島津義弘

 1600年9月15日、関ヶ原の戦いで東西両軍17万人余の将兵が入り乱れるなか、孤立した島津義弘は壮烈な退却戦を敢行する。有名な「島津の退き口(のきぐち)」である。戦法は「捨て奸(すてがまり)」で陣最後尾の小部隊が追撃する敵と戦い、全滅すると次の小部隊が抗戦して敵を足止めにし、その間に本隊を脱出させる戦術であ。将兵に生き残る望みはなく、ひたすら味方を退かすためだけの捨て身の戦法である。5度にわたる「捨て奸」の末、島津隊約1500人のうち80人余が奇跡的に薩摩へ生還できた。この「戦国合戦史上の奇跡」をもたらしたものは、島津家の主従の鉄の結束だった。

島津家の軍律
一、一人の敵をも殺したる証拠なきものは死罪、その父子親族は重科(重罪)に処せらるることあるべし。
一、わが大将の首級(しゅきゅう)を敵に委(い)すべからず、この仇(あだ)を報ずるあたわざるときは一隊ことごとく討ち死にせよ。

 戦場の禁制に厳しかった織田信長もおよばぬ苛烈である。しかし、軍律だけが将兵を統率したのではない。島津家の国防の考えは「城をもって城とせず、人をもって城となす」である。その意味は「同僚(仲間)を信頼せよ」であり、「頼むべきは堅固な石垣や堀ではなく、部下であり、人である」である。軍律も同じことを諭している。
「捨て奸」は、将兵の自己犠牲のうえでしか成り立たない必死の戦法である。大将は将兵の力量を信じ、将兵は「信頼され頼りにされている」ことを誇りに、大将の采配を信じ国と家族の安泰を願い命を賭す究極の忠誠で応える。

 戦国期に島津義弘ほど将兵に慕われた武将はいない。関ヶ原の戦いで義弘の守護に馳せ参じた者は、討ち死に覚悟の義勇兵だった。

 「島津に暗君なし」といわれるように、義弘は義と情の武人だった。戦いでは常に先頭に在り、武勇は「鬼島津」と恐れられ、ときには自らおとりとなり、ときには「南九州の桶狭間」といわれる奇襲で勝利する。戦場生活では主従の分け隔てなく、食糧の分配は将兵を優先し、戦いのあとは敵味方の怨讐を超えて戦死者の冥福を祈り、供養した。
  1619年、義弘は85歳で大往生した。このとき殉死禁令にもかかわらず13人が後を追ったと伝えられている。

 義弘の「頼むべきは堅固な石垣や堀ではなく、部下であり、人である」という姿勢は大切である。