毛利元就

 毛利元就は戦国最高の知将・策略家として常に合戦の人生を歩んできた。同世代には輝かしい活躍をした武将が多くいるが、毛利元就の存在が大きく感じられるのは、毛利氏は戦国時代から江戸期を通じて長州藩として影響力を保ち、さらに日本の近代化まで食い込んだからである。
 毛利元就は安芸(広島県西部)の小規模な国人領主に過ぎなかったが、小さな国衆として周囲の大勢力に翻弄されながらも着実に勢力を伸ばした。毛利元就の特長はひとえに「武略・計略・調略」である。毛利元就はこれを用いて大きくなった。毛利元就は暗殺や買収、婚姻や養子縁組など様々な権謀を用いて中国全域に勢力を拡大し、一代で大国を築き上げた。用意周到、合理的な策略、および危険を顧みない駆け引きで自軍を勝利へ導いた策略家である。織田信長や豊臣秀吉の家系がすぐに潰されたのと比べ、吉田郡山城の小さな国人から中国地方に一大王国を作り上り、「三本の矢」の教えで息子を育てた元就の実力は目を見張るものがある。毛利元就の子孫は長州藩の藩主となり、元就は同藩の始祖とされている。

 合戦の中でも戦国の日本三大奇襲戦の一つとされる「厳島の戦い」は必見である。厳島は陸地から1.8km沖合に浮かぶ、南北10km、東西4kmの小島で、周知のように厳島は厳島神社が鎮座する信仰の島であり、良港をもつため瀬戸内海の要衝としても栄え、浜辺には港町が広がっている。さらに大内氏が東征する際には、軍港として用いられてきた。

 ただ地形が非常に峻険で、島全体が原生林におおわれているため大軍では自由な動きがとれないという特徴がある。この厳島の戦いに勝った毛利元就は一気に大国へのし上がることになる。

 

毛利氏の家系
 毛利氏の祖は鎌倉幕府草創期の源頼朝の重臣であった大江広元の四男・季光(すえみつ)である。季光が相模国毛利荘(厚木市)を与えられ「毛利」を名乗ったことから始まる。

 大江広元は朝廷に仕えていたが源頼朝に招かれ鎌倉に下り、頼朝の右筆(秘書官)を勤めるなど側近として重用された。 特に守護・地頭の設置など鎌倉幕府の基礎固めに活躍し、その功績により各地に所領を有したが、承久の乱での功績によって安芸国吉田荘の地頭職を与えられた。安芸国吉田荘は与えられた所領のひとつである。

 しかし1247年、毛利季光は北条氏と対立した妻の実家・三浦氏方の味方をして敗北し、息子4人と共に自刃し、合戦に参加しなかった四男・経光の家系だけが唯一残り、安堵された所領のうち安芸国吉田荘を経光の息子が継ぎ、この家系から毛利元就が輩出されている。

 南北朝時代に季光の子孫が安芸国吉田に集まり、安芸国吉田が毛利氏の本拠地となった。安芸国には30以上の国人領主がいたが、この吉田周辺に一族の分家が集まり勢力を拡大していった。

 室町時代には東の幕府・細川氏と西の大内氏という二大勢力の狭間で、毛利氏は安芸国の国人の一人として地位を確立した。応仁の乱後は出雲国において勢力を強める尼子(あまご)氏が細川氏に取って代わって南下し、毛利氏は安芸・備後両国の諸国人とともに大内・尼子の大名間で抗争に巻き込まれることになる。

 

毛利元就の誕生

 1497年3月14日、毛利元就は安芸(広島県西部)の内陸部の国人領主・毛利弘元と福原広俊の娘・祥の方(正室)との間に次男として誕生した。元就の幼名は松寿丸で、出生地は母の実家・鈴尾城(広島県安芸高田市福原)である。国人領主とは町長レベルの勢力で、知事に相当する大名とはほど遠い勢力であった。鈴尾城には現在も毛利元就誕生の石碑が残っている。

 両親の間には、先に生まれた嫡男・興元がおり、元就(松寿丸)は庶子(しょし)であったが次男であるため相続権はなかった。元就が毛利家を継いだのは兄・興元、その嫡男・幸松丸の没してからである。

 元就(松寿丸)は室町時代後期に誕生しているが、この頃の室町幕府は日野富子らが室町10代将軍・足利義材を廃して11代義澄(義高)を擁立する「明応の政変」が起きており、1467年の応仁の乱から続く一連の騒乱によって戦国時代は幕を開けていた。
 この「明和の政変」では、父・毛利弘元は大内氏の保護下にあった前将軍(足利義材)と室町幕府の現将軍(足利義高)の両方から従うように命じられ、幕府にも大内氏にも逆らえず、1500年に板ばさみに悩んだ父・弘元は33歳の若さで引退すると家督を嫡男・興元に譲った。引退した父・弘元は本拠であった郡山城(広島県安芸高田市)を去り、幼い元就(松寿丸)を連れて多治比猿掛城(たじひさるがけじょう)へと移り住んだ。

 

幼児期の悲劇

 1501年に毛利元就の実母・祥の方が死去しすさんだ少年時代を過ごし、1506年には父・弘元も心労と酒が原因で身体を壊して急逝している。松寿丸はそのまま多治比猿掛城に住むが、このとき後見役であった家臣の井上元盛によって多治比300貫の領地を横領され、元就はまだ9歳という幼き身にして城を追い出された。

 この憂き目から、元就(松寿丸)は周囲から「乞食若殿」と蔑まれ、生活は困窮して武士としての窮地にあったが、それを救ったのは父の継室である義理の母・杉大方(すぎのおおかた)だった。杉大方の出自は、安芸国から石見国にかけての有力武家であった高橋氏とされている。杉大方は父・弘元の側室であったが、正室(元就の母)の死後に継室になり、幼少で城を追われた先妻の元就を不憫に思い再婚もせずに元就を養育した。

 陽気な杉大方が元就(松寿丸)に与えた影響は大きく、後年半生を振り返った元就は「まだ若かったのに大方様は自分のために留まって育ててくれた。私は大方様にすがるように生きていた。10歳の頃に大方様が旅の僧が来て、私も一緒に2人で話を聞き、それ以来、今に至るまで毎朝祈願をしている。そのやり方は朝日を拝んで念仏を十編唱えることで、こうすれば後世のことは勿論、現世の幸せも祈願することになる」と養母の杉大方について毛利家文書「三子教訓状」に書き残している。

 この「三子教訓状」はもともと、息子達に謙虚な信仰心を持つようにと伝える文章の一部であるが、杉大方が元就の信仰に大きな影響を与えたことが分かる。さらに元就が62歳のとき、長男・隆元にあてた書状の中に、「私は5歳で母と死に別れ、10歳で父とも死別した。11歳の時に兄興元が京に上ったので、わたしはよく分からないままに孤児となった。杉大方殿はこの様子を不憫に思い、捨て置くことができなく、まだ若い身でありながら実家に帰らず私を育てて下さった。そのため再婚をすることもなく私の父に貞女を通された。兄が留守の3年間、私は大方殿を頼りにして過ごしていた」。
 この文には、幼くして身よりのない自分を育ててくれた杉大方への感謝と尊敬の念がにじみ出ている。その後、所領を横領した井上元盛が急死したため、多治比の地は再び元就(松寿丸)のもとへ戻った。

 1511年、京にいた兄・興元へ義母の大杉方が使いを出し、許可をもらって松寿丸は元服して、多治比(丹比)元就と名乗った。多治比はあくまで毛利家の分家であり、このときは毛利家ではないため多治比殿と呼ばれていた。

 

元就の初陣

 1516年、長兄・興元が父と同じ酒の飲み過ぎで急死した。毛利家の家督は興元の嫡男・幸松丸が継ぐが、幼少のため元就は叔父として幸松丸を後見することになる。毛利弘元、興元と2代続く当主の急死に、幼い主君を残された家中は動揺した。

 この毛利家中の動揺をついて、佐東銀山城主・武田元繁が吉川領の有田城へ侵攻し、元就(松寿丸)は幸松丸の代理として有田城救援のため出陣する。元就(松寿丸)にとっては毛利家の命運を賭けた初陣であった。

 安芸武田氏は毛利氏の重鎮であり猛将として知られていた。この武田軍の先鋒を元就は撃破し、防備の兵を有田城の包囲に残し両軍は激突した。戦況は数で勝る安芸武田軍が優位で進んでいたが、又打川を渡河していた武田元繁が矢を受けて討死し、安芸武田氏は当主の武田元繁だけではなく多くの武将を失い退却した。この「有田中井手の戦い」は安芸武田氏の衰退と毛利氏の勢力拡大の分水嶺となった。この勝利により安芸国人「毛利元就」の名は世間に知られるようになる。

 この戦いの後、尼子氏側へ鞍替えした元就は、幸松丸の後見役として鏡山城の戦いでも勝ち、その智略により毛利家中での信望を集めた。
 甥の毛利幸松丸がわずか9歳で死去すると、元就(松寿丸)は分家の人間とはいえ毛利家の直系男子であり、家督継承有力候補でもあったため、重臣たちの推挙により27歳で家督を継ぎ毛利元就と名乗った。重臣たちによる「元就を当主として認める」という連署状が作成され、8月10日に毛利元就は吉田郡山城に入城した。元就が毛利氏を継いだのはまさにこのような経緯があった。

 初陣から27歳までの間に毛利元就は結婚し、妻(法名:妙玖〈みょうきゅう〉)となったのは、大朝新庄(北広島町)を本拠としていた国衆・吉川氏の出であった。 元就の兄・興元の妻は安芸・備後・石見三国にまたがる広大な領域を支配していた高橋氏の出身で、その子供が幸松丸であった。 毛利氏・高橋氏・吉川氏は所領を接することから、以前から婚姻関係を通じて良好な関係に努めており、日常的な相互扶助・同盟関係が素地となり後に国人一揆が形成された。国人一揆の主導者である毛利元就が権力を集中して戦国大名となった。一揆というと土一揆や一向一揆などしか思い浮かばないため違和感があるが、国人一揆とは「国人領主連合」のことである。

家督相続

 毛利元就が27才で家督を継承すると、それに不満を持つ坂氏・渡辺氏ら譜代家臣が尼子経久の指示を受けた元就の弟・相合元綱を擁して対抗した。しかし元就は執政・志道広良らの支援を得て、元綱一派を粛清して家臣団の統率をはかった。
 源頼朝が義経を殺害したように、毛利元就は弟・相合元綱を自刃させたが、相合元綱の子は男子であったが助けられている。元就自身が書いた家系図には元綱の子だけでなく三人の孫まで書かれている。

 また仏門に入っていた元就の末弟を還俗させて、就勝の名を与え北氏の跡を継がせて側に置いた。就勝に相合元綱に代わる一門の重鎮として自分を支えてもらいたかったのであろう。

 なおこの相合元綱殺害事件で謀反を起こした坂氏一族の長老格・桂広澄は事件には関係なかったが、元就が止めたのにも関わらず一族の責任を取って腹を切って死んだ。桂広澄は相合元綱の冤罪を察しており、無実の弟を誅し、また渡辺氏まで攻め滅ぼそうとした元就のやり様に激怒したのだった。桂広澄は憤懣やる方ない思いを表現するために抗議の自死を遂げた。

 桂一族は粛清を受けるものと思い、桂広澄の子の桂元澄と元忠は桂城に籠ったが、元就は「これ以上、人を死なせてはならん」とみずから桂城へ赴き命懸けでこの兄弟を説得した。桂元澄と元忠は元就の真摯さに感動し、あらためて元就に忠誠を誓った。以後、元就が死ぬまで毛利家のために生涯尽くすことになる。
 またこの時謀反を起こして粛清された渡辺勝の息子は乳母に助けられ備後の山内家へ逃げこんだ。

 

毛利元就の台頭
 
安芸国は室町幕府勢力(管領細川氏と尼子氏)と西の守護大名・大内氏との対立の場となり、毛利氏をはじめとする国人領主は両勢力の間で翻弄されていた。

 毛利元就は家督相続を契機に尼子経久と次第に敵対関係になり、1525年には尼子氏と関係を断ち大内義興の傘下となった。毛利元就はかつて毛利幸松丸の外戚として強大な専権を振るい尼子氏に通じてていた高橋興光ら高橋氏一族を討伐すると、高橋氏が持つ安芸から石見にかけての広大な領土を手に入れた。

 一方で長年の宿敵であった宍戸氏とは関係を修復し、娘を宍戸隆家に嫁がせて友好関係を築き上げた。元就が宍戸氏との関係を深めたのは父・弘元の遺言であった。父・弘元は「宍戸氏と仲をよくしろ」と言い遺していた。

 兄の興元と宍戸氏は戦いになって、兄の興元は父の遺言は果たさずにいたが、宍戸元源はなぜか元就を気に入り「水魚の交わり」のように親しくつきあった。元就は高橋氏の旧領の一部を宍戸元源に譲った。
 元就は正月に数人の家来を引き連れて宍戸氏の五龍城を訪れ、2人は枕を並べて夜遅くまで語り合い、元源の孫の隆家と娘(五龍)との婚約を決めた。

 この宍戸隆家は父を亡くしており、母の実家の山内家で7歳まで育ったため、宍戸氏と誼を結ぶことで山内氏と繋がりができた。この頃、渡辺氏の生き残りの渡辺通は許されて毛利家に戻って元就に仕えた。
 その他、大内氏に反乱を起こした天野氏や、安芸武田氏との関係が悪化した熊谷氏と誼を通じ、元就は安芸国人の盟主としての地位を確保した。

 毛利家中においても守るべき3カ条をつくり、違反者は元就が処罰する起請文を安芸国人たちは連署して書いた。

 大内義隆より元就に官位を授けるように後奈良天皇に申し出があった。元就は義隆を通じて4,000疋を朝廷に献上し、これによって推挙者である大内義隆との関係を強めるとともに、形骸化していたが官位を受けることによって安芸国内の領主に朝廷・大内氏双方の後ろ盾を示した。

 また同時期には安芸有力国人である吉川氏の当主・吉川興経から尼子氏との和睦を斡旋をうけるが、逆に尼子方に断られている。また1537年には長男の毛利隆元を人質として大内氏へ差し出して関係を強化した。

 1539年、元就と従属関係にあった大内氏が北九州の宿敵少弐氏を滅ぼし、大友氏と和解したため、元就は安芸武田氏の居城・佐東銀山城を攻撃した。

 

尼子との戦い
 1540年、尼子経久の後継者・尼子詮久がる3万の尼子軍を率いて吉田郡山城を攻めたが(吉田郡山城の戦い)、元就はわずか3000の寡兵で籠城して尼子氏を迎え撃った。家臣の福原氏や友好関係を結んでいた宍戸氏らの協力や、遅れて到着した大内義隆の援軍の活躍もあって尼子軍に勝利した。この戦いの顛末を記録した文書を幕府に提出(毛利元就郡山籠城日記)して称賛を得て元就は安芸国の中心的存在となる。

 同年、大内氏とともに尼子氏の支援を受けていた安芸武田氏の当主・武田信実の佐東銀山城を落し、武田信実は出雲へと逃亡したが、安芸武田氏はこれにより滅亡した。また安芸武田氏傘下の川内警固衆を組織化し、後の毛利水軍の基礎を築いた。

 1542年から1543年にかけて、大内義隆を総大将とした第1次月山富田城の戦いに、元就は従軍した。しかし吉川興経らの裏切りや、尼子氏の所領奥地に侵入し過ぎたことから補給線と防衛線が寸断され、元就自身も富田城塩谷口を攻めるが敗れて大内軍は敗走した。この敗走中に元就も死を覚悟するほどの危機にあったが、渡辺通が身代わりとして戦死し、窮地を脱して安芸に帰還することができた。

 

小早川隆景

 小早川家には沼田小早川と竹原小早川があった。1544年、元就は強力な水軍をかかえる竹原小早川氏の養子に三男・徳寿丸(小早川隆景)を出した。竹原小早川家には元就の兄・興元の娘が嫁いでおり、前当主の興景は吉田郡山城の戦いで援軍に駆けつけるなど、元就と親密な仲にあった。しかし小早川興景には子がなく没したため、小早川家の家臣団から徳寿丸(小早川隆景)を養子にしたいと要望があったが、徳寿丸がまだ幼いことを理由に断っている。

 しかし当主不在のまま何度か戦いがあり、困った小早川家家臣団は今度は大内義隆に、元就が徳寿丸(小早川隆景)を小早川家へ養子に出すように頼みこんだ。元就も大内義隆の頼みを断ることはできず、興景没後3年を経ってようやく徳寿丸(隆景)は小早川家の養子となった。

 なお興景を失った竹原小早川氏に、備後神辺城主である山名理興(尼子派)が攻め寄せたが、大内軍と共に毛利軍も救援に赴いていた。この戦いは6年後の神辺城陥落(神辺合戦)まで続いたが、この陣中で徳寿丸は元服して隆景を名乗った。

 同年には、備後三吉氏へ遠征に出た尼子軍を撃退したが、元就は児玉就忠・福原貞俊を派遣したが布野崩れで敗北している。ただし備後三吉軍の夜襲が成功したため最終的に尼子軍は退却した。

 

勢力拡大

 1545年、元就は妻・妙玖と養母・杉大方を相次いで亡くしている。息子の隆元に書いた手紙には「この頃は、なぜか妙玖のことばかりが思い出される。いまは語りかける相手もなく、ただ心ひそかに亡き妻のことを思うばかりである」「内を母親をもって治め、外を父親をもって治め候と申す金言は少しも違わず」と述べている。謀略家のイメージが強い元就であるが、愚痴っぽいが家族思いの武将であった。妙玖の名前は、元就が息子に毛利家の結びつきを説くときに多く語られている。

 1546年、元就は隠居し隆元が毛利家当主となった。ただし完全に隠居したわけではなく実権はほぼ元就が握っていたため、隆元は元就の隠居に反対しなかった。

 元就の戦いは「相手を知り己を知れば百戦して殆うからず」である。元就は常に数十人の間者を抱え、情報を収集して分析し「相手と己」を知り、敵の間者や内通者を利用して偽の情報を流し、相手の謀略の裏をかいたり、内部分裂を起こさせたりした。

 毛利元就は小さな領主の身分から一代でさまざまな国人衆がうごめく中国地方を制し、戦場以外でも婚姻関係や人質など、さまざまな外交手段を駆使し勢力を拡大した。毛利元就は武将としての知略を駆使した戦上手な側面に加え、仲間をつくりだす外交手腕に長けていた。

 長男の隆元への書状に「毛利が生き残り得たのはひとえに武略、計略、調略である。はかりごと多きは勝ち、少なきは負ける」と記している。

 

毛利両川体制

 1547年、妻・妙玖の実家である吉川家の当主である吉川興経は新参の家臣団を重用しため、吉川一族や重鎮と対立し、家中の統制ができなくなっていた。そこで反興経派は元就に「次男・元春を吉川氏に養子に頂きたい」と申し出た。

 元就は初め元春を異母弟・北就勝の養子にするつもりであったため断ったが、再三の要求に応じて元春を養子に出すことになった。

 吉川家当主の吉川興経は家臣団によって強制的に隠居させられたが、それでも元就は興経派を警戒しており、元春をなかなか吉川家の本城へ送らなかった。
 ちなみに元春は吉川家相続前に熊谷信直の娘・新庄局と婚約を結んでいた。そのため元就は熊谷信直へ侘びの手紙で「元春は犬ころの様なやつだがどうかよろしく頼む」と書いている。

 元春夫婦は結婚後も吉川家相続の後もまだ吉田郡山城にいた。元春が吉川氏の本城に入ったのは、興経を元就の命で熊谷氏が殺害してからである。

 この新庄局は非常に醜女だったとされている。不美人と評判だった熊谷信直の娘を元春は自ら望み、驚いた児玉就忠が確認すると、「熊谷信直の娘は醜く誰も結婚しようとはしないので、もし元春が娶れば熊谷信直は喜び、元春のために命がけで尽くすだろう」と話したとある。
 また先の月山富田城の戦いで当主・小早川正平を失った沼田小早川氏の後継問題にも元就は介入した。当主・小早川繁平が幼少で盲目であったため、後見役であった田坂全慶を謀殺し、小早川繁平を出家させた上で、竹原家の小早川隆景が繁平の妹(問田大方)と結婚して沼田家を継ぎ、両小早川家は再統一された。

 これにより小早川氏の水軍を手に入れ「毛利両川体制」が確立し、これ以降、小早川氏は毛利一門に組み込まれ、毛利家から多くの家臣が小早川家に送り込まれ、毛利氏の勢力拡大を支えることになった。

 安芸・石見に勢力を持つ吉川氏と、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏、この両家を取り込み、毛利元就は安芸一国の支配権をほぼ掌中にした。

 

陶晴賢による大内義隆殺害
 1549年2月、元就は元春と隆景を伴い山口へ下向する。この時大内家は陶隆房を中心にした武断派と相良武任を中心とした文治派で対立していた。当主の大内義隆は月山富田城で負けて以来、戦に関心を失っていた。

 このことに不満に思っていた陶隆房が山口下向中に元就の宿所に何度か使いをだして、陶晴賢は大内義隆を殺害した。元就はこの混乱に乗じて大内氏から自立して、その所領を加えて戦国大名となった。

 なお元就はこの山口滞在中に病気にかかり、そのため3カ月近く逗留し、吉田に帰国したのは5月になってからである。なおこの時元就を看病した井上光俊は懸命に看病したことで隆元から書状を貰っている。
 1550年7月13日に家中において専横を極めていた井上元兼とその一族を殺害し、その直後に家臣団に起請文に署名させ、毛利家への忠誠を誓わせ集団統率力を強化し、戦国大名として飛躍する基盤を構築した。

 この時、井上一族をすべて殺害したわけではない。井上光俊のように看病してもらった者や、客僧を招いた井上一族の長老光兼など恩がある者は助命し30名のみを処分している。元就自身はこの誅伐に関した手紙で、幼いころに所領を横取りされたことなど積年の恨みつらみを書いているが、家臣を切るのは自分の手足を切るような悪い事であるから決してしてはならないと隆景に書いている。

厳島の戦い

 戦国時代の三大奇襲は、北条氏康の河越城の夜戦、織田信長の桶狭間の戦い、そして毛利元就の厳島の戦いである。人生には三つの坂がある。上り坂と下り坂、そしてまさかである。この言葉を表しているのが厳島の戦いである。戦いに勝つためには「軍勢の多さであり、軍勢の多い者が少ない者を成するのが戦国時代の鉄則であった」。しかし毛利元就がとったのは「窮鼠猫を咬む」の玉砕戦ではなく、「武略・計略・調略」を用い「謀多きは勝ち、少なきは負ける」の戦法で、四千の寡兵で陶晴賢の二万の軍勢を制した。

 

事前調略

 まず大軍を率いる陶晴賢に対して厳島への誘い込みを狙った。戦力差をくつがえすには、少ない兵力を分散せず平野部での戦闘の不利を避けることで、戦場を固定し戦線を拡大しない奇襲しかない。厳島の地の利を活かし一気に陶氏の大軍を叩こうとした。

 毛利元就は陶晴賢を厳島に誘い込むため、厳島に囮(おとり)の宮ノ尾城を築き己斐豊後守と新里宮内少輔を入れた。この2人は陶氏を裏切って毛利氏についた武将だった。この2人を城将にすることで晴賢をあえて刺激した。

 さらに毛利元就は「厳島の宮ノ尾城は軍船の備えがなく海からの攻撃に弱い。宮ノ尾に城を築いたのは間違いだった。もしこの城を陶晴賢に奪われたら毛利は滅亡だ」と嘆き、重臣たちにも「殿が私たちの反対を押し切って厳島に城を造ったのは失敗だった」と言わしめた。もちろん間諜を通じてわざとこの情報を陶晴賢の耳に入れ、陶軍をおびき寄せるための罠であった。

 

江良房栄と桂元澄

 陶晴賢には江良房栄(えらふさひで)という知謀兼備の重臣がいた。元就は江良房栄の脅威を取り除くため「江良房栄が毛利側に寝返る」という偽情報を撒いた。この時の陶晴賢は、主君の大内義隆を弑逆した後ろめたさがあり、自分もいつかは同じように裏切られるのではないかという不安にあった。疑心暗鬼に陥った晴賢は「房栄謀叛」の噂を信じ、この有能な部下を殺害してしまう。元就はよほどの人間通だったのだろう。謀略は心理作戦である。元就は敵将の性格や心理まで読み取っていた。

 さらに毛利元就は自軍配下の廿日市桜尾城・桂元澄に陶晴賢への内通を命じた。桂元澄はかつて元就の家督相続に絡んで異母弟が粛清され、父・桂広澄が自害しており、残された元澄も一度は元就と戦おうとした過去があった。そのため「元就には遺恨がある」として陶方にわざと内通させた。

 そこで桂元澄は陶晴賢に偽の密書を送った。「陶軍が厳島を攻めれば毛利軍本隊も厳島防衛に動くので、毛利元就が宮ノ尾城救援のために厳島へ渡った隙に、桂元澄は毛利元就の本拠地・吉田郡山城を奪う」と誓詞を差し出し、陶晴賢に宮ノ尾城の攻略をすすめた。寝返りのフリをして毛利方の求心力の低下を見せかけ、さらに陶晴賢の油断を誘う作戦だった。

 なお陶晴賢を信用させるために誓紙を7枚書いた元澄は桜尾城に留まったまま厳島には出陣せず、元澄の子たちは形式的に参戦して義理立てをした。

 これで陶晴賢の気持ちが動き、重臣の反対を押し切って宮ノ尾城総攻撃のため厳島への渡海を決意した。陶氏の水軍は毛利水軍に対し圧倒的な優勢を誇っており、たとえ毛利元就が厳島に後詰(援軍)に来ても、陶晴賢は毛利船団を覆滅できる自信を持っていた。だがこの慢心が毛利元就のねらいだった。元就には陶水軍を凌駕できるめどが立っていたのである。

 元々厳島は軍事拠点としては優れた場所ではなかった。元就が晴賢を厳島に誘い込んだのは、厳島は峻険な地形なので大軍が攻め込んでも動きにくく迎え撃つのに適していたからである。

 

村上水軍
  瀬戸内海に浮かぶ島々には、古来から多くの海賊がいて、小早川水軍のように大名に従う一族もいたが、水軍はその時の利害によって動く独立性の高い海賊衆であった。その最大の海賊衆が伊予(愛媛県)の村上水軍だった。村上水軍は因島(尾道市)、来島、能島(今治市)に拠点をかまえ、互いに連携を取りながら、それぞれが独自の行動をとっていた。

 すでに因島衆は毛利氏への加担を約束していたが、毛利元就は三男・小早川隆景を通じて来島衆や能島衆へも強く働きかけていた。もし村上水軍が全面的に協力してくれるなら、毛利水軍は陶水軍に匹敵する規模となり、戦いに勝ったも同然であった。つまり合戦の勝敗は小早川隆景の交渉にかかっていた。

 小早川隆景は使者として乃美宗勝を遣わし「せめて一日でよいから力を貸してほしい」と誠意を込めて懇願した。この「せめて一日でよいから」は、毛利は一日で陶晴賢軍を殲滅するという意気込みを示していた。乃美宗勝は小早川水軍の総大将で、武勇誉れ高き海将であった。つまり村上水軍に対して最大限の敬意を払った。

 いっぽう陶晴賢のほうでも村上一族に誘いをかけていたが、ただ毛利氏とは異なり、たんに一通の書簡をもって「わがほうに味方せよ」と伝えるだけだった。海賊の力を借りなくとも勝てると思い「村上水軍が圧倒的に不利な元就に加担するはずがない」とタカをくくっていた。

 実際、小早川隆景の強い働きかけによっても村上水軍は応じる気配を見せなかった。村上水軍にとっても、どちらにつくかは死活問題だった。

村上水軍への隆景の説得

 1555年9月21日、いよいよ陶晴賢は2万の軍勢を引き連れ500艘の大船団で、岩国から海路で厳島に向かい兵を厳島へ続々と上陸させた。宮ノ尾城の城兵はわずかに500人である。陶晴賢は2万の大軍で宮ノ尾城を取り囲んで攻撃を開始した。

 攻撃開始からわずか数日で宮ノ尾城の堀は壊され、水源も断たれ落城寸前となった。陶晴賢は翌日には総攻撃をする予定であったが日柄が悪いため延期されていた。

 毛利元就も焦りを覚えていた。息子の小早川隆景に対して「村上水軍の来援はまだか」と矢のような催促をした。小早川隆景は村上氏から好感を得ていたが、いまだに応援の船影は海上に見えなかった。

 9月27日になっても村上水軍は現れなかった。そこで毛利元就は小早川隆景に「ただちに小早川は水軍を率いてやってきてほしいが、これ以上、村上水軍の来援を待っていたら宮ノ尾城は落城してしまう。そうなったら作戦は完全に失敗に帰する。村上水軍を待つことはできない。自分たちだけで厳島への上陸を敢行して一気に敵を葬る」との書簡を書いた。書簡には元就の悲壮な決意とともに、村上水軍を味方にできなかった小早川隆景に対する痛烈な批判が込められていた。

 だが小早川隆景はこの時点になっても村上氏の来航を信じて疑わなかった。そこで小早川隆景は信じがたい行動に出る。なんと漁船に隠れて厳島へと渡り、宮ノ尾城へ入ったのである。その結果、城兵の士気はにわかに高まった。

 小早川隆景はあと数日以内に必ず村上水軍が来ると信じており、それまでなんとか宮ノ尾城をもちこたえようとして、あえて危険を冒して厳島へ渡り、宮ノ尾城に入って城兵たちを励ましたのである。

 その後、小早川隆景は宮ノ尾城から、元就が本陣をかまえる厳島対岸の地御前火立山にもどっていった。それにしてもなんとも大胆な行動である。翌28日、村上水軍が200艘の大船団を組んで海の彼方から現れた。ただ敵か味方かの向背はいまだ明らかではなく、毛利元就は固唾を飲んで船隊の行方を見守った。

 村上水軍は厳島ではなく、元就が本陣をかまえる対岸の地御前火立山に近づいてきた。この瞬間、元就は勝ったと狂喜した。


挟撃にした毛利軍

 9月30日、この日は暴風雨だった。だが元就は風雨激しく吹きすさぶなか、夜陰にまぎれて毛利軍を二手に分け、厳島への渡海を強行した。無謀な行動であったが、数倍の敵を寡兵で倒すにはこのような無茶な手段もやむをえなかった。毛利元就率いる本隊は晴賢が本陣をかまえる塔ノ岡の背後の包ヶ浦から上陸した。

 いっぽう小早川隆景(元就の三男)率いる別動水軍は厳島神社の大鳥居、つまり島の真正面から堂々と島へ向かった。この時、雨風があまりにも激しく敵味方すら分からない状態であった為、毛利水軍は陶晴賢軍の来援にやってきたように見せかけて港に入り上陸を敢行し、味方の合図を機に豹変して陶軍に襲いかかった。

 正面から迎え撃つ隆景の軍団と島の裏手より陶軍を挟み込むように現れた元就隆元の軍団に囲い込まれた陶軍は混乱の中で成す術がなかった。逃げようとする陶軍の残党は、海上で毛利軍の援軍に来た村上水軍の攻撃で次々に沈でいった。

 陶氏の水軍は毛利軍の攻撃によって沈没し、あるいは形勢の不利を見て毛利軍に寝返ってた。前後から挟撃された陶氏の大軍は、大人数のため大混乱を来たし、味方討ちをするなど失態をして自壊した。

 厳島の陶氏の敗兵は海辺をめざして遁走したが、浜辺に出ると港に停泊していたはずの大船団は、沈没するか岸から離れており、陶氏方の兵は絶望を胸に毛利兵に討たれていった。ここでついに陶晴賢も逃亡の覚悟を決め、大江浦で自刃して果てた。
  厳島の戦いは調略、軍略ともに冴えていた。毛利元就の奇襲、小早川隆景の軍略により、毛利軍の鮮やかな大勝利に終わった。

 この戦いは毛利軍約4000に対し、陶軍は約2万と圧倒的な軍勢の差を、毛利元就の類まれな策略と水軍の扱い方で勝敗を決した。

 陶晴賢を失った陶軍は急速に弱体化していくが、反対に毛利軍は水軍への自信を強め、元就直轄の水軍育成へと乗り出した。以後、毛利元就は一気に中国の太守へと駆け上っていった。この戦いにより毛利水軍はその後、織田信長との戦いにおいても重大な役目を背負う事となる。

中国8ヶ国の支配

 翌1556年、陶晴賢を失い弱体化した大内氏が撤退した後の石見銀山(島根県)を巡る攻防で、尼子氏当主・尼子晴久によって山吹城を攻略され,

毛利元就は石見銀山の支配権を失った。しかし1560年にその尼子晴久が急死したため、1562年より毛利元就は晴久の嫡男・尼子義久を相手に出雲を侵攻した(第二次月山富田城の戦い)。

 毛利元就は前回の月山富田城攻めの敗北の戦訓を活かし、無理な攻城はせず策略を張り巡らした。元就は粥を炊き出して月山富田城内の兵士の降伏を誘ったところ投降者が続出し、尼子軍は籠城を継続できなくなり降伏を余儀なくされた。出雲尼子氏を滅ぼした元就であったが、尼子残党軍が織田信長の支援を受けて山陰から侵入して毛利氏に抵抗した。

 さらに豊後の大友宗麟も豊前の制覇を目指しており、1568年には北九州での主導権を巡り、元就によって滅ぼされた大内氏残党の兵とともに山口への侵入を計った。

 毛利氏にとっては危機的な時期ではあったが、元春、隆景らの働きにより大友氏と和睦し、尼子再興軍を雲伯から一掃することに成功した。しかし大友と和睦した事により、大内家の富の源泉となっていた博多の支配権を譲る結果になった。
 これにより戦国大名としての尼子氏(石見・出雲・隠岐・伯耆を領有)は滅亡し、さらに瀬戸内海をわたり伊予(愛媛県)の河野氏を下し、元就は一代にして中国地方を中心に8ヶ国(安芸、備後、周防、長門、石見、出雲、伯耆、隠岐)+四国(伊予)を支配する大名になった。

 伊予についてはあまり注目されていないが、のちに毛利氏が伊予の領有をめぐって四国の長宗我部氏と対立し、本能寺の変後に秀吉による長宗我部征伐が計画されことになる。


三本の矢
    毛利元就は実子を他家の跡取りとさせ、陸軍の吉川、水軍の小早川という強力な「毛利両川」体制を作り上げた。毛利隆元を加えた三人の息子に説いた教訓が有名な「3本の矢」の逸話である。

 晩年の元就が死ぬ間際、3人の息子(長男・毛利隆元、次男・吉川元春、三男・小早川隆景)を枕元に呼び寄せて教訓を述べた。元就は最初に1本の矢を息子たちに渡して折らせ、次はさらに3本の矢束を折るよう命じた。息子たちは誰も3本の矢束を折ることができず、1本では脆い矢も3本になれば頑丈になることから、3人が結束し毛利家を守るように」と教え諭したのである。この逸話は「三本の矢」または「三矢の訓」として有名である。

 実際には元就よりも長男・隆元が8年前に死去しているため、この逸話は1557年に書かれた「三子教訓状」に基づいており臨終の場での教訓とは違っている。しかし3人の息子たちを中心に毛利一族が一致団結して毛利家を盛り立てて行くようにという教訓は本当で、吉川・小早川の両川と協力して国を維持せよという指示という意味であることは間違いない。このようにして中国大名として毛利家は出来上がったと言える。 

 また三本の矢から、元就の子は3人と誤解されがちであるが、3人の他に正室・妙玖が産んだ長女と、五龍局が産んだ2の女性人がいる。さらに正室の死後には四男の元清、五男の元秋、六男の元倶、七男・元政、八男・元康、九男・秀包の男子がいる。
 中でも元就71歳の時に生まれ、兄・隆景の養子となった毛利秀包(小早川元総)は武勇に優れ、九州征伐や肥後国一揆の鎮圧、文禄・慶長の役で戦功を挙げ、豊臣政権下で筑後久留米13万石の大名となっている。 

 

信長との対戦が迫る最中の大往生
 尼子氏を滅ぼした後も、織田信長の支援を受けた山中鹿之介が率いる尼子残党は毛利に抵抗を続け、その後出雲国(島根県)の尼子氏を降して尼子残党軍を一掃すると西国最大の戦国大名となった。

 さらに九州・豊後(大分県)の大友宗麟と北九州の支配権をめぐり激しく争い、長門(山口県)へ攻め込み、博多湾の支配権を大友氏へ渡すことで和睦した。

 1571年6月14日、毛利元就は自ら築いた中国王国を見守るようにして、ふるさとの吉田郡山城(広島県安芸高田市)で死去した。享年75。死因は老衰とも食道癌とも言われている。毛利元就は中国地方を手中に収めたが、それ以上の領地拡大は望まず、家名存続を第一とする遺言を残してこの世を去った。

 「毛利の両川」である吉川元春・小早川隆景に天下取りの機会がなかったわけではない。1575年に大阪湾・木津川河口の海戦で織田水軍を破っているが、しかし、1581年の備中・高松城の戦いでは、秀吉軍3万と対峙したが、本能寺の変を知った秀吉が、明智光秀討伐のため中国大返しに転じた際も「追撃すべし」と主張する兄の元春を制し、吉川元春・小早川隆景は「秀吉と交した和睦の誓紙の血が乾かぬうちに追撃するのは不義であり、信長の死に乗ずるのは不祥」として動かず、さらに秀吉が信長後継を決定づけた賤ケ岳の戦いも傍観している。
 天下取りの野心を持たなかったと思えるが、いずれにしても父・元就の「競って天下を望まず、現状を維持せよ」の遺訓に忠実だった。

 元就はこの時代として破格の長寿といえた。祖父も父も兄も酒毒のため短命で酒に弱い家系だったのだろうが、元就は酒を断ち身内にも節酒の心得を説いている。それが健康に大きく影響したのであろう。

 ちなみに毛利元就が死去したのは、織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにした年である。畿内の諸勢力や、武田信玄の脅威にさらされるときでもあり、この時点で信長の中国地方侵攻の現実味は薄かった。毛利水軍と織田水軍が直接ぶつかって、毛利水軍が勝利した第一次木津川口の戦いが1576年である。

 

元就死後の毛利家

 毛利元就の死後、元就の孫の輝元(てるもと)が家督を継いだ。毛利輝元は勢力を拡大しつつあった織田信長と争い、信長の死後その家臣であった羽柴秀吉に従った。

 豊富秀吉の下で毛利氏は徳川家康と並ぶ大大名として秀吉の厚遇を得たが、秀吉死後の関ヶ原の戦いでは宇喜多秀家とともに家康打倒を目指す西軍の総大将となった。しかし関ヶ原の戦いは敗北に終わり、領国を周防・長門(山口県)2国に減じられ、輝元は戦略が拙いと酷評された。

 防長に移動した毛利輝元は長門国(山口県)萩の指月山(しづきやま)に居城を構え、この地が江戸時代における毛利氏の拠点となった。輝元の跡を継いだ嫡男・秀就は、徳川家康の孫娘を正室に迎えて松平姓を与えられるなど、徳川氏との関係修復に成功した。その跡を継い綱広のころには長州藩の体制もほぼ固まり、毛利氏は長門・周防2か国36万9,000余石を領有する西国の大藩として江戸時代260年を過ごした。

 1853年、黒船の突然の来航により江戸幕府は動揺し、外様大名であった長州藩も各種の献策などによって中央政界の動向に関与することになる。1861年に藩主・毛利敬親(もうりたかちか)が藩士・長井雅楽(ながいうた)の献策を容れて朝廷に奏上した航海遠略策などはその最たるものである。

 しかし開国による国内の混乱が深まると強硬な攘夷論に転換し、1864年8月18日の政変や蛤御門の変(禁門の変)によって、幕府や会津藩など幕府を支持する勢力から排斥される。しかしその後幕府による2度の攻撃を切り抜けた長州藩は、倒幕に転じた薩摩藩と同盟を結び、岩倉具視ら倒幕急進派の公家たちと組んで討幕の密勅を入手し、徳川幕府の打倒を図った。

 その後の戊辰戦争で倒幕を実現した長州藩は、明治維新改革の中軸を担う人材を輩出し、敬親の跡を継いだ最後の藩主・毛利元徳(もうりもとのり)も新たに創設された華族制度の最高位である公爵の地位を授けられた。