武田信玄

 武田信玄は戦国時代を代表する名将とされ、その名声は現在でも揺らいでいない。信玄が父親を追放して家督を継いだ時点での所領は20万石前後であったが、信玄が死亡した時点での所領は100万石だったと推測されることから、30年程かけて所領を約5倍にしたことになる。戦国時代に1代で信玄に匹敵する所領の拡大をしたのは、毛利元就と織田信長くらいで、それゆえ戦国時代において武田信玄は有数の名将と言える。

 

武田信玄と周辺地域
 甲斐(山梨)の武田氏は、平安末期から甲斐源氏として甲斐に根を下ろしていた。武田氏の先祖は源義家の弟・源義光で甲斐源氏は、もともと清和源氏を祖として甲斐に根付いたていた。源義家の子孫には源頼朝がおり、武田氏は室町時代から戦国時代にかけて甲斐国の守護を独占していた。しかし一族間の争いや有力な国人たちの反抗もあって甲斐は混乱しており国内を統一する事はできなかったが、武田信玄の父・信虎の代になると、館を石和から躑躅ヶ崎(甲府市)に移し、反抗する一族や国人たちを従わせ1532年頃に甲斐を統一した。
  甲斐は武蔵(埼玉県、東京都、神奈川)・相模(神奈川)・駿河(静岡)・信濃の国々に囲まれ、これらの国々には力を蓄えた戦国大名がいた。特に鎌倉公方を補佐する関東管領の山内上杉氏、相模の北条氏、駿河の今川氏は強大な軍事力を持っていて、信玄の父・信虎はこれらの敵と戦い、時には和睦を結ぶという戦術を用いて対応してきた。駿河国と和睦するために、今川義元に娘を嫁がせている。
 信虎は、今川氏との同盟が成立すると、信濃国へ領地の拡大をめざして信濃国・佐久郡へ侵攻した。その後、信虎は小県の名族・海野氏を破ったが、海野平の戦いの後、信玄は父・信虎を駿河の今川氏の元へ追放し信濃国への侵攻を本格的に始めた。

 信玄の幼少期については良くわかっていない。信玄の幼少期については謎が多いが、
最初の結婚は1533年で、相手は関東地方の名門・扇谷上杉朝興(ともおき)の息女だった。しかしこの正室は出産時に母子ともに亡くなっていて、それから3年後に元服して晴信と名乗る。これは室町将軍・足利義晴から「晴」の字を賜り、同年7月には左大臣・転法輪三条公頼(きんより)の二女、三条夫人を継室に迎えた。
 結婚相手が扇谷上杉と京都の公家というと、両家共に名家であり信虎が嫡男を重要な位置づけとしていたことが分かる。また元服と結婚と同じ年に武田家嫡男としての地位を築いている。

・信虎の追放
 信玄の父・信虎は甲斐を統一しただけあって、なかなかの人物であった。この信虎が、信玄によって追放されたが、父が子を殺し子が父を殺す戦国時代ではあるが、そこまで親子が対立していたわけでもなく、信玄の父追放は悪逆非道の行為として上杉謙信はじめ多くの武将から非難された。しかしそこには様々な理由があって、父。信虎は信玄ではなく弟の信繁を偏愛し、廃嫡すらしかねない状況に信玄が父の追放を決めたとされている。
また信虎が残忍な性格であったという話もあるが、信玄の行為を正当化させるための脚色の可能性もある。また百年に一度と言われるほどの飢餓がが事件の背景にあったとされている。
信虎追放まで数年間、凶作、災害が相次ぎ、このことで信虎を追放し強制的に領主を交替し、それと同時に徳政を実施して追放への理解を得ようとしたともされている。領主を交替代して徳政を行なっている。冷静で合理的な判断のもと信玄は父を追放したのである。

 信濃国の諏訪頼継を攻めて追放すると、佐久地方から上伊那地方にかけて兵を進め、続いて現在の上田地域を支配していた村上氏と上田原で合戦し、砥石城の戦いでは負け戦さとなったが、最終的には村上氏を越後へ敗走させ、川中島の戦いを経て北信濃をその支配下に治めた。

 

信玄の戦い
 父を追放し家督を相続した信玄は、まず攻めたのが諏訪頼重であった。諏訪家には妹の禰々が嫁いでおり、夫妻には嫡男・寅王丸が生まれたばかりだった。姻戚関係を結んだ諏訪家を攻めたが信玄には言い分があった。頼重は信虎追放の混乱の最中、同盟していた信玄や村上義清と無断で敵方であった上杉憲政と講和し、先に裏切ったのは諏訪だったからである。信玄は諏訪に侵攻すると諏訪頼重を切腹に追い込んだ。
 度重なる信濃への侵攻のあと、村上義清を攻めたが「上田原の戦い」において、重臣の板垣信方や甘利虎泰らを失うという惨敗を喫した。信玄にも若さゆえの驕りがあったのだろうが、この敗戦による影響は甚大で信濃経営すべてがだめになるほどの危機に陥るが、直後の「塩尻峠の戦い」で挽回し反武田の動きを封じこめた。実際に村上義清の反撃もここまで、村上義清は越後の長尾景虎を頼り落ち延びるほかなかった。このとき目覚ましい活躍したのが真田幸綱(真田昌幸の父、真田信之・真田信繁兄弟の祖父)であった。

 1554年、武田信玄、北条氏康、今川義元の三者は今川家の軍師的僧侶・太原雪斎の発案で互いに婚姻関係を結び「甲相駿三国同盟」を締結させた。武田、今川、北条ともに「敵を絞りやすくなる」という利点がありこれを享受する。この頃、今川義元の娘を娶っていた信玄の嫡男・義信は父・信玄と不仲となり自害させられた。これにより今川氏と断交すると、同時に今川氏真が北条氏康の娘を娶っていた関係から北条氏とも断交になった。

 その結果、今川・北条・上杉という同盟の中で武田家は孤立する形になった。北条氏は上杉謙信に信玄への出兵要請をするも動かず、信玄は西上野をほぼ手中にするとさらに甲斐の南へ進出を図った。この間、今川領である駿河と遠江の分割を徳川家康ととりかわして武田は徳川と同盟を結んだ。その後、武田信玄と徳川家康の間には亀裂が生まれ反目しあうことになり、家康は上杉と同盟し、先の三者に徳川が加わって情況はさらに悪くなった。
  翌年、北条家は当主・氏康の死去を契機に、上杉との同盟関係を解消して武田と再び同盟関係を結ぶ事になった。生き延びるために互いの利によって同盟関係の離合集散が繰り返された。

 

関東を巡る上杉・武田・北条の対立
  1551年上野では、関東管領上杉憲政が北条氏康の攻撃を受けて本拠地の平井城(藤岡市)を攻め破られ、それ以来、衰退の一途をたどり、厩橋(前橋)から越後に入って上杉謙信の庇護下に入った。その前後から上杉謙信と北条の対立は激しくなってきた。
  これに目を付けた信玄はいちはやく北条氏に手を差し伸べ、1554年12月に娘を北条氏康の嫡子・氏政に嫁がせ姻戚・同盟関係を結んでいる。そのため武田氏の上州侵攻は「北条支援」の名目で始められた。

 一方の上杉謙信は1559年2月に京へのぼり、半年以上滞在して将軍足利義輝から関東管領職になることを許されて帰国している。1560年、関東の前・管領上杉憲政は上杉謙信に助けを求め、謙信はそれに応じ北条氏康・氏政親子を小田原城に包囲した。しかし結局攻略できないまま謙信は鎌倉に入り、鎌倉鶴岡八幡宮の神前で憲政から上杉姓を譲り受け、上杉輝虎と改名して正式に関東管領に就任した。

5回に渡る川中島の戦い
  武田信玄が村上義清を追い落とすと、攻略は北信濃にあるあの有名な川中島の戦いに発展した。川中島の合戦の直接の原因は村上義清が勢いに乗る信玄に追われ、本領を失い謙信に救いを求めたことに加え、奥信濃の高梨・井上氏らが信玄に不安を感じ、上杉謙信に救援を求めたことによる。信玄の永遠のライバル・上杉謙信(長尾景虎)との川中島の戦いは12年の間に5回行われ、信玄の目的は川中島地方の豊かな穀倉地帯を押さえることであった。また武田勢が勢力を伸ばせば、上杉謙信の越後も危うくなることもあった。川中島の戦いは、天下の趨勢を決めたわけではなく、人気と知名度ほど歴史的には重要ではない。


第一回の戦い
 1553年、越後勢は八幡(千曲市)にいた武田軍を追い、さらに武田配下にあった荒砥城(千曲市)、青柳城(筑北村)を破り、麻績(麻績村)、会田(松本市)虚空蔵城まで取り返した。これに対し塩田城にいた武田軍はただちに兵をくりだし、13日の夜、麻績、荒砥城に放火して反撃した。この時、室賀山城守信俊の手勢が敵の首七つを取ったとされている。1武田側は村上領が奪われることを阻止し、上杉側にとって村上義清の旧領復帰は失敗したが北信濃国衆の離反を防ぐことができた。7日、越後勢が坂城南条付近まで進出すると、武田軍はこれを迎え撃つが、20日謙信は急に兵を引き上げてしまった。これは謙信が弾正少弼に任ぜられ、従五位に序せられたので朝廷や将軍にその答礼のため、京都へ上る期日が迫っていたからである。

第二回の戦い
 1555年、「甲相駿三国同盟」締結で後顧の憂いをたった武田信玄は総力をあげて川中島に乗り出した。4月、犀川南岸の大塚(更級郡)に本陣をすえると、武田方の善光寺堂主の栗田寛明が拠る朝日山城に兵三千、弓八百張、鉄炮三百挺を送り上杉軍をけん制した。

 7月には謙信は善光寺脇の横山城(長野市城山公園)に陣を取り旭山城をはげしくせめるも落とすことはできなかった。長期間の滞在で両軍は疲れ、今川義元の仲裁により和睦した。

 武田信玄は旭山城を破壊してもとの状態に戻し、犀川から北が謙信、南は信玄という条件で合意した。しかしこれで村上氏が故郷へ帰ることは絶望となった。この戦いで信玄は戦功のあった浦野新右衛門貞次に「いよいよ忠信を抽んずるように」と感状を与えている。
 翌年、信玄は前年の謙信との講和を破って、犀川を渡って北への進出をはかり、更級郡の香坂筑前守、高井郡の井上左衛門尉、市川信房を味方に引き入れて着々と北信侵攻の準備をすすめた。

第三回の戦い
 1557年2月、雪の降る時期で身動きのできない越後軍の不意をついて、武田軍は善光寺の西北にある葛山城を攻め、城将・小田切駿河守を討ち取り落城させた。信玄は小田切駿河守を討ち取ったは室賀兵部大輔に感状を与えている。続いて信玄は北に進み、長沼城(長野市)・大倉城(長野市)を攻め、さらに戦線を伸ばして飯山城に迫った。上杉謙信は葛山城落城の知らせを聞くと、家臣にあてた手紙に「信州の味方が滅びればこの国も危なくなる」と書き、越後勢は雪の消えるのを待って、善光寺平に入り4月25日に旭山城を再建し信玄の来襲に備えた。
  上杉謙信の戦いにかける決意は固いものがあり、謙信は同年5月10日、小菅神社(飯山市瑞穂)に戦勝のため願文をささげ、12日には当時、武田軍が建築を始めていた海津城を攻め、坂城の岩鼻(南条)まで迫るが、信玄が兵を引き上げたため戦うことはなかった。この年の7月、北安曇郡の小谷で甲越両軍が激しく戦い、さらに8月に入って上野原(長野市若槻)でも激しい合戦をした。
 将軍足利義輝は甲越の戦いの信玄と謙信に内書を送り、二人もこれを承諾したため兵を引き上げた。この間、信玄は将軍義輝から信濃国守護に任ぜられ、1559年2月、信玄は出家して名を(出家する前は晴信)と改めました。一方謙信は、永禄2年1559年2月京都へ上り、約半年間滞在して、将軍足利義輝から関東管領職に任じられ、同年10月に帰国した。
  謙信の上洛中、信玄は、9月1日には、生島足島神社で越後勢に勝利するよう神の加護を賜りたいと、願文を奉納している。

第四回の戦い
 川中島の最大の戦いで、一般的に「川中島の戦い」というと大半の人がこの戦いを連想する。1561年4月、信玄の兵が碓氷峠から国境を越えて上野の松井田や長野原に侵入したため、その裏をねらって謙信は春日山城を出て北信濃に入り、村上・井上・高梨・須田・島津などの信濃衆を先陣として川中島に出陣した。
 謙信出陣の報に接した信玄は、多くの将士を従えて川中島に向かった。謙信は千曲川を越えて海津城を眼下に見下ろす妻女山に本陣をすえ、信玄はこの報を聞くと軍を妻女山の攻撃に向かわせ、謙信とは逆に千曲川を渡り篠ノ井の会に陣を取った。このとき、川中島の戦いで最も烈しい戦闘が行われた。
 ここで「啄木鳥戦法」が有名で、両者多数の死者(武田:4千、上杉:3千)を出すが決着はつかなかった。頼山陽の「鞭聲粛々」の詩を生み出した戦国時代の代表的な合戦として有名である。

 この戦いで謙信とその旗本が信玄の本陣に襲いかかり、謙信が信玄に太刀をあびせ、信玄も太刀を抜いて防いだとされている。この戦いで信玄の弟・武田信繁や山本勘助らが討ち死にする大激戦となった。またこの戦いには真田幸隆、信綱親子も加わっており各諸士は武田軍の最前線で命がけの働きをした。

第五回の戦い

 1564年3月18日、信玄は信越国境に兵を出して、野尻城(信濃町)を落とした。しかし、謙信も5月には善光寺に陣を進め信玄を牽制した。
  謙信が上州(群馬県)の小泉城主富岡重朝に送った手紙に「7月29日、川中島に兵を進めた。近日中には佐久郡へ押し通るつもりでいる。その後ただちに碓氷峠口に向かう」とあるように、一挙に勝負をつけようと盛んに信玄に挑戦するが、信玄は塩崎まで出陣したものの合戦は行われず、60日に近いにらみ合いの末、謙信は10月1日越後春日山に帰らざるを得なかった。
 後世、5回にわたる川中島の戦いの結果は、甲州の勝ちなのか、越後の勝ちなのか、あるいは互角かと話題になるが、川中島で食い止めることができず、信玄に北上を許したため謙信の劣勢を認めざるを得ない。謙信は飯山城を核にして高井郡、水内郡の一部を確保したにとどまり、信玄は北信濃のほぼ全域を手中に納めた。

家臣団の起請文
  信玄は先に父の信虎を駿河に追放し、さらに飯富虎昌ら重臣に詰め腹を切らせ、子の義信を幽閉して自害させたことから、他の家臣の心が離れていくことを恐れた。
  そうした情勢の中で駿河・遠江方面へ進出したが、もし留守中に信濃・西上野の武士たちが反旗をひるがえすようなことがあれば、取り返しがつかなかった。そのためこの動きを警戒し封じようとして、神前で起請させるた。
  これが下之郷の生島足島神社に現在残っている83通の起請分で、甲斐・信濃・西上野の将士から署名・血判」の上、237人に起請文を書かせて誓約させるという事態になった。

武田信玄の天下人への戦略とその後
  1568年2月、武田氏は徳川氏と同盟を結び、駿河・遠江を東と西から攻め取る約束を交わした。1569年から4年間、信玄は精力的に駿河・遠江・三河方面へ侵攻し、執拗ともいえる攻勢に音を上げた今川・北条氏は越後の上杉謙信に兵を出し、信玄の動きを牽制するようにと要請を何回も行った。特に北条氏は武田氏の駿河侵攻を鈍らせるため要請の手をつく、中には岩櫃城の真田幸隆を討ち取ってくれと書いた書状がある。しかし謙信にしてもその度ごと頼みに応じられるような情勢ではなかった。  1570年10月月、徳川家康は信玄との同盟関係を破り、上杉謙信と同盟関係を結んだ。信玄にすればこれによって遠江も公然と攻撃できる名分ができまた。
 1572年10月、信玄は四男・勝頼とともに甲府を立ち、甲州・信州の大軍を率いて伊那谷を一気に下り遠江に侵入し12月22日、遠江三方ヶ原で徳川・織田両軍と戦い大勝している。
 この戦いは圧倒的な数を誇る武田軍が優勢で、家康は命からがら浜松城に逃げ帰るという大敗を喫している。その後、武田軍は浜松まで追撃したが、深追いすることなく三方ヶ原に近い刑部で越年している。
 1573年2月、信玄は刑部の北西にある野田城を攻略したが、このころから信玄の病状が悪化、長篠を経て鳳来寺に移りしばらく療養に専念している。しかし一向に回復に向かわず、3月9日、鳳来寺を出立して帰国につくが、4月12日信州駒場(下伊那郡阿智村)で死去した。馬にも乗れない状態で輿に乗せられての帰郷だった。
  前年10月に甲府を出立する時点から、信玄の病状は進行しており、この出陣は覚悟のものだった。戦国大名の典型ともいわれている希代の英傑もその夢半ばで先陣の露と消えた。くしくもこれより三ヶ月前の1月、かつての宿敵村上義清も、越後の根知城で寂しく死去している。