官した貞吉は、印出ハツに救出されて5年を経たその時から飯盛山に散った同士19人の生をも引き受け、ひたすら電信事業に尽くすことを決意する。さまざまな出会いを通して、生かされて在る命の重みを自覚したのであろう。

日本の電信(電報)事業は明治3年1月、東京と横浜間の開通に始まる。電信網の全国整備に伴い貞吉は技術専門家として東奔西走する。明治6年には東京から長崎まで1340kmが開通。アジアで電信を独力で構築した国は唯一日本のみで、その後の通信大国への基礎となった。そして逓信省仙台逓信管理局工務部長を最後に大正2年(1913年)60歳で退官、正五位勲四等に叙せられている。

飯沼貞吉は千年におよぶ武士の時代の終焉(しゅうえん)に殉死(じゅんし)し、明治新時代の誕生とともに回生(かいせい)した。己れの人生を立て直したのである。これも会津武士道の真骨頂。「すぎし世は夢かうつつか白雲の空にうかべる心地こそすれ」。晩年に詠んだ歌である。

昭和32年(1957年)9月22日、戊辰戦争役90年祭を機に貞吉の遺髪と義歯が白虎隊墳墓に合祀された。記念碑には「君と十九人の同士は泉下に手を採り合い満足の笑みを交わしていることであろう」と刻まれている。昭和6年(1931年)2月12日没、享年77歳。

人事不省の生をひたすらに電信事業へ尽くし、通信大国への基礎造りに貢献した、この「生き残った白虎隊士」飯沼貞吉から学ぶものは、今のBizスタイルにおいても多いのではないだろうか。