北条氏康

北条氏康
北条氏康(ほうじょう-うじやす)とは文武両道な猛将も家中や庶民を大切にした戦国大名である。
北条氏康は、小田原北条氏の第2代当主・北条氏綱の嫡男として1515年に生まれた。母は養珠院殿(ようじゅいんどの)ですが、母の出自は良くわかっていない。北条氏康の幼名は伊勢伊豆千代丸で、まだ祖父・伊勢宗瑞(北條早雲)も存命でしたが、4歳の頃に祖父が死去しています。この頃の北条家はまだ「伊勢氏」を称しており、北条氏康が7歳になった頃から北条氏を名乗るようになりました。

北条氏康が元服したのは15歳頃で、1530年の小沢原の戦いで初陣を果たしました。
この時、小沢城から討って出ると上杉朝興の大軍相手に勝利しています。
その後、1535年頃に、正室となる今川氏親と寿桂尼の娘・瑞渓院(ずいけいいん)を小田原城に迎えた。のち、北条家が今川義元と対立するようになっても、この瑞渓院は駿河に戻ることなく、北条家を支えます。1536年頃には長男・北条新九郎(天用院殿)が誕生しますが、この新九郎は1552年3月21日に16歳くらいで夭折したため、1538年に生まれている次男・北条氏政がのち第4代当主となりました。
なお瑞渓院は子宝に恵まれており、3男・北条氏照、4男・北条氏邦、5男・北条氏規、女子では今川氏真の正室・早川殿、足利義氏の正室・浄光院殿と、北条家を更なる発展へ導びいています。
側室としては松田憲秀の娘・松田殿、遠山康光の妹などが見受けられます。
1538年、父・北條氏綱は隠居して家督を譲り、北条左京大夫氏康が第3代当主となります。
そして、北条氏綱は1541年に死去しますが、その直前に「5か条の訓戒状」を残しました。
「北条氏綱公御書置」「五箇条の御書置」とも呼ばれる「5か条の訓戒状」の内容は下記のようなものです。
    一、大将から侍にいたるまで、義を大事にすること。
    たとえ義に違い、国を切り取ることができても、後世の恥辱を受けるであろう。

    一、武士から農民にいたるまで、全ての民を慈しむこと。
    必要のない民などいないからである。

    一、決して驕らず、またへつらわずに、身にあった分限を守ること。

    一、倹約に勤めて重視すべし。

    一、勝利はほどほどにせよ。
    勝利し続けると、自らに驕り、敵を侮ることがあるからである。

父・北条氏綱も、北條早雲から遺訓を受けていました。
河越城の戦い
1545年、武田信玄と同盟していた駿河の今川義元が、関東管領の山内・上杉憲政や扇谷・上杉朝定、古河公方・足利晴氏らと連携して小田原包囲網を築き、北条氏康に対して攻勢に出ます。
北條氏康は駿河に急行しますが、吉原城・長久保城らが陥落し、一方で義弟・北条綱成が守る河越城には、山内・扇谷の両上杉家の大軍が押し寄せました。
31歳・北条氏康、最大のピンチでした。
この絶体絶命の危機に、北条氏康は武田晴信に仲介を頼み、今川義元に東駿河の河東地域を割譲することで今川家と和睦します。
そして、軍勢を河越城へ向けると、1546年4月20日、日本三大奇襲(日本三大夜戦)のひとつとなる「河越夜戦」を制しました。
関東の諸将が集結した8万とも言われる上杉勢の大軍を、河越城の3000(北条綱成、北条綱房、北条幻庵)、北条氏康の本隊8000(大道寺政繁、多目元忠)にて見事に蹴散らします。
上杉勢は扇谷上杉家の当主・上杉朝定、難波田憲重、本間江州、倉賀野行政らが討死し、山内上杉家の上杉憲政はなんとか平井城に敗走しました。

平井城
これにより、関東の諸将は北条家に臣従する傾向となり、一転して北条氏康は関東での主導権を握ることになり、北条家は大きく飛躍しました。

優れた民政
一方、領国経営においては、大地震で疲弊した際に全領土規模の徳政令、臨時に追加で税を取っていたなど評判が悪かった課税を「四公六民」として統一・軽減すると言う税制改革、また農民も含めた領民の誰もがの直訴ができる「目安箱」の設置なども行いました。
目安箱は、江戸時代に入り8代将軍・徳川吉宗も採用したことで知られます。
四公六民と言うのは、税金が40%で民の取り分は60%と言う意味です。
諸国での通例は50%でしたが、四公六民はのちの徳川幕府も直轄領にて採用していますが、これはのちに関東に入った徳川家康も、北条家が善政を敷いていたため、民を統治するのに苦慮した結果とも言えます。
また、通貨に関しては戦国時代初となる先駆けで永楽銭へ統一したり、検地して税を平等にしたり、枡を遠江の榛原枡に決めて領国内の度量衡を均等にしました。
このように検地に関しても、豊臣秀吉より先駆けであり、家臣及び領民の税負担を明確にしました。
使者や物資を馬で運ぶ交通制度である「伝馬制」も設けるなど、民が暮らしやすい国へと改革を行いました。
凶作や飢饉の年には減税したり、年貢を免除することもあったため、民からは非常に喜ばれています。
そのため、小田原の北条家100年間において、領民の一揆や、一族の裏切りと言った内紛が発生していません。
北条氏康には7人もの男子がいましたが、家督争いをどころか、皆、兄弟で力をあわせて北条家を盛り立てました。
北條氏康は下記のようにも語っています。

    主将が官吏を選ぶのは当たり前のこと。官吏も主将を選ぶものだ。
    隣国と戦い、日頃、官吏を大事にせず、庶民に慈悲を掛けなければ、人は他国に去って、明主・良将を求めて仕えてしまう。
    官吏を愛し、庶民を慈しむは主将の当然の務めである。

関東の覇者への道
さて、平井城に逃れていた上杉憲政を攻めると、求心力を失っていた上杉憲政は越後の長尾景虎(上杉謙信)の元へ頼って逃亡。古河城を攻撃すると足利晴氏を捕えて野に幽閉するなど、関東の覇者となるべく順調に領土拡大を図ります。宇都宮城も支配下におさめる一方、滝山城の大石定久には北條氏照、鉢形城の藤田氏には北條氏邦といった子を養子として送り、実質的な乗っ取りにて基盤の強化を図っています。
1554年7月には、今川義元の重臣・太原雪斎の仲介などもあり、北条氏康の娘・早川殿が今川義元の嫡男・今川氏真に嫁つぎ、12月には婚約が成立していた武田信玄の娘・黄梅院を嫡男・北條氏政の正室に迎えることで、武田家・今川家とも同盟関係となり「甲相駿三国同盟」が成立。
また、北條氏規を実質的な人質として今川家の寿桂尼に預けるなどし、以後は関東での戦いに専念することができました。
そして、関東の反北条勢力は、越後の長尾景虎(上杉謙信)に対して度々出陣を要請し、1560年には小田原城は10万とも言われる大軍に包囲されました。
この時、長尾景虎に従っている武将は下記の通りです。
上杉憲政、直江実綱、北条高広、柿崎景家、箕輪城主・長野業正、金山城主・由良成繁、宇都宮城主・宇都宮広綱、唐沢山城主・佐野昌綱、小山城主・小山秀綱、那須城主・那須資胤、小田城主・小田氏治、太田城主・佐竹義昭、岩槻城主・太田資正、松山城主・上田朝直、忍城主・成田長泰、勝沼城主・三田綱秀、関宿城主・簗田晴助、久留里城主の里見義堯と里見義弘、大喜多城主の正木時茂と正木信茂など。
しかし、10日間ほどの籠城を乗り切ると、上杉勢は撤退したため、松山城などを再攻略しています。

強固な家臣団と小田原城
このように小田原城での籠城に自信を持った北条家は、更に小田原城を強固な守りに縄張りを広げて「総構え」を構築します。
東の小田原・西の山口と称される広大な城下町には、全国から職人や文化人が集まりました。
また、大規模な都市開発を行うだけでなく、市街地の清掃にも気を配っていたそうで、小田原に来訪した京都・南禅寺の東嶺智旺は、ゴミひとつ落ちていないと記録しています。

小田原城総構え
また、上杉謙信は冬季になると度々関東へ侵攻しては引き上げており、その度に、関東の諸将は、上杉に寝返ったり、北條に帰参したりと従属関係を変えています。
その一方で、強かった里見義堯・里見義弘に何とか勝利すると、安房へと追いやり、関東の諸将を攻略・降伏させるなど着実に成果を挙げ、1559年には大田豊後守・関兵部丞・松田筑前守の3人に命じて、家臣らの一覧リストとなる「小田原衆所領役帳」を作成。
出陣する際に動員してもらう兵数から旗指物までを指定しました。

北条氏康は馬廻衆を中心にした独自の官僚機構を構築しており、月に1回程度の「評定」を開いて家臣らの意見を聞きつつ、民主主義的に政策を決定していたと言いますので、近代的な政治体制も敷いていました。

また発給する文書の証しとして北条氏康は「虎の朱印(ハンコ)」を用いています。
印鑑を用いたのは、事務作業の効率化を図ったと言う事ですが、当時は「手書き」の花押をサインするのが主流でした。
そのため、印鑑を使うと言う事は、これも家臣や領民などから北条家が信頼されていないと、できない技となります。

なお、1566年上野・厩橋城の上杉家の直臣・北条高弘が北条に寝返った事で、上杉謙信は関東への足掛かりを失い、関東での支配力を落としました。
この頃には、北条氏康(52歳)は隠居して、嫡男・北条氏政に家督を譲っており、今川義元の没後、同盟を破棄して駿河に侵攻した武田信玄と争うようになり、上杉謙信と同盟を結んでいます。
そして、1569年には小田原城まで侵攻した武田信玄を、三増峠の戦いにてなんとか追いやりました。

三増峠の戦い
しかし、北條氏康は体調が悪化していたようで、1570年8月頃から中風のような症状が史料にあり、興国寺城はかろうじて保つものの、駿河での戦いは武田信玄に押されました。
そして、1571年10月3日、北条氏康は死去しました。享年56。

上杉謙信との同盟を破棄して、武田信玄と同盟を結ぶようにと遺言を残していたとされます。
父・北条氏綱の時代よりも、北条家の領土を広げ、上杉家や武田家といった強豪を相手に何度も進攻されながらも追い返し北条家を繁栄させた北条氏康は、紛れもなく大変有能な戦国大名でした。
生涯で36度の合戦に出陣したと言い、諸国からは相模の獅子、相模の虎と恐れられた北条氏康ですが、受けた傷は全て「向こう傷」だったと言われており、一度も背を向けたことが無い勇敢な武将とも言えます。
また、北条氏康が自ら指揮した戦いは「不敗」と言う高成績を誇っています。

北條氏康は下記のような言葉も残しています。
    一、酒のふるまいは朝食に定めるべきで、それも大酒はよくない。三杯ときめよ。
    一、下知を仰がず勝手に城の出入口である虎口を出るものは、即刻に家禄を没収せよ。もしまた、北条家としての公のはからいを必要とするものについてはさっそくに申し越せ。
    一、家中のものが、他の陣所へ出向いて大酒を呑んだり、まして喧嘩口論におよぶことのないように堅く申しつけよ。
酒は夜ではなく、朝に飲んで、しかも3杯までとすれば良いだろうとしたのです。
実際問題、福島正則、後藤又兵衛、上杉謙信など、大酒飲で数々の伝説を残している武将もいる訳で、酒で失敗する一族や家臣が出ないようにと促したものです。
このように時には悪の原因にもなる「酒」とも適切に対処すれば自分のためになる、また余計な仲たがいをせずに済むといった、心がけを示したのではと考えます。
北条氏康の死後は「北条氏政」さらに「北条氏直」と5代続きますが、ちなみに北条氏康の正室・瑞渓院はその後の北条家をしっかりと見定め、1590年6月12日に死去しました。
この6月12日と言うのは、豊臣秀吉の軍勢に小田原城が包囲されて最中で、韮山城では激戦となっており、鉢形城・忍城も包囲され始めたころです。
北条氏政・継室の鳳翔院殿も、同日に死去しているため、この2人は自害した可能性が高いと考えられていますが、なぜ、このタイミングなのかは疑問が残ります。
北条氏直(北條氏直)が小田原城を開城したのは7月5日と言う事になりますが、北条氏康が死去してから僅か19年後のことでした。