山名宗全

 

 山名宗全は応仁の乱で西軍の総大将として細川勝元の率いる東軍と戦った人物である。幼名は小次郎で名前は持豊で、後に出家して宗全と号した。「赤入道」といわれたように親分肌で勇猛果敢な武将であった。人に助けをもとめられると親身になって世話をするが、独断専行が多く、敵を作りやすい性格だった。

 策謀家の細川勝元や伊勢貞親は武家貴族らしい陰謀で野望を遂げようとするが、山名宗全は直情的で、闘争的、実力主義的な性格を剥き出しにして、自分のやりことを押し通していった。一休宗純は宗全のことを「業は修羅に属し、名は山に属す」と風刺し、毘沙門天の化身だと言っており、宗全自身も毘沙門天を尊崇していた。宗全は領国の但馬国朝来町の鷲原寺に「十二神将」の画像を納めている。


山名宗全の生まれ
    1404年、山名宗全は但馬国出石の此隅山城で生まれた。出石は古くから開けた土地で、鎌倉時代には但馬国守護太田氏の居城があり、室町時代に山名氏が但馬守護となってから出石は発展する。
   出石は豊岡で山陰道から別れて出石川沿って東に向かう道の突き当たりにある。登尾峠を越えれば福知山に抜ける山陰道の裏道である。山名氏の居城は出石の北、出石川の東側の山腹にあった。
  狭い山間の土地は夏は厳しい暑さにみまわれ、冬は雪に埋もれてしまう。しかし都に近いために、都の文化に接する機会が多く、武士の時代になってからは禅寺も数多く建てられている。持豊の父・時煕は高名な臨済宗の僧月庵宗光を招き、黒川の大明寺や竹野(城崎の西)の円通寺を創建した。時煕は月庵が禅師号を与えられるように朝廷に尽力している。江戸時代初期の沢庵和尚もこの地の出身である。
  山名家は後醍醐天皇の頃、南朝方の主力として戦った新田氏の一族だったが、本家の新田氏には従わず足利尊氏に従って、その功により管領に継ぐ重職を務め四職家の一つとなった。山名宗全の母は明徳の乱で父・時煕の敵となり滅ぼされた山名氏清の娘である。母にとっては明徳の乱で父の氏清を失い、それを知った母もその後を追って自害したから、明徳の乱は言い尽くせない辛い記憶として宗全に影響を与えただろう。
  かつて宗全の祖父・時義の頃には、山名氏は全国66ヵ国の内12ヵ国の守護職を得、「六分の一殿」といわれ、諸大名の中で最も勢力のある家だった。
 それを実現したのは南北朝の頃に活躍した山名時氏であった。もともと尊氏に従って成長した山名氏だったのだが、尊氏と弟の直義と対立した観応の擾乱に乗じて南朝方に寝返り、また幕府に再度寝返るという風に双方に山名氏を高く売りつけ、ついに「六分の一殿」と羨望されるまでになった。
 時氏の後は子の師義が継いだが、師義の後は長男の義幸が早死にしたために、師義の弟、すなわち時煕の父・持豊の祖父である時義が継いだ。ところが師義の子で義幸の後を継いだ満幸は自分こそ嫡系であると思い、叔父である時義に家督を奪われたことに不満を持っていた。そして1389年6月、時義が死んで家督を子の時煕が継いだ時、師義の末子である氏清は満幸と結託し、時煕とその従兄弟の氏幸の讒言をしたのだった。
  1390年、山名氏の勢力を抑えようとしていた将軍足利義満は、山名家の内紛に付け込み「そもそも亡き時義は将軍をないがしろにすることが多かった。さらに子の時煕、弟の氏幸も不遜な態度が目にあまる」として、ただちに時煕らの討伐を命じた。

 追い詰められた時煕は但馬で挙兵したが、満幸は但馬を攻撃し、氏清も伯耆の氏幸を攻めた。時煕と氏幸は備後に逃れたが、結局阿波の細川頼之に攻められ降伏し二人は備後に蟄居させられた。
  こうして山名家の内紛は満幸と氏清が勝利し、満幸は丹後、出雲に加えて伯耆と隠岐の守護職を、氏清も丹波、和泉に加えて丹後と山城の守護職を獲得した。思い返してみれば、4年前に将軍義満は天橋立に遊ぶと称して、満幸が守護をしている丹後を訪れた。それは山名家に内紛を起こさせるのが目的だったのだ。そして義満の注文通り時煕と満幸、氏清が争うことになり時煕は滅ぼされた。
 しかし将軍義満の考えていたシナリオでは、時煕らの追討は、まだ第一段階でしかなかった。翌年3月12日、将軍義満は管領斯波義将を解任した。これは義満が土岐氏や富樫氏、山名氏など有力な守護に内紛をけしかけ、その力を削ごうとするやり方に反発して辞任したのである。義将は領国の越前に帰ってしまった。そして4月3日、康暦の政変で失脚した守旧派の細川頼之が急遽阿波より入京し、4月8日に、そのの子頼元が管領に任じられ、父の頼之がその後見となった。
   この管領交替も、思えば2年前、1389(康応1・元中6)年の3月に義満が安芸の厳島神社を参詣した折、讃岐に隠棲していた細川頼之と会い、一緒に厳島に詣でた。そして参詣の後防府で大内義弘と会っている。その時から管領交替と山名討伐のシナリオは作られていたのだろう。そして前年1390(明徳1・元中7)年9月、斯波義将の領国越前に、気比社参詣と称して訪れたのも、そのシナリオに沿ってのものだった。義将は大名家の内紛を画策するような義満の政治のやり方に反対していた。
    斯波義将の基盤である越前には有力な寺社や貴族の庄園が数多くあった。現地に土着の国人と呼ばれる在地豪族は、庄園領主の荘官となる一方、実質的な支配階級として、領主に年貢を納めず、横領するようになっていった。斯波氏などの守護は、鎌倉時代のような単に警察権を持つだけの存在から次第に国人を従え一円支配をめざす守護大名として成長する過程にあったため、必然的に庄園領主と衝突した。そして幕府管領としても幕府の経済基盤を確立するためにも、旧来の庄園を解体し、武家による一円支配を確立してゆくことが時代の流れだと考えていた。その義将が更迭され、寺社権門の庄園を保護しようとする守旧的な細川頼之が再び政権を握ったことは、守護などの庄園の横領を告発し、弾圧する政策への転換を意味した。

    その頃、備後で蟄居していた時煕と氏幸はその行方をくらまし、京都の清水寺の辺りに潜んで、赦免の嘆願をしていた。これも、義満のシナリオであった。そして晩秋10月12日に予定されていた将軍義満の山名氏清の宇治別邸での紅葉狩りの席で、将軍義満は、山名時煕と氏幸の赦免のことを図るつもりであった。ところが、直前になって紅葉狩りは中止された。氏清が病と称して断わってきたのだ。山名氏清や満幸にも義満のシナリオが見えてきた。「将軍は山名を潰す気だ。」山名一族がそう思うこと自身が義満のシナリオだった。
  翌月8日、幕府は「満幸が出雲の仙洞領を横領して、再三返還するように言っているのに、言うことを聞かない。」という理由で、突然山名満幸の出雲守護を解任し、丹後に追放した。挑発の総仕上げである。守護による一円支配、領国化は、時代の趨勢であったし、何も満幸ばかりがやっていることではない。守旧派の細川頼之が再び幕政を担当するようになったことは、寺社や皇族、貴族の庄園を保護する方針を意味したが、それにしてもいきなり守護職を解任するというのは、それが口実でしかないことを示していた。追い詰められた満幸は、氏清とともに反乱を決意し、挙兵の準備にかかった。

         

         10月16日の午後京都で大地震が起こった。歩るくのも困難なほどの揺れ方で、殿舎倒壊して多数の死傷者が出た。土御門刑部卿は、乱兆であると義満に報告した。

         氏清は堺に帰り挙兵の準備にかかる一方、名分を得るため、南朝に降り、足利氏討滅の錦旗を得た。そして一族の紀伊守護山名義理、伯耆守護山名氏家ら一族に決起を呼びかけた。
         「この度、公方が時煕を許したというのは、山名一族が内紛を起こし、自滅するように仕向けているのだ。どれだけ忠義を尽くしても免れまいぞ。」氏清の強い説得に、最初渋っていた義理も遂には同意し、時煕らを除く山名一族を挙げて、12月27日に京都に攻め上ることを申し合わせた。

         満幸が京都を追放されて後一月あまり経った12月19日、丹後の古山満藤の代官が、早馬で山名満幸の挙兵を急報した。最初、幕府は半信半疑だったが、河内守護代遊佐国長より山名氏清が軍勢を率いて上洛の準備をしているとの通報が届くと、謀反はもはや疑う余地はなくなった。

         12月25日、将軍義満は軍評定を行った。諸大名の中には和平を主張する者もあったが、義満は「当家の運と山名の一家の運とを天の照覧に任すべし」と言い、氏清、満幸らとは妥協しない意思を表明した。
         義満は、この日のために「奉公衆」と呼ばれる馬廻り、すなわち直属軍を育てていた。観応の擾乱の頃には直属軍を持たないために祖父の尊氏や父の義詮は何度も苦しい目にあった。その反省から直属軍を作ったのである。その数3千騎。最も有力な大名が動員できる兵力でも2千騎ほどだから、相当な戦力である。

         評定の後、諸大名はただちに、山名軍を迎え撃つため守備に就いた。幕府軍は馬廻り3千と、諸大名の軍およそ7千、山名方は総勢5千ほどだった。山名方の勝機は、西から攻め込む満幸軍と南から攻め込む氏清軍の全軍が一気に義満の本陣を突くという以外になかった。

         午前6時頃、先鋒の山名義数・小林上野介の700騎が大内義弘の守る二条大宮を攻めて戦いは始まった。義数らの軍はよく奮戦したが、合流する筈の満幸、氏清らの軍は夜明け前の闇で道をまちがえ、内野に到着するのが遅れてしまった。そのため、先鋒は各個撃破される形となり、義数も上野介も戦死してしまった。

         孤立して戦うことになってしまった満幸軍も優勢な幕府軍に歯が立たず、たちまち壊滅し、満幸は丹後に落ちのびた。
         氏清は一時は、疲れた大内軍を劣勢に立たせたが、幕府方の援軍が到着すると、落ち延びる隙もなく一色軍に包囲され討ち取られてしまった。山名時煕の率いる50騎は、大内軍が劣勢に立たされた時、援軍の到着までよく奮戦したという。この時、時煕の手勢は次々討ち取られ8人になってしまい、時煕は窮地に追い詰められたが、家臣の垣屋弾正と滑良兵庫の防戦で窮地を脱したという。


         翌年4月、明徳の乱の論功行賞に基づいて山名氏清、満幸らの領国が諸大名に分け与えられた。山名氏に与えられた分国は幕府側で戦った時煕の但馬と、時煕の従兄弟師義の子氏幸の伯耆、従兄弟の氏家の因幡の3国だけだったが、ともかく時煕は但馬の守護職に返り咲いた。これ以来但馬は戦国時代の末期に豊臣秀吉に滅ぼされるまで山名氏の本拠として存続することになる。大内義弘は紀伊と和泉を獲得し、山名氏に代わる大大名となった。そして京極高詮は出雲と隠岐の守護職を得たが、国人領主は容易に京極氏に服従しなかった。そして内野の戦いから逃げ戻った山名満幸は1393(明徳4)年、細川頼元が新しい守護になった丹波で兵を起こしたが、師義以来30年にわたって山名氏に従ってきた丹波の国人も、満幸のために危険を冒すもの少なく結局奪回することは出来なかった。

         

         

         

        4

         山名氏が但馬の守護となったのは1372(応安5・文中1)年、師義の時である。それまでは、但馬は鎌倉幕府が滅び守護の太田氏がその地位を失って後は、南北朝の争乱の情勢の中で、守護に任じられた大名も在地豪族を掌握できず、不安定な状態が続いた。師義が守護となって以後はようやく在地豪族も帰服しはじめ、山名氏の被官となり統合されていったのである。 まだ「六分の一殿」と言われ、山名宗家が数カ国の守護を兼任していた時でも、但馬は領国の中で最も京都に近く、東に丹波、南に播磨という要衝にあったから必然的に山名宗家の本拠となるべき国であった。

         山名師義は但馬守護となった年、朝来郡の但馬一宮と言われた粟鹿神社の近くに大同寺を建立し、山名氏の菩提寺とした。開山となった月庵宗光はこれ以前の1367(貞治6・正平22)年に同じ朝来郡の山中に大明寺を建立していたが、師義が但馬に入って以後、師義、時義、氏清、時煕ら一族は月庵に師事し、禅を学んだ。この後但馬に禅文化の花が開いて行くことになる。

         師義の後を継いだ弟の時義は、天日矛を祭る出石神社の北に此隅城を築き、ここを本拠としたた。1389(康応1・元中6)年、時義は月庵宗光を開山とし、但馬の円通寺を創建する。しかし、その年の3月23日に月庵宗光は64歳で亡くなり、後を追うように、5月4日、時義も亡くなった。

         その後、1391(明徳2・元中8)年、山名氏清は出石に寺を建立したが、その年に幕府に反乱を起こし、山名一族の多くは滅ぼされてしまった。氏清の夫人は和泉の堺に居たが、翌年の正月元旦に逃げ帰ってきた家来から夫の死を知らされた。氏清の夫人は、家臣の未練を憤り、自害を試みたが、急所を外していたために、13日間生きて後死去したという。その手には戦の前に死を覚悟して妻に手渡した歌が握りしめられていた。

         取りえずば消えぬと思へ梓弓 取りて帰らぬ道芝の露

         そして、その袖書に夫人の歌が添えられていた。

         沈むとも同じく越えて待てしばし 悲しき海の夢の浮橋


         明徳の乱に幕府方で闘った時煕は、寺号を氏清の法号である宗鏡を取り、宗鏡寺と名付けた。そして亡くなった一族を弔ったのである。この寺は戦国末期に山名氏が滅ぼされて以後、荒れ果てていたが、後に沢庵が復興し「沢庵寺」と呼ばれるようになった。また将軍義満は、氏清の霊を慰めるために北野経王堂を建てた。それは千本釈迦堂(大報恩寺)に移築され今日に残っている。時煕は、乱の後氏清の女と結婚し、氏清の子らとも和解した。その氏清の女が宗全の母である。

         その年、1392(明徳3・元中9)年閏10月5日、南朝との和議が整い、南朝後亀山天皇が、三種の神器を後小松天皇に譲り、上皇となった。 後醍醐天皇の死後、観応の擾乱によって、南朝の勢力は一時的に盛り返したが、足利直義・直冬が殺されると、再び吉野の山奥で細々と抵抗を続ける勢力になってしまった。そして最も南朝方の勢力の強い九州でも、大宰府が陥落し、これまで南朝方の柱石となって戦ってきた楠木正儀も、細川頼之に降るという動揺を示し始めた。そんな中で南朝では長慶天皇が退位し、和平派の後亀山天皇が即位するに及んで王朝合一の機運は急速に高まってきたのだった。幕府にとっても、いかに勢力が衰えたりとは言え、南朝がしばしば反幕挙兵の名分に利用されることは放置できなかった。

         両朝の交渉は明徳の乱の功によって和泉、紀伊の守護職を得た大内義弘が南朝方と接触することによってはじめられた。そして北朝方からは吉田兼煕、南朝方からは吉田宗房と阿野実為が交渉にあたった。こうして足利義満と南朝側の間で三箇条の和睦条件が取り決められた。それは

        (1)三種の神器は南朝から北朝に譲国の儀式により譲渡する
        (2)皇位は旧南北両朝で交互に立つものとする。
        (3)旧南朝の経済基盤として諸国国衙領を譲る。

        というものだった。これに基づいて後亀山天皇は10月28日、吉野を出て、閏10月2日に入京、嵯峨大覚寺に入った。後亀山天皇は行幸の儀礼を用いて入京したが、それに従うものは、17名の廷臣と、名和長年以来南朝方であった伯耆党や、楠木正成以来の楠木党、和泉の和田氏、大和宇陀郡らわずかな数の武士に過ぎなかった。行幸の儀礼を整えようとするには、あまりにもわびしい姿であった。入京から三日日、三種の神器は「譲位」の儀式をすることもなく、北朝の土御門東洞院の後小松天皇の内裏に移された。こうして実質的には、南朝の消滅という形で両朝は合一されたのである。

         

         

          5

         

         1394(明徳5)年7月5日、年号は「応永」と改元された。 それは痘瘡の流行を鎮めるためであったという。その年の12月17日、足利義満は将軍職をわずか10歳の義持に譲った。これは太政大臣という極官を得るには、征夷大将軍が太政大臣に任じられた前例はないという障害を破るためであったようだ。そしてその月の25日、義満は太政大臣に任じられた。
         武士が太政大臣の地位に上るということは、平清盛の例があるばかりで、その平氏の独裁がもたらしたものに懲り懲りだったから、これには堂上公家から批判が出た。しかし義満は「それなら、斯波・細川らを語摂家となし、土岐・京極らを七精華としましょうか」と言ったという。
         もはや飾り物の天皇以外、名も実も自分の風上に立つ人間はいない。権力だけではなく、権威においても義満は日本の頂点にたった。しかしなお、義満はその飾り物の地位をも求めていた。

          明けて1995(応永3)年正月の拝賀の折には、公卿たちはまず室町殿に行き、庭上に立ち院の拝礼に準ずる礼をとって、その後皇居へ向かったという。
         それでもまだ、自分は日本の王ではない。日本の王になる為には 日本の中でいくら権力を持っていても、人臣最高の権威を得ても、なお天皇の権威を超えることは出来ない。その天皇の権威を義満は欲しかった。いかに日本の中で堂上公家らが伝統の権威にすがりついていても、日本の外の国々は日本を支配している者を王と認めるだろう。そうだ明 の皇帝の冊封を受ければ良い。対外的に日本の王となればよいのだ。義満はそう考えた。
         

         3月10日、明徳の乱で破れた山名満幸が五条坊門高倉の宿舎に居た所を幕府軍の最高責任者である侍所頭人となっていた京極高詮(たかのり)に襲われ殺された。京極高詮は明徳の乱で出雲の守護になったのだが、出雲は高詮の前は満幸の領国だった。そして隣に続く伯耆、因幡、但馬は、乱後も山名一族の領国だったから、満幸の元の領国である出雲や、丹波の国人領主と結びつき、満幸が再び宥免されれば山名氏の勢力が再び大きくなり、やっかいなことになる。そんなことにならないうちに抹殺されてしまったのだろう。

         明徳の乱というのは、山名氏の分国、とりわけ本拠である但馬においては被官・国人が時煕派と氏清派に分かれて戦った内乱であった。そして多くの有力な被官家では、本家は氏清方、分家は時煕方についた。例えば有力被官である土屋氏は本家が氏清方に従ったために没落し、時煕方に従った分家の垣屋氏が台頭する。こうした被官の本家没落という事態は、山名氏が被官階級に対する支配力を強め、守護領国化を進める上で好都合だったに違いない。11ヶ国有った山名氏の領国は3国に減ったけれども、守護大名として脱皮成長するには却って好都合だっただろう。
         ともあれ、明徳の乱の残り火も消され、天下は静謐。もはや将軍義満に服従しない者はどこにもいなかった。そして義満は次のシナリオを演じ始めた。天皇の権威を脱することである。

         それからまもなく、義満は突然出家の意思を表明した。後小松天皇は、勅旨を派遣したばかりではなく、自らも義満と会って出家を思いとどまるように説得しようとしたのだが、義満は等持院にこもって会おうとせず、6月20日、室町第で禅宗にしたがって出家し、天山道有(後に道義)と名乗った。そして後小松天皇には「出家をしても政務は続けますから、ご安心ください。」と伝えたという。義満の目的は政治から離れるなどということではなかった。出家をして世俗の主従関係を超えようとしたのである。

         義満の出家を聞くと、以前から出家の意思を示していた管領斯波義将がこれにならった。すると義将の弟義種、大内義弘、細川頼基などの有力大名や右大臣花山院通定、前太政大臣徳大路実時、前左大臣九条経教ら大名、公家らも続々と出家をした。あまりに出家する者が多いので「朝廷の儀式も出来なくなるのではないか」と思われたほどであったという。

         

         

        6

         7月11日、明国の使者が入京した。中国海岸を荒らしている倭寇の取り締まりを要求するために来日したようである。これに対して義満は倭寇20余人捕らえ明に送っている。同じ頃、九州探題今川了俊が京都に召還された。了俊は明や朝鮮との外交問題について義満から相談を受けるくらいに思っていたのかも知れない。
         この頃、朝鮮では高麗が滅び、李氏朝鮮が成立した直後だった。建国した李成桂は倭寇撃退で有名を馳せた高麗の将軍で、建国した朝鮮は、これまでの高麗のように倭寇の活動を放置しておくことはありえない。日本としても倭寇を取り締まり、明や朝鮮と平和裏に貿易を拡大してゆくことが得策であると思われた。7月に今川了俊、朝鮮の捕虜570人を送還したが、これは李成桂の要求に応じたものだろう。

         しかし、義満の考えていたことは、了俊の持つ九州探題としての権限をすべて剥奪するということであった。今川了俊は南朝が豊前の大友氏以外ほぼ九州全土を掌握していたのを、20年かかって平定した南北朝合一の功労者であった。しかしそれゆえに関東管領と同じような大きな権力を持ってしまった。九州の大名の賞罰権はもとより、朝鮮との貿易、外交までかってにやっている。そんな権力を与えてはならぬというのが義満の考えだっただろう。

         翌閏7月、今川了俊は京都に復命した。そして了俊は義満の意図が九州探題の地位を更迭することであることを知った。8月10日、了俊は遠江の半国守護に補任された。さらに11月14日、了俊は駿河半国守護に補任され、今度はただちに下向を命じられた。普通、守護国の経営は守護代にまかせ守護は京都に居るのが通例であった。下向を命じるというのは、追放に他ならなかった。これまでの了俊の功績に報いるにはあまりにも過酷な待遇だった。しかし当時の一流のインテリ文化人であった了俊は、けっして土岐康行や山名氏清らのように牙を剥き叛乱を起こしたりはしなかった。じっくりと時を待つ ・・・・。それが4年後の応永の乱となってゆくのである。

         70歳になる今川了俊は失意の中で駿河へと去っていた。義満にとっては、了俊の功労が大きく、その存在が大きれば大きいほど、その存在は邪魔で、目障りで、危険なのである。それは山名でも、土岐でも、斯波でも、今川でも、細川でも、関東管領でも同じことなのだ。「謀反を起こしたければ起こせ。力を削がねばならぬ。」義満はそう考えた。
         了俊に好意を持っていた細川頼之が死に、長い間そのライバルであった斯波義将が管領に返り咲いた。そして義将は自分の娘婿である渋川満頼を九州探題にしたのだった。

         ところで今川了俊といえば、当時一流の文化人で、歌人でもある。70歳を超えて、なおこの後『難太平記』という歴史に残る書物を著している。そして山名時煕もまた子供の頃、月庵宗光に禅や漢学を学び、漢詩も作り、また『新続古今和歌集』に入首している歌人でであった。そんな二人が、了俊が駿河に下るまでのわずかな間に親しく話をする時があっただろうか。


        7

         1396(応永3)年、時煕に男子が生まれた。時煕29歳の時である。この男子は後に元服し、大御所足利義満から一字を賜り、満時と名乗り。1414(応永21)年、侍所頭人になるが、25歳の若さで死去してしまう。宗全の兄である。
         時煕は明徳の乱で敵として戦った山名氏清の女を正室とし、氏清の一族とも和解に努め但馬の民心の安定を図っただろう。その子の一人時清は後に応永の乱で大内方に加わり時煕に敵対するが、満氏は時煕に臣従し安芸の守護代となっている。
         この年、但馬では守護代の垣屋播磨守隆国が楽々前城を築いた。この城は南北1キロもの城域を持つ山城で、垣屋氏の本城となった。垣屋氏は山名時氏が但馬に入部する前からの家臣で、その後も山名氏の重臣中筆頭の地位にあった。4年前の明徳の乱の折、時煕を守って討ち死にした垣屋弾正は隆国の近親者だろう。時煕にとっては、その功に報いても報いきれない存在である。
         知行国が但馬1国となってしまった時煕にとっては、知行国の内実を高める時であった。まだこの頃は守護一円支配の途上にある時代で、国内には多くの庄園が散在しているし、国人領主も半独立的な存在で山名家の家臣にはなっていない。

         時煕は京都にあって、大御所義満に恭順して、かつての侍所頭人の地位を復活させるために努力していただろう。そしてその一方で、但馬国内での実力を高めるために南の日下部一族を手なずけながら、軍事的な睨みを効かすために難攻不落の城を建設しようとしていただろう。

         後に山名四天王と言われた重臣は譜代の垣屋氏と、平家の落人という言い伝えのある田結庄の国人領主となった田結庄氏、そして古代から続く但馬の豪族日下部氏の太田垣氏と八木氏である。後に越前の守護となる朝倉氏もこの但馬の日下部氏出身であった。それだけ日下部氏の勢力は大きかったから、山名氏が守護大名として但馬に根を張るには、どうしてもそれだけの内実を作ってゆかねばならなかっただろう。

         垣屋氏は桓武平氏土屋党の一族という言い伝えを持つ一族で早くから山名氏の重臣の地位にあったが、明徳の乱で本家土屋氏が氏清に従ったために殆どすべてが討ち死にしてしまった。逆にその支族であった垣屋弾正が時煕を守るために奮戦し、戦死したこともあり土屋氏に替わって重臣の地位を得ることになったのである。この頃は弾正の子煕忠が仕えていただろう。「煕」は時煕から賜ったものだろう。
         田結庄氏は左近将監国盛が山名時熙に仕え、重臣となり、その子重嗣は宗全に従って嘉吉の乱に際して播磨国に出陣したと伝える。
         八木氏は孝徳天皇の後裔と称する但馬日下部氏の一族朝倉氏から出ている。朝倉高清の次男重清が八木城に入り八木氏を称したという。時煕の頃は重頼が当主だったと思われる。その子宗頼は文学を好み、1465(寛正6)年3月、将軍足利義政臨席の洛北大原野の花見に宗全とともに招かれたという。
         太田垣氏も日下部一族という。山名氏の被官としての太田垣氏は時煕の時代には資料に出てこないようだが、次の宗全の時代に但馬の守りの要としての竹田城城主として登場する。

         この1396(応永3)年の秋、9月20日、延暦寺の大講堂供養が行われた。最初予定されていた9月3日が雨になったため、16日に延期したのだったが、その日も雨になったため、再び9月20日延期された。9月17日、足利義満は法皇の行幸に擬して公卿、殿上人60人を従え、天皇しか許されていない八瀬童子の輿に乗って、比叡山に登った。そして17日には雨止めの祈祷を行い儀式の日にそなえた。

         20日、関白一条経嗣など公卿30名が着座し、「証誠座主」を青蓮院尊道入道親王、「呪願」を妙法院尭仁法親王が務める供養がようやく行われ、滞りなく終わった。この一連の儀式をとりしきることで、義満は皇族、貴族に君臨する権威を見せつけたのだった。そして翌9月21日、義満はこの延暦寺で1176(安元2)年の後白川法皇、1269(文永6)年の後嵯峨法皇の儀にならって受戒したのである。
         こうして、義満は将軍として武家の頂点に立ち、太政大臣として公家の頂点に立ち、いまさらに出家して身分の世襲の壁を越えて自らを法皇に擬し、日本のすべての権力の頂点に立ったのである。

         その頃、京の洛北北山の西園寺家の別荘に西園寺実俊の妻で、義満の妻日野業子の叔母にあたる日野宣子が隠棲していた。義満はこの義理の叔母の住む山荘を訪ねた時、すでに荒れ果ててはいたが、その風情にいたく感動した。義満はこの地に自分の求める理想郷を造ろうと思い立った。それはかつての白川法皇と同じ権威と権力が存在する場でなくてはならぬ ・・・・ 。

         しかし義満が権力の絶頂に上っても地方では火種がくすぶっていた。九州探題の今川了俊を更迭した付けがまわってきている。前年渋川満頼を後任に当てたが、九州の諸大名は容易に満頼には服さず、早くも今年の春頃から少弐貞頼や菊地武朝が兵をあげ、千葉、大村氏がそれに同調しはじめた。関東管領はますます、独立性を強めてきている。紀伊、和泉の守護職を得て大大名となった大内義弘は、かってに外国貿易に手を出そうとしている。武士が武力で権力を保持している今の世の中である限り、強い大名が出てくれば、将軍家も決して安泰ではなかった。

         

        8


         3代足利義満というのは、どういう人物だっただろう。義満が生まれた時代は南北朝騒乱の時代で、南朝方に投じた足利直冬を山名時氏が助け、中国地方に転戦していたし、、衰えたとは九州の南朝方も活発に活動している時代だった。4歳の時には南朝の軍が京都を制圧し、義満は建仁寺に匿われて難を逃れるという経験もしている。そんな内乱の最中、1366(貞治6・正平22)年冬、父の二代将軍義詮は急の病に倒れ、死期を悟った義詮は家督を義満に譲り、細川頼之に後事を託して、12月7日に37歳で死去した。義満がまだ10歳の時である。その後も25年間内乱は続く。それ故、望むと望まざるとを問わず、この南北朝の内乱を収束させることが義満の使命となった。

         義満は15歳となった時から政務を見るようになる。義満の母は2代将軍義詮の正室渋川幸子ではなく、側室の良子、石清水八幡宮の社家の善法院通青の娘であったが、その母は順徳天皇の皇子四辻宮善統親王の孫で、後円融天皇の母祟賢門院藤原仲子の実父も善法院通青で良子とは実の姉妹だったから、官位の昇進は祖父、尊氏、父義詮に比べて非常に早く、1373(応安6・文中2)年、16歳の時に参議左近衛中将となり公卿に列し、1381(弘和1・永徳1)年24歳の時には父、祖父の官位を超えて内大臣に任じられ、翌年には左大臣になっている。こうした貴族としての権威の獲得は、義満を武家の棟梁としてだけではなく、公家としてもその頂点に据えることになった。

         内乱期とはいえ、あらゆる権力が自分のために準備された中で育った義満であったが、その人間性を見る上でどうしても看過できないのが女性関係である。そしてとくに宮中の女性との関わりに、深い謎を覗かせている。
         義満の正室は日野業子という宮中の典侍であった6歳年上の女性である。そして業子の没後、室となったその姪の日野康子(北山院)、4代将軍義持、6代将軍義教の母となった三宝院坊官安芸法眼の女藤原慶子(北向殿)、その妹量子、晩年に寵愛した義嗣の母春日局など、数多くの側室を持ったが、後円融天皇の後宮にも平然と出入りし、女性と関係を持っていたらしいのである。しかも後小松天皇の生母である上臈三条厳子とも関係があったらしい。厳子は後円融天皇よりも7歳年上の女性で1371(応安4・建徳2)年に、義満が14歳の時にまだ即位前の後円融に入内しているが、義満の正妻である日野業子とは同年齢である。義満と後円融天皇も同年齢であるが、これも何か伏線になっているような感じがする。業子は宮中の典侍だったが、天皇の手がつく可能性がある宮中の女官に、天皇の男が色恋沙汰で近づき得ること自身、後宮のの紊乱を示しているのだろう。

         後宮に自由に出入りし、典侍の日野業子と関係を持つことが出来るということは、上臈であった三条厳子とも関係を持つことが出来たということになる。後1382(永徳2・弘和2)年、円融天皇は退位した年、上臈であった厳子に今後会わないと言い渡し、退位した翌年には、厳子と按察局という女官の不義を疑い、厳子を刀の峰で打ち怪我を負わせるという事件を起こした。そういう話を聞くと後小松天皇も本当の父が誰かということもわからなくなってくる。後円融天皇が退位し、あろうことか、厳子の生んだ後小松天皇が即位していることは、ますますその疑惑を深めることになる。そして事件のあった年、後円融上皇は自殺を試み、厳子の父前内大臣三条公忠は死去している。

         この話は厳子の父三条公忠の日記に書かれているものなので、山名時煕ら諸大名や幕臣らがどれだけ真相を知っていたかはわからない。表向きは三条公忠が所領のことを義満に頼んだのが、後円融天皇が、「所領のことは公家の沙汰によるもので、幕府に言うのは筋違いである。」と怒ったことが発端であった。人々はただそのように信じていたのだろうか。

         義満の権力欲はもはや武家の最高の地位である将軍よりも、公家の最高の地位である太政大臣よりも上の地位を求めるものだった。そして、そのシナリオは今完成しつつあった。

         

        9


         翌1397(応永4)年4月16日、出家した義満の住む北山殿(鹿苑寺)上棟式が行われた。そして総費用百万貫(全国総石高の15分の1)という大工事に、諸国の守護地頭から木石を献上させ、土木工事に必要な人夫の供出を命じた。ところが、西国の大大名となった大内義弘は「武士は弓箭を業として奉公すべきもの」と言い、人夫供出に応じなかった。
         義弘の武士としての矜持でもあったろうが、今川了俊が九州探題を解任された後、九州平定に尽力した後任は当然自分だと思っていたのに、管領斯波義将の娘婿である渋川満頼が任じられたことへの反発もあっただろう。

         今川了俊が九州に乗り込む前、渋川満頼の父義行が九州探題に任じられたものの九州の地を踏むことすら出来なかったではないか。それを了俊と自分の力で九州を平定したのではなかったか。それなのに、自分を無視して凡庸なな渋川を探題にするとは何事か?。そんな思いが義弘の中にはあっただろう。しかしこの義弘の反発が義満に大内打倒の決心をさせることになる。

         諸大名は、北山殿や、火災で焼失した相国寺の再建のために費用や人夫の供出を命じられたのだったが、その二つとも当時の耳目を驚かせるような大工事だったから、それに動員される民衆にとっては迷惑この上ない話だっただろう。

         室町時代というのは、日本の農業生産が飛躍的に進歩した時期だった。水車が使われるようになり、肥料が進歩し、二期作や二毛作が始まった。灌漑技術の進歩で耕作面積もどんどん広がっていった時期である。それだけに農民が豊かになるのではなく、それだけに収奪する者が増えてゆく時代であった。その豊かさの奪い合いこそ戦国時代の本質なのである。

         反別生産量の増大に伴って「加地子」という新たな収奪が始まった。通常の年貢の率というのは、それまでとあまり変わらなかったようだが、生産の増大に従って、時には本年貢以上の率で付加される中間得分が発生してきたのだ。その権利は売買され、上は貴族や寺社などの庄園領主から、守護、地頭、下は金を持っている庶民まで誰でも買うことが出来た。それは新興の「有得人」といわれる土倉や酒屋などの新興商人を生み出し、ますます農民の階級分化を促進してゆくのである。
         一国一円支配を進めようとしている山名時煕のような守護大名は、土着の国人領主を把握することが何よりも考えなければならないことであった。その国人領主というのは一方で収奪者であっても、一方で困窮する農民の救済者でなければならなかった。苛斂誅求だけでは支配を維持できないのである。

         例えば、この年1397(応永4)年11月24日に地頭の仲介で、琵琶湖の北岸菅浦の住民と西岸堅田の住民が漁場の境界を定めた契約書を交わした。
         菅浦は耕地は狭く、昔から漁業で生きてきた土地であった。朝廷の「供御人」として鮮魚を朝廷に納め、その代償として漁業権や湖上通行権、販売権を得て生活してきたのだが、鎌倉時代から堅田の住民は「櫓棹杵櫂通路の浜、当社供祭所たるべし」という下鴨社より与えられた特権を主張するようになり、さらに室町時代に入って堅田が領主延暦寺が設置した湖上関の管理権を掌握し、諸浦から通行税を取り立てるようになると、「供御人」の特権を持つ菅浦と度々衝突するようになっていた。こうした民衆の紛争を調停する者こそ国人領主であった。

         室町時代は農業生産の発展に伴って、非農業人口が増え、商業、製造業など、急速に専業化してゆく時代だった。そして宋銭、明銭が大量に輸入され、商業流通が盛んになり、銭貨による税の徴収が行われ始めた時代だった。そうした社会構造の変化を見ていた支配階層もまた諸国の国人領主であった。
         それに比べて在地の農民の存在など見ることもない、歯牙にもかけない前時代的な庄園領主にとっては、収奪の大きさは大きいほど良いのである。それが庄園領主の滅びてゆく必然性だったのだろう。足利将軍というのは、初代の尊氏はともかく、義満にしても、次の義持にしても義政にしても、守護大名の上に君臨しながら、その守護国の実態というものに、民衆はおろか、守護代クラスを別にすれば、国人領主の動向にもきわめて無関心な武家貴族になってしまった。それがまた戦国時代を生み出す一つの原因でもあっただろう。

         そこに、そもそも前時代的庄園領主と新興国人領主との支配階級内部の利害対立があった。山名時煕ら守護大名にとっては、その両方の顔を見ながら生き残ってゆかねばならなかった。

         

         

         

        10


         大御所(義満)とて時代の流れを見ていないということはない。より多く収奪する方法、そしてより足利一族と将軍家の権力基盤を確かなものにすること。そのために何を利用するかという意味ではしっかりと世の中を観察しているのだ。

         1397(応永4)年5月26日、幕府は灯油の製造、販売、貢進を行う大山崎神人の公事、土倉役を免除する。また摂津道祖小路(サイノコウジ-茨木)、天王寺、木村(コムラ-大阪市生野区)、住吉、遠里小野(大阪市住吉区)、近江国の小秋(小脇-八日市市)の住民が自由に灯油の売買をしているのを禁止し、所持していた油器を破却した。
         大山崎神人の油座というのは、石清水八幡宮が本所となっている座であった。それはすなわち義満の母紀良子の実家ではなかったか。
         当時職業の専業化や商業の発達が進む中で、さまざまな座が全国に形成されていた。商品流通の発達にともなって荏胡麻油を灯火に利用する生活は一般庶民にまで広がりつつあった。それだけに荏胡麻油の販売にともなう利益は莫大なものになる。その独占権を油座に与えることで、座役から安定した貢納物や労役を得たのである。

         また幕府は土倉や酒屋など高利貸しで大もうけしている「有徳人」とよばれる新興商人らに対して、その営業権と引き換えに「倉役」「酒屋役」という高額の税を徴収するようになる。そして一般庶民からは田畑一段ごとに徴収する「段銭」、家屋一軒ごとに徴収する「棟別銭」などの臨時の税や、さらに「関銭」と呼ばれる通行税も徴収した。これらはすべて貨幣流通が一般化することによって実現した収入であった。

         しかし室町幕府は徳川幕府の天領のような直轄領を持たず、安定的な財源を持たなかった。「御領所」という幕府領はあたが、それは幕府財源というよりは、幕府奉公衆の所領に守護からの免税特権を与えるという性格のものでしかなかった。そのために室町幕府はその衰退とともに、どんどん矛盾した、場当たり的な課税を繰り返し、その信用を失墜してゆくのである。

         義満は幕府の財政を潤すために、明、朝鮮との貿易を考えていた。ところが、今川了俊が九州探題を解任された後は、大内義弘が頻繁に朝鮮との交渉を続けていた。そして倭寇の取り締まりの問題で、義弘の評判は挑戦にすこぶる良かった。しかも大内氏の出自は古代朝鮮の百済の王族であったという。
         明、朝鮮との貿易を自分がやろうと考えている義満には大内氏の存在は、幕府に従うか、どうかにかかわらず邪魔なのだ。義満は明徳の乱で山名氏の勢力を削いでしまったように、大内氏の力を削いでしまおうと考えていた。

         この頃、大内義弘は幕府の命令で、九州探題渋川満頼に従わない少弐氏を征討するため、5千の兵を率いて九州に出兵していた。そして不運にもこの年の9月、義弘の弟の満広は、筑前八田で少弐方の軍と戦って戦死してしまった。
         ところが後になって大御所(義満)が密かに大内義弘を滅ぼすようにと命令していたことがわかったのである。或いは義満は義弘にわかるように噂をばらまいたのかも知れない。そして弟は戦死してまで、義満の命令で戦ったのに、何の恩賞もなかった。
         「これはどんなことがあっても大内を滅ぼそうということだろう。」と義弘が考えるのは当然だった。しかし義弘は決して相手の注文どおりに切れてしまうような猪武者ではない。「こちらにも考えがある。」。義弘は先に駿河に追いやられた旧知の今川了俊に手紙を送った。

         義満と大内義弘の間に隙が生じているのが、次第に世間にも明らかになってゆくのを、山名時煕はどう感じていただろうか。丁度5年前、山名一族が同じ目に合わされたのではなかったか。今はただ義満に服従し、事態を傍観している他はない。そう思っていたのだろうか。

         この年、奥州の伊達政宗が京を緒訪れている。政宗の妻は足利義満生母の妹にあたる石清水善法寺通清法印の娘、蘭庭尼であった。義満にとって政宗は義理の叔父にあたる。幕府にとっては、最近とみに独立性を強める関東管領を牽制する狙いがあったし、伊達氏にとっては関東管領が東北に支配力を強めるのを防ぎたかった。東北には守護は設置されず、その代わりに斯波氏の一族大崎氏が奥州探題に任じられていたが、政宗の実力は、すでに大崎氏をしのぎ、大崎詮持が畠山国詮と紛争を起こすとそれを調停するまでになっていた。義満は、この新興伊達氏の勢力を利用し、東北地方の備えとしようと考えたのである。

         最後の勅撰集となった『新後拾遺集』には

        たのむかな我がみなもとの石清水ながれの末を神にまかせて

        という義満の歌が選ばれている。義満の姓は「みなもと」(源氏)ではあるが、その源氏の守り神である石清水八幡宮を祭祀している家が、母の実家である紀氏であった。同じ紀氏である義姉を妻に持つ伊達政宗もまた「たのみたい」存在であったに違いない。

        11

         年が明けた1398(応永5)年1月13日、崇光天皇が65歳の生涯を閉じた。初代将軍足利尊氏と直義が対立し、南朝勢力が加わる三つ巴の勢力争い、観応の擾乱と呼ばれた内乱の結果、「正平の一統」と呼ばれる一時的な南北朝の統一が実現したが、その時、崇光天皇は吉野の奥賀名生に連れ去られたのだった。
         『新千載和歌集』に 鈴鹿河八千瀬の波の立居にも 我が身の世をは祈らず という歌が残っている。わが子を皇太子にすることも出来ず、ただ40年以上に及ぶ隠居暮らしで琵琶の秘伝を学び、伝えることに無聊を慰めるばかりの生涯であった。

         初夏に入った4月、北山第(後の鹿苑寺-通称金閣寺)が竣工した。この邸宅は、この年1398(応永5)年より170年ほど昔、1224(元仁2)年に西園寺家の先祖太政大臣藤原公経が造営した別荘だった。公経は持仏堂を西園寺と称し、家名も西園寺と改めた。その後西園寺家7代公宗の時、後醍醐天皇の暗殺を企てたために公宗は死罪となり、その後西園寺家も衰え北山殿も荒廃していたようだ。しかし背後に衣笠山を頂く鏡湖池の景色はすばらしく、ことに雪の積もった時の池の風情は言葉につくせぬものであったようだ。この別荘に見せられた大御所(義満)が譲り受け新しい邸宅にするため去年から工事をすすめていたのだった。

         新しい北山第の主な建物は義満の住む北御所と正室日野業子の住む南御所、後円融天皇の母崇賢門院の御所に別れ、寝殿と連歌の会を催したり、非公式な客を接待するための会所や後に金閣として残る舎利殿や護摩堂などがあった。
         元の西園寺を天鐘閣と名づけた二階建ての建物にし、その二階から鏡湖池に面した、「潮音洞」と呼ばれた金泥で外装された舎利殿(金閣)の二層目へ桟道が渡されている。招待された人々は「虚空を歩くようだ」と賞賛したという。後に左大文字山と名づけられる山の中腹には四阿があり、そこから鏡湖池を見下ろすことが出来た。管領の斯波義将は「西方極楽浄土とでもお取替えになられませぬよう。」と言ったそうである。

         5月には将軍義持の主催で、山科の一条竹鼻で勧進猿楽が三日間に渡って行われた。桟敷の沙汰を畠山基国が務め大御所(義満)は一日目と二日目、臨席し、御所(義持)や故関白太政大臣二条良基の子である聖護院門跡道意、そして青蓮院門跡尊道入道親王らは三日とも臨席した。いずれも大御所(義満)のブレーンである。後に世阿弥と号した観世元清の新作『高砂』『融』『忠度』など後世に残る作品が多数上演され絶賛を博したという。山名時煕ら在京している諸大名も日野一族らの公家たちも猿楽が好きでも嫌いでも、大御所(義満)の顔色を窺いにこぞって鑑賞に出かけたことだろう。
         元清(世阿弥)は、藤若と呼ばれた少年時代に、義満に見出され寵童にされてしまったという。室町時代には権力を持つ大名たちが好んで少年を漁るようなことは普通だったという。その元清(世阿弥)も今では押しも押されもしない猿楽を代表する地位を得ている。義満の寵愛、庇護は今も変わらない。しかし、それ故に人の恨みは積もってゆくのだが ・・・・。

         6月20日、この日畠山基国を管領に任じられ、今後諸職を統括する管領は細川、斯波、畠山の三家、軍事、京都の治安と御家人の訴訟処理を管轄する侍所の頭人は山名、赤松、一色、京極の四家から出すことが定められた。三管四職の制である。
         ともかくも山名家は、今後も室町幕府の屋台骨を担う一家となり、山名氏の総領である時煕は、幕府を運営する立場になったのである。考えてみれば、今日の山名氏というのは、南北朝の対立が始まって以後はしばしば反幕府の主力となって戦ったきわめて在野的な性格の大名家だった。それが今首都警備と御家人の統括という幕府の中枢を運営することになったのだった。四職家の一つに数えられても、山名の血の中には、やはり山名家のためになる限りでの将軍家への奉公という思いが流れ続けてゆくだろう。


         8月、朝鮮から朴敦之が大内義弘への答礼の使者として来日した。これまで大内義弘が倭寇の沈静化に協力し、捕虜の送還を行うとともに、貿易を推進してきたことに対する答礼であった。ところが大御所(義満)は、朝鮮の使者を入京させるとともに、幕府が朝鮮との通交の意思のあることを伝達するように命じた。朝鮮との貿易は日本の主権を掌握している幕府がするという意思表示である。結局朴敦之は京都に赴き、幕府の作成した国書を携えて朝鮮に帰ることになった。

         10月になって渋川満頼は、九州探題に服さない菊地武朝、少弐貞頼らと戦ったが、とても九州探題独力では戦えないと幕府に訴えて言ってきた。10月16日、幕府は、大内義弘に満頼を救援するように命令した。
         「これまで倭寇の問題を解決して、朝鮮とうまくやってきた自分を外して、大御所は朝鮮との交易の利益だけを独り占めしようとしている。そして誰が九州探題にふさわしいかは、誰の目にも明らかなのに力も無い身内の渋川満頼を探題にして、困ったら大内の力を利用だけする。弟の満弘は戦死してしまったのに、何の恩賞の沙汰もなく、しかも噂では少弐や菊地に大内を討てと内々に命じたと聞く ・・・・。もう京都に帰ってくることはあるまい。鎌倉の御所を奉じて立つまでだ。了俊なら必ずうまくやってくれるに違いない ・・・ 」義弘は煮えくり返る気持ちを抑えて京都を出発した。

         

        12


         ところが義弘が当てにしていた関東管領足利氏満は11月4日、死去していた。「人生50年」の室町時代でもまだ働き盛りの40歳で、思いがけない死あった。氏満は、鎌倉御所に服さない名族小山氏と20年に渡って戦い、去年、小山義政の子若犬丸が会津で自害して、ようやく平定したばかりであった。子の満兼が後を継いだのだが、まだ21歳の若者である。実践経験も少ないし陰謀をともにする相手としては役不足である。「了俊のことだから、これまで氏満と交わしてきた秘密が漏れるということはないだろうが ・・・ 」

         年明けて1399(応永6)年春、 管領となった足利満兼、は弟満貞(稲村御所)、満直(篠川御所)を陸奥に派遣し、奥州支配の要とした。満直は、岩瀬郡稲村に住んで稲村御所と呼ばれ、満貞は安積郡篠川に住んで篠川御所と呼ばれた。この動きは、
         東北地方は幕府からは奥州探題が派遣され、代々斯波氏の支流である大崎氏がそれを務めていたのだが、7年前に陸奥、出羽の管轄が関東府に移されたことが、両御所の設置の根拠になっており、奥州探題と同等の所務、検断の権限を与えられた。
         大崎氏をはじめ、伊達、葦名などの東北の主だった豪族は互いに抗争をしながらも、鎌倉府に対しては敵対的で、下野の名族小山氏が鎌倉府に叛した時も、再三小山氏は陸奥磐城の田村氏に匿われ、そのために小山氏を討伐するのに20年もの歳月を必要としたのだった。

         鎌倉府は小山氏が滅亡した後、陸奥南部に勢力を伸ばそうとはかり、二人の弟に拠点を作らせようとしたのだった。それは、若い満兼に、再度の義満打倒の誘いがあったこととも関係するのかも知れない。一つにカモフラージュになる。そして義満とつながる大崎満持や伊達政宗を牽制して、鎌倉軍を西上させることが出来るということだったのかも知れない。単に、将軍の座という野心だけではなく、若いだけに、貴族化した将軍への関東武士の反発という心情も働いただろう。
         22歳の満兼は、まだ怖いもの知らずである。これに対して、伊達政宗は、すぐに反応した。篠川御所足利満貞を攻めたのである。政宗は政宗の方で、鎌倉御所を奥州には入れないという意図と、義満に協力して、関東管領の軍を東国に釘付けにしておくという意図があっただろう。

         その頃、京都では義満がさまざまな貴族的な行事をこなしていた。3月11日には奈良興福寺の金堂供養に臨席、4月には世阿弥が醍醐寺三宝院で臨時の猿楽十番を興行し、義満や、青蓮院門跡らが見物した。醍醐寺三宝院の満斉は、その母が白川殿と号して、義満の正室日野業子に伺候していた関係で、義満の猶子となった。この年まだ22歳の若者だったが、すでに醍醐寺74代の座主の地位にあった。後に将軍義持、義教らのブレーンとなる人物である。
         7月7日には新築なった北山第で当時、流行しはじめた七夕花会が開かれた。50名の出席者に各々7つの瓶に花を活けさせる趣向で、この後の花道につながってゆく。
         そして9月15日、中秋の名月の日には、相国寺七重の塔の落慶供養が行われた。義満は北山第から車に乗り、親王、公卿を従えて、群集が見守る中、相国寺に入った。式は、五山、興福寺、東寺から千名の僧侶が集められ、宮中で行われる御斎会に準じて行われた。
         相国寺はもちろん、禅寺であるが、この七重の塔の第一層と、第二層には密教の大日如来がまつられていた。それは武家の信仰する禅寺と公家の信仰する密教の頂点に、義満が築いた相国寺を置くという意味であっただろう。しかしこの七重の塔は、4年後に焼失してしまう。義満を呪う人間をすべて抹殺することは出来ない ・・・・・ 。

         

        13

         

         その頃大内義弘は倭寇の鎮圧を行い、7月には朝鮮に使者を送り、大内氏が古くから百済王族の子孫である伝承を持っていることを伝えて、朝鮮に領地を分けてもらえるように交渉したりしている。義弘の目は、単に貿易という以上に朝鮮に向いていた。
         大内氏の伝承では百済聖明王第3王子の琳聖太子が周防国多々良浜に着岸し、聖徳太子より大内県を采邑とし多々良の姓を賜ったと伝える。その多々良氏が大内氏の祖先だということである。多々良氏というのは古代に製鉄技術を持って日本にやって来た渡来人らしい。
         大内氏は鎌倉時代から周防権介を世襲し、六波羅評定衆となった。領国が瀬戸内や周防灘に面しているため、瀬戸内の海賊衆とはつながりが深く、そうした意味でも新生李氏朝鮮との交易には深い関心を持っていただろう。それに義満と険悪な関係になっている今、朝鮮はいざという時の逃げ場所とも映っていただろう。

         こうした動きは、義満には不快で危険なものであっただろう。鎌倉府との陰謀もすでに見抜かれていたかも知れない。義弘が倭寇討伐を始めた頃から、義満は再三に渡って上洛を命じている。しかし、義弘は上洛せず、密かに挙兵と、諸大名への工作を始めた。

         秋8月、山城守護職結城満藤が守護職を罷免されれ、幕府は山城を御料所として京極高詮に預けた。結城といえば、関東の結城満朝はこの春、関東府の足利満貞に従って稲村御所に下り、伊達、葦名氏に対抗していたが、その動きに関係があるのかも知れない。仮想敵である関東府の一味として、満藤は山城守護職を罷免されたのかも知れない。
         その満藤は罷免された後、山名時煕の領国但馬朝来郡に下向している。それは、もしかすると明徳の乱で義満に煮え湯を飲まされた山名一族であるが故に、鎌倉府に同心するように働きかけるためであったかも知れない。

         10月になると義弘は公然と兵を結集し、山口を出発した。そして10月13日、5千の兵を率いて領国泉州の堺に上陸した。大内義弘は幕府に平井新左衛門を派遣し、堺に到着したことだけを報告し、義弘自身は入京しなかった。これに対して大御所(義満)は青蓮院の伊予法眼を堺に派遣し義弘の入京を促すが、義弘は自分を暗殺する陰謀の疑いがあるとして、入京を拒否した。
         大御所(義満)は、さらに義弘の上洛を促すため、幕府のブレーンになっている高僧絶海中津を堺に派遣した。10月27日、絶海中津は堺に着き説得に当たった。大内方の幕内では義弘の弟弘茂や重臣の平井備前入道(道助)らが、大御所(義満)に帰順すること進めるが、杉豊後入道は入京すれば滅ぼされると反対した。

         義弘は結局、豊後入道の意見を入れ、絶海中津に入京出来ない理由を伝えた。
         「自分は九州平定に今川了俊に従い、長年九州平定に尽力した。また先の明徳の乱では小林上野介の首級を挙げるなど手柄をたてた。そして南北朝の統一の時には、両朝の交渉の間に入って尽力した。今度の九州出兵の命令に対しても、大内満弘、盛見を派遣して戦い、弟の満弘も戦死してしまったのに、何の恩賞の沙汰もないばかりか、自分の領国である紀州、泉州二国を召し上げると聞く。また、自分が幕命に従って戦っている敵である筈の少弐、菊池らに大内討伐を命じたとも聞いている。それはどういうことか。自分は関東御所の足利満氏公とも相談して、政道を正すつもりである。上洛するのはその時だ。」と。

         もう義弘の謀叛の意思は明らかになった。こうして応永の乱は始まったのである。

         

        14

         

         10月28日、大内義弘は鎌倉公方足利満兼の御教書を奉じて募兵を始めた。さらに大義名分を得るため、 南朝の後村上天皇の皇子師成親王を奉じて挙兵した。義弘は興福寺や叡山に鎌倉公方足利満兼の挙兵を伝えて呼応を呼びかけるとともに、旧南朝方の菊池、楠木氏、安芸の児玉氏や吉川経見にも挙兵を呼びかけた。これに呼応して11月には明徳の乱で没落した丹波の山名時晴、土岐康行の乱で没落した美濃の土岐詮直、近江の京極秀満らが挙兵した。堺では、大内方が16町(約1.8㌔)四方の砦を築き、その中に48の井楼と1700の櫓を設け、5千の兵が立て篭り、海には大内水軍がて戦いに備えた。
         堺の地形は西は海で、東は道もない深田が拡がっている。その地形を利用して大内方は多数の城楼や櫓を構築していたから、幕府軍がいかに大軍でもそう簡単には落とせないと思われた。そして南朝方の楠木正秀・和田・湯浅 及び、河内・紀伊の将士も馳せ参じた。

         これに対して幕府軍は細川満元の三千騎、京極治部少輔入道(高詮)の二千騎、赤松義則の三千騎など八千余騎が淀・山崎から和泉国に向った。そして11月8日には足利義満が男山八幡に出陣した。馬廻り二千余騎。管領畠山基国と子の満家、前管領斯波義将と子の義重、吉良、石堂、吉見、渋川、一色、今川、土岐、佐々木、武田、小笠原、富樫、河野ら、その勢三万余騎が従った。11月14に日、幕府軍三万は畠山基国と斯波義将を先陣として八幡から和泉国に向かった。

         大内方の勝算は鎌倉軍が西上して来るまで5千の兵で持ちこたえることにあった。そして鎌倉公方の確約を得た上での挙兵だったから、大内方には十分に勝算があると思われた。

          しかし堺城を築きながらも大内義弘は、「主君である将軍に背き、幕府軍を相手に戦う以上、天の責めを逃れることは出来ないだろう。命運が尽きたら潔く死のう。」と決心し、日頃信心していた僧を招いて葬礼の儀式を沙汰した。山口に居る老母に形見に文をそえて送った。それには
        「さても過し此但、かりそめにまかり上り候しかども、もし有為転変の理にてはかなくも成り候わば、定めなき憂き世の習いにて、後れ先立つ路芝の、露の命も消えもせで、なおしも残る水茎の、跡に留まる老いの身の、深き思いの涙河、尽きざる嘆きをいかにせん」と書かれていた。そして弟の盛見にも、形見に文をそえて、こちらの合戦はどうなろうとも、分国を固く守るようにと、書き送った。

         その後、義弘は今生の思い出にしようと、千句連歌を賦し、百首の和歌を詠じた。家臣たちにも「今の内に、思い残すことの無いように遊んでおけ」と許したので、毎日毎夜酒宴乱舞が続いた。そして家臣もそれぞれ母や妻に形見を遣わし、みな討死の用意をした。

         いよいよ幕府の討伐軍が攻めて来ると、大内方の杉九郎は森口城で今川・結城の軍と戦い、杉備中守は百舌鳥山で戦っていたのだが、大内義弘は全軍をまとめて篭城戦に入ることを決意した。各地で挙兵した叛乱軍の情勢も思わしくなかったから、今はただ鎌倉公方の軍勢が西上して来るのを待つ他はなかった。

         泉州での戦いが始まると、それに呼応して各地の反幕勢力が挙兵した。山名氏清の子宮田時清は、丹波国何鹿郡八田郷で挙兵し、京都へ攻め入って京中を焼き払い、その後、300騎を率いて手薄になった八幡の義満の本陣に攻めかかった。しかし、結局、時清の挙兵は孤立したままに終わり、丹波に兵を撤収した。山名時煕はこの時、義満から丹波攻略を命じられ、丹波の国人畑能道や籾井氏とともに時清、満氏兄弟の拠った奥畑城を攻め、いくばくもなく平定した。その後、時煕は大内義弘の立てこもる泉州堺に向かった。

         大内義弘に呼応して近江で挙兵した京極秀満(五郎左衛門)は京都へ攻め上ろうと森山に討って出た。これに対して幕府方についた三井寺の500ほどの衆徒がで勢田川で橋を破却して対峙した。さらに幕府方の京極軍の陣から千騎あまりが到着すると、秀満は土岐詮直と合流すべく美濃へ向かった。しかし、不破の近くまできた時、垂井の土一揆が 蜂起して、京極軍は散々に敗れ、秀満ら主従二人はどこへとも知れず落ちていった。

         美濃で挙兵した土岐詮直(宮内少輔入道)は尾張国に討ち入り、そこから七百余騎で美濃長森に入り、池田氏に合流した。土岐頼益(美濃守)は和泉の陣にいたが、このことを聞いて急いで美濃に戻り、詮直の陣に対峙した。土岐詮直は池田氏、周防氏とともに、土岐頼益との軍と激しく戦かったが、結局周防氏は二百人あまりが討死し、土岐詮直は敗れて、美濃長森に立て籠もったが土岐頼益に討ち取られた。

         11月21日、大内義弘と呼応して西上すると約束した鎌倉公方足利満兼は、幕府援助を名目にして、1万の軍を率い東山道から西上すべく武蔵府中、ついで下野足利に進軍した。 もし堺に到着するまで大内氏が持ちこたえられたら、鎌倉、大内連合軍は互角の戦いが出来る筈であった。しかし幕府方に通じる下野の小山、宇都宮氏に牽制された上、丹波、美濃、近江の敗報が伝えられ、関東管領の上杉憲定に諌止されると、22歳の経験少ない公方には進軍の命令が出せなくなった。そして結局、大内義弘を見殺しにしてしまうことになったのである。

         

15

 

         1401(応永8)年、時煕は応永乱の功によって、大内氏の旧領備後の守護職を拝領し、氏清の子氏利も石見の守護を拝領した。この年、足利義満は明徳の乱で戦死した山名氏清の霊を慰めるため北野に経堂を建立している。現在の千本釈迦堂(大報恩寺)の経王堂(願成就寺)である。さらに1404(応永11)年には山名満氏が安芸の守護になっている。こうして山名氏の領国は、これまでの領国の因幡、伯耆を合わせて7ヶ国になった。山名氏は再び隆盛の時代を迎える。
         これ以後時煕は義満に重用され相伴衆として幕政にも参加、義満の没後の1414(応永21)年には嫡子満時が侍所頭人となる。
         そして1404(応永11)年5月29日に宗全が誕生する。宗全の幼名は小次郎と云い。母は叔父師義の女だと伝えられている。宗全には少なくとも満時と持煕という名の二人の兄がいた。満時 は1396年(応永3)年の生まれで、宗全より8歳年上になる。満時の「満」は将軍足利義満の偏諱だと思われるから、義満が死去した1408(応永15)年までには元服していたの だろう。しかし1421(応永28)年、若くして25歳で死去し、その後は次兄の持煕が嫡子となる。持煕も、宗全の諱持豊も四代将軍義持の「持」の偏諱を受けている 。

         宗全の少年時代は室町幕府の最盛期で、5歳の時、准三后の待遇を受けていた義満が急病に罹って謎の死を遂げた後も、四代将軍義持の政権は 、関東や東北の情勢が流動的であったものの一応安定しており、足利政権は引き続き最盛期が続いていた。幕府は、経済基盤は脆弱なものの、応永の乱で大内氏の勢力を削ぎ、日明貿易を掌握したことによって、莫大な利益を得 ていた。
         1411(応永18)年8月15日の放生会には、将軍足利義持は、この後幕府の黒幕となる三宝院満斎が別当を務める若宮八幡宮に参拝し幕府の安寧を祈願した。若宮八幡宮は岩清水八幡宮とともに源氏の氏神として足利家から尊崇されていた神社で、当時は北野天神や祇園社などと並ぶ規模を持ち、多くの参拝者が訪れてた。宗全8歳の年のことである。
         将軍義持は9歳の時に将軍になったのだが、名ばかり将軍で家光が死去して初めて実権を握ったのだが、義満に太政天皇の尊称を与えようとした朝廷の意向を断り、臣下としての分を明らかにし、また義満が栄華を極めた北山第を破却したり、この年の9月には、義満を「日本国王」に封じた明の使者を放環し、国交を断絶した。そのため、幕府財政は日明貿易による収入を失うことになったため、幕府は翌1412(応永19)年、諸国に東寺造築の名目で段銭、棟別銭を課すことになった。

         ともかくも南北朝合一の後からこの頃まで、足利幕府は束の間の平和と繁栄の中にあった のだが、その間も、後の戦乱の火種になるような事件は次々と起こっていた。1410(応永17)年11月27日、南朝最後の天皇の後亀山上皇が嵯峨大覚寺を出奔し、吉野に入った。 後亀山上皇はこの年の3月4日に室町殿を訪問し、両統迭立の約定に従って皇位継承を計るように申し入れた。しかし将軍義持は後亀山の申し入れを無視し、両統迭立の約定を破 って後小松天皇の皇子の躬仁親王に皇位を継がせることを決めた。後亀山の出奔はこれに抗議する為であった。

         この事件に呼応して、後亀山から密勅を受けた飛騨国司の姉小路尹綱は、高堂城の広瀬常登とともに、1411(応永18)年7月18日、飛騨古河の小島城に挙兵した 。これに対し幕府は飛騨の守護京極高光 に追討を命じ、高光は弟の高数に指揮をさせて、出雲・隠岐・近江の京極兵2千5百を率い郡上郡から攻め、越前守護代の甲斐・朝倉軍千5百が越前大野から、小笠原持長の兵1千が北飛騨から南朝方を攻撃した。姉小路・広瀬の軍は千にも満たない寡兵で防戦したが、8月には小島城は落城し、尹綱らは敗死した。 躬仁親王はこの年の11月25日に親王宣下され、28日に元服、翌1412(応永19)年8月29日、践祚しする。称光天皇である。
         1413(応永20)年 4月には、奥州の伊達持宗が将軍義持と結んで、鎌倉公方足利持氏に叛旗を翻している。京都の将軍家が関東公方を支配しようとして起こった騒乱なのだが、結局将軍家は関東・東北を完全には支配し得ず、戦国時代が終わるまで騒乱が続くことになる。
         この年の正月に、小次郎、後の山名宗全は数え年10歳で元服し、将軍義持に拝謁、「持」の一字を与えられ、持豊と名乗った。


         

        16

         1414(応永21)年3月12日、宗全の兄宮内少輔満時が侍所頭人となる(父の宮内大輔時煕とも云う)。この職は山名・赤松・京極・一色の四職家から任じられる幕府の重職で、三管領家とともに幕府の台閣を形成する地位であったが、時煕の嫡子であった満時が任じられたことは、山名氏の勢力が室町幕府の中枢に復活したということを意味するだろう。「東寺文書」にはこの年6月の山名宮内少輔が侍所所司代垣屋越前守に命じて発給した文書が残されているという。垣屋氏は山名家譜代の重臣で、満時の補佐をする地位にあったようで、満時が侍所頭人になった時、所司代となったらしい。
         ただこの年の8月9日には一色義貫が侍所頭人に任じられており、病弱のためだったのか侍所頭人の地位にあったのは半年に満たず、順風満帆というわけではなかったらしい。 満時は1421(応永28)年に25歳で死去し、この後山名宗全が侍所頭人になるのは27年後のことである(1431年時煕が再度所司になったとも云う)。

         1414(応永21)年9月1日、伊勢の国司北畠満雅が反幕の兵を挙げた。将軍義持が南北朝合一の約定を無視して持明院統の躬仁親王(称光天皇)が即位させたことに 抗議してのことだった。 これに将軍義持の弟で、前将軍義満の寵愛を得ていた義嗣が加担し、旧南朝方の楠正真らも加わった。そして鎌倉公方もこの動きを利用し、持氏に対抗しようとしたのである。
         翌年1月満雅は一志郡阿射賀城に篭城し、多気城・木造城などに一族を配し、幕府軍の土岐持益・仁木満長・そして幕府側に着いた満雅の従兄弟の木造俊康らと交戦 し、俊康の拠城の坂内城を奪った。そして北畠雅俊を木造城に、北畠顕雅を大河内城に入れ、満雅は3月頃には小倉宮を奉じて阿坂城 (松阪市)に拠った。

         南朝方の反幕挙兵が京都に伝えられたのは1415(応永22)年が明けてからのことで、幕府は4月7日にようやく、一色義貫・土岐持益らに命じ北畠満雅の討伐に向わせた。 これに対し北畠満雅は木造・阿坂・多気・大河内・坂内・田丸などの諸城を守り幕府軍に備えた。
         戦いはこう着状態となり、幕府軍は城の水の手を絶とうとしたが、城内の水は殆ど無くなっていたにもかかわらず、満雅の家臣鳥屋尾重澄が城に馬を引き出させて、その背に白米を流し 、水で馬を洗っているように見せかけて敵を欺いたという。この逸話によって阿坂城は白米城と呼ばれるようになった。

         その後も満雅は岩田川・雲出川付近で幕府軍と戦ったが、4月20日に幕府軍は雲出川を越え、5月16日、ついに阿坂城は包囲され陥落した。
         しかし鎌倉公方や九州にも南朝方に呼応する動きがあり、再び内乱を誘発恐れもあったため、幕府は南朝後亀山天皇の皇子説成親王の仲介で後亀山上皇の所領を返還することを条件に北畠満雅と和睦した。 しかし、これは当面の妥協に過ぎず、北畠満雅を主将とす後南朝方は、伏見宮が践祚(後花園天皇)すると、再び挙兵する。この時26歳になっていた山名宗全は幕府の後南朝征討軍として出兵することになる。

         一方、関東では鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉禅秀が不和となり、管領職を辞任するという出来事が起こった。持氏は1409(応永16)年に、父満兼が死去したため、わずか11歳で鎌倉公方となった。 当初は関東管領の上杉禅秀(氏憲)の補佐を受けていたが、やがて禅秀や叔父の足利満隆を遠ざけるようになり、しだいに反目を深めていった。そして1415(応永22)年4月、 持氏は犬懸上杉家の被官であった越幡六郎の所領を没収するという挑発行為を行った。禅秀の辞任はこれに対する抗議だった。
         禅秀の辞任を受けて、持氏は後任に山内上杉家の憲基を任じた。ところが上杉禅秀の出自である犬懸上杉家と山内上杉家は上杉四家の中で最も勢力のある家だったが、両家は互いに競争し、この頃 には激しく反目するようになっていた。
         そんな情勢を見た、将軍義持の弟の足利義嗣は禅秀に挙兵を促した。 義嗣の側室が禅秀の娘だったこともあっただろう。
         義嗣は先に南朝北畠氏の蜂起にも加担し、今度は上杉禅秀と足利持氏との対立に付け込み、将軍義持の政権の転覆を計ったのだが、この原因はそもそも前将軍義満の撒いた種によるものだった。
         義満は将軍を義持に譲ってから、大御所として権力を振るうとともに、側室春日局と、彼女の生んだ義嗣を溺愛した。そして義嗣が元服した時には、その儀礼を親王に準じ、関白の上座に据えたのだった。官途も次期将軍を意味する左馬頭に任じられ、禅秀に挙兵を促した1415 (応永22)年には正二位権大納言に上っていた。義満は恐らく、この義嗣に家督を譲ろうとしたいたとのだろう。ところが義満は不審な急死を遂げ、名ばかり将軍 だった義持が実権を握ることになった。そして義持は将軍になるとすぐに義嗣と母の春日局を北山殿から放逐したのだった。その時から義持と義嗣の関係は、殺さなければ、自分が殺されるという関係になって行くのである。

         旗印を得た禅秀は持氏の叔父足利満隆や持氏の弟で満隆の養子の持仲らと挙兵を決意し、一年余りに渡って周到に準備して、翌1416(応永23)年10月鎌倉府を襲撃した。上杉禅秀の乱である。
         京都に居た義嗣は関東で乱が起こると、自邸から行方をくらませた。近江の六角氏とともに挙兵し関東へ向かおうとしたらしい。しかし事を起こす前に捕らえられ、相国寺に幽閉され出家させられてしまう。

         13歳の宗全にとって、兵乱は遠い東国の話だったかも知れないが、将軍の弟正二位権大納言義嗣の捕縛は大きな出来事だったのではないか。両統迭立の約定を反故にしたため起こった、後南朝の蜂起も、関東の騒乱や、将軍とその弟との確執も、理屈などは何の役にも立たない。結局武力がすべてだという確信を若い宗全に植えつけて行ったのだろう。

         

        17

         

         禅秀の乱は、足利義嗣が挙兵に失敗したことが致命的だった。最初禅秀に着いていた関東の武士たちが次々に幕府・鎌倉公方側に寝返ったのである。1417( 応永24)年 1月、禅秀は一族とともに自邸で自害して果てたが、この月、将軍義持は山名邸を訪れている。これを将軍の「御成」といい、ここには在京の大名が皆集まるのだから、大名にとっては単に名誉であるというだけではなく、幕府内で勢力を保持するための重要な政治的意味もあっただろう。
         義持はこの時の山名家の歓待に感じ入り、宗全の父、時熙を右衛門督に、子の伊予守を刑部大輔へ昇進させたという。宗全はこの時まだ14歳で、この伊予守は兄のことだろうが、それが嫡子の時清のことか、次兄持煕のことかはわからない。将軍義持はこの年の9月にも再度山名家を訪れている。

         「御成」の接待は、能を鑑賞しながら酒宴を催すというのが骨格だったようで、義持は父義満やったことはすべて否定したのだが、能についても義満の愛した世阿弥を遠ざけ、田楽の増阿弥を愛したようで、山名邸への御成の時も増阿弥が舞台を務めたのだろうか。

         室町時代の大名というのは鎌倉武士とは異なり、京都の公家文化に非常に接近し、武家貴族化していたから、山名宗全が「赤入道」とか「毘沙門天の化身」と言われたからと言って、武辺一辺倒の性格だったとは言えないだろう。それでは他の大名や貴族らとの交際もなり立たないのだから、少年時からそれなりの教養を身に付ける教育を受けていた筈である。とくに守護大名の子弟ともなれば、常に将軍や大名が、様々な機会に張行する田楽、猿楽などは知らないわけには行かなかっただろう。そして武家礼法を学び、高名な禅僧などから漢籍を学んだり、公家から古典や蹴鞠などの宮廷遊戯も学んだのだろう。
         そうはいっても、宗全は一休宗純から「毘沙門天の化身」といわれた性格だったから、武芸は好んだのだろう。そういう個性が後に日野富子に利用され、応仁の乱を引き起し、更には細川勝元の策謀的な政治工作に翻弄されて、自殺未遂までするような絶望への道を歩むことになるのだが。

         この年、上杉禅秀の乱は軍事的には収束したものの、その余燼が11月に幕府を揺るがす政治的混乱を引き起こした。挙兵に失敗した義嗣は高尾に逃れたが、その後捕らえられ相国寺に幽閉され10月に出家させられた。しかし義嗣の取調べから公家の山科教高、日野持光らが義嗣に共謀していたことがわかり、多くの守護大名の名も出されたというのだ。翌1418(応永25)年1月、足利義嗣は殺され、山科教高、日野持光らも相次いで殺された。6月には土岐康政が共謀していたことも明らかになったが、その時すでに康政は死去していたという。しかしその子土岐持頼は連座して伊勢の守護職を解任されている。この連座事件には管領細川満元や斯波義重、そして宗全の父山名時煕の名も挙げられ多くの大名が処分された。斯波義重もこの年の8月に死去している。しかし冤罪を受けた諸大名の反発は大きかったようで、この事件は結局この年の11月に、義嗣を取り調べた持氏の側近富樫満成が誅伐されるという形で終わった。もともと義嗣に謀反を唆したのは満成で、それが露見することを恐れて義嗣を殺させたというのだ。しかも満成は義嗣の愛妾に密通していたという罪まで着せられた。高野山に逃れた満成は、宥免するという言葉に騙されて下山したところを捕らえて殺されたという。
         仮に満成が義嗣に謀反を唆したことが事実としても、それは有力大名を義嗣の謀反に連座させて、その力を削ごうとする将軍義持の命令によるものだったのだろう。しかし諸大名の反発で、逆に安定していた幕府の統制を揺るがすことになりかねかくなり、満成一人に罪を着せて落着したものと思われる。
         ともかく父の時煕はこと無きを得たようで、その後も幕府の重鎮としてその地位を守り続けることが出来た。

         

        18

         同じ年1418(応永25)年の6月25日は、近江坂本の馬借数千人が神輿を担いで祇園社に乱入するという事件が起こっている。 鎌倉時代の末頃から馬借の騒動はあったが、数千人の馬借が騒動を起こすというのは初めてだった。祇園社に集まって馬借が抗議するのを多くの人が見物したという。
         馬借というのは運送業者ではあるが、同時に搬送した米などを売りさばく流通業者でもあった。彼らは山門を本所として仰いでいたが、同じ山門の使節で祇園社の目代である円明坊が坂本に関を設けて京都との往来を妨害したとして、この抗議行動に及んだのだった。

         僕は、中世の社会・経済史の知識を持たずに書いていることを了解してもらうとして、理解できる範囲で考えたい。
         そもそも坂本の土倉や問丸は円妙坊のように、山門の公的な役職も持っており、その権威の下に排他的な座を形成し、京都への物資流通から莫大な利益を上げていたらしい。さらには山門の権威の下に関銭も徴収していたようで、馬借が運送だけに留まらず、近江の米や各地の産品などを京都で売買するようになると、するどく利害が対立するようになっていた。これに対して幕府は、山門の支配力を抑制する意図から、流通の独占や関銭の徴収をしている円妙坊の行為を違法と裁定したということのように思われる。

         排他的な既得権を拡大しようとする土倉や問丸に対し、馬借は有力な寺社や権門を本所としながらも、独立性が高く、しかも親方から馬方まで利害を共有しており、内部の階級対立は希薄だったから一致した行動をとりやすく、また物資の搬送の安全のために集団で行動するので組織的な行動を取れる基盤を持っており、利害対立が生じると、集団で実力行使する傾向があったのだろう。
         馬借はこれ以後、徳政一揆や、さらには大規模な土一揆を引き起こす原動力になってゆく。そしてその民衆の力は応仁の乱から戦国時代への舞台を用意することになったのだろう。

         山名宗全は「例と時」の話にあるように、「例」が意味する伝統的権威にしがみ付く公家の生き方を否定し、「時」が意味する時代を形成している「力」の内実を捉えようとしていただろう。公家が自分の収入源である荘園の領地に対して、何ら生産的な意図もなく、ただ「例」にすがって既得権としての収入を得ようとしているだけなのに対して、武士は命をかけて領地を守り、領民の利害を調停し、武力をもって紛争を解決しているという自負があっただろう。

         宗全の父時煕は、1402(応永9)年に、時の管領畠山基国を動かして、高野山領の備後大田荘を守護請とすることに成功し、1600石の年貢のうち千石を高野山に納入することになった。これだけでも600石の利益を得たのだが、さらに納入する筈の千石も、その後実際に納入されたのは半分以下だったという。この話は守護大名による荘園の蚕食の実例として有名だが、もとより自分の領地に生産的な実態を持たず、領地の生産者の調停者や紛争解決者としての意識も実力もない荘園領主の、「例」に基づく収入が簒奪されるのは当然のことだった。この後も山名宗全の代になってさらに高野山の権利は蹂躙されることになるのだが、こうした守護大名による一円支配への圧力こそが、戦国時代を生み出す原動力になってゆく。