佐倉惣五郎

義民・佐倉惣五郎
 佐倉惣五郎(さくら そうごろう)は、江戸時代前期の下総国・佐倉藩の義民として知られている。佐倉惣五郎は下総国印旛郡公津村(千葉県成田市台方)の名主で、本名は木内惣五郎とされている。

 佐倉惣五郎は江戸時代の百姓一揆の義民として有名であるが、有名なのは芝居として上演されたためで、史実ではなく伝説としての色彩が濃い。そのため惣五郎は架空の人物で、実在しなかったのではないかとする研究者もいた。しかし村名寄帳に「惣五郎」という富裕な農民が実在しており、佐倉惣五郎の話は実話で、その田畑や屋敷の大きさから「惣五郎」は名主か大庄屋だったとされている。

 惣五郎の住む公津村は佐倉藩領だった。藩主・堀田正盛が三代将軍家光の死に殉じ、子の正信の代になって急に年貢・諸役の増徴を始めた。佐倉藩領は1644年からの凶作でかなり疲弊していたが、そのうえの重税ということで、百姓たちは困窮の極みに達していた。 そこで惣五郎をはじめとする藩領村々の名主たちは、百姓たちの窮状を代官や奉行および家老たちに訴えたが、その訴えは取り上げてもらえなかった。百姓たちは一揆を起こそうとするが、惣五郎ら名主はそに動きを押さえ、名主たちの連判状を持って江戸の藩邸へ訴え出た。これは「代表越訴型一揆」であるが、江戸の藩邸では却下されてしまった。惣五郎らは老中・久世広之に駕籠訴をしているがそれも成功しなかった。

 村の暮らしは困る一方であった。こうなると姓一揆の蜂起を食い止めるには将軍への直訴しかないと考えた。「将軍様が上野へお墓参りに行く」という話を聞きつけ、そこで惣五郎は四代将軍家綱が上野寛永寺に参詣するときを狙って越訴に及んだ。一人で将軍への直訴を決意したのである。

 こうして惣五郎は将軍の駕籠に駆け寄って直訴を行い、直訴の結果、藩主の苛政は収まり領民は救われた。しかし惣五郎夫妻は磔となり子4人も死罪となった。訴えは聞き入れられたので最低限の目的は達成できたことになった。

 大名行列でさえ土下座で何時間も見送らなければならない時代に、将軍の駕籠の近くまで行けるものなのか疑念があるが、処刑後、惣五郎の遺体は地元の東勝寺の澄祐和尚が引き取り成田市の東勝寺(宗吾霊堂)に遺骸を埋葬している。

 惣五郎に訴えられた佐倉藩主・堀田正信が、16660年に突然幕政を批判した文書を幕閣に叩きつけ、勝手に佐倉へ帰るという奇行をはたらいた。大名は地元に帰るときには許可を取らなければならなかったので、あの知恵伊豆・松平信綱も「狂気としか言いようがない」と厳しく非難した。
 1ヶ月も経たないうちに処分が決まり、堀田正信は改易の上で弟の飯田藩主・脇坂安政にお預けの身となり、1672年には安政の領地替えのため、小浜藩主で同族の酒井忠直の元へ預けられた。しかし5年後に抜け出し、阿波徳島藩主・蜂須賀綱通に再三預け変えられるという不思議な経緯をたどっている。堀田正信は「ハサミで喉を突く」という珍妙な方法で殉死した。

 この一連の奇行が「惣五郎の呪い」とされ、霊を鎮めるために惣五郎の墓が地元に作られた。「堀田正信は恥をかかされたため、惣五郎を腹いせに拷問の後処刑し、その惣五郎恨みが正信に祟っただけでなく、佐倉藩のお偉いさんも次々と怪死た」「佐倉周辺で血まみれの惣五郎の怨霊が目撃された」など余談に事欠かない。
  この話は領主・堀田氏の重税に苦しむ農民のために将軍への直訴をおこない処刑された「佐倉惣五郎義民伝説」で知られ、代表的な義民として名高い。これが史実かどうかは確認できないが、惣五郎の義民伝説は江戸時代後期に実録本や講釈・浪花節、歌舞伎上演などで広く知られるようになった。

 江戸時代後期以降から近代にいたるまで、日本全国で30か所あまり佐倉惣五郎を祀る祠や神社が各地に造営されている。

 惣五郎の話で鍵となる「直訴」のほうにも注目してみると、明治時代の田中正造の件で多くの人が「直訴は問答無用で死刑」というイメージを持っている。しかし江戸時代の庶民が殿様やご家老に何かを訴えること自体は禁じられていなかった。武士と庶民の間で訴訟になり、庶民側が勝訴した件も珍しくない。庶民が安々と将軍やその他お偉いさんのそばまで行って訴えることが問題なのである。「困っているように見える人」が本当に困っているとは限らない。最悪の場合、凶器を隠した曲者という可能性もある。もしも直訴を日頃から受け付けていたら、庶民を装った刺客に暗殺されるかもしれない。だからこそ「訴えがあるならちゃんとした手続きを踏みなさい」となっているのである。通常では一般農民→庄屋→大庄屋→代官・郡奉行→家老・藩主→幕府老中・将軍という順序になる。

 日本では戦前までは、お偉いさんが講演中にいきなり刺されたり、公邸に侵入されて暗殺されたりといった事件がたびたびああった。戦後はほんの数件なので、く印象が違うが、何かしらの恨みがあって殺人に発展してしまう事件が絶えていないことはないであろう。法治国家の現代人であれば、踏むべき手段を踏んで問題解決をしないといけない。

 百姓一揆には3つの種類があり、それらは代表越訴型一揆、惣百姓一揆、世直し一揆である。佐倉惣五郎は代表越訴型一揆で有名であるが、その他、磔茂左衛門の話もある。

 

磔茂左衛門

 1634年、杉木茂左衛門はに上州(群馬県)沼田領月夜野に生まれた中流の百姓であった。第5代沼田藩主となった真田信直は、177の農村の領民から5倍の年貢を納めさせていた。農具や藍染の着物、子供の産着などにも税金をかけ、徹底的に農民から年貢を搾り取り、滞納者には残酷な刑罰を処した。年貢を納められない農民たちは、死ぬか夜逃げするしかない状況であった。
 そんな農民たちのために命をかけて立ち上がったのが茂左衛門であった。当時、定められた合法的手続きを踏まず、直接権力者に訴えることを直訴といい、直訴は禁止されており、事の成否にかかわらず訴願人は処刑された。茂左衛門は第5代将軍徳川綱吉に真田信直の悪政をやめさせるため直訴に向かう。しかし江戸城では門前払いである。そこで諦めないのが茂左衛門であった。何とか将軍に惨状を伝えなければならないと、知恵を絞った。茂左衛門は訴状に金菊の紋章を付け、高蒔絵の文箱に納め、上野輪王寺宮御用箱に似せて作り、中仙道板橋の茶屋にわざと置き忘れた。これは大変な忘れ物と茶屋の主人が輪王寺に届け、見事茂左衛門の訴状は将軍綱吉に届いた。真田信直は幕府から罰せられ沼田城は改易となった。
茂左衛門は暫く姿を隠していたが、故郷の様子を見るため妻子の待つ我が家に戻ったところ、幕府の隠密につかまった。茂左衛門は妻とともに磔にされ処刑された。以前から領内の名主から減刑の懇願があり、幕府は処刑当日に早馬を走らせ減刑を伝えるが時すでに遅かった。
茂左衛門はその命と引き換えに177村の農民を救った。茂左衛門は現在も群馬県の英雄であり、その名を知らない者はいない。
 群馬県民なら誰でも知っている「上毛かるた」郷土かるたで、子供たちに群馬の歴史、文化を伝えたいという趣旨から、群馬県の人物、地理、風物などが幅広く読まれている。小学校などで盛んに行われ、子供時代を群馬県で過ごした人は、かるたの読み札をほぼ暗記している。この上毛かるたの「て」で読まれるのが茂左衛門である。


確認できる生涯
  堀田氏時代に公津村名寄帳によって「惣五郎」という富裕な農民が実在していたことは確かである。堀田氏時代に公津村の「総五」が何らかの罪によって処刑されたこと、「総五」が冤罪であると主張して城主を罵りながら死んだこと、堀田氏の改易(1660年)が「総五」の祟りとみなされたこと、このために「惣五宮」という祠が建てられたことが記されている。しかし惣五郎が一揆や直訴を行ったということを確認できる史料はない。
さまざまな説
  惣五郎がかかわったのは千葉氏再興運動であったという説もある。また事件の原因についても、過酷な年貢、隠し田摘発のための検地、利根川付け替え工事などの諸説が挙げられている。鏑木行廣は、1653年に行われた公津村の分村(台方村など5か村に分割された)と翌年の検地による年貢負担増加を史料で確認し、惣五郎が何らかの行動を起こしたのではないかと推測している。
  現在伝わる「惣五郎の直訴状」とされるものは後世の作であったにしても、主要な要求の内容は江戸時代初期の特徴を持っているとし、「惣五郎を中心とした反領主闘争があったことも否定しえない」と評価している。
伝承されることがら
  佐倉惣五郎の伝承は、江戸時代後期以後成立した、『地蔵堂通夜物語』や『堀田騒動記』といった実録本、講談『佐倉義民伝』に記される。各種の物語には、相互の矛盾点や事実に反する点もある。
出自
  下総国印旛郡の堀田領内佐倉城下に生まれ、本名を木内惣五郎という。肥後国五家荘には、五家荘葉木の地頭・緒方左衛門の子で、下総の木内家の養子になったという伝承がある。
直訴と処刑
  佐倉藩主堀田正信は新たに重税を取り立て、領民の暮らしは困窮した。全領の名主たちは郡奉行や国家老に重税の廃止を求めたが拒絶され、さらに江戸に出て江戸藩邸に訴えても(門訴)取り上げられず、惣代6人が老中に駕籠訴を行ったがこれも退けられた。
 このため惣五郎は1人で将軍に駕籠訴を行った。『地蔵堂通夜物語』では承応2年(1653年)とされ、上野寛永寺に参詣する四代将軍の徳川家綱に直訴したという。『堀田騒動記』では正保元年(1644年)とされており、将軍は三代徳川家光になる。
直訴の結果、訴えは聞き届けられ、佐倉藩の領民は救われた。しかし、惣五郎夫妻は磔(はりつけ)となり、男子4人も死罪となった。
成田市の東勝寺(宗吾霊堂)によれば、東勝寺の澄祐和尚が公津ケ原の刑場に遺骸を埋葬したといい、寺地内にある現在の「宗吾様御廟」であるという。
怨霊譚と顕彰・信仰
上述の通り『総葉概録』(1715年成立)には、惣五郎が堀田氏に祟るようになったという説や、佐倉藩主堀田正信の改易が、惣五郎の怨霊によるものという説が載せられている。公津村を中心に、藩との訴訟に敗れ処刑された惣五郎が堀田氏を滅ぼし、人々が将門山に彼を祀ったことが伝えられていたようである。
4代目天中軒雲月の「佐倉義民伝」放送用原稿。宗吾霊堂宝物殿にて。
浪曲師、春日亭清吉の寄進した玉垣。宗吾霊堂(宗吾親子の墓)にて。
  3代目神田伯山の寄進による玉垣。宗吾霊堂(宗吾親子の墓)にて。
延享3年(1746年)、佐倉藩主として堀田正亮が入封した(正信の弟である堀田正盛の子孫にあたる)。正亮は将門山(現在の千葉県佐倉市大佐倉)に惣五郎を祀り「口の明神」と称した。また、宝暦2年(1752年)は惣五郎親子の百回忌の年であるとして(承応2年(1653年)8月4日が処刑日とみなされた)、口の明神を造営し、「涼風道閑居士」の法号を謚して、以後春秋に盛大な祭典を行った。寛政3年(1791年)には堀田正順が惣五郎に徳満院の院号を送り、石塔一基を寄進。文化3年(1804年)には堀田正時が惣五郎の子孫に供養田を与えた。惣五郎を佐倉藩堀田家が公認したことで、18世紀後半に惣五郎物語の形成が進むことになった。
  江戸時代後期以降近代にいたるまで、佐倉惣五郎を祀る祠や神社が各地に造営された。鏑木行廣によれば、日本全国で30か所あまりが確認できるという。東勝寺は明治時代に佐倉惣五郎の霊を祀る宗吾霊堂を建てており、寺そのものが「宗吾霊堂」の通称で知られる。東勝寺は「宗吾様」を本尊としている。大佐倉の「口の明神」(口ノ宮神社)は大正時代に火災で社殿を失うものの、隣接する将門神社と合わせ将門口ノ宮神社となり、平将門とともに祭神として祀られている。
  長野県飯田市上飯田字實山の松川入佐倉神社は寛文12年(1671年)以前の創建と伝えられており、惣五郎を祀る神社では最も古いものとされる。堀田正信は飯田藩主脇坂安政(正信の実弟)に預けられていた時期があり、惣五郎のことなどで気を病んだ正信の心を休めるために脇坂安政夫人が御典医と相談し、惣五郎を祀る小祠を建てたのが起源と伝えられている。飯田市地域には惣五郎を祀る祠や神社が多数(少なくとも11か所)ある。長野県飯田市北方の佐倉神社は、昭和の不況で農村社会に不安が広がる中、宗吾霊堂の神霊を勧請して1932年(昭和7年)に創建された。
  東京都台東区寿三丁目の宗吾殿は、近江国宮川藩堀田家(堀田正信の子孫の家系)が屋敷内に祀ったもので、享和5年(1803年)に行われた法要のころに建立されたと考えられている。戦災の後、昭和28年(1953年)に有志によって再建されたが、2017年に解体された。
新潟市中央区の古町愛宕神社境内社である口之神社は、口ノ宮神社からの分霊を受けて1884年(明治17年)に創建されたもので、地元で起こった新潟明和騒動の義民も併せて祀り顕彰した。


作品化
宝暦年間(1751年 - 1764年)以後成立の実録本『地蔵堂通夜物語』や、講釈師石川一夢・初世一立斎文車らによる『佐倉義民伝』が編まれた。
  最初の舞台化作品は、三世瀬川如皐による歌舞伎狂言『東山桜荘子(ひがしやまさくらそうし)』(1851年、江戸中村座初演)である[22f。本作では舞台を室町時代に、主人公の名を「浅倉当吾」とした。なお、この作品は歌舞伎史上はじめて「農民一揆」を扱った作品で大当たりとなり、以後「義民物」と呼ばれる一ジャンルの嚆矢となった。明治時代後期以後は役名を実名どおり上演され、題も『佐倉義民伝』で定着することとなった。
こうした物語や芝居に取り上げられたことで(「佐倉義民伝」はこれら一連の作品の総称ともなっている)、佐倉惣五郎は義民として知られるようになった。歌舞伎、講談、浪曲、前進座など様々な芸能で「佐倉義民伝」として、今も繰り返し演じられる人気演目となっている。


現実の思想・運動への影響
  林基は、『東山桜荘子』における藩主・収奪派家老・善政派家老の台詞から、幕末期の民衆の社会意識・政治意識を見ることができると評している。
幕末から明治初年の一揆では、惣五郎の物語が組織化に使われるケースもあった。たとえば安政6年(1859年)に信濃国伊那谷の白河藩飛地領で起きた南山一揆の指導者小木曽猪兵衛は、佐倉惣五郎を講釈に仕立てて一揆を組織したと言われている。
石川半山は田中正造に「君はただ佐倉惣五郎たるのみ」と、明治天皇への直訴を促したと言われている。
社会運動家や思想家は、それぞれの立場から自らの主張の先駆者として「佐倉惣五郎」を称揚した。幕末期から明治時代の思想家である福澤諭吉もその一人で、「古来唯一の忠臣義士」としてその名を挙げている。自由民権運動家たちは民権運動の先覚者の姿を見、昭和恐慌や戦後改革の際にも新たな解釈とともに想起されることとなった。


文化に与えた影響
  惣五郎の逸話をモデルにした作品として、第17回小学館文学賞を受賞した児童文学短編『ベロ出しチョンマ』(1967年)がある。作者である斎藤隆介自身が惣五郎の逸話をもとにした創作であると解説している。
漫画『平成義民伝説 代表人』には、惣五郎の子孫とする設定の人物が登場する。