戦国時代の女性

ねね 

 太閤秀吉の正室・ねね=北政所(高台院)は応仁の乱を機に、それまでの階級制が崩れ、台頭してきた才覚・実力のある士民階級出の代表的な戦国女性の一人である。幼名には諸説あるが一般的には「ねね」と呼ばれている。ねねは秀吉の正室であるが、子には恵まれず、後に小早川家を継いだ小早川秀秋は養子である。
 豊臣秀吉の死後、天下が東軍・西軍に二分して対立した際、京都・高台寺に隠居したねねの関ケ原の工作が奏功していれば豊臣家は小大名として名を残したはずである。
  ねねは関ヶ原の戦いで、豊臣秀頼を総大将とする西軍ではなく、時流は東軍の家康にあると判断を下した。そこで秀吉子飼いの家来で、かつてねねが母親のように面倒をみた加藤清正や福島正則らとともに徳川方についた。これも小大名になっても豊臣の名を残すことが亡き秀吉のためになると考えたからである。しかし故太閤の遺児と側室である淀殿は愚かにも誇りや意地にこだわりねねの思いを無にしたのである。
 大坂の陣が始まった時、ねねは秀頼・淀君を説得するため大坂城に行こうとしたが、政治的な混乱を招くと考えた徳川家康はこれを止めている。

 家康は関ケ原以後、豊臣家攻略に時間をかけているが、これは天下の人心を考え、このねねの存在に十分配慮したためである。そのためむごい仕儀を差し控え一気に決着をつけなかった。
 ねねの官位は従一位で、生没年は1542~1624年とされている。父親は不明で出生地もよく分からない。叔母の嫁ぎ先である尾張国海東郡津島(津島市)の、織田信長のお弓頭・浅野長勝の養女だったが14歳のとき木下藤吉郎(秀吉)に請われて結婚した。当時は政略結婚が普通だったが、この結婚は珍しく恋愛結婚である。
 ねねの性格はおおらかで、識見高く、秀吉が関白になってからも大名の処分や国、郡統廃令などについて意見を求められた。秀吉には多くの愛妾がいたが、妾たちには公正な態度で臨み、嫉妬や自分の好悪の感情で傷つけることはなかった。
 1585年に秀吉が関白に任官したことに伴い、従三位に叙せられ北政所と称した。1588年には後陽成天皇が聚楽第に行幸、その還御の際に従一位に叙せられた。1598年に秀吉が没すると落飾し、高台院湖月尼と称した。1599年に大坂城西の丸を退去し、京都三本木の屋敷に隠棲し、秀吉の冥福を祈るために家康に諮り、京都東山に高台寺を建立し終焉の地と定めた。1615年に大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡した後も江戸幕府の保護を受けた。

 

五郎八姫(いろはひめ)

 1594年、五郎八姫(いろはひめ)は京都の聚楽第の屋敷にて伊達政宗と正室・愛姫とのあいだに生まれた。非常に美しく聡明な姫であった。結婚15年目にして授かった子だったので、伊達政宗は五郎八姫が男子として生まれなかったことを惜しんだ。五郎八姫の名前は政宗は男子が生まれた場合のことのみを考えていたためである。
 あるいは姫に男子の名前をつけると次に生れてくる子が男子になるという説を信じたためにつけられた。五郎八姫は12歳のときに、伊達家が徳川家との結びつきを強くするために政略結婚で徳川家康の6男の松平忠輝に嫁いだ。堺の豪商である今井宗薫が結婚の仲介役を務めている。
  忠輝と五郎八姫は政略結婚であったが夫婦仲は良かった。しかし子供は生まれなかった。忠輝は越後国高田を加増され越後福島城主七十五万石の太守になるまでは順調に出世した。
 大久保長安事件で、家老の大久保長安が忠輝の舅である政宗をそそのかし、将軍・徳川秀忠を失脚させて忠輝を将軍職につけようと画策したことが判明し大久保長安の遺族は処刑された。政宗の関与が噂され謀反の噂まで流れたが政宗は無罪になった。
 大坂の陣から忠輝の人生が狂いはじめる。大阪夏の陣での出陣途中で秀忠の家臣に追い越されたとして家臣二人を無礼討ちにした。さらに大和から大坂を攻める総大将に任ぜられたが遅刻して武功を挙げることができず家康の怒りをかった。この失態から家康より改易を命じられ、五郎八姫は忠輝と強制的に離縁させられた。
 五郎八姫は23歳という若さで伊達家へ戻され、政宗は五郎八姫に再婚の話を持ちかけたが五郎八姫は再婚を禁止するキリスト教の信者だったため、その教義を忠実に守った。
 五郎八姫は仙台に移り住んだが、京都で生まれ育だったため言葉や風習も京風だった。そのため東北弁にも東北の暮らしにもなじめず苦労した。
 実弟である二代目藩主の伊達忠宗とは仲が良く、お互いを頼りにしていた。五郎八姫は再婚することもなく仏門へ入り、政宗は娘の信仰生活を全面的に支援した。1661年に68歳で死去した。松島町富山の大仰寺には出家時の五郎八姫の遺髪、仏舎利があり門外不出の寺宝となっている。

寿桂尼(じゅけいに)

 今川寿桂尼は今川義元を育てた女戦国大名である。今川寿桂尼は公家の中御門宣胤の娘で今川氏親の正室である。晩年の今川氏親は病気で動けず、分国法「今川仮名目録」は寿桂尼の補佐によって作成された。

 夫の死後はまだ幼い嫡男・今川氏輝に代わって政治的手腕を発揮し、氏輝の急死にともなって起きた家督争い「花倉の乱」では、自身の子である今川義元を勝利に導いた。

 義元が桶狭間の戦いで敗死すると、家督を継いだ氏真を補佐するが、臣下の相次ぐ離反によって家勢は衰退してゆく。寿桂尼がこの世を去った翌年に今川氏が滅んだことから、寿桂尼の影響力の大きさがわかる。 今川寿桂尼は今川氏の七代目・今川氏親の妻だった。夫氏親が1526年に病没すると、髪をおろし出家してからの名前である。それ以前の名前は分からない。
 今川氏は足利氏からの分かれた吉良氏から今川氏へ出ている。初代・今川範国が南北朝内乱の時代に足利尊氏にしたがって各地で戦功を上げている。その過程で兄弟5人は出家していた1人を除き、全員討ち死にしているため兄たちの恩賞も全部含まれて駿河・遠江二カ国の守護に任命され引付頭人といった幕府の要職にも就いた。その後、遠江の方は三管領の一家の斯波氏にとって代わられたが、以来十代目の今川氏真が武田信玄、徳川家康に攻められて滅びるまで、およそ230年余にわたって東海地域に覇を唱えた名門中の名門である。
 寿桂尼は京都の公家・中御門宣胤の娘で、中御門氏は甘露寺氏や万里小路氏などと同様、藤原北家勧修寺派の一つである。鎌倉時代の後期に坊城家より分かれたが、寿桂尼の父中御門宣胤は権大納言で、権大納言のお姫様が地方の戦国大名に嫁いだのである。
  京都の公家は応仁の乱後、生活が困窮して経済援助が期待できるなら、どんな家にでも嫁がせるというわけではない。落ちぶれたとはいえ京都の公家はそれなりの家格はみていた。

 今川氏は代々京都志向が強く、今川了俊・今川範政など文化面で業績を残した人物を輩出しており、教養高い文化人大名として知られていた。中御門宣胤が娘を氏親に嫁がせたのはこの点を踏まえたうえでのことだった。
 寿桂尼が氏親と結婚した時期は分からないが、1513年に長男の氏輝を産み、1519年には五男の義元を産んでいる。氏親には6人の男子、4人の女子がいたが、そのうち何人が寿桂尼の子で何人かが側室の子かは分からない。五男義元が生まれて少しして氏親が中風になってしまった。氏親51歳、寿桂尼の30代前半のことである。これは結果的に寿桂尼にプラスになった。病床に就いた夫を手助けしながら、実地に「政治見習」をすることができたからである。

 戦国大名今川氏といえば分国法、すなわち戦国家法の「今川仮名目録」が有名である。夫氏親の死が近いことを悟った寿桂尼が中心になってこの策定作業をしたとされている。この「今川仮名目録」が制定された1526年4月14日から、わずか2カ月後の6月23日、氏親は死去している。氏親の死後、形の上では氏輝が継いだが、それから少なくても2年間は実質的に今川家の当主は寿桂尼だった。
  氏輝に政治を任せられるようになったと思った矢先、その氏輝が24歳の若さで死去してしまった。氏輝は結婚しておらず、子供もいなかった。そのため夫と一所懸命築き上げた今川家を、寿桂尼は自分の産んだ子に後を継がせるべく差配する。義元より年上の玄広恵探を推すグループとの家督争いでこれを退けると、義元を第九代当主の座に就けた。京都の公家のお姫様だった寿桂尼がさながら「女戦国大名」として見事に力を発揮した。

 

 まつ 
 まつ(後の芳春院)は加賀百万石の祖・前田利家の妻で、「ねね」と同様に士民階級出の女性で、現実にねねとまつは幼い頃、隣同士だった。それぞれが士民階級出の秀吉、利家に嫁ぎ、亭主たちの死後に起着た天下分け目の関ヶ原で、秀頼を捨てて家康側についた。歴史を変えた関ケ原の戦いで、東西どちらにつくかを、かつて味噌や醤油を貸し借りあった無二の親友は、相談して決めた。
 まつの生没年1547~1617で尾張(愛知県)に生まれ、父親は不明である。幼い頃、親類の荒子城主・前田利昌の養女となり、数え12歳で兄妹のように育った利家(城主の4男)と結婚、前田家の繁栄を支えた。利家との間に二男九女をもうけ、戦国時代の女性は比較的多産だが、それでも11人の実子がいるまつは稀である。1599年、利家の没後に芳春院と号した。
  まつは腹の座った女性で、秀吉、そして夫・利家の死後、1600年家康が前田家を滅ぼして天下制覇の足がかりにしようとしているのを知り、自ら人質となって江戸へ行き、14年間江戸城で過ごし前田家の危機を救っている。
 このとき前田家を継いでいた長子、利長に、家康から挑発的な難題がふりかかっても「何事もお家第一、そのためには迷わず母を捨てなさい」と言い置いて江戸へ向かった。またまつの人質の見返りとして家康は二代将軍秀忠の次女おたまを前田家に出し、これで徳川家と前田家は同盟を結ぶすことになる。
 まつは加賀百万石を築く礎として力を発揮した。彼女が結婚したときの利家はせいぜい二千石である。利家自身そんな大きな身代になる能力があったとは思えない。運のよさと、秀吉から頼まれたことをきっちりやる律儀さ、実直さで身代を大きくしたと思われる。
 それだけに人間的なスケールは利家よりまつの方が大きい。秀吉に加賀をもらって城主になると、隣の富山の佐々成政と戦いになった。大名に成りたての利家はケチでカネを出し惜しんだためなかなか人が集まらない。見かねたまつが蔵から金銀の袋を持ち出して、利家の前に袋を投げ出した。これに奮起した利家が佐々成政を破っている。
 まつが賢夫人と評されるのが賤ヶ嶽の合戦の柴田勝家と羽柴秀吉への対応だ。秀吉が勝家を破ったこの合戦は夫・利家にとってはつらい闘いだった。秀吉は刎頚(ふんけい)の友であり、勝家は敬愛する先輩で、戦国の常として双方に娘を人質として差し出してあった。利家は勝家に加担すべく近江まで出兵して布陣するが、戦意なく潮時をみて軍を引き揚げる。昇竜の勢いの秀吉に全面敵対する決断がつかなかったのだ。
 越前府中の城に入った利家のもとに立ち寄った勝家は、利家の心中を察し湯漬けをふるまい、進呈された替え馬で北の庄(福井)へ落ちていく。その後へ秀吉軍が現われ、秀吉は城門を開けさせると入ってきてまず台所のまつを訪ねる。聡明なまつはすかさず長子、利長に「筑前殿(秀吉)の先手を受け持たせていただくように」というと、秀吉は「亭主殿(利家)はあとからゆるゆると来られよ。とりあえずせがれどのを借りる」と応じ、まつ手作りの湯漬けをかき込むと慌しく北の庄へ向かって進撃して行った。まつは刎頚の友でありながら、一時的とはいえ敵対した夫・利家と秀吉のきまずさをさりげなく救ったのである。

 

義姫(よしひめ)

 伊達政宗の母で号は保春院である。最上義光の妹であり、激しい気性と恵まれた体格から2度も戦場へ参じ鬼姫として知られている。夫・伊達輝宗が非業の死を遂げると、伊達政宗が家督を継ぐが、義姫は政宗の母として伊達氏の家中で影響力を強めた。伊達氏と最上氏が争った大崎合戦では、兄・最上義光と子・伊達政宗の陣のあいだに輿で乗りつけて合戦を止めさせている。

 小田原征伐で豊臣秀吉のもとへ参陣する伊達政宗を毒殺しようとしたため、溺愛する次男の小次郎を伊達政宗に殺害され、山形の兄のもとへ出奔したとされている。

 

妙印尼(みょういんに) [1514~1594]

 金山城(群馬県太田市)の城主・由良国繁の母で、俗名は輝子である。北条氏の侵攻を受けた際、茶会を口実に由良国繁たちが小田原城に捕らえられた。71歳の妙印尼は当主不在とのなか城主として籠城戦を指揮し北条軍を撃破して和睦にまでこぎつけている。 

 77歳の時の小田原征伐では由良国繁が北条方の小田原城に籠城するが、妙印尼は息子を敵に回す決断をして豊臣方に参陣した。前田利家の軍に加勢した妙印尼の軍功のおかげで、戦後に由良国繁は牛久(茨城県牛久市)への国替えだけで罪を許された。