北条氏康

 北条家は戦国時代の先駆者とされる北条早雲から始まるが、まず北条早雲は駿河の今川家の家臣として地位を高め、伊豆半島に進攻して堀越公方を支配下に収め、さらに大森氏の小田原(神奈川県)城を攻め落として拠点とした。
 北条早雲の死後、その後を継いだ北条氏綱が関東に進出し、その子・北条氏康(うじやす)が後を継いで関東一帯を支配した。北条氏康は武田信玄や上杉謙信に比べると武闘派としての印象は少いが、実際には生涯36度の戦いで、1度も敵に背を見せたことがなく、受けた傷は全て向こう傷だったとされている。

 北条氏康が武闘派武将というより政治家の印象が強いのは、他の大名に先駆けて検地(土地を調べて税金を決める事)を実施し、通貨を統一して経済改革に努めるなど内政に優れていたからである。北条家には 「家臣や民を慈しみ、人心を掌握し、戦いに勝っても思慮深くあるように」 との家訓が代々伝わっており、北条氏康の統治はまさにそれを代表していた。北条家の行政機構(政治システム)は他の大名家よりも進んでおり非常に近代的であった。

 北条氏は戦国争乱の時代に5代100年にわたって関東に君臨したが、その中興の雄といえるのが三代・北条氏康である。甲斐の武田信玄、信濃の上杉謙信と三つ巴の、さらに駿河の今川義元とも四つ巴の熾烈な戦いを演じて一歩も退かなかった。北条氏康は文武を兼ね備え、さらに家中や庶民を大切にした仁徳に満ちた撫民の武将である。

 

北条氏康の生まれ

 1515年に生まれた北条氏康は、小田原北条氏の第2代当主・北条氏綱の嫡男で母は養珠院(ようじゅいん)である。母の出自はわかっていないが、北条氏康の幼名は伊勢伊豆千代丸で、祖父である北條早雲は氏康4歳の頃に死去している。

 この頃までの北条家は「伊勢氏」を名乗っており、氏康が7歳になった頃に北条氏を名乗るようになった。もちろん北条氏を名乗ったのは鎌倉時代の北条氏にあやかったからである。

 北条氏康12歳の頃、兵士の訓練を見て気を失い、気を取り戻すと「家臣の前で恥を曝した」として自害しようとした。家老が「初めて見るものに驚かれるのは当然で、恥ではございません。むしろ、あらかじめの心構えが大切です」と忠言した。以後、氏康は常に心構えをわきまえるようになった。北条氏康が元服したのは15歳頃で、小沢城(東京都稲城市矢野口)から討って出ると上杉朝興の大軍を相手に勝利している。
 1535年頃に正室となる今川氏親の娘・瑞渓院(ずいけいいん)を小田原城に迎えた。後に北条家と今川義元は対立するが、瑞渓院は駿河に戻ることなく北条家を支えることになる。翌年に長男・北条新九郎(天用院殿)が誕生するが16歳で夭折したため、次男の北条氏政がのちの第4代目当主となった。

 なお瑞渓院は子宝に恵まれ3男・北条氏照、4男・北条氏邦、5男・北条氏規、女子では今川氏真の正室・早川殿を産み、足利義氏の正室・浄光院殿と共に北条家の発展を導びいている。

 1538年に父・北條氏綱が隠居したため、北条氏康が第3代当主となった。北条氏綱は1541年8月10日に死去するが、その直前に「5か条の訓戒状」を遺言として残している。

 

5か条の訓戒状

 北條氏綱は死に臨み「五箇条から成る訓戒状」を北條氏康に遺した。
    1、大将から侍にいたるまで義を大事にすること。
    たとえ義に違い、国を切り取ることができても、後世の恥辱を受けるであろう。
    1、必要のない民などはいない。武士から農民にいたるまで、全ての民を慈しむこと。
    1、決して驕らず、またへつらわず、己の分限を守ること。

    1、倹約に重んずること。
    1、勝利はほどほどにせよ。勝利し続けると敵を侮ることがあるからである。
  父・北条氏綱も北條早雲から遺訓を受けており、「五か条の訓戒状」は領国統治を行なうためには「義を専ら守るべし」を重視した家訓である。


河越城の戦い

 北条家が台頭する前、関東地方では関東管領(かんれい)である山内上杉家、その分家の扇谷上杉家、古河公方の三者による争いが数十年続いていた。

 管領・山内上杉家は室町幕府の地方自治・鎌倉公方を補佐するのが役割で、上杉氏が世襲で管領を務めていた。この上杉家は越後の上杉謙信とは無関係で、管領・山内上杉家は鎌倉公方をしのぎ公方を滅亡にまで追いやるが、鎌倉公方は後に下総国古河を本拠として「古河公方」となった。また管領・山内上杉家の傍流にあたる扇谷上杉家も勢力を強め、関東における三大勢力となっていた。

 そこで扇谷上杉家は膠着した戦況を打破するため北条家を呼び込もうとするが、二代目・北条氏綱が扇谷上杉家を滅亡寸前にまで追い込んでしまう。しかしこの北条氏綱が死ぬと跡を継いだ北条氏康に対し三家(管領上杉家、扇谷上杉家、古河公方)は、1545年、武田信玄と同盟していた駿河の今川義元と連携して北条包囲網をつくり、北条氏康に対して大攻勢に出た。つまり関東における三大勢力が連合を組んで、新興勢力の北条氏を力で巻き返しを図ったのである。

 北條氏康はまず駿河の今川義元を攻めるが、そのころ義弟・北条綱成が守る河越城は山内・扇谷の両上杉家の大軍が押し寄せて包囲された。河越城はもともと扇ヶ谷上杉氏の居城であったが、北条氏綱に攻め落とされ北条氏の持ち城となっていた。城将は「地黄八幡」の旗指物で知られた北条綱成であった。河越城には3千の将兵がいたが、31歳の北条氏康とって最大の危機であった。

 この絶体絶命の危機に北条氏康は武田晴信に仲介を頼み、今川義元に東駿河の河東地域を割譲することで今川家と和睦した。その後、軍勢を駿河から河越城へ向けると、1546年4月20日、北条氏康は日本三大奇襲(日本三大夜戦)となる「河越夜戦」へ臨んだ。この戦いは織田信長が今川義元の大軍を破った「桶狭間の戦い」、毛利元就が陶晴賢の大軍を破った「厳島の戦い」と並び、戦国時代の三代奇襲戦と称される合戦である。いずれの合戦もそれをきっかけに自らの勢力を飛躍させ、まさに転機とも言うべき戦いであった。
 3000の兵とともに北条綱成が守っていた河越城に8万もの上杉勢の大軍が攻め込んだのである。戦力比80:3であったが、河越城は太田道灌が全精力を込めて造り上げた三堅城の一つであった。しかも守るは猛将・北条綱成である。攻城戦は長引き、上杉勢の大軍は途中から兵糧攻めすることにした。

 北条氏康は今川義元と和睦をしたが、河越城の支援に駆けつけた北条側は僅か8千人の兵であった。この兵力差は歴然としており三家連合は戦勝気分であった。北条氏康は敵の軍勢に近づくとわざと兵を引き上げさせた。これをみた上杉軍は「氏康はこちらの軍勢があまりにも多いので臆病にも戦わずに逃げ出した」と噂し合った。その後、氏康はまた敵に接近を試みたが、やはり敵の目前で引き上げることをくり返した。それをみた上杉軍はいよいよ油断して「氏康に戦意はない。われわれの勝利は近い」と確信を持つに至った。氏康は河越城の返上と降伏を申し出て油断させた、包囲から半年以上も過ぎた1546年5月19日夜、三家連合の油断を突く形で北条氏康が夜襲をかけたのである。

 北条氏康は鎧兜を脱いで身軽になり、敵味方識別のため腕に白い布を巻きつけた兵たちとともに上杉連合軍本陣に突撃した。連合軍は兵力で圧倒しながら寄り合い所帯である。侮っていた連合軍は相互の連携がとれず大混乱に陥り、混乱の中で敗走し、扇谷上杉家当主・上杉朝定が戦死した。

 この大混乱を見て城内から打って出た北条綱成が古河公方・足利晴氏の陣に突撃し敗走させると、寄せ集めの軍勢だった連合軍は一気に瓦解し、関東管領上杉憲政も3千あまりの兵を失い平井城に敗走した。北条家の兵は城兵3千と救援軍8千の計1万1千であるが、連合軍の死傷者は1万3千とされている。北条氏康は見事に三家連合を蹴散らしたのである。

 この戦いにより関東の諸将は北条家に從うようになり、北条氏康は関東での主導権を握った。当主を失った扇谷上杉家は程なく滅亡し、古河公方晴氏は北条軍に包囲されて降伏すると、北条家から養子を迎えて公方職を譲ることになった。北条家はこの一戦で関東での確固たる地位を築き上げ繁栄した。



優れた民政
 1561年、関東管領職を譲られた越後の「上杉謙信」が関東を支配するため毎年の様に進攻してきた。また長年敵対していた房総半島の「里見家」との戦いも続き、今川義元の死後に三国同盟が解消されると武田家も進攻してくるようになり、山内上杉家 などは小勢力ながら北条家への敵対行為を続けており、まさに四方から外敵の進攻を受けるようになった。
 そのような中で北条氏康は小田原の城の改築を繰り返し、小田原を難攻不落の巨城へと変えていった。領国経営においては、大地震で疲弊した際に全領土規模の徳政令を行い、臨時に追加で税を取っていた評判が悪かった課税を「四公六民」として統一して軽減した。

 四公六民と言うのは、税金が40%で民の取り分は60%と言う意味である。諸国での通例は税は50%であったが、四公六民はのちの徳川幕府も直轄領にて採用した。これはのちに関東に入った徳川家康も、北条家が善政を敷いていたため、民を統治するのに苦慮した結果と言える。

 また農民も含めた領民の誰もが直訴ができる「目安箱」を設置した。この目安箱は江戸時代の8代将軍・徳川吉宗も採用したことで知られている。
 さらに通貨に関しては戦国時代初となる永楽銭で統一し、検地して税を平等にし、枡を遠江の榛原枡に決めて領国内の度量衡を均等した。このように豊臣秀吉の先駆けて検地を行い、家臣、領民の税負担を明確にして軽減した。

 凶作や飢饉の年には減税したり、年貢を免除したため民からは非常に喜ばれた。そのため小田原の北条家100年間において、領民の一揆や、一族の裏切りと言った内紛が発生していない。さらに使者や物資を馬で運ぶ交通制度「伝馬制」も設け、民が暮らしやすい国へと改革をした。

 北條氏康は次のように語り「主将が官吏を選ぶのは当たり前のこと。官吏も主将を選ぶものだ。隣国と戦い、日頃、官吏を大事にせず、庶民に慈悲を掛けなければ、人は他国に去って、明主・良将を求めて仕えてしまう。官吏を愛し庶民を慈しむは主将の当然の務めである」支配を強めていった。

 北条氏康は民のための政治を行っていたことが分かっている。さらに甲斐の武田や越後の上杉と戦い、彼らを退けるような武力を持っていた。

関東の覇者への道

 北條氏康は平井城に逃れていた上杉憲政を攻めると、求心力を失った上杉憲政は越後の長尾景虎(上杉謙信)の元へ逃亡した。上杉憲政は北条征伐を条件に関東管領職と上杉姓を譲る。長尾景虎は上杉謙信と名乗り関東に侵攻し、以来、氏康は謙信、信玄、義元との間で戦国期最大の抗争を繰り返すことになる。

 古河城を攻撃して足利晴氏を捕えて幽閉し、関東の覇者となるべく順調に領土を拡大し宇都宮城も支配下におさめた。滝山城の大石定久には北條氏照、鉢形城の藤田氏には北條氏邦といった養子を送り込み、実質的な乗っ取りに成功している。

 1554年7月には、今川義元の重臣・太原雪斎の仲介により、北条氏康の娘・早川殿が今川義元の嫡男・今川氏真に嫁つぎ、12月には婚約が成立していた武田信玄の娘・黄梅院を嫡男・北條氏政の正室に迎えることで、北條家は武田家・今川家と同盟関係となり「甲相駿三国同盟」が成立した。

 また北條氏規を人質として今川家の寿桂尼に預けるなどして関東での戦いに専念することができた。関東の反北条勢力は越後の長尾景虎(上杉謙信)に対して度々出陣を要請し、1560年には小田原城を10万とも言われる大軍で包囲したが、10日間ほどの籠城を乗り切ると上杉勢は撤退した。

 北条氏康は生涯に36度の合戦で戦い、常に先陣で刀をふるって背を向けず、そのために顔面に二カ所、身体に七カ所の刀傷を負っていた。諸将はその向こう傷を「氏康傷」と呼び、武勇と胆力を怖れ称えた。乱世は人物を輩出し、時代が人を育てるのである。

小田原城総構え

 小田原城での籠城に自信を持った北条氏康は、小田原城の改築を繰り返し、小田原城を難攻不落の巨城へと変えていった。本丸までの直線距離で3km〜4kmで、大阪城と肩を並べるほどの城塞であった。上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐え、さらに豊臣秀吉の来攻に備え、城下を囲む総延長9kmに及ぶ総構を造り、水堀と石垣で城下町ごと囲んだ。

 城周辺には武家屋敷や田畑があり、東の小田原・西の山口と称されるほどの広大な城下町には全国から職人や文化人が集まった。また大規模な都市開発だけでなく、市街地の清掃にも気を配り、小田原を来訪した京都・南禅寺の東嶺智旺はゴミひとつ落ちていないと述べている。

 上杉謙信は冬季になると何度も関東へ侵攻しては引き上げ、その度に、関東の諸将は上杉に寝返ったり北條氏に帰参したりと従属関係を変えていたが、北条氏康は里見義堯・里見義弘に勝利すると安房へ追いやり、関東の諸将を攻略・降伏させるなど着実に成果を挙げた。

 1559年には大田豊後守・関兵部丞・松田筑前守の3人に命じて、家臣らの一覧リストとなる「小田原衆所領役帳」を作成した。これにより武器や弾薬なのどの在庫調整や人事などの内政事情を把握し、出陣する際に動員する兵数から旗指物までを指定できるようになった。

 北条氏康は馬廻衆を中心に独自の官僚機構を作り、月に1回「評定」を開いて家臣らの意見を聞き、民主主義的に政策を行っていた。

 当時は「手書き」の花押を書くのが主流だったが、北条氏康は文書の証しとして「虎の朱印(ハンコ)」を用いた。印鑑を用いて事務の効率化を図ったが、印鑑を用いたのは北条家が家臣や領民からそれだけ信頼されていたからである。

 なお1566年上野・厩橋城の上杉家の直臣が北条に寝返り、上杉謙信は関東への足掛かりを失い関東での支配力を落とした。この頃には北条氏康(52歳)は隠居し、嫡男・北条氏政に家督を譲っており、今川義元が織田信長に討たれたことをきっかけに三国同盟が崩れ、同盟を破棄して駿河に侵攻した武田信玄と争い上杉謙信と同盟を結んでいる。

三増峠の戦い

 1569年9月、武田軍が武蔵国に侵攻し、武田軍はそのまま南下、10月1日には小田原城を包囲した。しかし氏康が徹底した籠城戦をとり、武田軍にも小田原城攻略の意図がなかったため、わずか4日後、武田軍は城下町に火を放ったのち撤退した。氏康は撤退する武田軍に対し挟撃を謀ったが、荷を捨て身軽になった武田軍に対して、氏政隊の追撃が間に合わなかった。本隊到着前に三増峠に布陣する氏邦・氏照隊が攻撃を開始したため挟撃にはならず、援軍は武田別働隊による奇襲を受けて出陣できず、武田軍の甲斐帰還を許す結果になった(三増峠の戦い)。

 この頃、北條氏康は体調を悪化させたようで、興国寺城はかろうじて守ったが、駿河での戦いは武田信玄に押されていた。

 1571年10月3日、中風の症状があった北条氏康が死去した。享年56。氏康は「上杉謙信との同盟を破棄して武田信玄と同盟を結ぶように」と遺言を残した。さらに北条氏政には「義を守って滅亡するのと、義を捨ててまで生き延びるのとでは雲泥の差がある」という格言を残した。

 北条氏康は父・北条氏綱の時代よりも領土を広げ、上杉家や武田家といった強豪を相手に何度も進攻されながらも追い返し、紛れもなく有能な戦国大名であった。

 生涯で36度の合戦に出陣し、諸国からは「相模の獅子」「相模の虎」と恐れられた。北条氏康が受けた傷は全て「向こう傷」で、一度も敵に背を向けたことがない勇敢な武将であった。北条氏康が自ら指揮した戦いは「不敗」の成績を誇っている。

 さらに北條氏康は「家中のものが他の陣所へ出向いて大酒を呑んだり、まして喧嘩口論におよぶことのないように」と堅く申しつけ、「酒は夜ではなく朝に飲んで、しかも3杯まで」とするとしている。

 戦国武将の中には福島正則、後藤又兵衛、上杉謙信など大酒飲で数々の伝説を残す者が多いが、氏康は「酒で失敗する一族や家臣が出ないようにした」のである。このように時には悪の原因になる「酒」ではあるが、適切に対処すれば自分のためになる。また余計な仲たがいをせずに済むという心がけを持っていた。
    さらに「裁定を受けず勝手に城の出入口から出る者は、即刻に家禄を没収する。もし、北条家としての公のはからいを必要とする者についてはさっそくに申し越せ」とも言っている。

 北条氏康の死後、北条氏は「北条氏政」「北条氏直」と5代続くが、北条氏康の正室・瑞渓院は、その後の北条家を見定めながら、1590年6月12日に死去している。その日は豊臣秀吉の軍勢に小田原城が包囲されている最中で、韮山城では激戦となり鉢形城・忍城も包囲されたころであった。北条氏政・継室の鳳翔院殿も同日に死去しているため2人は自害した可能性が高い。
  北条氏直(北條氏直)が小田原城を開城したのは7月5日であるが、北条氏康が死去してから僅か19年後のことであった。

 

小田原城

 北条氏康の死後、北条家はその子・北条氏政、さらに北条氏直が後を継いだ。北条家は氏康の死後も上杉家などから度重なる進攻を受けたが、巨城・小田原城での篭城戦で進攻を防いだ。以後20 年も北条家は外敵からの侵入を阻み、関東を支配し続けるが、その間に天下は動き、日本は「豊臣秀吉」に支配されるようになる。
    豊臣秀吉は北条家を支配しようとしたが、北条家には「家康と政宗が秀吉に反旗を翻せば、天下の趨勢は一瞬で引っくり返る」という期待と「小田原城は難攻不落」というプライドを強く抱き奇跡を信じようとした。

 北条家は物事を決める際には北条一族や家臣達の会議で議論を尽くし決めることになっていたが、秀吉の侵攻に対し、和平派と 主戦派で意見が真っ二つに分かれてしまった。当初は秀吉と講和をする意見が優勢だったが、 結局、秀吉の要請を拒み北条家は秀吉の侵攻を受けることになる。
    北条家は小田原城に籠城するが、秀吉は難攻不落の小田原城をまともに攻めるつもりはなかった。秀吉は大軍で小田原城を包囲すると兵糧攻めを行ったのである。もちろん小田原城には大量の物資が保管されていたが、秀吉軍は部隊を入れ替えながらひたすら包囲を続け、これ見よがしに城の周囲で宴会などを開いた。
    日本をほぼ支配している豊臣秀吉と北条家では力の差が 歴然であり、小田原城がどれほど堅城でも北条家に勝ち目はなかった。この時、小田原城の中では「降伏するか、打って出るか、このまま守り続けるか」で日々議論が行われたが、いつまでたっても結論は出なかった。このように時間ばかりが過ぎ何の結論も出ない会議を「小田原評定」と言うのはこの故事から来ている。
    さらに家臣の裏切りがあり、北条家は秀吉に降伏することになる。北条氏政は切腹、北条氏直は流刑となったが、和平派であった北条氏政の弟が豊臣秀吉に取り立てられ、北条家はその後も江戸時代まで存続した。

 戦国大名としての北条家はここで滅亡することになる。後に関東入りした徳川家康は北条氏康の「創業守成(新規に事業を興すことは難しいが、その事業を維持して発展させることはさらに難しい)」の実践を称賛し、内政の多くを踏襲した。このことが十五代264年に及ぶ徳川治世の基になった。