松永久秀

 戦国時代と言えば織田信長を思い浮かぶが、その織田信長して「世になし難きことを3つした」と言わしめたとんでもない者がいた。それは松永久秀で東大寺大仏殿を焼き討ちし、室町幕府将軍を暗殺し、織田信長を2度も裏切理、まさにやりたい放題である。その最期は爆死を遂げ、まさに自分の力だけでのし上がった下剋上の人物である。乱世の梟雄・松永久秀は稀代の謀略家であるが、松永久秀の生い立ちについては不明な点が多く、身分の高い出自ではなかったことは確かである。


三好家との出会い

  松永久秀は32歳頃に細川晴元の被官・三好長慶に仕え、やがて合戦でも能力を発揮するようになる。

 三好家は阿波国を本拠地とした武家であるが、三好長慶は摂津国の守護代をしていた。三好長慶はやがて力を持ち、将軍を追放して三好政権を樹立してしまうほどの人物である。出自もはっきりしない松永久秀がここまで出世することは、松永久秀の能力が優れていたことに他ならず、三好家の家風として、譜代(長年仕えている家来のこと)や家柄にこだわらなかったことが久秀には優位にはたらいた。

 そんな三好長慶のもとで、久秀は右筆(ゆうひつ)をしていた。右筆とは秘書役で主の文章を代筆するが、事務方をすべて取り仕切るような重要な役割を任されている。武将として戦にも出て部隊を任されるようになっている。
  1540年に三好長慶が連歌田を円福寺、西蓮寺、東禅坊の各連衆に寄進する内容の書状に、松永久秀の名が見られるのが見られるのが最初である。
  1542年には三好勢の指揮官とし出陣したとされ弟・松永長頼は早くから三好家の先鋒を務めるほどの名将だった。
 松永久秀の正室は三好長慶の娘で、1543年、嫡男・松永久通が誕生している。
 1548年には三好長慶が主君・細川晴元に反旗を翻して、13代将軍・足利義輝らを近江へ追放するなど、武家政権として京都を支配してい行くが、松永久秀は三好長逸と共に公家や寺社との交渉役・仲介役として頭角を現した。
1549年12月には本願寺の顕如から贈り物を受けている。
  このように松永久秀は三好長慶に従い三好家の家臣となり、1551年には等持寺を攻めた細川晴元勢の三好政勝・香西元成らを、弟の松永長頼と共に打ち破っており(相国寺の戦い)、その際相国寺の塔頭・伽藍などを焼失させている。
 1553年に三好長慶が畿内を平定すると摂津・滝山城主となった。1556年には奉行にも就任し、弾正忠に任官されたが、同年、丹波の数掛山城・波多野秀親を攻めるが三好政勝・香西元成に背後から奇襲を受け敗走した。この時、三好家に協力していた八木城主・内藤国貞(丹波守護代)が討死するのを見て、弟の松永長頼は、内藤国貞の娘を娶って内藤家の名跡を継いでいる。
 1558年5月、足利義輝・細川晴元が近江から京都へ進軍すると、松永久秀は吉祥院に布陣して弟の内藤長頼、三好一門衆の三好長逸、伊勢貞孝、公家の高倉永相と共に洛中にて抵抗したのち、将軍山城と如意ヶ嶽で足利義輝・細川晴元と戦闘となった。
  その後、和睦が成立すると、翌年3月に鞍馬寺で三好長慶が花見を開催し、谷宗養、三好義興、寺町通昭、斎藤基速、立入宗継、細川藤賢らと共に松永久秀も参加している。
 この頃、松永久秀の右筆である楠木正成の朝敵の赦免を嘆願し、正親町天皇の勅免を受けた上に河内守にも任官されている。
 1559年5月に河内遠征後に残党狩りを口実に大和国へ侵攻し、8月8日に滝山城から大和北西の信貴山城に本拠を移した。
 1560年には三好長慶の嫡男・三好義興と共に、和睦している将軍・足利義輝から相伴衆に任じられ、従四位下・弾正少弼になり、足利義輝の元に出仕する機会も多くなった。さらに興福寺を破って大和国を平定し、11月に信貴山城に4階櫓の天守閣を造営する。もちろん三好家の家中では松永久秀が一番の出世頭であった。
 1561年3月、将軍・足利義輝が三好義興の邸宅に御成して歓待を受けた際には、松永久秀が足利義輝に太刀を献上し、足利義輝の側近達を接待した。
このように三好家側として接待する一方で、具足の進上、足利義輝らへの食事の配膳、食事中の足利義輝に酒を注ぐなど「相伴衆」としても務め、三好家と将軍家の間を取り持つ重要な役割を担った。
 同年11月、三好義興と共に六角義賢と対した「将軍地蔵山の戦い」に参戦し、1562年には六角義賢と結んだ河内の畠山高政を打ち破って、紀伊へ追放した。9月には三好長慶に逆らった幕府政所の執事・伊勢貞孝、伊勢貞良の父子を討伐し、大和国人・十市遠勝を降伏させ、大和・山城の国境付近に多聞山城を築城し移住した。
  天守閣を持つこの城は多聞山城が日本で初めてとされる。壁は白壁、屋根は瓦葺で、石垣も用いられ、塁上に長屋形状の櫓が築かれ、この「多聞櫓」が始まりだった。1563年12月14日、家督を嫡男・松永久通(21歳)に譲ったが、以後も変わらぬ活躍を続けた。
 松永久秀は茶人としても名が通っており、大和国や堺、京の豪商や著名人を招き、多聞山城で幾度か茶会を行っている。現在も伝わる茶道流派の三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)の祖である千宗旦の父親・千少庵(千利休の養子)の実父が松永久秀であるという説がある。
 一方で主君・三好長慶は弟の十河一存、三好義賢、嫡男・三好義興と、相次いで亡くなり権力を縮小していた。十河一存や三好義興は松永久秀が暗殺したとする説もあるが、十河一存の死因は落馬、三好義興は病死とされている。
 1564年5月9日、三好長慶の弟・安宅冬康が亡くなり、三好家の実力者は篠原長房のみとなり三好長慶も7月4日に死去した。
 それ以後は三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と共に、三好長慶の甥・三好義継を担いで三好家を支える形を取った。
 1565年5月19日、嫡男の松永久通と三好義継・三好三人衆が軍勢を率いて、室町御所の足利義輝を襲撃し殺害した(永禄の変)。一般的には松永久秀が首謀したとされているが、松永久秀は大和国にいて関与していなかった事が分かっている。しかし将軍・足利義輝の殺害を容認し、僧になっていた覚慶(足利義昭) を擁立して、将軍の威光を操ろうとしていたともされている。
 1565年8月2日、丹波の弟・内藤長頼が赤井直正に敗れて討死すると、やがて畿内の主導権争いとなり、三好三人衆と松永久秀は対立。11月16日に三好義継を担いだ三好三人衆と松永久秀は断交し、三好家は内乱状態となった。
 1566年、三好三人衆側に一門衆の三好康長や安宅信康らが味方し、足利義栄を第14代将軍に据え、松永久秀は三好家の中で孤立した。しかし、1566年2月に、松永久秀は畠山高政・安見宗房と同盟を結び、根来衆とも連携し、三好義継の居城・高屋城を攻撃したが、三好三人衆は同盟している大和の筒井順慶の加勢も受けて反撃し、2月17日、堺近郊の上芝で合戦となった(上芝の戦い)。挟み撃ちを受けた松永久秀・畠山高政は敗退し、多聞山城に退却したが、体制を建て直し再び5月に出陣した。しかし高屋城から討って出た三好三人衆に堺の街が包囲されたため、松中久秀は5月30日に逃亡した。留守中の多聞山城は松永久通が守ったが、松永久秀は数ヶ月間、行方をくらましている。
  このように劣勢に立った松永久秀であったが、翌年の1567年2月16日に、三好三人衆側の三好義継が松永久秀を頼って出奔した。その後、4月7日には、堺から信貴山城に復帰すると、すぐさま三好三人衆が大和を攻め長期戦となったが、三好三人衆が陣所としていた東大寺を奇襲攻撃して打ち破ると、畿内の主導権を回復した。
 この時の東大寺大仏殿の戦いでは、松永久秀が大仏殿に火を放ち焼失させたとされるが、ルイス・フロイスの「日本史」によるとば、三好三人衆側のキリシタンが放火したとある。なおこの時点で、松永久秀の味方は畠山高政や根来衆、箸尾高春だけで、畿内と四国を基盤とする三好三人衆側とははまだ大きな差があり劣勢であった。そのため、6月29日には信貴山城の戦いで信貴山城が陥落している。
 この劣勢を挽回すべく考えたのが織田信長に上洛してもらう事で、1566年から織田信長と連絡を取っている。
 織田信長は観音寺城の戦いで勝利すると、1568年9月に足利義昭を擁立して上洛した。松中久秀は三好義継・松永久通らと共に織田家に降伏し、人質を差し出しただけでなく、名茶器「九十九髪茄子」(つくもなす)を織田信長に献上した。松永久秀の利用価値を認めた織田信長は、兄の仇の為、反対した足利義昭の直臣に加え、大和一国は「切り取り次第」とした。織田信長はすぐさま三好三人衆を駆逐すると畿内は織田家に平定された。
 織田信長は家臣の佐久間信盛・細川藤孝・和田惟政ら20000の軍勢を大和に送り、松永久秀を支援すると、筒井順慶は劣勢となり没落した。
 一段落した12月24日に、松永久秀は岐阜城の織田信長を訪ねて「不動国行の刀」などを献上している。
  1570年にには織田信長の朝倉義景討伐に参陣し、浅井長政の裏切りで織田勢が撤退した際には、近江・朽木谷領主の朽木元綱を説得して味方につけて織田信長の窮地を救っている(金ヶ崎の戦い)。
 1570年11月、織田家と三好三人衆の和睦交渉役を務めたが、この際、娘を織田信長の養女とした上で人質に差し出して和睦を成立させた。
 その後、本願寺顕如の石山本願寺攻めにも織田勢として加わったが、この頃、足利義昭に寝返ったとされ、信長包囲網を形成するにあたり、1571年の時点で甲斐の武田信玄との書状やり取りが見られる。
  1572年、松永久秀は三好義継、三好三人衆と共に織田信長に謀反を起こし、1573年4月には武田信玄が京を目指したが、その西上途中で信玄は死去し武田勢は撤退した。
 7月には足利義昭が槇島城の戦いで、織田勢に敗れて追放され、11月、三好義継も佐久間信盛に攻められ敗死した(若江城の戦い)。

 12月末には織田勢に多聞山城が包囲された為、多聞山城を明け渡して松永久秀は織田信長に降伏した。三好義継は若江城の戦いで敗れて自刃に追い込まれ三好三人衆も敗れて壊滅した。多聞山城主には、明智光秀に次いで柴田勝家が城主となった。
 織田信長は裏切者に対して厳しく臨み、本来であれば命を取られてもおかしくないのだが、松永久秀の利用価値を優先させ、1574年1月に岐阜城にて織田信長に謁見し裏切りを許され、筒井順慶も織田信長に服属した。しかし大和の支配権は織田信長の腹心である塙直政に奪われてしまった。
 以後、松永久秀は石山本願寺戦(石山合戦)を任されていた佐久間信盛の与力に加わったが目立った動きはなかった。松永久通も竜王寺山城主として佐久間信盛の配下となっている。
 塙直政が本願寺顕如との戦いで討死し、次の大和の支配者が宿敵・筒井順慶となり、村井貞勝の監督のもと多聞山城を破却するなどした為、奈良の統治者を自認する松永久秀は面白くなかった。
 1577年8月17日、上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などの反・織田勢力と呼応して天王寺砦を焼き払い、本願寺攻めの陣から無断で離脱した。
 再び織田信長に背いて大和・信貴山城に8000で籠城し「城名人」「近世式城郭建築の租」と呼ばれた松永久秀は信貴山城の改修工事を行った。
 安土城の織田信長は使者・松井友閑を派遣し改修の理由を問いただそうとしたが、松永久秀は会おうともしなかった。これに憤慨した織田信長は、嫡男・織田信忠を総大将に明智光秀、細川藤孝、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽氏勝、そして筒井順慶を主力として加えた40000の大軍を送り込み、10月には信貴山城を包囲した。
 支城の片岡城は織田勢5000の攻撃を受け、海老名友清、森正友などが討死。一番槍は細川藤孝の子・細川忠興(15歳)と細川興元(13歳)の兄弟であった。
 織田信長は松永久秀が所有している名器・平蜘蛛茶釜を差し出せば助命すると促したが、松永久秀は「平蜘蛛の釜と我らの首と2つは、信長公にお目にかけようとは思わぬ。粉々に打ち壊すことにする」と返答した。

 このため織田信長のもとに人質で出されていた孫の2人は京都六条河原で処刑された。(落ち延びて九州博多で質屋を開業し、豪商となった者がいるとも言われる。)
 本願寺顕如に援軍を求める使者として城を出た森好久が加賀鉄砲衆200を引き連れて信貴山城へ帰還したが、元々筒井順慶の家臣だった森好久は内通しており、200の鉄砲衆も筒井順慶の家来であった。
 10月10日からの総攻撃の際、その鉄砲衆は天守に近い三の丸付近に火を放った事で、籠城していた軍勢は味方に裏切者が出たとして戦う力を失い、逃亡するものが続出した。
 この時、松永久秀は平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)を天守で叩き割り(一説には茶釜に爆薬を仕込んでの自爆)爆死。享年68。

 子の松永久通も自害した。享年35。安土城の天守のモデルとも言われている信貴山城の四層の天守櫓は失われた。平蜘蛛釜の蓋は飛んで行って、古田重然と言う男が拾ったともされている。日本の歴史上、初めて死因に爆死と書かれたのは松永久秀である。
 織田信長が徳川家康に紹介した際に「この老人は全く油断ができない。彼の三悪事は天下に名を轟かせた。一つ目は三好氏への暗殺と謀略。二つ目は将軍暗殺。三つ目は東大寺大仏の焼討である。常人では一つとして成せないことを三つも成した男だ」。この事からもわかるように、悪名高い松永久秀であるが、美男子で立振る舞いの優雅な教養人であったとされ、領国では善政を敷いて民に名君として慕われていた。実は誠実だったのではないかと思える行動も取っており謎の多い人物である。