由井正雪の乱

由井正雪の乱
 1615年4月20日、3代将軍徳川家光が48歳で病死した。家光は乳母の春日局の影響下にあってマザコンであったが実力将軍であった。後継将軍は家光の長子・家綱と決まっていたが、家綱は病弱でしかも11歳の子供である。
 8月18日、4代将軍家綱の将軍宣下が勅使を江戸城に迎えて行われ、正式に4代将軍に就任した。この政権移動・将軍空白の時期に、幕府転覆の大陰謀、「慶安事件」すなわち「由井正雪の乱」が勃発したのである。事件そのものは4日間であっさり片付いた。
 7月23日夜、複数の人物、複数のルートから由井正雪謀反の訴えがあった。すぐさま江戸町奉行が動いて、その夜のうちに丸橋忠弥が自分の長屋で、河原十郎兵衛が塩硝蔵(火薬庫)でそれぞれ召し捕られた。
 由井正雪は前日の22日に、駿河の久能山を乗っ取るため、幹部10人を引き連れて駿府(静岡市)に向かっていた。一行は7月25日の夕刻に駿府に到着、その地の有力商人・梅屋に宿をとる。その数時間前には、駿府城代のもとに江戸からの急使が正雪謀反の知らせが届いている。正雪一向が到着するや、すぐさま梅屋は役人に取り囲まれる。26日の早朝、役人が梅屋に踏み込むと、すでに正雪は遺書を残して切腹していた。同行の幹部は8人が切腹し2人が逮捕された。
 事件は突然発覚し、23〜26日の4日間で事実上終結した。むろん正雪一味の探索・逮捕は続き8月から9月にかけて、正雪一味とその縁者50〜60人が死罪となった。由井正雪の行動で信頼できる資料は、この4日間の記録だけである。公式資料からは、せいぜい数十人のハネアガリ連中の謀反しか浮かばない。

由井正雪
 1605年5月1日に正雪は生まれた。出生地は静岡県由比町とされている。幼少の頃、禅寺で手習いをして、駿府で町道場を開いていた高松半兵衛に剣術を習った。高松半兵衛に見こまれて養子になった。
 正雪17歳の時、江戸に出て菓子屋の鶴屋に奉公し、21歳の時に鶴屋の養子となって鶴屋を継いだ。鶴屋は大奥の春日局の邸宅に出入りしており、正雪と大奥の細い糸が結びつくことになる。むろんその頃の正雪は幕府転覆など夢にも思っていなかった。しかしこの細い縁はその後、重要な意味を持つようになる。
 若き正雪が武者修行の旅に出て、多くの豪傑・知恵者に出合ったとする逸話もあるが、なんの証拠はない。もっとも仮に旅先で正雪と親しい関係にあったとしても、天下の謀反人になってからは絶対に沈黙したであろうから証拠などあるわけがない。
 さてその頃、軍学者の楠不伝は江戸に町道場を開設していた。当時の軍学とは、「太平記」を読んで楠木正成の戦術に感嘆した人々が、楠木正成をわが国の軍学・兵法の祖と尊び、それを軍学としてまとめられていた。武田信玄を重んじる一派もあったが、楠木正成のほうが格段に人気が高かった。
 楠木正成を重要視する流派には多種あるが楠不伝は「楠正辰伝楠流」と称されている。楠正辰とは楠不伝のことである。楠不伝の道場は門弟3000人と大繁盛していたとする説と貧乏軍学者であったとする説とがある。
 正雪と楠不伝の出会いは、講談ではバレバレの仇討ち話を創作して面白おかしくしてあるが、とにかく正雪は弟子となり、1633年、29歳の時には、楠不伝の後継者となる。
 楠不伝の後継者になるにあたって、正雪は楠不伝を殺害したとする逸話やら、知人が秘蔵している楠木正成の遺品を盗んだとする逸話がある。悪辣非道の謀反人を補強するキャンペーンの類であろう。
 逆に、楠木正成を祖として尊敬することは、尊王思想につながり、それゆえ正雪の謀反は、尊王倒幕であるから正義であるとする考えも幕末維新には登場した。明治維新の新政府の立場からすれば、尊王で反徳川ならば何でもあり、ということなのであろう。
 正雪の道場は、最初から大盛況であったとする説と、初期はみすぼらしかったとする説とがある。いずれにしても、事件の数年前には、門弟4000人を数え、江戸最大の道場に発展し、1万石の大名程度の生活が可能な収入を得ていた。
 なぜ、正雪の道場が成功したのか?
 看板が成功を導いたのかもしれない。
 楠不伝は「軍学」だけの指南であった。一方、正雪は玄関に「軍学兵法六芸十能医陰陽両道其外一切指南可為者成」の看板を掲げた。楠不伝が単科大学ならば正雪は総合大学である。しかし、内実が伴わなければ、「看板倒れ」となる。正雪は、謀反以前は「万人にすぐれた化物」、すなわち超一流の天才と信じられていた。
 また、髪型を総髪にしていたのも、カリスマ性を狙ってのことかも知れない。
 新井白石の手紙に正雪に触れたものがある。
 「どの門弟も正雪をシナの大兵法家である孫武や呉起の再来と尊敬していた。万人にすぐれた化物と噂されていた。秦の2世皇帝に謀反を起こした陳勝は6ヵ月で部下に殺されてしまった。諺に『なしえざるときは陳勝、なしうるときは漢の高祖』というが、正雪は陳勝と同じようなものであろう。もう昔の話なので、まじめに論ずる必要もない」
 門弟のみならず江戸の人々は正雪の講義内容にすこぶる感嘆を示していたらしい。そして、最大級の尊敬を集めていたらしい。いわば、私立総合大学の人気抜群の総長であった。むろん、謀反までのことではあるが……。  実は、道場経営には大スポンサーがいたとする説がある。
 将軍家光はホモで女性に無関心であった。将軍職の最大任務とは、お世継ぎを誕生させることであるから、これは正真正銘の天下の一大事である。大奥の独裁者(大奥総取締役)・春日局(1579〜1643)は、なんとか家光が女性に目覚めるよういろいろ工夫を試みた。春日局が具体的にナニをドウしたかは想像力の範疇であるが、努力の甲斐あって、家光はやっと女性に興味を示すようになった。それが、1626年、最初の側室になったお振の方である。お振の方は長女の千代姫を産んだ。千代姫は尾張徳川家に嫁いだ。
 春日局としては、女子出産であっても、お振の方の功績を最大級認めた。家光が女性に興味を感じてくれて、かつ男性能力が証明されたのだから、春日局にとって、その後はもう簡単。家光好みの女性を次々にあてがえば、ちゃんと男子誕生となった。家光好みの女性の解説は省略。
 お振の方は、その後禅宗に帰依して祖心尼と称し、竹橋の尼御殿と牛込榎町の済松寺に住んだ。この祖心尼が正雪のスポンサーだったとする説がある。
 その根拠としては、丸橋忠弥の町道場の地主は、単に地主というだけで連座して流罪となったが、正雪の道場の地主は処罰されていない。ということは、処罰できないほどの大物が地主であったと推理するしかない。地図の上からは、どうやら祖心尼の済松寺が地主らしいのだ。
 さらに……祖心尼は家光の最初の女としてのプライドもあったろうし、マザコン家光の性格からして、最初の女性は格別の感情を抱くものであろう。あるいは、興味本位の立場からすれば、ホモ将軍に女を目覚めさせたのだから、ただの美女、ただのテクニシャンであろうはずがない。極めて怪しい魔性の女性に違いない……なんて妄想は膨らむ。
 となると、春日局が亡くなった後は、自分が大奥の最高実力者になれると自負していても不思議はない。しかし、春日局亡き後、祖心尼は大奥主流から外れてしまっていた。そんなことから、「火遊び」をしたとする推理も成り立つ。
紀州頼宣が黒幕の本命
 大奥がらみの話は、さすがに秘密の花園だけに、ほとんど資料がない。道場のスポンサーおよび謀反黒幕説の本命としては、御三家の紀州頼宣がみなされている。
 徳川頼宣は家康の第10番目の子であり、家康存命中は駿府50万石であったが、16歳の時、紀州へ移封された。家康はゆくゆくは頼宣に駿河国100万石を与えようと思っていたから、家康死後の紀州への移封は完全に「左遷」であった。
 したがって、頼宣は2代将軍秀忠(頼宣の兄)と3代将軍家光(頼宣の甥)に対して、屈折した対抗心を持つことになる。しかも、頼宣の性格は「南竜公」と号したことからも明らかなように、豪傑タイプである。
 頼宣は、紀州に入国するや和歌山城を大改修して幕府の不信を買った。
 また、福島正則が取り潰しにあうと、福島家の豪傑を高禄で召し抱えるなど、豊臣系の浪人を相当数召し抱えた。幕府は大名の取り潰しで浪人を大量発生させながら、他方では浪人の取り締まりを強化していた。
 特に、大阪・豊臣系の戦犯浪人の探索は執念深く継続されていた。大阪方の大将である大野治房本人もどこかに潜伏していると信じられていたし、豊臣秀頼が九州に逃れたという噂さえあった。実際、大阪夏の陣(1615年)から34年も経った1649年(慶安2年)には、大野治房の養子や大阪方の豪傑・後藤又兵衛の子らが逮捕されている。
 そんな時代に、新規に浪人を多数召し抱えるのだから、幕府は頼宣を要注意人物と民定する。それゆえ、幕府の不信を解消するため、紀州家では、1640年に新規浪人召し抱えの停止宣言をしたり、1644年には召し抱えた武士数十人の召し放ち、すなわち解雇せざるを得なかった。
 頼宣は軍学者もさかんに招待して、大いに軍学・兵法に関心を寄せていた。頼宣も正雪も駿河に縁があるし、また当時の江戸のトップスター的軍学者である正雪は、当然、頼宣の目にとまって、なんらかの関係が発生するのは自然である。
 要するに、頼宣は「退屈な平穏・平和」よりも「生死をかけた合戦」が、武士の本領、武士の世界と信じているタイプなのである。島原の乱(1637〜38年)が勃発するや鎮圧軍総司令官に志願するし、また大陸の明が滅亡し明の遺臣が日本に援軍を要請すると、先頭をきって清討伐軍に志願したりしている。いずれも、幕府は承諾しなかったが、とにかく戦争大好き人間なのだ。
 そんなわけで幕府は、紀州太地湾の組織的捕鯨の訓練でさえ、捕鯨に名を借りた水軍の演習ではないか、と疑った。この地の組織的捕鯨は、熊野水軍からの転職組であったから、幕府が熊野水軍復活と疑ったのも理由のあることであった。
 こうした状況証拠だけでなく、誰もが注目するのは、正雪の遺書に紀州頼宣が登場するからである。
「紀州家の御名前を拝借しなくては、人を集められないので、紀州家の扶持を頂いていると申し上げた。実は、私はどこからも扶持を受けていません。決して嘘ではありません」
 つまり、謀反実行の人集めに、紀州頼宣の名前を無断で利用した、紀州頼宣と謀反は無関係と弁解しているのである。

 正雪の浪人募集の趣意書は、
「今般紀州公は政治大改革の大計があり、由井正雪はその依頼によって、諸国の浪人を秘密の内に徒党に引き入れるものである。紀州公が本望を達成した暁には、徒党の者は功によって、一国一城の主、あるいは過分な知行を与える。この儀固く口外してはならね」と書いてあり、頼宣の印が押してある。
 この趣意書によって動員できる浪人の数は1500人に達し、各自に交通費として1両ずつ渡したのであった。
 謀反失敗の後、幕閣は紀州頼宣の証人喚問を実施した。しかし、頼宣は豪快に笑い飛ばして、幕閣に事実無根を認めさせた。
全財産を献上したい

 間違いなく「世直し」の時代的雰囲気が強かった。
 「平穏・平和が善」とする今日でも、戦争好きな偉い人が多いのであるから、当時では、なおさらのことである。戦国時代の150年間だけでなく、源平の時代から約450年間の長期にわたって、日本列島は戦乱・合戦が相次ぐ武士の時代であった。「戦乱・合戦があることが普通・平常」であって、「平穏・平和は異常事態」あるいは「平穏・平和」とは「次なる戦乱・合戦の準備期間・休憩期間」に過ぎなかった。命をかけて合戦することこそ、勇であり善なのだ。それが、武士の時代であった。
 そして、優秀な武人には、常に大きく雇用の機会が開かれていた。ところが、平穏・平和の到来によって、幕府は大名・武士の大リストラを実施し、仕官の望みが絶望的な浪人が大量発生した。鎖国政策によって、海外への飛躍の道も閉ざされてしまった。
 関ヶ原の合戦(1600年)から由井正雪の乱(1651年)までの50年間に、どれだけの浪人が発生したのだろうか。一般的に20万〜40万人の数と言われている。しかし、平穏・平和の時代では、それこそ就職試験のチャンスすらない。
 大物浪人の塙団右衛門が神社で祈念したことは、天下泰平ではなく、悪事・災難の現場に遭遇させていただきたい、というものであった。悪事・災難の現場に遭遇しさえすれば、命を的にして手柄をたてて仕官の道も生まれる。
 1614〜15年の大阪の陣では、ドッと浪人が馳せ参じた。1637〜38年の島原の乱でも、ドッと浪人が馳せ参じた。島原の乱では、農民軍3万が幕府軍12万と1年余にわたって互角に渡り合った。切支丹という宗教的情熱も事実であるが、農民軍の指揮者である有馬氏・小西氏の浪人たちの決死的活躍が天下に伝達された。幕閣も正雪も、浪人が徒党を組めば、島原の乱のように幕府と対等に勝負できると信じた。幕府は、当然ながら、浪人の取り締まりを強化した。正雪の心は揺れ動いたに違いない。
 どうでもよいことだが、正雪は島原の乱と関係があったとか、正雪は切支丹だったとか、さらには、バテレンの妖術使いであるといったフィクションもある。
 さて、浪人の生活は惨めであった。
 浪人だけでなく、仕官している武士でさえ困窮する者が続出していた。江戸市中を騒がせた出来事があった。華やかな槍と鎧にもたれて餓死した武士がいた。飢えても、槍と鎧の整備だけは怠っていなかった。陣太鼓が打たれれば、いつでも馳せ参じれる用意がしてあったのだ。槍と鎧にもたれて、刃(やいば)と刃の戦場を血槍を持って駆け巡る我が雄姿を思い浮かべながら餓死していったのだろう。暗黙に「武士が活躍できる場がないのは、おかしい」と訴えていたのだろう。
 浪人も下級武士も、豪傑であればあるほど、つまり優秀な武士であればあるほど、不満が蓄積していった。「男の仕事場、勇者の仕事場、武士の仕事場……合戦がしたい」と念願したのだった。450年間、合戦での武功こそが、豪傑・勇者・武士の最高価値であった。
 それに反して、上級武士階級は、親・祖父が武功をあげただけで、その子や孫は豪華な風俗に身を投じて享楽にふけっている。高禄の旗本のボンボンは、町やっこ(侠客)と喧嘩をして、町やっこに名を成さしめている情けなさ。

 こんな世の中は、間違っている!
 断じて「世直し」をすべきだ!
 本物の豪傑・勇者・武士が戦場で活躍できる世こそが、正しい世の中なんだ。合戦がないから、武士の意地も廃れる、意気地のないボンボンが遊び呆けている……450年間に染み込んだ常識は、そう語るのだった。
 そんな時代の雰囲気の時、家光が亡くなった。そして7月9日、奇妙な事件が発生した。
 三河の刈谷2万石の城主・松平定政は徳川一族の大名である。その定政が自分の屋敷に6人の友人を招いた。
 「次期将軍、幼君家綱公に心力を尽くしてお仕えしようと思った。しかし、周りの老中どもは、世の中が乱れるようなことばかりしかしていない。このことを諫言しようと思う」そう語って、意見書を手渡した。
 そして翌日、突然出家して能登入道不白と称して、入道姿で江戸市中を托鉢して回り出した。
 意見書の内容は「武士の経済的困窮に対して、幕閣は救済政策を講じない。自分は2万石を全部献上したい。1人に5石ずつ分ければ4000人の武士が救われる」というものであった。定政は幕閣に武士困窮の積極的打開策を取らせるため、自分の領地返上という奇抜な行動に出たのであった。
 幕閣は、定政が狂ったと判断して、約1週間で事件を穏便に処理した。だが、定政の全財産を投げ出しての行動は、あっという間に江戸の町に広がり、定政への共感、「世直し」への共感となった。
 意見書に「金銀もあるにまかせてつかふべし。つかわれぬ時は謀反逆臣」とある。
 それから、由井正雪の謀反が発覚する。偶然の一致なのか、定政と正雪の間に連携プレーがあったのか、それはわからない。
 しかし、徳川一族である大名ですら、領地を返上してまでも「世直し」を思いつめていた。いわんや、江戸の市中、とりわけ浪人と下級武士は、なお一層「世直し」を熱望していたことであろう。正雪の道場が門弟4000人と大繁盛していたことは、正雪の普段の言動に、浪人や下級武士を引き付ける「世直し」をほのめかす何かがあったに違いない。
三都同時蜂起の計画
 「合戦=世直し」なのか、「救済=世直し」の違いはあるが、紀州頼宣も松平定政も、浪人・下級武士も、江戸庶民も「世直し」を望んでいた。
 おそらく正雪は、いくつかの大名屋敷へ出入りしていたと思われる。そして、大名屋敷の空気を敏感に感じ取っていたことであろう。
 岡山の池田光正も、「世直し」組であった。池田公の儒者・熊沢蕃山が正雪に謀反の人相ありと見て取り、出入り禁止にさせたとする逸話がある。おそらく、謀反以前は頻繁に出入りしていたのを、謀反後に、正雪との交流を打ち消すために創作された話だろう。謀反失敗後、岡山の池田領内に正雪一味の幹部が潜んでいたことからも、正雪側は池田公を味方と思っていたからなのであろう。
 池田公と熊沢蕃山は、情熱的な「世直し」組には違いない。しかし、2人がなした「世直し」は、治山治水、産業振興の方向で、「合戦=世直し」ではなかった。後世から眺めれば、2人が取り組んだ方向こそが時代の流れなのだが、当時の常識はまったく異なっていた。武士とは合戦をするものである。断じて、土木作業員でも、特定物産の管理人、算盤使い、儒学の教師では絶対にない。あくまでも、当時の常識は、合戦場でこそ武士は輝くのであり、「世直し」とは、「合戦のある世にする」ことであった。

 上も下も「世直し」で沸騰していた。
 松平定政のパフォーマンスは、それを決定づけたと言えよう。正雪と定政が連携していたならば、まさに絶妙の世論操作と言えよう。
 紀州頼宣と正雪は暗黙の同盟があっただろう。おそらく、祖心尼を通じて尾張徳川家にもパイプがつながっていたであろう。いざ事が突入すれば、御三家の2家を味方にできると踏んでいたのではないか……。
 謀反の具体的計画は、こうだ。7月29日に江戸で塩硝蔵に火をかけ、江戸を火の海にする。江戸を大混乱に陥れ、可能な限り幕閣幹部に攻撃を加えたならば、江戸組は正雪の駿府へ合流する。江戸の浪人1500人には、すでに路銀1両を渡してある。浪人は合戦を熱望しているから、路銀を渡した1500人だけでなく雲霞のごとく結集するはずだ。
 7月29日、正雪は駿河の久能山を占拠する。そこには家康が蓄えた200万両の軍資金がある。事実は、すでに家光が使い果たして空っぽなのだが、あると信じられていた。現代でも黄金埋蔵金の話題では登場するくらいだから、当時は間違いなくあると信じられていた。正雪の情報網の拙劣を嘲る見解もあるが、それは黄金の魔力を知らないのだろう。久能山に200万両あると思えば、浪人たちはなお一層がむしゃらに力を発揮するものだ。正雪が200万両がないと知っていても、「ある」と断言したほうが、戦術的に正しいのである。
 そして、久能山を根拠に合流した浪人で駿府城を攻略する。京・大阪の幹部は、江戸の事変の噂が届いたら、すぐさま大騒動を起こす。
 正雪は駿府城から東西に命令を下す。
 三都同時蜂起の策である。
 これによって、再び、戦乱・合戦の世の中になる。天下争奪の武士の世、本物の豪傑・勇者・武士が活躍できる正常な世の中になる、と信じた。
 しかし、蜂起寸前に謀反発覚となり、電光石火、鎮圧され、多数の浪人は出番を失ってしまった。
 時代は「武」から「文」へ、確実に移行していたのだ。人間の頭だけが、旧態依然だったのだ。