戦国時代の女性

五郎八姫(いろはひめ)

 五郎八姫(いろはひめ)は、京都の聚楽第屋敷にて、1594年に伊達政宗と正室・愛姫とのあいだに生まれた。非常に美しく聡明な姫であった。結婚十五年目にしてやっと授かった子だったので、伊達政宗は五郎八姫が男子として生まれなかったことを惜しんだそうである。五郎八(いろは)という姫の名前は、政宗は男子が生まれた場合のことのみを考えていたため、五郎八という名前になった。
または、姫に男子の名前をつけると次に生れてくる子が男子になるという説を信じたため、つけた名だといわれています。五郎八姫は十二歳のときに、伊達家が、徳川家との結びつきを強くするためと、諸大名との結びつきを強くしたいとの徳川家康の思惑による政略結婚で徳川家康の6男の松平忠輝に嫁いだ。堺の豪商である今井宗薫が結婚の仲介役を務めています。
政略結婚でしたが忠輝と五郎八姫の夫婦仲は良かったが。子供は生まれなかった。
忠輝は越後国高田を加増され越後福島城主七十五万石の太守になるまでは、順調に出世していました。
 大久保長安事件で、家老の大久保長安が忠輝の舅である政宗をそそのかし、将軍・徳川秀忠を失脚させて忠輝を将軍職につけようと画策したことが判明し、長安の遺族は処刑された。政宗の関与が噂され、徳川家に対する謀反の噂まで流れたが政宗は無罪になった。
 大坂の陣から、忠輝の人生が狂いはじめる。大阪夏の陣での出陣途中で秀忠の家臣に追い越されたとして家臣二人を無礼討ちにした。さらに、大和から大坂を攻める総大将に任ぜられたが遅刻して武功を挙げることができず、家康の怒りをかった。この失態から家康より改易を命じられ、五郎八姫は忠輝と強制的に離縁させられた。
 五郎八姫は二十三歳という若さで伊達家へ戻され、政宗は五郎八姫に再婚の話を持ちかけたが、五郎八姫は再婚をしないキリスト教の信者であり、離婚を是としない教義に忠実に従った。
 五郎八姫は仙台に移り住みましたが、京都で生まれ育だったため言葉や風習も京風だった。そのため東北弁にも東北の暮らしにもなじめず苦労した。
 実弟である二代目藩主の伊達忠宗とは非常に仲が良く、お互いを頼りにしていました。かくして、五郎八姫は再婚することもなく仏門へ入りました。政宗は娘の信仰生活を全面的に支援した。1661年に六十八歳で死去しました。松島町富山の大仰寺には、出家時の五郎八姫の遺髪、仏舎利があり門外不出の寺宝となっている。