山名宗全

  山名宗全は応仁の乱で西軍の総大将として細川勝元の率いる東軍と戦った人物である。幼名は小次郎で名は持豊であるが、後に出家して宗全と号した。「赤入道」といわれたように親分肌で勇猛果敢な武将である。

 人に助けをもとめられると親身になって世話をするが、独断専行が多く、敵を作りやすい性格だった。

 西軍の大将・山名宗全と東軍の大将・細川勝元とは正反対のタイプで、策謀家の細川勝元や伊勢貞親は陰謀で野望を遂げようとしたが、山名宗全は直情的な性格で、闘争的かつ実力主義を剥き出しにして自分のやりたいことを押し通していった。

 一休宗純(一休さん)は宗全のことを「業は修羅に属し、名は山に属す」と風刺し、毘沙門天の化身だとしており、宗全自身も毘沙門天を尊崇していた。宗全は領国の但馬国朝来町の鷲原寺に「十二神将」の画像を納めている。
  組織にとっては部下の才能以上にトップの器は重要である。いざという時に頼りになるなら、普段はダメでも許せてしまう。歴史的にはダメなトップがいるが、どちらとも言えないのが宗全である。「宗全」は出家してからの名前であるが、ここでは宗全に統一して記載する。


山名宗全誕生まで
 山名氏は八幡太郎義家の曾孫である新田義範が、上野国の山名郷に住み、山名氏を称したときからはじまる。新田家は足利家の支流なので、山名家もまた足利家の親戚であり源氏の一門である。

 山名家は後醍醐天皇の頃、南朝方の主力として戦った新田氏の一族だったが、本家の山名家は足利尊氏に従って、その功により伯耆国の守護に任じられ、管領に継ぐ重職である四職家の一つとなった。室町幕府の重臣は三管領、四職と呼ばれた。三管領は斯波氏、細川氏、畠山氏。四職は赤松氏、京極氏、一色氏、山名氏が任命された。

 宗全の祖父・時義の頃には山名氏は全国66ヵ国の内12ヵ国の守護職を得て「六分の一殿」といわれ諸大名の中で最も勢力があった。しかし将軍・足利義満の命を得て惣領の時煕(宗全の父)が放逐される。1391年明徳の乱が発生し、将軍義満は時煕を許し惣領に戻す。

 

山名宗全誕生 

 1404年、山名宗全は山名時熙(ときひろ)の三男として但馬国で生まれた。山名宗全の母は「明徳の乱」で父・時煕の敵となり滅ぼされた山名氏清の娘である。明徳の乱とは将軍・足利義満に対し、1391年に山名氏清・満幸らが起こした反乱で、12ヵ国の守護を兼ねた山名氏の勢力を恐れた将軍足利義満が氏清らを挑発したことに始まる。

 将軍足利義満は氏清らが挙兵して京都を襲うと大内・細川・畠山らの兵を集めて戦い,氏清を戦死させ満幸を敗走させた。この結果,山名氏の勢力は削減され幕府権力は一応安定した。母にとっては明徳の乱で父の氏清を失い、母もその後を追って自害した。そのため宗全にとって明徳の乱は言い尽くせない辛い記憶として影響を与えていた。

 但馬は狭い山間の土地で夏は暑く、冬は雪に埋もれていた。しかし都に近いために都の文化に接する機会が多く、宗全の父・山名時熙の時代に禅寺を多く建て、高名な臨済宗の僧月庵宗光を招き、黒川の大明寺や竹野の円通寺を創建し、江戸時代初期の沢庵和尚もこの地の出身である。
 その山名家で三男だった宗全は、長兄が早世し、次兄が六代将軍・義持の怒りを買って廃嫡したため、29歳で家督を継ぐことになり、但馬や備後などの4カ国の守護に就任した。山名家はかつての最盛期に比べれば山名氏の権勢は落ちていたが、四職家の一つで侍所頭人と山城守護を兼任、幕閣では細川・畠山に次ぐ地位を占めるに至った。

 

嘉吉の乱
  宗全のさらなる出世のきっかけは、1441年の「嘉吉の乱」であった。嘉吉の乱とはあの万人恐怖の7代将軍・義教が赤松満祐によって暗殺され、その時に赤松邸に同席していた宗全は抵抗せずに屋敷を脱出に成功すると、すぐに赤松満祐討伐軍を率いて但馬から赤松領の播磨へ侵攻し鎮圧した。

 この観応の擾乱で、室町幕府における将軍の立場が危うくなりかけたが、宗全は赤松満祐討伐という手柄を立て、その功績から播磨をあわせ5カ国の守護となる。さらに山名一族で石見、美作、伯耆、備前、因幡の守護職を領有する。

 翌年、出家し、持豊から宗峯、後に宗全と改名したが、頭を丸めたくらいでおとなしくいている宗全ではなかった。宗全は力ずくで赤松家の領地をぶんどり、山名氏は全国の1/6を領地にしたことから再び「六分の一殿」と呼ばれるようになった。幕府では細川氏を超える勢力となった。
 宗全の人柄は武人・親分肌で、典型的な武人タイプであった。政治家かつ文化人タイプの細川勝元とは正反対のでタイプで、戦に強い事から配下からの人気は高かったが、傲慢な点から敵を作りやすかった。

 そのため政略結婚で家の立場を確固たるものにしている。嘉吉の乱で殺された同族の山名熙貴(ひろたか)の娘二人を養女に迎い入れ、一人を中国地方の雄・大内教弘に、もう一人を応仁の乱で敵対する管領の細川勝元に嫁がせた。

 細川勝元は16歳で管領に就任、以後死ぬまで通算23年間も管領職を勤める。細川勝元が宗全の養女を正室に迎え入れたことから、宗全を舅とする関係になる。そもそも細川氏にとって最大のライバルは同じ管領家の畠山氏だった。畠山に対抗するために山名氏に接近したのである。

 しかし嘉吉の乱で滅亡した赤松家を再興した赤松政則は、管領の細川家に接近して中央政界での影響力を高め、細川勝元が赤松氏の再興をはかろうとして細川勝元と宗全とに不和が生じた。宗全は赤松氏の再興に猛烈に反対し、将軍・足利義政の不興を買う。将軍・足利義政は宗全退治を命じられるが、細川勝元の取り成しで一時隠退することで事態を収拾。但馬に隠居となる。宗全は将軍・足利義政とも対立し、宗全退治を命じられた諸大名の軍勢が京都に集結したが、細川勝元の取り成しで宗全退治は中止された。

 宗全は家督と守護職を嫡男の教豊に譲り但馬へ下国した。ここで赤松満祐の甥・則尚が「赤松家の領地返せ」と宗全の孫・政豊を攻めたことから話がこじれてしまう。宗全は但馬から出兵して則尚軍を破り則尚を自害に追い込んだ。結局、但馬で4年間過ごし赦免されて再び上洛して幕政に復帰した。

 
幕政参加
 管領・畠山家でお家騒動が起きると、幕府の実質的な権力者である山名宗全が8代将軍・義政と対立し、一時は討伐軍を起こされるほどになった。このときは細川勝元の取りなしで、宗全の隠居と引き換えにお咎めなしとなった。

 しかし三管領家の畠山氏の家督争いでは、細川勝元は畠山政長を支持するのに対して、宗全は畠山義就を支持。斯波氏の家督争いでは、斯波義敏を支持する細川勝元に対して宗全は斯波義廉を支持、幕政を巡り婿である細川勝元と対立するようになった。それでいて細川勝元と協力して管領・畠山家と斯波家を失脚させている。

 このように山名宗全と細川勝元は、仲が良いのか悪いのか当時の人々も理解できなかったが、山名宗全と細川勝元は幕政を巡り自分たちの損得から畠山家と斯波家を潰したのである。結果として山名宗全と細川勝元は仲良くなるわけもなく、この頃から宗全は細川氏に対して警戒心を強め、親子の離間を図るようになり、ついに武力衝突が始まり応仁の乱になだれ込んでいった。

応仁の乱
 御霊(ごりょう)合戦がおき、宗全に追放された畠山政長が細川氏の支援を受け反乱したが、戦闘は半日で畠山義就の勝利に終わり、政長は勝元邸に逃げ込んだ。これを機に応仁の乱が発生した。

 応仁の乱では山名宗全率いる西軍は宗全邸があった場所に西陣碑と解説板が残されるのみである(下図)。西陣は西陣織で有名な場所で現在も地名が残されているが、東軍は「花の御所」を拠点にしたため京都で東陣という言葉は使われていない。

 細川勝元は領地9カ国の兵を京都へ集結させ、宇治や淀など各地の橋を焼き、京4門を固めた。宗全は自軍を率いて京都へ進軍し、六角氏、一色氏が加わり西軍は9万を結集させた。東軍は京極氏、赤松氏、武田氏も加わり10万が結集した。

 宗全は将軍・義政の弟・義視を担ぎ上げ実質的に西軍の旗頭となった。最初は劣勢であったが、周防から大内政弘が合流してからは一進一退の状況が続いた。

 宗全は「赤入道」というあだ名を持ち、気性の荒さがうかがえる逸話が多く、また部下に対して思いやりを見せた。良くも悪くも情の濃いタイプだった。しかし応仁の乱では宗全は60を越える老齢になっており、若い頃の剛毅な性格は見られず、一時は自害も考えたほど手詰まっりだった。戦線は膠着し厭戦気分が広がった。

 この頃「宗全が東軍に降伏する」「山名家の人間が東軍に寝返った」などの噂が立つほどで、周囲がそう思うくらい宗全が気弱になっていたのである。同じ頃、嫡子の教豊に先立たれ、孫の政豊に家督を譲っている。このように宗全が気弱になっていたことが想像できる。
 宗全も日頃のことが思うようにならず、悶々とした気持ちを抱えていたのである。それを反映してこの頃「宗全は和平を望んでいる」という噂が立っている。これは西軍の誰かが宗全の病気にかこつけて故意に噂を流したのだろう。いずれにせよ宗全は、応仁の乱が始まってから6年後まで持ちこたえた。しかし当事者能力を失いかつての古傷が原因で陣中で没してしまう。享年70であった。宗全死去から2ヶ月後に細川勝元も亡くなり、応仁の乱を起こした二人が揃って世を去った。

 

宗全死去後

 山名宗全の嫡男・山名教豊が応仁の乱で44歳で死去したため、山名宗全の孫にあたる山名政豊(まさとよ)が跡を継ぎ、宗全と勝元が死去し和睦が成立したが、応仁の乱は終わらなかった。山名祐豊は因幡守護の山名誠通を討伐し、有力な国人を討伐し山名家を戦国大名へと脱皮させた。

 しかし晩年の祐豊は実子に先立たれ気力を失い、宗全より5代下った豊国の代に毛利氏に服し鳥取城に籠城したが、秀吉の城攻囲戦に城中より脱出して秀吉に屈服した。後に徳川家康に仕えて6700石を与えられている。