武田信玄

 武田信玄は戦国時代を代表する名将とされ、その名声は現在でも揺ぎない。信玄が父親を追放して家督を継いだ時点で、所領は20万石前後であったが、信玄が死亡した時点では100万石だったとことから、30年程かけて所領を約5倍にしたことになる。戦国時代に1代で信玄に匹敵する所領の拡大をしたのは、毛利元就と織田信長くらいで、それゆえ戦国時代において武田信玄は有数の名将であることが分かる。日本の歴史という大きな視点に立てば織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は三英傑と呼ばれ、武田信玄と上杉謙信は地方の有力者と見る方が自然かもしれないが、それでも戦国時代の大名たちの中では武田信玄と上杉謙信は破格の扱いをされている。
 なお信玄の名は出家してからのもので、元服してからは晴信と名乗るが、ここでは混乱を避けるため信玄の名前に統一する。

 

武田信玄と周辺地域
 甲斐(山梨)の武田氏は、平安末期から甲斐源氏として甲斐に根を下ろしていた。武田氏の先祖は源義家の弟・源義光で、甲斐源氏はもともと清和源氏を祖としていた。源義家の子孫には源頼朝がおり、武田氏は室町時代から甲斐国の守護を独占していた。

 しかし一族間の争いや有力な国人たちの反抗もあって甲斐国は混乱しており国内を統一する事はできなかった。武田信玄の父・信虎の代になって、館を石和から躑躅ヶ崎(甲府市)に移し、反抗する一族や国人たちを従わせて1532年頃に甲斐を統一していた。
  甲斐は武蔵(埼玉、東京、神奈川)・相模(神奈川)・駿河(静岡)・信濃の国々に囲まれ、これらの国々には力を蓄えた戦国大名がいた。特に鎌倉公方を補佐していた関東管領の山内上杉氏、相模の北条氏、駿河の今川氏は強大な軍事力を持ち、信玄の父・信虎は彼らと戦い、時には和睦を結ぶという戦術を用いて対応してきた。

 駿河国と和睦するために、父・信虎は今川義元に娘を嫁がせ同盟を図り信濃へ領地の拡大をめざして信濃国・佐久郡へ侵攻した。その後、父・信虎は小県の名族・海野氏を破ったが、海野平の戦いの後、武田信玄は父・信虎を駿河の今川氏の元へ追放し、信玄は信濃国への侵攻を本格的に始めた。

 信玄の幼少期については良くわかっていないが、最初の結婚は1533年で、相手は関東地方の名門・扇谷上杉朝興(ともおき)の息女だった。この正室は出産時に母子ともに亡くなり、それから3年後に元服して晴信と名乗った。これは室町将軍・足利義晴から「晴」の字を賜り、同年7月には左大臣・転法輪三条公頼(きんより)の二女、三条夫人を継室に迎えている。
 結婚相手が扇谷上杉や京都の公家というと、両家共に名家であり、父・信虎は信玄を嫡男と位置づけていたことがわかる。

 

・信虎の追放
 信玄の父・信虎は甲斐を統一しただけあって、なかなかの人物であったが、この信虎が信玄によって駿河に追放された。父が子を殺し、子が父を殺す戦国時代ではあるが、武田親子はそこまで対立していたわけでもなく、信玄の父追放は悪逆非道の行為として上杉謙信をはじめ多くの武将から非難された。

 しかし追放には様々な理由があって、父・信虎は信玄ではなく弟の信繁を偏愛し、廃嫡しかねない状況から信玄が父の追放を決めたとされている。また父・信虎には残忍な性格であったという話もあるが、信玄の行為を正当化させるための脚色の可能性がある。

 さらに百年に一度と言われるほどの飢餓が背景にあり、信虎追放まで数年間、凶作、災害が相次ぎ、信玄は領主を交替すると徳政を行ない、合理的で冷静でな判断のもと信玄は父を追放したのである。また家臣の支えなければ追放は不可能であり、家臣の支持があったことは間違いない。

 父を追放し家督を相続した信玄が、まず攻めたのが諏訪頼重であった。諏訪家には妹の禰々が嫁いでおり、嫡男・寅王丸が生まれたばかりだった。姻戚関係を結んでいた諏訪家を攻めたがこれには信玄なりの言い分があった。

 諏訪頼重は信虎追放の混乱の最中に、同盟していた信玄や村上義清に無断で敵方である上杉憲政と講和し、先に裏切ったのは諏訪頼重だったのである。信玄は信濃国の諏訪頼継を攻めて追放すると、佐久地方から上伊那地方にかけて兵を進め、続いて現在の上田地域を支配していた村上義清と上田原で戦った。この戦いでは負け戦さとなったが、最終的には村上氏を越後へ敗走させ、川中島の戦いを経て北信濃をその支配下に治めた。なお信玄は信玄は諏訪頼重を切腹に追い込んでいる。

 

信玄の戦い
 度重なる信濃への侵攻のあと、村上義清を攻め「上田原の戦い」において、重臣の板垣信方や甘利虎泰らを失うという惨敗を喫した。信玄にも若さゆえの驕りがあったのだろうが、この敗戦による影響は甚大で信濃征服が無になるほどの危機に陥った。しかし直後の「塩尻峠の戦い」で挽回すると反武田の動きを封じこめた。

 実際に村上義清の反撃はここまで、村上義清は越後の長尾景虎を頼り落ち延びる他なかった。このとき目覚ましい活躍したのが真田幸綱(真田昌幸の父、真田信之・真田信繁兄弟の祖父)であった。

 1554年、武田信玄、北条氏康、今川義元の三者は今川家の軍師的僧侶・太原雪斎の発案で互いに婚姻関係を結び「甲相駿三国同盟」を締結させた。武田側は、今川、北条とともに「敵を絞りやすくなる」という利点がありこれを享受する。

 この頃、今川義元の娘を娶っていた信玄の嫡男・義信は父・信玄と不仲となり自害させられた。このことにより今川氏と断交すると、同時に今川氏真が北条氏康の娘を娶った関係から北条氏とも断交になった。

 その結果、今川・北条・上杉という同盟の中で武田家は孤立した。北条氏は上杉謙信に信玄への出兵要請をするが謙信は動かず、信玄は西上野をほぼ手中にするとさらに甲斐の南へ進出を図った。

 この間、今川領である駿河と遠江の分割を徳川家康ととりかわして武田信玄は徳川家康と同盟を結んだ。その後、武田信玄と徳川家康の間に亀裂が生まれ反目しあい、家康は上杉と同盟して、先の三者の同盟に家康が加わって情況はさらに悪くなった。
 翌年、北条家は当主・氏康の死を契機に、上杉との同盟関係を解消して武田と再び同盟関係を結ぶ事になった。戦国時代は生き延びるために互いの利によって同盟関係の離合集散が繰り返された。

 

風林火山

 武田信玄といえば「風林火山」の旗印がある。「其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山」(疾きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如く)で、これは孫氏の兵法より引用したものである。

 戦国時代には軍隊の移動は風のように速く、敵に近付く時は林のように静かに動き、攻撃するのは火のように勢い強く、待つ時は山のように動かないという意味である。この行動する時は風のように素早く、林のように冷静に考え、攻める時は火のように攻め、動かな時は山のように動かないことは現在でも通じることである。

 信玄がこの「風林火山」を標榜した裏には、意図的に孫子原典から省いた「難知如陰、動如雷霆」の二節がある。「陰の如く真意を隠して、激雷の如く突然行動を起こす」これこそが孫子軍争篇第七の奥義である。「風林火山」は下士官が心掛けるべきことで、信玄は下士官と兵卒に「風林火山」の標語を守らせるべき軍内に布告したのである。

 これ対して「陰雷」は大将が心掛けるべきことで、軍隊の真の行動目的や仕掛けは情報の漏洩防止から首脳部にすら秘匿にすべきとしている。つまり信玄の人生はまさに陰雷であった。青年期は父・信虎から身を護る為に真意を隠して父の警戒心を和らげ、臆病者を装って父・信虎を突然追放している。この成功が武田信玄の戦略癖を形作り、生涯を通して信玄は真意を隠して奇襲を続けた。

 駿相甲三国同盟も大井川同盟も、足利義輝が仲介した上杉停戦条約も全て信玄は破約している。裏切りが日常茶飯事の戦国の世において、信玄が破約の常習犯であった。そのため「故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、難知如陰、不動如山、動如雷霆」の一文から自分の行動原理である陰雷を除外して「風林火山」を掲げたのである。


家臣団の起請文
  信玄は先に父・信虎を駿河に追放し、さらに飯富虎昌ら重臣に詰め腹を切らせ、子の義信を幽閉して自害させたことから、他の家臣の心が自分から離れることを恐れた。このような情勢の中で駿河・遠江方面へ進出したが、もし留守中に信濃・西上野の武士たちが反旗をひるがえせば取り返しがつかないことになる。そのためこの動きを警戒して、家臣たちに神前で起請させている。
  これが下之郷の生島足島神社に現在も残されている83通の起請分で、甲斐・信濃・西上野の237人の将士から署名・血判の上、起請文を書かせている。

 なお24武田将とは、武田信玄に仕えた武将のうち、後世に講談や軍記などで一般的に評価が高い24人をさしているが、武田家家臣団24将は語呂が良く言いやすく使われている。


人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり
 武田信玄は父を追放し家督を継ぎ、実の息子を謀反の疑いで教育係共々切腹させたことより、普通であれば非道の人間であり、恨みをかいそうな気がする。しかし武田信玄は領民から人気があり、また配下からも信頼され、切腹させられた目付け役の兄弟は、武田軍の中心として活躍し信玄は絶大の信頼を寄せられている。

 同様に、どれだけ城を強固にしても人の心が離れてしまえ国を収めることができないことを知っていた。信玄にとって熱い情を持って接すれば、家臣や民は強固な城以上に、また石垣や堀と同じように自分を守ってくれる。家臣や民に情けをかければ、自分が危険になれば助けてくれることを知っていた。家臣や民に恨みをかうようであれば、あるいは仇と感じるような振る舞いをすれば、いざという時に自分は裏切られることになる。常に感謝の心を忘れず、行動や言動に気を付れば、人は城や石垣と同じように、また堀と同じように自分を守ってくれる。武田信玄はこのように人心を掌握していた。戦国時代と言えば大名は堅固な城に住んでいるのが普通であったが、武田信玄はこの言葉の通り城を持たず躑躅ヶ崎館を拠点にしていた。

 

民のため(信玄堤)

 戦国武将は優れた土木技術者でもあった。武将が多くの資金や労力をかけて技術を磨き、土木の仕事を行ったのは、古来より災害の多い日本独特の自然環境にあった。梅雨や台風で雨が多く、山は海まで迫っているので、日本の川は勾配が急だった。信玄はこの水の猛威などの自然災害と戦いながら、民の命・財産・領地を守ってきた。農民は米作りと同時に兵でもあったので、信玄は道や橋を造り、暴れ川を治めるなどの土木技術に力を注いだ。

 甲府盆地を流れ川は「釜無川」と呼ばれ、八ヶ岳の方から注ぐ釜無川は甲府盆地に差し掛かると、笛吹川と合流して富士川となって静岡側に流れる。

 その合流の手前では大雨による洪水が度々発生していた。特に釜無川が甲府盆地に入って向きを変える竜王の辺りでは、特に洪水が起きやすかった。そのため武田信玄は20年以上に渡り堤防工事を行い、川の流れを制御して洪水を緩和した。これが甲斐市竜王にある信玄堤である。甲斐の守護・武田信玄により信玄堤は築かれ、この堤防工事は江戸時代に入ってからも甲府藩が行っている。

 

関東を巡る上杉・武田・北条の対立
 1551年、上野では関東管領・上杉憲政が北条氏康の攻撃を受けて本拠地の平井城(藤岡市)を攻め破られ、それ以来、衰退の一途をたどり、上杉憲政は厩橋(前橋)から越後に入って上杉謙信の庇護下に入った。その前後から上杉謙信と北条の対立は激しくなってきた。
 信玄はいちはやく北条氏と手を組んで、1554年12月に娘を北条氏康の嫡子・氏政に嫁がせ同盟関係を結んでいる。そのため武田氏の上州侵攻は「北条支援」の名目で始められた。

 一方の上杉謙信は1559年2月に京へのぼり、半年以上滞在して将軍・足利義輝から関東管領職になることを許されて帰国している。1560年、関東の前・管領上杉憲政は上杉謙信に助けを求め、謙信はそれに応じて北条氏康・氏政親子を小田原城に包囲した。しかし結局攻略できないまま謙信は鎌倉に入り、鎌倉鶴岡八幡宮の神前で憲政から正式に上杉姓を譲り受け、上杉輝虎と改名して関東管領に就任した。

5回に渡る川中島の戦い
 武田信玄が村上義清を追い落とすと、攻略は北信濃のあの有名な川中島の戦いに発展した。川中島の合戦の直接の原因は村上義清が勢いに乗る信玄に追われ、本領を失い謙信に救いを求めたことである。さらに奥信濃の高梨・井上氏らが信玄に不安を感じ、上杉謙信に救援を求めたのである。

 信玄の永遠のライバル・上杉謙信(長尾景虎)との川中島の戦いは12年の間に5回行われ、信玄は川中島地方の豊かな穀倉地帯を押さえようとした。また武田勢が勢力を伸ばせば、上杉謙信の越後も危うくなったが、川中島の戦いは天下の趨勢を決めたわけではなく、人気と知名度ほど歴史的な重要性はない。

第一回の戦い
 1553年、越後勢は八幡(千曲市)にいた武田軍を追い、さらに武田配下にあった荒砥城(千曲市)、青柳城(筑北村)を破り、さらに麻績(麻績村)、会田(松本市)虚空蔵城まで取り返した。これに対し塩田城にいた武田軍はただちに兵をくり出し、13日の夜、麻績、荒砥城に放火して反撃にでた。この時、室賀山城守信俊の手勢が敵の首七つを取ったとされている。武田側は村上領が奪われることを阻止し、上杉側は村上義清の旧領復帰に失敗したが北信濃国衆の離反を防ぐことができた。7日、越後勢が坂城南条付近まで進出すると、武田軍はこれを迎え撃つが、20日、謙信は急に兵を引き上げた。これは謙信が弾正少弼に任ぜられ、従五位に序せられたので朝廷や将軍にその答礼のため、京へ上る期日が迫っていたからである。

第二回の戦い
 1555年、「甲相駿三国同盟」締結で後顧の憂いをたった武田信玄は総力をあげて川中島に乗り出した。4月、犀川南岸の大塚(更級郡)に本陣をすえると、武田方の善光寺堂主・栗田寛明が守る朝日山城に兵三千、弓八百張、鉄炮三百挺を送り上杉軍を牽制した。

 7月には謙信は善光寺脇の横山城(長野市城山公園)に陣を取り旭山城をはげしくせめたが落とすことはできなかった。長期間の滞在で両軍は疲れ、今川義元の仲裁により和睦した。

 武田信玄は旭山城を破壊してもとの状態に戻し、犀川から北が謙信、南は信玄という条件で合意した。しかしこれで村上氏が故郷へ帰ることは絶望となり、この戦いで信玄は戦功のあった浦野新右衛門貞次に「いよいよ忠信を抽んずるように」と感状を与えている。
 翌年、信玄は前年の謙信との講和を破って、犀川を渡って北への進出をはかり、更級郡の香坂筑前守、高井郡の井上左衛門尉、市川信房を味方に引き入れて着々と北信侵攻の準備をすすめた。

第三回の戦い
 1557年2月、雪の降る時期で身動きのできない越後軍の不意をついて、武田軍は善光寺の西北にある葛山城を攻め落城させた。

 続いて信玄は北に進み長沼城(長野市)・大倉城(長野市)を攻め、さらに戦線を伸ばして飯山城に迫った。上杉謙信は葛山城の落城を知ると、家臣にあてた手紙に「信州の味方が滅びれば、この国も危なくなる」と書き、越後勢は雪の消えるのを待って、善光寺平に入り4月25日に旭山城を再建して信玄の来襲に備えた。
  上杉謙信の戦いにかける決意は固いものがあり、謙信は同年5月10日、小菅神社(飯山市瑞穂)に戦勝のため願文をささげ、12日には武田軍が建築を始めていた海津城を攻め、坂城の岩鼻(南条)まで迫るが、信玄が兵を引き上げたため戦うことはなかった。この年の7月、北安曇郡の小谷で甲越両軍が激しく戦い、さらに8月に入って上野原(長野市若槻)でも激しい合戦をした。
 将軍・足利義輝はこの甲越の戦いで信玄と謙信に和平の内書を送り、二人もこれを承諾したため兵を引き上げた。この間、信玄は将軍義輝から信濃国守護に任ぜられ、1559年2月に信玄は出家して名を「晴信から信玄」に改めた。一方謙信は京へ上り、約半年間滞在して、将軍・足利義輝から関東管領職に任じられ同年10月に帰国した。
  謙信の上洛中、信玄は、9月1日に生島足島神社で越後勢に勝利するよう神の加護を賜りたいと願文を奉納している。

第四回の戦い(啄木鳥戦法)
 川中島の最大の戦いで、一般的に「川中島の戦い」というと大半の人がこの戦いを連想するすほど有名である。

 1561年4月、信玄の兵が碓氷峠から国境を越えて上野の松井田や長野原に侵入したため、その裏をねらって上杉謙信は春日山城を出て、8月15日に善光寺に着陣し、荷駄隊と兵5000を善光寺に残すと、謙信自ら兵13000を率いて南下し、犀川・千曲川を渡り長野盆地南部の妻女山に陣取った。

 信玄は8月24日に兵2万を率いて長野盆地西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した。これにより妻女山を海津城が包囲する布陣となった。そのまま睨み合いが続き、武田軍は戦線硬直を避けるため、29日に川中島の八幡原を横断して海津城に入城した。謙信はこの時、信玄よりも先に陣を敷き海津城を攻めることができた。海津城を落とせば戦局を有利に進めることができたが攻めることはなかった。攻めなかった理由は不明だが、この海津城の存在が戦場で大きな意味を持つことになる。
 さらに睨み合いが続き、士気の低下を恐れた武田氏の重臣たちは、上杉軍との決戦を主張した。謙信の強さを知る信玄は慎重で、軍師・山本勘助に上杉軍撃滅の作戦を命じた。

 山本勘助は兵を二手に分け、別働隊を妻女山の上杉軍を攻撃させ上杉軍が勝っても負けても山を下るので、これを平野部に布陣した本隊が待ち伏せして別働隊と挟撃して殲滅する作戦をとった。これは啄木鳥(きつつき)が嘴(くちばし)で虫の潜む木を叩き、驚いて飛び出した虫を喰らうことに似ていることから「啄木鳥戦法」と名づけられた。

 9月9日深夜、高坂昌信・馬場信房らが率いる別働隊1万2千が妻女山に向い、信玄率いる本隊8000は八幡原に鶴翼の陣で布陣した。しかし上杉謙信は海津城からの炊煙がいつになく多いことから、この動きを察知する。

 謙信は物音を立てることを一切禁じて、武田の別働隊が来る前に、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川の対岸に渡った。これが頼山陽の漢詩「川中島」の一節、「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)の場面である。謙信は甘粕景持、村上義清、高梨政頼に兵1000を与えて渡河地点に配置し、武田軍の別働隊に備えた。謙信自身はこの間に八幡原に布陣した。
 10日午前8時頃、川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て信玄率いる武田軍本隊は動揺した。謙信は柿崎景家を先鋒に車懸り(波状攻撃)で武田軍に襲いかかった。武田軍は完全に裏をかかれ、鶴翼の陣(鶴が翼を広げたように部隊を配置し、敵全体を包み込む陣形)を敷いて応戦したが、信玄の弟の武田信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らが討死するなど劣勢にあった。
 乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に謙信が斬り込みをかけた。上杉謙信は白手拭で頭を包み、放生月毛に跨がり、名刀・小豆長光を振り上げ床几(しょうぎ)に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は床几から立ち上がると軍配でこれを受けた。御中間頭の原大隅守(原虎吉)が槍での謙信の馬を刺すと、謙信はその場を立ち去った。この武者が謙信であった。
 頼山陽はこの場面を「流星光底長蛇を逸す」と詠じている。川中島の戦いを描いた絵画や銅像では、謙信は行人包みの僧体に描かれているが、謙信が出家して上杉謙信を名乗るのは9年後である。信玄と謙信の一騎討ちとして有名なこの場面は、歴史小説にしばしば登場しているが確実な史料上からは確認されない。

 なお一騎討ちが行われた場所は御幣川で、信玄・謙信ともに騎馬で信玄は軍配でなく太刀を持ち信玄は手を負傷して退いたとさてれている。また斬りかかったのは荒川伊豆守だともされている。また謙信自らが太刀を振ったともされているが、激戦であったことは確かである。
 謙信に出し抜かれ、もぬけの殻の妻女山に攻め込んだ高坂昌信・馬場信房が率いる武田軍の別働隊は八幡原に急行した。武田別働隊は上杉軍のしんがりを務めていた甘粕景持隊を蹴散らし、昼前には八幡原に到着した。予定より遅れたが武田軍の本隊は上杉軍の攻撃に耐えており、別働隊の到着によって上杉軍は挟撃される形となった。形勢不利となった謙信は犀川を渡河して善光寺に敗走し、信玄も午後4時に追撃を止めて兵を引いた。上杉軍は川中島北の善光寺に配置していた兵3000と合流して越後国に引き上げた。
 この戦による死者は上杉軍が3000余、武田軍が4000余とされ、互いに多数の死者を出した。信玄は八幡原で勝鬨を上げさせて引き上げ、謙信も首実検を行った上で越後へ帰還している。前半は上杉が有利だったが、後半は武田の有利となった。合戦後の書状では双方とも勝利を主張し、明確な勝敗がついた合戦ではなかった。
 この合戦に対する謙信の感状が3通残っており、これを「血染めの感状」と呼ばれている。信玄側にも2通の感状が確認されている。
 ここでは「啄木鳥戦法」が有名で、両者多数の死者を出すが決着はつかず、頼山陽の「鞭聲粛々」の詩を生み出した戦国時代の代表的な合戦として有名である。

 この戦いで謙信が信玄の本陣に襲いかかり、謙信が信玄に太刀をあびせ、信玄も太刀を抜いて防いだとされている。この戦いで信玄の弟・武田信繁や山本勘助らが討ち死にする大激戦となった。またこの戦いには真田幸隆、信綱親子も加わっており各諸士は武田軍の最前線で命がけの働きをした。

第五回の戦い

 1564年3月18日、信玄は信越国境に兵を出して、野尻城(信濃町)を落とした。しかし、謙信も5月には善光寺に陣を進め信玄を牽制した。
  謙信が上州(群馬)の小泉城主・富岡重朝に送った手紙には「7月29日、川中島に兵を進めた。近日中には佐久郡を通るつもりでいる。その後ただちに碓氷峠口に向かう」とあるように、一挙に勝負をつけようと信玄に挑戦するが、信玄は塩崎まで出陣したが合戦は行われず、60日に近いにらみ合いの末、謙信は10月1日越後春日山に帰らざるを得なかった。
 後世、5回にわたる川中島の戦いは、甲州の勝ちなのか、越後の勝ちなのか、あるいは互角かと話題になるが、川中島で信玄に北上を許したため謙信の劣勢と言わざるをない。謙信は飯山城から高井郡、水内郡の一部を確保したにとどまり、信玄は北信濃のほぼ全域を手中に納めた。

武田信玄の天下人への戦略とその後
 1568年2月、武田氏は徳川氏と同盟を結び、駿河・遠江を東と西から攻め取る約束を交わした。1569年から4年間、信玄は精力的に駿河・遠江・三河方面へ侵攻し、執拗ともいえる攻勢に音を上げた今川・北条氏は越後の上杉謙信に兵を要請し、信玄の動きを牽制するようにとした。特に北条氏は武田氏の駿河侵攻を鈍らせるため要請の手をつくし、その中には岩櫃城の真田幸隆を討ち取ってくれと書いた書状がある。しかし謙信にしても、その度ごとに頼みに応じられる情勢ではなかった。1570年10月、徳川家康は信玄との同盟関係を破り、上杉謙信と同盟関係を結んだ。信玄にすればこれで遠江を公然と攻撃できる名分ができた。
 1572年10月、信玄は四男・勝頼とともに甲府を立ち、甲州・信州の大軍を率いて伊那谷を一気に下り遠江に侵入して、12月22日、遠江三方ヶ原で徳川・織田両軍と戦い大勝を得ている。
 この戦いは圧倒的な数を誇る武田軍が優勢で、家康は命からがら浜松城に逃げ帰るという大敗を喫し、その後、武田軍は浜松まで追撃したが、深追いすることなく三方ヶ原に近い刑部で年を越している。
 1573年2月、信玄は刑部の北西にある野田城を攻略したが、このころから信玄の病状が悪化し、長篠を経て鳳来寺に移って療養に専念が一向に回復に向かわなかった。信玄は馬にも乗れない状態だったので輿に乗せられ、3月9日、鳳来寺から帰国につくが、4月12日信州駒場(下伊那郡阿智村)で信玄は死去した。
  前年10月に甲府を出立する時から、信玄の病状は進行しており、この出陣は覚悟の上のことだった。戦国大名の典型ともいわれている希代の英傑もその夢半ばで先陣の露と消えた。くしくも三ヶ月前の1月には、かつての宿敵村上義清も、越後の根知城で寂しく死去している。