伊達政宗

 1567年8月3日、伊達政宗は米沢城(山形県)で誕生した。幼名は梵天丸である。父は伊達輝宗で、母は山形城主・最上義守の娘・義姫19歳で、義姫が伊達家に嫁ぐ前は伊達家と最上家は対立していた。
 伊達政宗が誕生したのは、織田信長が稲葉山城を攻略して美濃を支配した年で、また毛利元就・北条氏康・武田信玄・上杉謙信などの武将が活躍した戦国時代の真っ盛りの頃でもあった。また同年には真田幸村が誕生している。

 伊達氏の代17代当主となる伊達政宗は天下を狙える武将であったが、成人した頃には天下は豊臣秀吉の手によって整いつつあった。正宗が元服したのは1577年のことだが、この時点ですでに武田信玄はこの世を去っている。正宗は元服後正室である愛姫を娶ったが、あまりの可愛らしさから「めごひめ」と呼ばれた。愛姫の実家は現在の福島県三春の大名・田村家で征夷大将軍・坂上田村麻呂の子孫といわれている家柄であった。

 1579年には織田信長の天下統一は大詰めを迎えていた。つまり伊達政宗は天下を狙う実力を持ちながらも天下統一の競争に参加できず、もし伊達政宗が10年早く生まれていれば、隣国の上杉氏・北条氏は常に脅かされ日本の歴史は大きく変わっていた可能性がある。

 しかし現実は非情で、伊達政宗は豊臣政権下でようやく天下統一に参加できるようになる。そのため関が原の戦い以降は天下人にもっとも近かった徳川家康を討つ計画を何度も実行しようとしたが、正宗は徳川打倒を実行できないまま、徳川からは外様大名としては異例の信頼を受けながらご意見番として徳川幕府に仕えた。

 伊達政宗の乳母は片倉景重の娘・喜多であった。喜多は30歳くらいの独身で、政宗の養育係でありながら文武兵書を好んで講じていた。

 伊達政宗が5歳の頃に、疱瘡(天然痘)を患い、右目を失明して以来、隻眼となったため伊達政宗は後世「独眼竜」と呼ばれた。

 伊達政宗の誕生の翌年には弟の小次郎が誕生し、母の義姫は隻眼で醜い伊達政宗よりも弟の小次郎を愛して、伊達家内では伊達政宗派と小次郎派による家督争いが噂された。

 

虎哉禅師

 伊達政宗6歳の頃、父・伊達輝宗は美濃から虎哉禅師を招いて伊達政宗の教育係に付けた。虎哉宗乙和尚は「心頭滅却すれば火もまた自ずから涼し」の辞世で有名な甲斐恵林寺の快川紹喜(かいせんじょうき)和尚の弟子で、虎哉宗乙と伊達政宗は終生、師弟の関係となった。

 虎哉宗乙は「お前は親父殿に似て素直すぎるから、乱世の覇者になるためにはもっと強情に、もっとへそ曲がりになれ」「暑いときは寒いといい、苦しい時には笑うように」「人前で横臥するな」などと論した。また「目に見える事だけが本当の姿ではない、目に見えぬ事によって本当の姿が変わる事もある」つまり、騙されたくなかったらすべてを疑えといった教え込まれた。
 同年、遠藤基信の推挙によって19歳の片倉小十郎(片倉景綱)が伊達政宗の傅役に付いた。この片倉小十郎は幼い頃から伊達輝宗の徒小姓として仕え、母代りに伊達輝宗を養育した。伊達政宗より10歳年上の片倉小十郎は、ご学友あるいは遊び友達となった。これらのように父・伊達輝宗は伊達政宗を後継者として高等な教育を行わせた。政宗には詩歌や書、能、茶道など多くの才能があり、文化・教養人としても知られ、常に文芸の場をもうけて文人を招いた。

 なお片倉家は武士の出ではない。景綱は米沢(山形県)の神社の神官のの家に生まれたのである。片倉家はもともとは信州(長野県)の出身だった。政宗の父輝宗が小十郎(片倉景綱)を見出したのである。

 

政宗と片倉小十郎の覚悟
 伊達政宗は5歳の時に天然痘という病を患い、その病毒のせいで顔が崩れ、右目の眼球が飛び出る異様な風貌になった。天然痘は死亡率が高く悪魔の病気と呼ばれていたが、病気は命は奇跡的にとりとめたが右目は飛び出たままで、政宗は自分の容姿を激しく嫌い失明した目を隠していた。

 伊達政宗は子供のころは「はにかみ屋」だった。それは生まれつきの性格だったのか、独眼だったのを気にしてなのかはわからないが、両方が微妙にからみあっていたのだろう。このはにかみ性というのは戦国時代では武田信玄が同じだった。信玄は肉体的な支障からの性格はなく、子供ながらにやや自己演出して芝居をしていたようであるが、伊達政宗の場合は本物だった。
 そのために長男でありながら、伊達政宗を生んだ母親(最上義光の妹)がひどく政宗を嫌った。嫌っただけでなく夫の伊達輝宗に「政宗は、伊達家の相続人としては、はにかみ性で気が弱すぎる。政宗より弟のほうが相続人としてふさわしい」といった。

 政宗の父・輝宗は好人物ではあったが好人物すぎて多少決断力の鈍い点があったからである。これは決断力が強すぎて、逆に部下の反感を買っていた武田信玄の父信虎とは対照的である。

 しかし食うか食われるかの戦国時代で、戦国大名というのはすぐれた経営者でなければならない。つまり事業を展開する以上に、部下たちの生活を保証しなければならない。このころの大名はすべて部下を食わせるために生きていたといえる。はにかみ性は、そういう経営能力をそぐ。人のことばかりおもんぱかっていたのでは、自分の利益を確保できない。下の者から見れば、非常に不安になる。
「こんな奴が大きくなって相続人になったら、果たしてわれわれの生活を保証できるのだろうか?」という疑問が湧く。つまり家そのものもつぶれてしまうのではないかと心配するのだ。伊達政宗の少年時代は、そういう不安を持たせるのに十分だった。
そんな中で、たったひとりだけ政宗を支持している男がいた。それが片倉小十郎景綱だ。

 伊達政宗は片目になった自分の顔をたいへん醜いと思っていた。ついに「この右目を突き潰せ」と家臣に命じた。しかし家臣達は跡継ぎにもしもの事があればと実行できなかった。ここで名乗りを上げたのが片倉小十郎であった。小十郎はもしもの事があれば切腹を覚悟して小刀で政宗の右目をえぐり取った。政宗が悲鳴を上げると「将たる者、これしきで騒ぐな」と叱ったとされている。

 右目を潰せという方も凄いが、それを実行する方もかなり凄いことである。すさまじい信頼関係が生まれ、二人の間には切っても切れない主従関係が生まれた。


伊達政宗の相続

 片倉小十郎は武勇で名を残したが知略に長けた武将で、伊達政宗の軍師・参謀役として活躍した。

 1577年11月15日、伊達政宗は11歳で元服すると伊達藤次郎政宗と名乗った。15歳で元服する時代だったが11歳で元服のは異例な若さであった。これは弟の承継問題を抑えるため、父・伊達輝宗が家督を伊達政宗に譲る意思を示すため早めに元服させたとされている。

 父・伊達輝宗は伊達政宗の将器を評価していた。伊達家は代々、足利将軍からの一字を拝領して元服するが、当時は織田信長によって足利義昭が追放されていた為、一字拝領を求めなかった。

 1578年、上杉謙信が没して御館の乱が勃発すると上山城主・上山満兼が伊達輝宗と連合して最上義光を攻める事態となり最上義光は圧倒的不利に陥った。その際、伊達正宗の母・義姫は、兄・最上義光の危険を察し、鉄砲が飛び交う戦のさなか陣中に駕籠を飛ばして伊達輝宗の元へ行き「何故このように情けない兄弟喧嘩をなさるのか」と訴えて、伊達勢を撤兵させるように和議を結ばせている(柏木山の戦い)。

 母・義姫は気丈で男勝りで頭がよく、政治にも積極的に関わる利発で行動的な女性だった。義姫と兄・最上義光は仲が良く、伊達家に嫁いだ後も取り交わした手紙が多数現存している。

 1579年、伊達政宗13歳の時、三春城主・田村清顕の娘である愛姫(めごひめ12歳)を正室に迎えている。田村氏は坂上田村麻呂の子孫で、現在の三春町周辺を支配していた。小勢ながら代々政略・軍略に優れた領主が多く、大国の脅威に対しては各大名と結んでは離れを繰り返し着実に勢力拡大を続け、ついに戦国大名に至った屈強な勢力だった。愛姫の父・田村清顕には愛姫以外に子供がいなかったが、佐竹氏や蘆名氏に対抗するため、一人娘の愛姫を伊達政宗に嫁がせ、伊達の支援を得ることで独立を保持した。
  この頃、伊達輝宗は相馬盛胤・相馬義胤(小高城主)父子の戦上手さに苦戦していたが、愛姫の母が相馬顕胤の娘であったことから、愛姫を嫡男・伊達政宗の正室に迎えるのは好都合であった。


伊達輝宗の死と、周辺勢力への攻勢

 1581年4月、隣接する戦国大名・相馬氏との合戦で、伊達政宗(15歳)は父・伊達輝宗にしたがい初陣を飾った。1582年、織田信長が本能寺で明智光秀に討たれたのと年、父・伊達輝宗は小斎城主・佐藤為信の調略に成功し、翌年には要害・丸森城の奪還に成功し、1584年1月には金山城も攻略し、田村清顕の仲介で伊達家と相馬家との和議が成立した。

 1584年10月6日、蘆名盛隆が男色関係のもつれから家臣・大庭三左衛門に、黒川城内で殺害されると、生後わずか1ヶ月で当主となった蘆名盛隆の子・亀王丸が家督を継いだ。亀王丸の母・彦姫が伊達輝宗の妹だった事もあり、伊達輝宗が亀王丸の後見に付いて蘆名家をまとめる事になった。これを期に伊達政宗が伊達家の家督を譲り受け、隠居した伊達輝宗は修築した舘山城に移った。

 伊達輝宗は越後介入に専念するつもりだったが、家督を継いだ伊達政宗は奥州統一のため上杉景勝と講和して伊達・蘆名・最上と戦うことになる。家督相続した伊達政宗は、田村氏から独立した小浜城主・大内定綱に伊達家への臣従を迫った。しかし大内定綱は臣従を拒み蘆名家を頼って反旗を翻した。
  また最上義光も伊達政宗を警戒した為、義姫の伊達家内での立場も悪化し、伊達政宗の急激な戦略方針の転換により、伊達輝宗が築いた伊達・蘆名・最上の良好な関係は崩れた。

 

照姫

 伊達政宗の兄弟には小次郎のほかに二人の妹・照姫と月姫がいた。春になった頃、大内定綱は妻子を連れてくるという口実の元に小浜に帰った。しかしその後、伊達政宗(藤次郎)に何も連絡をよこさず、定綱は二本松城の畠山義継と共謀して政宗に反旗を翻し、その裏に蘆名家の支援があることは明白だった。

 政宗は定綱を討つことに決めていた。そこに具足をつけている小十郎が入ってきて、いつでも出陣できるといった様子だった。
 戦は明日に立つ、今日は十分に兵を休ませよと言うと、小十郎は足早に政宗の部屋を後にした。この戦は政宗が伊達家の当主になってから初めての戦である。伊達家にとって負けられない一戦だった。
 その政宗の部屋に近づいてくる足音があった。障子が開けるとそ神妙な顔つきをした照姫がいた。「お兄様、このたびの戦、私も連れて行ってください」。
 初陣のときもそうだが、あの後も何かと照姫は戦についていきたがった。そのたびに周りのものが必死に止め何とか照姫を思いとどまらせていたのだ。政宗はまたかといった顔つきになった。「照、それは無理だ。おぬしは女子だ。戦に連れて行くことはできん」
 照姫は不敵に微笑み、政宗はその照姫の笑みを懐疑的に眺めていた。翌日、謁見の間に重臣たちが集まった。
しかし当の伊達政宗がなかなか現れなかったが、政宗は鎧を身にまとい大将といった風貌で重臣たちの前に立った。「少々準備に手間取ったのだ」
 小十郎と成実は顔を見合わせて首を傾げる。政宗はすでに相馬との戦いで何度も出陣している。政宗が鎧を着けるのに手間取るとも思えなかった。「準備とは、皆にそれがしの弟を紹介しようと思ってな。弟には今回の大内討伐にも参加してもらうことになった」
「小十郎、藤次郎には弟がおったのか」「い、いや。そんな話は聞いていないが」小十郎と成実を中心に重臣たちは動揺する。そこに背は低いが立派な鎧と兜を着た一人の武者が廊下からやってきた。皆の視線が政宗からその武者に移る。顔は兜を深くかぶっているためによく見えない。それがその武者を神秘的な風貌に見せていた。その武者はドシドシと部屋の中に入ってくる。そして政宗の隣に悠然と立った。皆の注意がその武者に集中する。「名は伊達小次郎政道。小次郎、挨拶せい」どこかで聞いたことがある声だ。小十郎は疑問に思いながらも次の言葉を待った。小次郎の兜が外される。そこからは整った顔の可愛らしい女性の顔が出てきた。「私が、伊達小次郎政道。私がいれば大内定綱なんて敵じゃない。皆のもの、私とお兄様についてきなさい」「照姫様」そこにいたのは鎧兜を着た照姫だった。その姿に小十郎だけでなく重臣たち全員が驚いた。「照姫ではない。小次郎政道である」「いえいえいえ、さすがに騙されませんよ。藤次郎様、これはどういうことですか」
 小十郎の追及は政宗に向けられた。政宗が照姫を自分の弟と偽って連れてきたのだ。政宗に訊くのが筋というものだろう。
「照がどうしても戦に参加したいと言ってきたのでな。照を弟として扱うことにした。これならば戦に連れて行っても問題あるまい」「大問題です!」小十郎は眉を吊り上げて政宗と照姫に詰め寄った。この場に父親である輝宗がいない以上、諌めるのは小十郎の役目だ。「藤次郎様は照姫様の兄ですぞ、なぜ止めませぬ。照姫様が戦場で亡くなってもよろしいのか」「まあ、良いではないか。照はそこらの男どもよりも役にたつぞ。それに照はそれがしの側を離れないようにすれば安全だろう。それとも、それがしが危なくなるほどそなたたちは軟弱か、そうではありませんが」
 ここまで政宗が照姫に肩入れしてしまっては小十郎も言うことがなかった。眉をひそめて政宗をじっと睨むしかない。そこに成実が小十郎の肩を笑いながら叩いてくる。
「わははは、良いではないか、小十郎。ここまでしてついてきたいといっているのだ。連れて行けばよかろう」
「成実、無責任なことは言うな。誰が照姫様の面倒を見ると思っているのだ」
「お前しかいないだろう」
 だから嫌なのだ、といわんばかりに小十郎の顔が歪む。基本的に政宗や照姫のお守りは小十郎の仕事だった。「私は小十郎の世話にはなりません。私のことは私で何とかします」「それが危ないのです!」小十郎は深いため息をつく。この調子では戦場に行っても苦労させられそうである。
「大丈夫だ、小十郎。責任はそれがしが持つ。この戦いは大内討伐とともに小次郎政道の初陣だ。皆のもの、士気をあげろ」その場にいた重臣たちは政宗の勢いに押されておお~、と声をあげた。その声には政宗と照姫の好奇な期待が混ざっていた。ただ一人、小十郎の沈痛な声を除いて。その頃、月姫は政宗の正室・愛姫のもとを訪れていた。朝から照姫の姿が見えず、愛姫のもとに遊びに行っているのではないかと思ってのことだった。「愛姫様、月でございます」「あら、月姫殿ですか。お入りください」月姫はすっと愛姫の部屋の障子を開けて中に入る。部屋の中は余分なものは飾っておらず、簡素ながらも気品が感じられる様相となっていた。「愛姫様、お姉さまを見ませんでしたか? 朝から姿が見えないのですが」「照姫殿ですか? そういえば、今朝方、夫と一緒にいましたけれども、あれは夫の戦支度を手伝っていたのではないのかもしれませんね」「どういうことですか?」月姫はなにやら不安な気持ちになってきた。月姫は照姫と姉妹なだけあって照姫の気持ちがなんとなくわかる。今回もどうせろくでもないことをしでかしているという予想ができた。
「おそらく、夫の戦についていったのではないでしょうか」
「またですか」
 月姫は深く嘆息したが、それと同時に少しほっとした。以前のように無理やり戦場に連れて行かれなくて良かったと思っているのだ。それだけ照姫も成長したということなのか、もう月姫に期待していないということなのか。
「つまり当分はお兄様もお姉さまも帰ってこない、ということですか」
「まあ、前のように勝手についていくよりかは良かったのではないですか? 今回は夫も小十郎も一緒ですし、少しは安心できるのではないでしょうか」「まあ、そうともいえますね」月姫は部屋の中から見える桜を見ていた。桜吹雪の中、政宗と照姫は出陣していく。月姫は愛姫とともに二人の無事を祈ったのだった。

 

小手森城の撫で斬り
 1585年春に、愛姫の実家でもある田村清顕の求めに応じて、田村氏の傘下に戻るように説得するが、大内定綱が拒否したため、伊達政宗は4月に大内定綱の出城である菊池顕綱が守る小手森城に討伐を開始した。

 伊達政宗は自ら最前線に立ち、鉄砲八千丁を撃たせるなどの激しい攻撃でその日のうちに小手森城を落城させた。このとき政宗は城主・菊池顕綱をはじめとする敵将や敵兵だけでなく、城内にいた女や子供総勢1,000人、犬に至るまで全て撫で斬りにした。

 この数はどうであれ城内の人を殺戮したのは事実であり、大内定綱は言うに及ばず、周辺の大名や住民にも強烈な印象を残し「小手森城の撫で斬り」として後世まで語り継がれることになった。伊達氏ゆかりの祝歌として有名な「さんさ時雨」は小手森城のある安達郡一帯で現在でも歌われる。

 

関柴合戦
  大内定綱は蘆名盛隆の正室・彦姫(伊達輝宗の妹で亀王丸の母)に、仲介を頼んだが、伊達政宗は伊達輝宗が後見している蘆名領を5月に急襲した。関柴城主・松本備中守の内応もあり、原田左馬助、新田常陸ら3000が、桧原方面から蘆名領を目指した。葦名勢と中田付(喜多方市岩月)で合戦となり、伊達勢は大敗を喫して米沢へ撤収した(関柴合戦)。

 これにより蘆名家中においては伊達家に対する不信感が増大し、佐竹氏に接近し、後に佐竹義重の子・佐竹義広が蘆名氏当主として迎えら蘆名義広となった。

 蘆名攻略に失敗した伊達政宗は、8月に再び大内定綱を攻め、大内定綱は二本松領の蘆名領へ逃れた。このように家督を継いだ伊達政宗は、父・伊達政宗の意向とは反する行動も取るという自主性の強い武将であった。
  その直後、伊達政宗は大内定綱と姻戚関係にある二本松城主・畠山義継へも攻撃し、畠山義継は伊達政宗に降伏を申し入れたが、伊達政宗は畠山義継を許さず、所領を大幅に削減した。これを受け伊達輝宗が難色を示して調停に入り、伊達成実らの斡旋もあり、伊達政宗は処分を緩和したが畠山義継は深く恨んだ。

 1585年10月8日、宮森城に滞在していた父・伊達輝宗を訪れて、所領安堵の礼を伝えようとした畠山義継は、伊達輝宗を拘束して拉致して二本松城に戻ろうとした。

 鷹狩をしていた伊達政宗は、この報を受けてすぐさま追跡し、阿武隈川河畔の安達郡平石村高田(粟ノ須古戦場)で追いつくと、鉄砲で父・伊達輝宗を人質に取った畠山義継を襲撃した。伊達勢が父・伊達輝宗に弾が当たるのを覚悟で、一斉射撃した際に畠山義継と共に父・伊達輝宗も不運な最後を遂げた。

 最期を悟った畠山義継が伊達輝宗を殺害したあと割腹したとも、伊達政宗による父殺しの陰謀とも言われるが、正確には分かっていない(粟之巣の変事)。伊達輝宗、享年42であった。
  伊達輝宗の亡骸は寿徳寺(福島市の慈徳寺)で荼毘に付され、資福寺(山形県高畠町)に埋葬され遠藤基信らが殉死している。一方、畠山義継の遺体は伊達政宗により斬り刻まれ、藤蔓で繋ぎ合わせて無残に吊るされた。

 

人取橋の戦い

 初七日法要を済ますと、伊達輝宗の弔い合戦と称して、伊達政宗は13000の軍勢を出して二本松城を包囲した。二本松氏は畠山義継の遺児・国王丸を擁して籠城した。
 新城信常が籠城戦の指揮を執る二本松勢は、折からの豪雪にも助けられて攻撃に耐え、二本松氏救援のため佐竹義重・佐竹義宣・蘆名亀若丸・岩城常隆・石川昭光・白川義親・白川義広・相馬義胤ら南奥諸大名が連合して30000の大軍で須賀川まで進出してきた。11月10日、伊達政宗は二本松城の包囲部隊を残し、各諸城の守りを固めた上で、自らは主力7000を率いて迎撃のため岩角城を経て本宮城に入った。
 11月17日、本宮城から討って出た伊達政宗は、安達太良川を渡って南方の観音堂山に布陣、伊達成実1000は高倉近くの小山に陣した。

 前日のうちに五百川南方の前田沢に布陣していた佐竹および南奥諸大名の連合軍は、伊達本陣をめがけて北進して、瀬戸川(阿武隈川支流)に架かる人取橋付近で両軍が激突した。

 戦力で劣勢な伊達勢はたちまち敗走し、連合軍は伊達本陣に突入した。伊達政宗自身も鎧に矢1筋・銃弾5発を受け敗戦濃厚となった。しかし伊達政宗を逃がすべく軍配を預かった宿将・鬼庭左月斎が殿を務め、人取橋を越えて敵中に突入して奮戦し討死した。また東方の瀬戸川館に布陣していた伊達成実も、挟撃を受けて猛攻を浴び死を覚悟したが、踏み止まって時間を稼いだため、伊達政宗は辛うじて本宮城に逃れることができ、日没を迎えこの日の戦闘は終結した。

 ところが同日夜、佐竹家の部将・小野崎義昌(佐竹義篤の子で佐竹義重の叔父にあたる)が、陣中にて家臣に刺殺されるという事件が発生。さらには本国に北条方の馬場城主・江戸重通や、安房・里見義頼らが攻め寄せるとの報が入ったため佐竹勢は撤退を開始した。

 伊達政宗が圧倒的に劣勢の中で、敵30000の軍勢が一夜にして撤退したことは、後年さまざまな憶測を呼び、佐竹氏の本国急変は伊達政宗による裏工作があったとの憶測が飛び交い「政宗恐るべし」と言う噂を生み出すことになった。

 

二本松攻
  伊達政宗は岩角城から小浜城へ引き上げ、小浜城で冬を越すと、翌年春から二本松城攻めを再開した。しかし守将・新城盛継の巧みな防戦と、南奥諸大名による後詰めのため落城させることはできなかった。しかし籠城する二本松勢も戦闘継続の限界に達したため、7月16日に相馬義胤の斡旋を受けて、二本松勢の会津退去を条件に和睦が成立し二本松城は開城し、伊達成実が二本松城主となった。このことについて蘆名家臣団は佐竹義重へ訴状を送っているが、佐竹氏は北条氏政・北条氏直との戦闘が激化したため、伊達氏に対して積極的軍事行動に出ることはなかった。


若き天才武将

 父・伊達輝宗らがこれまで築いてきた周辺勢力との調和は、伊達政宗の攻勢によって崩れ、かつて伊達家と同盟・従属していた勢力もほとんどが離れてしまった。奥州探題・大崎氏も最上義光の支援を受けて、伊達氏から離反して独立する動きを見せた。

 1586年に蘆名亀王丸が僅か3歳にして疱瘡で死去。蘆名家では当主の座を巡り、正室系で血筋が濃い伊達政宗の弟・伊達小次郎と、佐竹義重の次男・佐竹義広とを巡り蘆名家中は混迷したが、結果的に佐竹義広13歳が1587年に蘆名義広として黒川城に入った。しかし若年であり家臣団を掌握できず伊達政宗は蘆名家の伊達派の諸将を調略開始した。ちょうどそのの頃、豊臣秀吉は関東・奥羽地方に向けて「惣無事令」を制定して、私戦を禁止したが伊達政宗はそれを無視した。
  その大崎氏の内紛がおこり、大崎氏重臣・岩手沢城主・氏家吉継が、伊達政宗に援軍を要請した。1588年1月、伊達政宗は大将として浜田景隆や、留守政景・泉田重光・小山田頼定ら10000を派遣した。迎え撃つ大崎義隆は中新田城に南条隆信を配置して籠城戦を展開した。

 伊達勢は留守政景と泉田重光が激しく対立し、伊達勢は足並みが揃わないだけでなく、低湿地帯と大雪で身動きが取れなくなった所を、2月2日、城から討って出た大崎勢の攻撃を受け、さらにに伊達家から反旗を翻した留守政景の岳父・鶴楯城主・黒川晴氏が挟み撃ちにして伊達勢は新沼城に撤退した。

 しかしその新沼城は大崎勢に包囲され、黒川晴氏が仲介した降伏勧告を受けて、留守政景は泉田重光・長江勝景を人質に出して和議を結び、2月29日、留守政景ら伊達勢は新沼城から撤退した。
  一方で最上義光は5000で伊達領の黒川・志田両郡の各所を攻略した。蘆名義広も大内定綱ら4000を派兵して苗代田城を攻略し、郡山城・窪田城・高倉城・本宮城を攻め立てた。伊達勢の小手森城主・石川光昌も離反して相馬義胤を頼るなどし、いよいよ伊達政宗は進退が窮まった。

 1588年5月、伊達政宗の母・義姫(最上義光の妹)が戦場に現れて両陣営の間に割って入り、最上義光に停戦を懇願。80日間停戦した結果、大崎氏に出されていた人質・泉田重光を山形城に連行し、引き続き人質とする条件で和睦が成立した。

 南方戦線において二本松城主・伊達成実は大森城主・片倉景綱、宮森城主・白石宗実からの増援も得ていたが合わせても600程で、大内定綱ら蘆名勢の攻撃に耐えていた。この状況を打開する為、伊達成実は伊達政宗を説いて、大内定綱を味方に付けようと、伊達郡内の保原・懸田等の所領を与える旨を打診して、大内定綱に伊達家帰参を持ちかけた。

 折しも蘆名家中では佐竹義広に従って佐竹から入った新参諸将と、蘆名家譜代の奥州諸侯との間の対立がますます深刻化していたこともあり、大内定綱は伊達成実の調略に応じて伊達勢に寝返った。

 これに対して蘆名勢は、4月18日、謀反した大内定綱と伊達勢とを討つべく本宮城を攻めたが、阿武隈川河畔で大内定綱率いる1000余の兵によって撃退された。
 前述の通り北方戦線で1588年5月、義姫が両軍の間に割って入り停戦を懇願したため、最上勢の動きが止まり、伊達勢は体勢を立て直し、蘆名・相馬に備えて南方へと兵を動かし始めた。

 5月12日、相馬義胤は田村清顕(愛姫の父)の没後、伊達派と相馬派に分かれて紛糾していた田村氏の所領を確保して、小手森城と蘆名勢の後詰めをするべく、自ら三春城へと向かったが、田村家中の伊達派・橋本顕徳らに阻まれて入城を果たせずに退去した。
  その相馬勢の撤退を受け、伊達政宗は自ら兵を率いて小手森城を攻略し小手森城は陥落して石川光昌は相馬領へと逃れた。6月12日、郡山城・窪田城に向けて兵を進めた蘆名勢は伊達勢は対峙。互いに砦を築き、40日間にわたって延々小競り合いを繰り返した。
  両軍共に大規模な攻勢がなかったのは、伊達勢からすれば、大崎勢・最上勢の進軍が停止し和睦交渉が始まったとはいえ、伊達領北方では依然として予断を許さぬ状況が続いており、また大崎合戦敗北による痛手も大きく、積極的攻勢に出れる状態ではなかった。
  一方の蘆名勢も豊臣秀吉が佐竹義重に対して再三にわたり、惣無事令に則して子・蘆名義広と甥・伊達政宗とを速やかに和睦させるよう督促しており、蘆名勢としても自ら兵を進めて、積極的に伊達政宗を討つわけにもいかなかった。
  7月、北方戦線で大崎合戦の和睦が成立し最上勢が撤退を開始すると、7月21日には蘆名義広もまた郡山城・窪田城の攻略をあきらめ、石川昭光・岩城常隆の調停を受けて撤退した。8月5日、伊達政宗は三春城に入り、愛姫の従弟・田村宗顕を田村氏当主に据えて田村領を確保し勝利した。
  人取橋の戦いから3年間にも及ぶ連敗から、追い詰められていた伊達政宗は、一転して拡大に転じる契機となり、まずは家中の団結力が低下していた蘆名氏の本拠・会津への侵攻を開始した。だがそれは豊臣秀吉が出した「惣無事令」を無視する行動であった。


23歳にして奥州制覇

 愛姫の実家に当たる田村家を盛り立てた伊達政宗は、さらにに勢力拡大を進めた。1589年5月、伊達政宗は高玉城を攻略すると、相馬領の駒ケ峯城、新地城を攻め落として大森城に入った。

 この頃、葦名義広は須賀川にて父・佐竹義重・岩城常隆と相馬義胤の連合軍に合流。北上して伊達郡を攻める態勢にあるという報を受けて、伊達政宗は急遽予定を変更してこれに対応。6月1日に猪苗代盛国の内通を受け、会津への道を確保すると片倉景綱を猪苗代、原田宗時を檜原に派遣すると、6月2日、伊達政宗は本宮城に進み、6月4日に猪苗代城に入り会津攻略の拠点とした。
  この時、猪苗代盛国は家督を子の猪苗代盛胤に譲っていたが、後妻との間の子である猪苗代宗国を寵愛し、後妻の讒言もあって猪苗代盛胤が黒川城に行った留守中に、猪苗代城ごと伊達政宗に寝返ったのだ。猪苗代宗国を伊達政宗に人質として差し出し、この功績により戦後は伊達家臣として5000石となっている。
  一方の蘆名義広は猪苗代盛国謀反の知らせを受け、6月4日の夕刻に須賀川城を発ち猪苗代湖南岸を進んで、軍勢18000を黒川城へ一旦入れた後、猪苗代方面に出陣した。大寺に到着した蘆名義広は、先陣・富田将監に500、二陣・佐瀬河内守に2000、三陣・松本源兵衛に2000、本陣・蘆名義広7000、五陣・平田5000の総勢16000。伊達軍は内応した猪苗代盛国を先陣に2000、原田宗時3000、片倉景綱3000、本陣・伊達政宗10000、後陣・伊達成実5000の総勢23000で八ヶ森に陣取った。このとき葦名義広・伊達政宗ともに20歳前後の若者である。
1589年6月5日り早朝、猪苗代湖の北岸、磐梯山の裾野である摺上原で合戦となる。(摺上原の戦い)

 開戦当初は西からの烈風が追い風となり、砂塵が伊達勢を襲った。先鋒・富田隆実(富田将監)は、伊達の先陣・猪苗代盛国の勢を破り、さらに二陣・三陣を突破して伊達政宗本陣に攻め入ろうとし、蘆名勢は優勢に戦ったが、伊達成実が迂回して側面から迎撃した。

 そうするうちに風向きが東風に変わり、蘆名家は内紛の疑心暗鬼から、敵の出現報告を味方の謀叛と誤認するなどして、葦名勢は浮き足ち伊達勢が逆に圧倒し始め、蘆名軍は総崩れ。敗走する蘆名軍は日橋川によって黒川城への撤退が滞り被害が拡大し1800人が討死した。(伊達勢は500人討死)

 蘆名勢は金上盛備、佐瀬種常、富田実積、印藤四郎兵衛、浜野甚左衛門、平井久太郎、苗村丈右衛門、中村新左衛門、梅田勘兵衛、落合兵部など有力家臣の多くを失った。
  当主・蘆名義広は、黒川城に戻ったが敗戦による家臣の背反や、奥州惣無事令を気にして決戦に踏み切れず、実家の常陸・佐竹家へ向けて、猪苗代盛胤ら20名程の従者と共に落ち延びた。野宿を繰り返し、途中で裏切ろうとする者を成敗しつつの旅であったという。
これにより、蘆名氏は没落し、佐竹氏を除く南奥の諸大名である結城義親・石川昭光・岩城常隆らは伊達政宗に服従する道を選ぶこととなる。
  この頃、須賀川城の二階堂氏は、既に亡くなった二階堂盛義の正室・阿南姫が二階堂家の切り盛りをして城主となり、城代には須田盛秀が就いて実務を代行。外敵を領内に一歩も入れることはなかった。
  この阿南姫は伊達晴宗の長女(伊達輝宗の妹)であり、伊達政宗は降伏するように薦めている。二階堂家の家臣も降服が良策であると進言したが、阿南姫はこれを頑強に拒否し籠城準備を進めた。
  籠城する様子を知った伊達政宗は、再三に渡り帰順を勧めたが聞き入れられず、1589年10月、須賀川城を総攻撃した。兼ねてより伊達政宗との連携を唱えていた二階堂家家臣・保土原行藤の内応もあり、伊達政宗が西方から接近して山王山城に着陣し、保土原行藤の先導で、須賀川城代・須田盛秀と佐竹氏らの兵600が籠る須賀川城を落とし二階堂氏は滅亡した。

 阿南姫は伊達政宗を嫌って甥の陸奥・大館城主である岩城常隆を頼り落ち延び、のち1590年に岩城常隆が死去すると、甥・佐竹義宣を頼り、佐竹氏が秋田に移封された際、途上の須賀川付近で病に倒れ、1602年、波瀾の生涯を閉じている。

 須賀川城が落城しても、須田盛秀は和田城で抵抗を続けたが、城に火をつけて常陸・佐竹義宣を頼って落ちた。この須田盛秀は佐竹氏から1595年、茂木城主を任され、須賀川衆と呼ばれ二階堂旧臣などおよそ100騎(茂木百騎)を率いて佐竹家臣となった。

 須賀川城は伊達政宗に降参した伊達一族の石川昭光に翌年与えられ、関東方面の担当に据えたが、伊達政宗も本拠を会津の黒川城に移している。

 これにより伊達政宗は僅か23歳にして、現在の福島県の中通り地方と会津地方、及び山形県の南部、宮城県の南部を領し、ほぼ奥州を支配。全国的にも屈指の領国規模を築いた大名となったが、ここで「豊臣秀吉」と言う大きな存在が、伊達政宗の快進撃を脅かした。

 

戦国大名
  他の例を見ると、武田信玄の23歳の頃はようやく信濃侵攻を開始し、上杉謙信の23歳もようやく越後一国を統一した程度で、織田信長が23歳の時は、今川義元の侵略を恐れ尾張もまだ統一できていない。
  これらを考慮すると若干23歳で約150万石の領地を自ら切り開いた快挙は、かなり評価でき、俗に「あと10年早く生まれていれば、天下が取れたかも知れない」と言われる由縁である。
  伊達政宗が用いた「騎馬鉄砲隊」は、織田信長が鉄砲を巧みに活用した事を得て、独自に強力な騎馬隊に鉄砲を持たせた戦法だった。伊達家の鉄砲師範となっていた鈴木重朝らと伊達政宗が考案したと言われている。
  騎馬隊に鉄砲を持たせて、戦闘の際にはまずその鉄砲を放ち、敵部隊を撹乱させてから、敵の陣形が乱れたところを疾風の如く襲いかかるという斬新な戦法で、敵からは大変怖れられていた。


小田原攻め参陣の逸話
  豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻撃していた時のこと。天下人になった豊臣秀吉には、自分に従わない者がふたりいた。ひとりは小田原の北条氏であり、もうひとりは東北の伊達政宗でああった。そこで秀吉は小田原の北条氏を攻めた時に、「この際、一挙に伊達にも手を延ばしてやろう」と考え、全国の大名に「小田原の北条攻めに参加せよ」と命令した。この命令は単に小田原城を攻撃しろというのではなく、「大名としての独立心を捨てて、おれの部下になれ」ということだった。

 つまり小田原攻撃に参加することは、秀吉の忠義な部下になるという誓いを立てることになった。次々と全国から大名が小田原に駆けつけてきた。このとき東北からも、津軽・南部・戸沢という大名が率先して駆けつけた。このとき小田原に行かなかった東北の古い大名たちは、その後秀吉によって全部土地を取り上げられつぶされた。

 伊達政宗は悩んだ。豊臣秀吉は兼ねてより、奥州で実力をつけている伊達政宗に、上洛して恭順の意を示すよう促していた。しかし同盟関係にある相模・小田原城の北条氏直・北条氏政からは協力して豊臣秀吉に対抗しようと言う話も届いていた為、態度を明らかにしていなかった。
  1589年12月、20万の大軍を用いて豊臣秀吉が小田原攻めを行うので、小田原城に参陣するようと書状が届いた。しかし小田原のあと東北にも攻めてくる豊臣秀吉と戦うか、小田原に参陣して降伏するか、伊達政宗は一大決断をせまられた。
  伊達家では何度も会議が開かれ、伊達成実は戦いを、片倉景綱は臣従を主張した。1600年2月に豊臣秀吉の家臣で五奉行筆頭でもある浅野長政より催促の書状が届くと、3月になって伊達政宗は参陣を表明した。
  豊臣秀吉の兵力数も考慮して、片倉景綱らの策を取り、伊達成実を黒川城の留守居役に配置して、伊達政宗は5月9日に会津を出発した。米沢・小国から越後・信濃を経由して小田原に至ったが、小田原攻めは4月3日から既に開戦しており、豊臣秀吉から催促されて4ヶ月も遅れた遅参となった。
  豊臣秀吉は立腹しており、小田原に着いた伊達政宗と会おうとせず、底倉に謹慎させた。しかし伊達政宗は「関白殿下の茶頭を勤めていた千利休殿に、茶を習いたい」と申し出て「こんな時に茶を習いたいとは」と豊臣秀吉は伊達政宗の言動に興味を持ち、ついにに会うことにした。
  伊達政宗は更に趣向を凝らし、豊臣秀吉との謁見の際、白装束(死に装束)で拝謁すると言う策に出て遅参を詫びた。
  豊臣秀吉が「近こうよれ」と言うと、脇差を差したままであるのに気付いた伊達政宗は、すぐに脇差を投げ捨て豊臣秀吉の側で平服した。この時、豊臣秀吉は伊達政宗の首をたたいて「あともう少し遅かったらここが飛んでおった」と言って笑い、伊達政宗は許され、以後、警戒されながらも比較的優遇されることとなった。


弟の伊達小次郎の急死
  旧説では伊達政宗と小次郎の仲は悪く、伊達政宗が豊臣秀吉の小田原征伐に参陣するため、当初の出発予定日である1600年4月6日の前日に、母・義姫の招きを受けて食事を振舞われた際、料理を食べた伊達政宗は激しい腹痛に襲われ、毒殺されかけた伊達政宗は解毒剤のおかげで難を逃れたとされている。
  小次郎派の一派を静粛し、小田原参陣中の内部争いを避ける為、伊達政宗が自ら小次郎を殺害したといわれている。毒殺未遂事件は恐らくは後世の創作であろう。解毒剤が用意されていると言う時点で作り話であると考えられる。
  事件の直後、義姫は実家の最上家に逃れたと言う説もあるが、実際、義姫はその後も伊達家におり、伊達政宗が朝鮮出兵した際にも、母子で親しく文のやり取りを行っている。しかし小次郎の死因については謎が多い。
  1590年7月11日、黒田官兵衛などの尽力もあり、北条氏政・北条氏直が降伏して小田原城が開城した。

 豊臣秀吉は宇都宮国綱らと共に7月17日に鎌倉の鶴岡八幡宮を参詣し、7月26日に宇都宮城に入場。関東・東北の諸将も宇都宮城に出頭し、豊臣秀吉は奥羽大名に対して仕置を行った(宇都宮仕置)。
  佐竹義重に対しては常陸ほか54万石の所領を安堵。伊達政宗は小田原遅参と惣無事令に違反していた事などを理由に、会津などの領地は没収され150万石から、陸奥出羽のうち13郡およそ72万石と、ほぼ伊達政宗が家督を相続した時の領地に減封された。会津42万石には蒲生氏郷が入っている。
  小田原城に参陣しなかった、石川昭光、江刺重恒、葛西晴信、大崎義隆、和賀義忠、稗貫広忠(家法・重綱)、黒川晴氏、田村宗顕、白河義親(結城義親)らは改易・領地没収となっている。
  愛姫の実家筋にあたる田村宗顕は伊達家の家臣と自認していたため参陣しなかったが、豊臣秀吉に独立大名と見なされて改易した。
  7月28日、奥州への迎えとして伊達政宗が宇都宮城に入ると、豊臣秀吉、蒲生氏郷、浅野長政らは奥州仕置軍を伴って巡察行軍を行った。豊臣秀吉は途中で宇都宮城に戻ったが、伊達政宗は奥州仕置軍を案内して8月6日白河城に到着し、抵抗した葛西家の家臣を退けながら8月9日に黒川城に入った。

葛西大崎一揆
  小田原攻めで北条氏が滅亡したその年、東北では厳しい豊臣秀吉の仕置による新しい領主への不満が爆発した。1590年10月16日、岩手沢城で旧城主・氏家吉継の家来が領民と共に蜂起して城を占拠。奥州仕置で領地没収となった葛西氏・大崎氏らの旧臣が新領主・木村吉清・木村清久父子に対して反乱を起こした。(葛西大崎一揆)
  葛西晴信・大崎義隆は戦国大名ではあったが、伊達家に従属しており、独自の判断で小田原に兵を出すことはできないと言う事情もあったが、領地は没収され木村吉清は30万石となった。葛西氏の居城・寺池城には木村吉清が入り、子の木村清久は大崎氏の居城・名生城に入って領国経営を開始した。
  しかし検地を実施して年貢を厳しく取り立てたことや、旧大崎・葛西家臣の地侍等を家臣に採用せず刀狩を行ったこと、さらには家中の人手不足から浪人などを大量登用した結果、これら木村吉清の新家臣らが領民に乱暴狼藉を繰り返したことなどから領内に一揆が起きた。
  木村清久は寺池城に赴いて父・木村吉清と対策を協議したが、一揆は領内全土への拡大し、名生城に戻る途中に立ち寄った佐沼城で一揆勢に囲まれてしまった。
救援に赴いた父・木村吉清も、佐沼城を包囲した一揆勢に捕まり、2人は城内に閉じ込められてしまった。一揆勢は留守になった寺池城・名生城を奪取した。
  上方への帰国の途にあった浅野長政は白河城で、一揆蜂起の報を受けて二本松城に戻ると、蒲生氏郷と伊達政宗に木村親子の救出を命じた。
  10月26日に蒲生氏郷と伊達政宗は、伊達領・下草城で会談して、11月16日より共同で一揆鎮圧にあたることになった。ところがその前日に、蒲生氏郷の陣に、伊達政宗の家臣・須田伯耆が訪れ、一揆を扇動したのは伊達政宗であると訴え、さらには伊達政宗の祐筆であった曾根四郎助が、伊達政宗が一揆に与えたと言う密書を持参した。
  また伊達政宗の軍勢が撃っている鉄砲が「空砲」であるとの報告もあった為、11月16日、蒲生氏郷は単独行動で、一揆勢が占拠していた名生城を占領して籠城した。一揆及び伊達政宗に備え、豊臣秀吉に使者を出して情勢を報告した。
蒲生氏郷からの報告を受けた豊臣秀吉は石田三成を派遣して対策を命じている。
蒲生氏郷が単独行動したので、伊達政宗も単独で行動を開始して、高清水城・宮沢城を攻略。
  11月24日には佐沼城を落として木村吉清・木村清久を救出し、蒲生氏郷が籠る名生城へ送り届けた。
しかし蒲生氏郷は木村親子救出後も、伊達政宗への備えを解かず、名生城に籠城を続けて越年することを決め、帰路の安全確保のため伊達政宗に人質を要求し、伊達政宗は一門の重臣である伊達成実と国分盛重の両名を一時的な人質として出した。
  その頃、京では旧領主・大崎義隆が上洛して豊臣秀吉に小田原への不参陣を謝罪し旧領への復帰を願い出ていたが、12月7日、豊臣秀吉は大崎義隆に対して、検地終了後に旧領の三分の一を宛い、大崎氏の復帰を許す旨の朱印状を出した。1591年1月1日、伊達政宗より人質を預かった蒲生氏郷は、名生城を出て会津への帰路に発った。1月10日、相馬領に石田三成が到着して、伊達政宗に対して豊臣秀吉からの上洛命令を伝え、蒲生氏郷・木村親子らを伴って帰京した。
  再び伊達政宗は窮地にたつ事なり、2月4日、上洛した伊達政宗に対する査問が行われると、伊達政宗は一揆を煽動した証拠とされる密書は偽造されたものであり、本物の自分の書状は花押の鶺鴒の目の部分に針で穴を開けていると主張した。
  有力な説では失領回復の手段として一揆を起こさせて木村氏を失脚させ、一揆鎮圧の功により葛西・大崎旧領を獲得しようと企み、須江山における一揆謀殺も、証拠隠滅のために行ったと考えられている。
  豊臣秀吉はこの主張を認め、伊達政宗に改めて一揆を鎮圧するように命じ、援軍として豊臣秀次・徳川家康にも出陣を命じた。
 5月、米沢に戻った伊達政宗は、6月14日に再び出陣して本格的に一揆掃討を開始したが、一揆勢の激しい抵抗に、浜田景隆・佐藤為信ら重臣が討死し苦戦したが、7月4日に寺池城が陥落すると残った一揆勢も降伏して、ようやく一揆は終息した。
  8月14日、伊達政宗は桃生郡須江山に一揆の主立った者らを呼び寄せると、泉田重光・屋代景頼に命じて皆殺しにした。
  12月7日、秋保氏一族の馬場定重・頼重父子に命じて小野城主・長江勝景を殺害させた
木村吉清は一揆発生の責任を問われて改易(領地没収)となり、木村吉清は蒲生氏郷を頼ってその客将となった。木村領の葛西・大崎13郡は伊達政宗に与えられることになったため、前年に大崎義隆へ下された朱印状は反故となり、大崎氏の大名復帰は叶わなかった。9月23日、豊臣秀吉から葛西・大崎13郡の検地と、城砦改修とを命じられていた徳川家康は、仕置を終えて伊達政宗に新領土を引き渡した。
  1591年9月25日、側室である飯坂城主・飯坂宗康の2女・猫御前(新造の方)との間に、伊達秀宗が生まれた。岩出山城への移動の途中、村田城で出産し、母子ともに村田城で年を越している。伊達政宗の側室は2人いたようだが、両人とも飯坂城主・飯坂宗康の2女で猫御前と称されている。伊達秀宗の母は、別の側室である飯坂の局とする説もあり、伊達秀宗がこの飯坂の局の養子となり、実家の飯坂氏の家督を継いだとする説もある。

 豊臣秀吉は伊達政宗に葛西・大崎13郡30万石を与えたが、その替わりに本来の所領12郡余72万石のうち、6郡(長井・信夫・伊達・安達・田村・刈田)44万石を没収して蒲生氏郷に与えた為、伊達政宗の所領は19郡余58万石と、事実上の減封となり、豊臣秀吉は伊達政宗の一揆関与への懲罰としたようだ。
  伊達政宗は200年間伊達氏の所領であった伊達・信夫・長井の3郡を喪失し、与えられた葛西・大崎13郡は一揆により荒廃しており、経済的損失は大きかったが、岩手沢城を岩出山城と改名し、1601年に青葉城を築くまで本拠とした。
転封に伴い、伊達家中の知行再編も行われたが、減封の影響によって知行高は軒並み削減された上、転地の際にはそのままでは収穫を見込めない荒蕪地・野谷地を多く宛われたため、家臣団は困窮し不満が高まった。
  転封を拒んだ北目城主・粟野重国を伊達政宗は攻め落としたほか、伊達成実・国分盛重・鬼庭綱元・遠藤宗信ら重臣が出奔。 
  命を受けた屋代景頼が伊達成実の居城・角田城を攻めると、伊達成実の家臣・羽田実景ら30人余が抵抗して討死し、伊達成実の家臣団は解体された。
  伊達成実は伏見にいたところ出奔したとされ、そのあとの行動は良くわかっていないが、高野山に籠ったとも、相模国糟谷(伊勢原)で過ごしたともあり、伊達政宗は何度も説得の使者を出した。また、徳川家康や上杉景勝からも仕官の話もあったようだがすべて断り、1600年関ヶ原の戦いのあと、伊達政景・片倉景綱の説得にて、伊達家にようやく帰参している。
  国分盛重は甥の佐竹義宣を頼って佐竹家の侍大将となった。鬼庭綱元は、豊臣秀吉に気に入られて直臣にとの話を伊達政宗が耳にし、裏切りと感じた伊達政宗は僅か100石にて隠居に追い込んだことで、1595年頃に伊達家から出奔したようだ。のち徳川家康の誘いもあったが、1597年に許されて伊達家の家臣に復帰している。遠藤宗信の父は伊達輝宗に殉死した遠藤基信の子で、1592年の朝鮮出兵でも戦功を挙げたが、帰国後に出奔したが1593年に京都で病没。享年22。


朝鮮出兵
  1591年1月5日、豊臣秀吉による朝鮮出兵の命を受けて、伊達政宗にも兵1500の軍役を課せられたが、倍の兵3000にて岩出山城を発ち、4月19日に肥前・名護屋城に着陣した。この時の伊達家行軍の戦装束は非常に絢爛豪華なもので、道中では噂となり、他大名の軍勢の通過は静かに見守っていた京都の住民も伊達家の軍装の見事さには歓声を上げた。これ以来、派手な装いを好み着こなす人物の事を「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになった。

名護屋城の天守閣
  徳川家康が朝鮮出兵を免除されているように、朝鮮には1592年から主に九州の大名が渡って戦ったので、伊達政宗は名護屋城待機だった。やがて明との和平交渉が始まると1援軍と言う形で朝鮮に渡り、朝鮮南部での築城などに積極的に参加したが、風土病は軍勢を苦しめ、家臣の原田宗時らが命を落とした。8月になると全軍退却命令が出て、伊達政宗は9月に日本に戻った。このように文禄の役で活躍したのが評価され、のちの慶長の役は免除されている。
  1594年2月4日、3歳になった伊達秀宗は伊達政宗に伴われて聚楽第にて豊臣秀吉に拝謁し、豊臣秀頼付きの臣従となり、実質の人質として猫御前(新造の方)と共に、伏見の伊達屋敷(伏見城)に入った。1594年6月16日、愛姫との間に長女・五郎八姫(いろはひめ)が京都の聚楽第屋敷にて誕生し、男子名である五郎八しか考えていなかった伊達政宗が、そのまま五郎八姫と命名した。
しかし結婚15年たって初めて子が生まれていることから、伊達政宗と愛姫は結婚当初からの夫婦仲は悪かったが、豊臣秀吉に臣従してからは関係が改善したと考えられる。

 

豊臣秀次の切腹
  1595年7月15日、豊臣秀吉から謀反の疑いをかけられた関白・豊臣秀次が切腹し、関白・豊臣秀次は、東国一の美少女と名高かった最上義光の娘・駒姫の噂を聞いて、駒姫が11歳の時に側室に差し出すよう命令。最上義光はもう少し大人になってからと、ようやく15歳になった駒姫を側室に出した。駒姫は京の最上屋敷で長旅の疲れを癒していたところ、豊臣秀次が切腹する事態となり捕えられ、駒姫は豊臣秀次の妻子らと共に三条河原にて8月2日に処刑された。
豊臣秀次の首が据えられた塚の前で、約5時間掛けて39名(側室は22名)が処刑された11番目に駒姫は命を落とした。享年15。
  この時、駒姫は実質的にはまだ豊臣秀次の側室になっておらず、父・最上義光が必死で助命嘆願に廻った結果、豊臣秀吉も「鎌倉で尼にするように」と早馬を処刑場に向かわせたが、間に合わず処刑された。その悲報を聞いた最上義光の正室・釈妙英は、駒姫が処刑された14日後に自殺している。
  最上家と血縁関係であった伊達政宗も、豊臣秀吉から謀反への関与を疑われたため、伊達政宗は急遽、岩出山城を発って上洛して豊臣秀吉に拝謁、最終的には無関係であると許されて連座の難を逃れている。
  天子様の後見人である関白を切腹させ、その豊臣秀次の首を晒して、一族郎党を処刑すると言う仕業は非業であり、この豊臣秀次事件に関係し、豊臣秀吉の不興を買った大名は総じて、関ヶ原の戦いにて徳川家康に味方した。最上義光や伊達政宗もその例である。
  翌年の1596年には兼ねてから傲慢な態度を示していた、豊臣秀吉と伊達家の取次役であった浅野長政に伊達政宗は絶縁状を送っている。1597年、伊達政宗は右近衛権少将に任ぜらた。


豊臣秀吉の死去と関ヶ原の戦い
  1598年8月18日、伏見城で豊臣秀吉が死去すると、以後、伊達政宗は徳川家康に接近した。伊達政宗の長女・五郎八姫は、聚楽第から伏見屋敷、大坂と各地を転々としていたが、1599年1月20日、僅か5歳で徳川家康の6男・松平忠輝(7歳)と婚約した。豊臣秀吉が無断婚姻を禁じていたので石田三成らの反感をかった。
  1599年12月8日、正室・愛姫との間に虎菊丸(伊達忠宗)が誕生し、伊達忠宗は正室が生んだ最初の男子だったので、仙台藩第2代藩主となった。
  1600年6月2日、徳川家康は東北・関東・北陸の諸大名にも出陣を命じ、会津・上杉景勝討伐の軍が発せられると伊達政宗はこれに従った。
  石田三成は徳川家康の留守をついて7月に挙兵した。徳川勢は小山城まで進軍していたところ7月24日に、石田三成挙兵の報を受けた。伊達政宗は、徳川家康から上杉領となっていた旧領6郡49万石を自力で奪還する許可(百万石のお墨付き)を得て上杉領へ侵攻した。7月25日には上杉家臣・登坂勝乃が守る白石城を攻略した。
  伊達政宗は叔父の石川昭光に守備を任せて北目城に入り、伊達勢は勢いに乗って、駒ヶ嶺城主・桜田元親が上杉領の川股城を落城させている。
  上杉景勝は2日で2城も失い、直江兼続が白石城奪還のために軍勢出したが、刈田郡小浜村で伊達政宗に味方する百姓・野伏の集団によるゲリラ戦で苦戦した。
  その後、上杉景勝は、最上義光を攻略しようと9月8日に、直江景続、前田利益(前田慶次郎)ら25000で最上領へ侵攻し、対する最上義光は7000にすぎず、そのうち4000が山形城で籠城した。
 長谷堂城

 長谷堂城の戦いでは大軍の直江兼続勢を防いでおり、最上義光からの援軍要請に応じて、伊達政宗は9月21日、留守政景ら3000を白石城から笹谷峠を越えて山形城へ向かわせ、9月25日には茂庭綱元が上杉領の刈田郡・湯原城を攻略した。
9月29日になって、関ヶ原の戦いで、石田三成が敗れたとの報がもたらされると、直江景続は米沢城に撤退を開始した。最上義光と留守政景らは反撃に出て、直江景続を追撃。最上勢は庄内地方を掌握した。
  伊達政宗も自ら兵を率いて伊達・信夫郡奪還のため国見峠を越えて南進し、10月6日に福島城主・本庄繁長の軍勢と衝突。
  宮代表の野戦では威力偵察に出た大宝寺義勝率いる上杉勢を破ったが、福島城包囲戦では大宝寺繁長の堅い守りに阻まれて攻城に失敗し、北目城へと撤退した。
この後、1601年の春まで、何度が福島城攻略のため出兵したが落とせず、旧領6郡のうち、伊達政宗が奪還出来たのは陸奥国刈田郡2万石のみであった。
  その後、伊達政宗が南部領内で発生した和賀忠親による一揆を煽動し、白石宗直らに命じて和賀忠親を支援するため南部領に4000の兵を送っていたことが露見し、徳川家康の不信を招いた。最終的には不問に付されたものの、いわゆる「百万石のお墨付き」の恩賞はことごとく却下され、、自力で落とした白石城だけが認められ、伊達領は60万石となった。西軍に加担した上杉景勝は庄内・会津などを没収され、米沢30万石のみとなっている。その後、近江国に5000石と常陸国10000石など飛び地2万石が加増され、伊達家は62万石となった。
1601年1月28日、伊達政宗は青葉山に登って縄張りを始め、地名を仙台と改め、新しい居城・仙台城と仙台の城下町建設を開始。
仙台藩が誕生した。石高62万石は加賀・前田氏、薩摩・島津氏に次ぐ3位である。
仙台城は本丸と西の丸からなる山城で青葉山城とも呼ばれ、天守台はあるが天守は持たなかったが「日本の最も勝れ、又最も堅固なるものの一つ」と言わしめるほど、比類ない堅城となった。仙台の城下町は新開発となり、のべ100万人を動員。
4月からは建設中の仙台城に入り、仙台藩の統治を開始。藩内48ヶ所に館を建て、各地に家臣を配置した。
1603年、徳川家康の6男・松平忠輝と婚約していた五郎八姫(9歳)は、伏見から江戸に移った。
1605年2月、徳川秀忠が征夷大将軍に就任する際の上洛軍に伊達政宗も加わっている。
1606年12月24日、江戸に滞在していた五郎八姫(12歳)が、徳川家康の6男・松平忠輝14歳(信濃・川中島12万石)と結婚。
1607年、愛姫が生んだ虎菊丸(伊達忠宗)と、徳川家康の娘・市姫とが婚約。
1609年、徳川家康の命で、伊達秀宗と井伊直政の娘・亀姫(徳興院)が結婚。
1611年12月、虎菊丸が江戸城にて元服し、将軍・徳川秀忠より1字を与えられ、伊達忠宗となり、事実上、伊達家の家督後継者となり、長男でありながら母は側室だった伊達秀宗は後継者から除外された。

支倉常長の慶長遣欧使節団
  仙台藩の内政を進める伊達政宗は、海外にも先見の目を向ける事となる。 
1609年、前フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行が、ヌエバ・エスパーニャ副王領(現在のメキシコ)への帰途の途中に台風に遭い、上総・岩和田村(現在の千葉県御宿町)の海岸に座礁難破し、御宿の地元民が救助した。
徳川家康は、船大工としての経験もあったイギリス人のウィリアム・アダムス (三浦按針)に命じて、1607年に建造していた120tのガリレオ船を前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロに提供し、メキシコに送還した事で、日本 (江戸幕府) とエスパーニャ(スペイン)との交流が始まった。
1611年には、前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロを救助した御礼の為に、来日していた、セバスティアン・ビスカイノが、日本沿岸測量の途中、1611年11月10日に仙台で伊達政宗にも謁見した。この頃、フランシスコ会宣教師のルイス・ソテロも伊達政宗に謁見し、東北でのキリスト教布教を認められている。(ルイス・ソテロは、ドン・ロドリゴの一行が遭難した際、通訳を務めたので、セバスティアン・ビスカイノの通訳として仙台に同行していた可能性もある。)
1612年11月、スペインへの帰途の際、セバスティアン・ビスカイノの船は破損し、帰れなくなった。そこで伊達政宗は、徳川家康にヨーロッパへ遣欧使節を送る許可を得て、エスパーニャ国王・フェリペ3世の使節であるセバスティアン・ビスカイノの協力を得て、約500トン級で最初の日本製西洋型軍船ガレオン船「サン・フアン・バウティスタ号」を、仙台藩・陸奥国桃生郡水浜(三陸海岸の雄勝湾)にて約45日掛けて建造。
同じくスペイン人だったフランシスコ会宣教師のルイス・ソテロを外交使節に任命し、セバスティアン・ビスカイノ提督と、家臣・支倉常長ら一行180余人をヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)経由で、エスパーニャ(スペイン)、およびローマへ派遣した(慶長遣欧使節)。
支倉常長らは1613年9月15日に月ノ浦(現・石巻市)を出港して、メキシコのアカプルコに1614年1月25日に到着。
支倉常長らは約1年、メキシコに滞在し、仙台の鉱山産業の発展の為に約50人の鉱山業・銀精技師を日本に送ったあと、陸路で大西洋岸のベラクルスに移動して大西洋を渡りスペインに渡った。
1615年1月2日、国王フェリペ3世に謁見。その際、支倉常長らはスペインで、セビリア近辺にあるコリア・デル・リオに長期滞在した。この港の町には現在、ハポン(Japon=日本)姓のスペイン人が約700人住んでいる。
スペインの姓名は、出身地を表すことが多い事から、支倉常長らの一行で日本に帰らず現地に留まった日本人がいたと推定され、2013年10月24日、名古屋大学、東京大学、国立遺伝学研究所などが共同で、約600人の住民から血液採取。DNA鑑定で日本人の遺伝情報との比較を行うことになった。
その後、シピオーネ・アマティ(Scipione Amati)が遣欧使節一行の通訳兼交渉係として6ヶ月間帯同し、支倉常長らは1615年9月12日、ローマ教皇パウルス5世に謁見。その後、再びスペインに戻ってフェリペ3世と通商交渉。
しかし、交渉は成立せず、1617年6月2日、支倉常長らは、スペインからアカプルコを目指して出航。
メキシコに到着し、ルイス・ソテロと合流すると太平洋へ出港し、1618年、フィリピン(ルソン島)に到着。
ルソン島では、伊達政宗より待機を命じられたようで約2年を過ごした後、支倉使節団は別の船を調達して、1620年8月24日、ようやく日本に到着した。
しかし、江戸幕府は、キリスト教を禁止し、オランダ以外とは交易をしない「鎖国政策」へと転換していた為、進められていた貿易協定などは破棄され、支倉常長の業績が評価されることは無かった。

大坂の陣から晩年
  支倉常長らがヨーロッパを訪問しているころ、徳川家康は政権基盤を盤石なものとするため、最後の戦をする。
1614年、大坂冬の陣にて、伊達政宗と伊達秀宗(初陣)は18000を率いて大和口方面軍として布陣。特に戦闘などの功績はなく、和議のあと、大阪城の堀を埋める工事などに従事。
この戦闘に積極的でなかった伊達政宗を働かせようとした徳川家康は、伊達家への恩賞として、1614年12月28日、徳川秀忠より伊予・宇和島藩10万石を与え、1615年3月18日、伊達秀宗が板島丸串城(宇和島城)に入城。別家として宇和島藩が成立し、伊達政宗が選んだと言う57騎のほか足軽、小者あわせ約1200名の家臣が宇和島に移った。
  1615年、伊達勢15000で出陣した大阪夏の陣では、5月6日の道明寺の戦いに伊達政宗が参戦。4番手として布陣して、豊臣勢の後藤又兵衛(後藤基次)隊と交戦し、伊達勢の鉄砲騎馬隊800が後藤又兵衛を銃撃して負傷させ自刃させたと言われる。
  その日の午後、誉田の戦いでは伊達勢の片倉景綱の子・片倉重長が、真田幸村(真田信繁)隊の反撃を受け、伊達勢は後退している。
この時、幕府軍の先鋒大将・水野勝成は、伊達政宗に真田隊への再攻撃を再三に渡り要請したが、伊達政宗は弾薬の不足や兵の負傷などを理由にこれを拒否。最後には伊達政宗自ら水野勝成の陣に赴き要請を断っている。
  1616年、体調を崩した徳川家康を伊達政宗が見舞いした際、徳川家康より死後の事を託され、その後、徳川家康が死去。
  同年、五郎八姫の嫁ぎ先である松平忠輝が改易処分となり、五郎八姫は離縁し、父・伊達政宗のもとに戻り、以後は仙台で暮らした。
徳川家康の娘・市姫が1610年2月12日、4歳で夭折していた為、その後、池田輝政と督姫(徳川家康の次女)の子・振姫を徳川秀忠の養女にすることで婚約してい為、1617年10月、池田輝政の娘・振姫10歳(徳川家康の孫娘)が徳川秀忠の養女となり、12月13日に、夭折した叔母の清雲院の代わりとして伊達忠宗に輿入れした
1620年、宇和島藩主・伊達秀宗の命を受けた桜田元親が家老・山家公頼を殺害するという事件(和霊騒動・伊達騒動)を起こした際、伊達秀宗はこの事件を幕府は疎か、伊達政宗にも報告しなかった、伊達政宗は激怒して伊達秀宗を勘当。
さらに幕府老中の土井利勝に対して「伊達秀宗は大虚けで到底10万石を治める器では無いので召し上げてほしい」と幕府に願い出た。
この件は伊達秀宗の義兄・井伊直孝と井伊利勝、柳生宗矩らにより収拾されたが、この勘当と改易願いは宇和島藩改易を回避するための伊達政宗の捨て身による大芝居と言われ、その後、腹を割って話し合った伊達秀宗は勘当を解かれ、伊達政宗と親密になった。
  1626年には、北上川・迫川・江合川の合流工事を行い、北上川が石巻に流れるようにするなど、仙台の荒れ地を開発して新田を増やすなどの政策も積極的に行っている。1628年、62歳になった伊達政宗は、隠居所として建てた若林城(若林屋敷)に移った。
  1635年、徳川家光が参勤交代制を発布した際「祖父、父とは違い、自分は生まれながらの将軍であるから、大名方は今後は臣従の礼をとるべきだ。異論があるならば国へ帰り戦の準備をされよ」と述べると、伊達政宗はいち早く進み出て「命に背く者あれば、政宗めに討伐を仰せ付けくだされ」と申し出たため、他の大名は誰も反対できなくなったと言われ、徳川家光は下城する伊達政宗に、護身用にと10挺の火縄銃を与えたと言う。
  実戦経験のない徳川家光は、経験豊富な伊達政宗を非常に尊敬しており、伊達政宗は将軍の前での脇差帯刀を許されていた。また、徳川家光が鷹狩に没頭し、下宿(外泊)を頻繁に行うのに困った幕閣が伊達政宗に説得を頼むと、伊達政宗は「下宿はお止め下さい。私も家康公の御首を何度か狙ったことがございます」と言って徳川家光を説得した。以後、徳川家光は下宿を行わなくなったという。
  1634年頃から、体調が悪くなり始めた伊達政宗は、1636年の正月に、死が近いことを感じたようだ。
  1636年4月18日、母・義姫を弔う保春院の落慶式を終えた後、城下を散策した伊達政宗は、自分の墓の場所を経ヶ峰(仙台市青葉区)にするように指示。その後、具合は悪くなるばかりだったが、2日後に伊達政宗は江戸へ参勤交代に出発し、途中の郡山で嘔吐が激しく、何も食べられない状態となったが、絶食状態のまま4月28日に江戸に到着し、5月1日に徳川家光に謁見した。
  5月21日、将軍・徳川軍家光が、自ら伊達政宗の見舞いに出向いた際、伊達政宗は無理をして服装をただして迎えている。5月23日、臨終が近くなり、妻の愛姫や娘の五郎八姫が面会を願い出たが「伊達男」の名にふさわしく、見苦しいところを見せたくないと断り、伊達政宗は遺言と形見の品を贈った。5月24日の早朝6時、伊達政宗は江戸桜田邸にてその生涯を閉じた。享年70(満68歳没)。死因は癌性腹膜炎あるいは食道癌と推定されている。将軍家は、江戸で7日、京都で3日人々に服喪するよう、御三家以外では異例の命を発している。
  5月26日には嫡男・伊達忠宗への遺領相続が認められた。伊達政宗の遺体は、束帯姿で木棺に納められ、防腐処置のため水銀、石灰、塩を詰めた上で駕籠に載せられ、生前そのままの大名行列により6月3日に仙台へ帰国。殉死者は家臣15名、陪臣5名。遺体は遺言どおり経ヶ峰に葬られ、1637年、伊達忠宗によって経ヶ峰に「瑞鳳殿」が建てられた。


伊達政宗殉死者の墓
  1974年には伊達政宗の墓の発掘調査が行われ、遺骨の学術的調査から身長は159.4cm(当時の平均的身長)であることや、 遺骸毛髪から血液型がB型であることが判明した。
  歯周病により上あごの左右の犬歯以外はすべて抜け落ちており、1589年に米沢で落馬して骨折した時のものと思われる、左腓骨の骨折の跡も見つかった。
また、副葬品として太刀、具足、蒔絵を施した硯箱、鉛筆、懐中日時計兼磁石、懐中鏡、煙管、銀製ペンダント、黄金製のロザリオなど、30余点が確認され、その一部は、現在仙台市博物館に収蔵・展示されている。

名懸衆
  玉堂さまより賜りました投稿内容「名懸衆」に関して、下記の通り本文内に加筆させて頂きます。
  伊達政宗の家臣団に「名懸衆(なかけしゅう)」と呼ばれる下級家臣団がいた。
天正17年(1589年)の「伊達天正日記」の中に戦に動員できる領内の人間を鉄砲玉の数や矢の数で記録した台帳(「玉日記」・「矢日記」)が残されている。
また、同日記の中に在郷(地方)の名懸衆という位置付けで野臥(のぶし)の台帳「野臥日記」も含まれている。
  野臥の中には屋敷に住み使用人を持つ経済力の高い者もおり、主従関係は様々であったと推測される。使用人もまた戦の動員数に数えられている。
  1600年に伊達政宗が上杉領であった白石城を攻め落とした戦の際、直江兼続が送った援軍と戦った野臥は伊達家名懸衆ということになる。文中では「刈田郡小浜村で伊達政宗に味方する百姓・野臥の集団…」と書かれいるが刈田郡小原村が正しい地名で、野臥達の名は「小原十八騎」(または小原十九騎・小原二十騎)である。直江兼続の部隊を相手に戦ったとさりげないるが、そう簡単なものではない筈である。
 刈田郡小原(現在の白石市小原)は白石城から近い山中に位置する。遠くまで見渡せる山と険しい谷が点在し、渓谷を流れる白石川には鮎や鱒が上り温泉(小原温泉)が湧く恵み豊かな山里である。しかし幕末まで峠を遠回りする道を使用している。野臥日記の小原村の記載には御大領(伊達家ゆかりの地)や伊賀分・伊賀近衆との記述がある。
想像は膨らむが消されたかのように記録が少ない。