松永久秀

 戦国時代といえば織田信長をはじめとした三英傑(豊臣秀吉・徳川家康)を思い浮かぶ人が多いだろうが、その第六天魔王である信長をして「こいつほどの悪人はいない。世になし難きことを3つした」と言わしめたのが松永久秀であった。松永久秀は主家の三好家を乗っ取っり、東大寺大仏殿を焼き討ちし、室町幕府・将軍を暗殺したのである。さらに裏切りを決して許さない信長を2度も裏切り、まさに稀有な存在であった。松永久秀の最期は爆死であり、まさに自分の力でのし上がった下剋上の極悪人の印象が強い。

 松永久秀は稀有の謀略家で、斎藤道三・宇喜多直家と並んで日本の戦国時代の三大梟雄と評され、悪として人気が高い。

 その生い立ちは不明な点が多いが、高い身分の出身ではないことは確かである。


三好家との出会い

 松永久秀は32歳頃に細川晴元の重臣・三好長慶に仕えた。三好長慶は阿波国(徳島県三好市)を本拠地とした武将であるが、政局の変化によって京の治安が悪化したため、将軍・義晴を守るため、長慶は本国・阿波ではなく畿内の摂津(大阪と兵庫の一部)の守護代に任じられた。やがて力を持ち将軍と対立し、13代将軍・足利義輝らを近江へに追放して三好政権を樹立することになる。三好長慶は信長より少し前の武将であるが先に天下人となった。

 松永久秀は三好長慶のもとで右筆(ゆうひつ)をしていた。右筆とは三好長慶の秘書役で文章を代筆し、事務方のすべて取り仕切る重要な役割である。公家や寺社は三好家と関わりを持つようになり、松永久秀は公家や寺社との交渉役・仲介役として頭角を現し、朝廷にも接近し献金や土塀修理などを行った。

 また武将として戦にも出ており、部隊を任されているほどであった。松永久秀は三好勢の指揮官として出陣し、三好長慶の娘を正室に迎え、嫡男・松永久通を誕生させている。

 三好家で松永久秀がこのように出世できたのは、久秀の能力が優れていた以外に、三好家では譜代(長年仕えている家来のこと)や家柄にこだわらないで能力で採用する家風があったからである。

 

松永久秀の闘い

 松永久秀は三好長慶に従い三好家の家臣となり、1549年12月には久秀は本願寺の顕如から贈り物を受けている。1551年には等持寺を攻めた細川晴元勢の三好政勝・香西元成らを、弟の松永長頼と共に打ち破り(相国寺の戦い)、その際相国寺の塔頭・伽藍などを焼失させている。
 1553年に三好長慶が畿内を平定すると摂津・滝山城主となった。1556年には奉行に就任し弾正忠に任官した。同年、丹波の数掛山城・波多野秀親を攻めるが三好政勝・香西元成に背後から奇襲を受け敗走した。この時、三好家に協力していた八木城主・内藤国貞(丹波守護代)が討死するのを見て、弟の松永長頼は、内藤国貞の娘を娶って内藤家の名跡を継いでいる。
 1558年5月、足利義輝・細川晴元が近江から京都へ進軍すると、松永久秀は吉祥院に布陣して弟の内藤長頼、三好一門衆の三好長逸、伊勢貞孝、公家の高倉永相と共に洛中にて抵抗したのち、山城と如意ヶ嶽で将軍・足利義輝・細川晴元と戦闘となった。
  その後、和睦が成立すると、翌年3月に鞍馬寺で三好長慶が花見を開催し、谷宗養、三好義興、寺町通昭、斎藤基速、立入宗継、細川藤賢らと共に松永久秀も参加している。
 この頃、松永久秀の右筆である楠木正成の朝敵の赦免を嘆願し、正親町天皇の勅免を受けた上に河内守にも任官されている。
 1559年5月に河内遠征後に残党狩りを口実に大和国へ侵攻し、8月8日に滝山城から大和北西の信貴山城に本拠を移した。
 1560年には三好長慶の嫡男・三好義興と共に、和睦している将軍・足利義輝から相伴衆に任じられ、足利義輝の元に出仕する機会が多くなった。さらに興福寺を破って大和国を平定し、11月に信貴山城に4階櫓の天守閣を造営した。もちろん三好家の家中では松永久秀が一番の出世頭であった。
 1561年3月、将軍・足利義輝が三好義興の邸宅に御成して歓待を受けた際には、松永久秀が足利義輝に太刀を献上し、足利義輝の側近達を接待した。このように三好家側として接待する一方で、具足の進上、足利義輝らへの食事の配膳、食事中の足利義輝に酒を注ぐなど「相伴衆」としても務め、三好家と将軍家の間を取り持つ重要な役割を担った。
 同年11月、三好義興と共に六角義賢と対した「将軍地蔵山の戦い」に参戦し、1562年には六角義賢と結んだ河内の畠山高政を打ち破って紀伊へ追放した。9月には三好長慶に逆らっていた幕府政所の執事・伊勢貞孝、伊勢貞良の父子を討伐し、大和国人・十市遠勝を降伏させ、大和・山城の国境付近に多聞山城を築城し移住した。
  天守閣を持つこの城は多聞山城が日本で初めてである。壁は白壁、屋根は瓦葺で、石垣も用いられ、塁上に長屋形状の櫓が築かれている。1563年12月14日、家督を嫡男・松永久通(21歳)に譲ったが、以後も変わらぬ活躍を続けた。

 

茶の湯に通じた一流の教養人
 どこで学んだのか分からないが、松永久秀は茶人としても名が通っており、大和国や堺、京の豪商や著名人を招き、多聞山城で幾度か茶会を行っている。茶の湯はただ茶を点てるだけではなく、茶器や床の間の掛物など、すべてを評価する総合芸術で、それに通じていることは相当の教養の持ち主だったことになる。

 松永久秀は武野紹鴎に師事しており多くの名茶器を所有していて、それが彼の運命を左右することになる。現在も伝わる茶道流派の三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)の祖である千宗旦の父親・千少庵(千利休の養子)の実父が松永久秀であるといの説がある。

 

城持ちの身に昇格
 しかし栄枯盛衰は世の習い。主君・三好長慶は弟の十河一存、三好義賢、嫡男の三好義興と相次いで死去したため権力を縮小した。松永久秀が三好長慶を暗殺したとの説もあるが、十河一存の死因は落馬、三好義興は病死である。1564年5月9日、三好長慶は弟である安宅冬康が謀反を企んでいると久秀に言われ冬康を誅殺してしまう。そのため三好家の実力者は、阿波で国主を補佐していた篠原長房のみとなり、三好長慶も7月4日に死去した。
 それ以後は、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と、三好長慶の甥・三好義継を担いで三好家を支える形を取った。

 

足利義輝の暗殺
 1565年5月19日、嫡男の松永久通と三好義継・三好三人衆が軍勢を率いて、室町御所の足利義輝を襲撃し殺害した(永禄の変)。一般的には松永久秀が首謀したとされているが、松永久秀は大和国にいて参加していなず、将軍・足利義輝の殺害に久秀は関与していなかった。あるいは将軍殺害には消極的だった。しかし将軍・足利義輝の殺害後、僧になっていた覚慶(足利義昭) を擁立して将軍に据えて、傀儡として操ろうとした。

 やがて畿内の主導権争いとなり、三好三人衆と松永久秀は対立し、11月16日に三好三人衆と松永久秀は断交し、三好家は内乱状態となった。
 1566年、三好三人衆側に一門衆の三好康長や安宅信康らが味方し、足利義栄を第14代将軍に据え、松永久秀は三好家の中で孤立した。

 しかし松永久秀は畠山高政・安見宗房・根来衆とも連携し、三好義継の居城・高屋城を攻撃した。三好三人衆は大和の筒井順慶の加勢も受けて反撃し、2月17日、堺近郊の上芝で合戦となった(上芝の戦い)。

 挟み撃ちを受けた松永久秀は敗退し多聞山城に退却したが、体制を建て直し再び5月に出陣した。しかし高屋城から討って出た三好三人衆に堺の街が包囲され、松中久秀は5月30日に逃亡している。留守中の多聞山城は松永久通が守ったが、松永久秀は数ヶ月間、行方をくらましている。
  このように劣勢に立った松永久秀であったが、翌年、三好三人衆側の三好義継が松永久秀を頼って出奔し、その後、4月7日には堺から信貴山城に復帰し、すぐさま三好三人衆が陣所としていた東大寺を奇襲攻撃して打ち破った。これで畿内の主導権を回復した。
 この時の東大寺大仏殿の戦いで、松永久秀が大仏殿に火を放ち焼失させたとされるが、ルイス・フロイスの「日本史」によるとば、三好三人衆側のキリシタンが放火したとある。

 なおこの時点で、松永久秀の味方は畠山高政や根来衆、箸尾高春だけで、畿内と四国を基盤とする三好三人衆側とははまだ大きな力の差がああった。そのため、6月29日には信貴山城の戦いで信貴山城が陥落している。

 

織田信長の上洛
 この劣勢を挽回すべく、織田信長に上洛を求めり、1566年から織田信長と連絡を取っている。織田信長は観音寺城の戦いで勝利すると、足利義昭を擁立して上洛した。松中久秀は三好義継・松永久通らと共に織田家に降伏し、人質を差し出しただけでなく名茶器「九十九髪茄子」(つくもなす)を織田信長に献上した。
 織田信長は家臣の佐久間信盛・細川藤孝・和田惟政ら20000の軍勢を大和に送り、松永久秀を支援すると筒井順慶は劣勢となり没落した。一段落した12月24日に、松永久秀は岐阜城の織田信長を訪ねて「不動国行の刀」などを献上している。
  1570年には織田信長の朝倉義景討伐に参陣し、浅井長政の裏切りで織田勢が撤退した際には、近江・朽木谷領主の朽木元綱を説得して味方につけて織田信長の窮地を救っている(金ヶ崎の戦い)。
 1570年11月、松永久秀は織田家と三好三人衆の和睦交渉を務めたが、この際、娘を織田信長の養女とした上で人質に差し出して和睦を成立させた。その後、織田勢として本願寺顕如の石山本願寺攻めに加わった、しかしこの頃・足利義昭に寝返り信長包囲網を形成した。
  1572年、松永久秀は三好義継、三好三人衆と共に織田信長に謀反を起こし、1573年4月には武田信玄が京を目指したが、その西上途中で信玄は死去し武田勢は撤退した。7月には足利義昭が槇島城の戦いで、織田勢に敗れて追放され、11月、三好義継も佐久間信盛に攻められ敗死し(若江城の戦い)、三好三人衆も敗れて壊滅した。

 12月末には織田勢に多聞山城が包囲され、多聞山城を明け渡し松永久秀は織田信長に降伏した。多聞山城主には、明智光秀に次いで柴田勝家が城主となった。
 織田信長は裏切者に対して厳しく臨み、本来であれば命を取られてもおかしくないのだが、松永久秀の利用価値を優先させたのか、岐阜城で松永久秀は織田信長と謁見し裏切りを許された。久秀が所有していた大和国の支配権は信長の部下の塙直政に移った。
 以後、松永久秀は石山本願寺戦(石山合戦)を任されていたが目立った動きはなかった。
 松永久秀の代わりに大和の支配者となった塙直政が本願寺との戦いで討死すると、大和の支配者が宿敵・筒井順慶となった。筒井順慶は久敵であり奈良の統治者を自認する松永久秀は内心面白くなかった。

 

壮絶な最期
 1577年8月17日、上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などの反・織田勢力と呼応して石山本願寺攻めの最中、久秀は突如として戦線を離脱し再び織田信長に背いて大和・信貴山城に8000で籠城した。

 「城名人」と呼ばれた松永久秀は信貴山城の改修工事を行った。安土城の織田信長は使者を派遣して改修の理由を問いただしたが、松永久秀は使者に会おうともしなかった。これに憤慨した織田信長は、嫡男・織田信忠を総大将に明智光秀、細川藤孝、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽氏勝、さらに筒井順慶を主力に加えた4万の大軍を送り込み信貴山城を包囲した。4万の相手に対し久秀の軍はわずか8千であった。
 織田勢の攻撃を受けた支城の片岡城は落城し、海老名友清、森正友などが討死した。一番槍は細川藤孝の子・細川忠興(15歳)と細川興元(13歳)の兄弟であった。しかし築城の名手とされた松永久秀が建てた信貴山城は簡単には落都せず、かなりの時間を要した。
 本願寺顕如に援軍を求める使者として城を出た森好久が加賀鉄砲衆200を引き連れて信貴山城へ帰還したが、元々筒井順慶の家臣だった森好久は筒井順慶に内通しており、200の鉄砲衆も筒井順慶の家来であった。
 10月10日からの総攻撃の際、その鉄砲衆(内通者)は天守に近い三の丸付近に火を放ち、籠城していた軍勢は味方に裏切者が出たよして、ら戦う力を失い、逃亡するものが続出した。
 織田信長はこの期に及んで最後の交渉を持ちかけた。「松永久秀が所有している名器・古天明平蜘蛛茶釜(こてんみょうひらぐも)を差し出せば助命する」と促したが、松永久秀は「平蜘蛛の釜と我らの首は、信長公にお目にかけようとは思わぬ。鉄砲の薬で粉々に打ち壊すことにする」と返答した。

 このため織田信長のもとに人質で出されていた孫の2人は京都六条河原で処刑された。この時、松永久秀は古天明平蜘蛛に爆薬を仕込んでの自爆爆死した。享年68。

 松永久秀の子の松永久通も自害した。安土城の天守のモデルとも言われている信貴山城の四層の天守櫓は失われ、平蜘蛛釜の蓋は飛びちった。松永久秀は日本の歴史上、初めて死因に爆死とされた。

 

裏切り者か忠義者か
 織田信長が徳川家康に松永久秀を紹介した際「この老人は全く油断ができない。彼の三悪事は天下に名を轟かせせ、一つ目は三好氏への暗殺と謀略。二つ目は将軍暗殺。三つ目は東大寺大仏の焼討である。常人では一つとして成せないことを三つも成した男だ」と紹介した。

 この事からもわかるように、松永久秀は信長を2度も裏切り、主家の三好家を乗っ取ったという印象が強いが、時の権力者に逆らえば悪評が後世に広められることになる。松永久秀は三好家について一貫して忠節を尽くし、三芳慶の死後も三好家を取って代わろうとはせず義継を補佐し続けている。

 また年貢未納の百姓を蓑を着せ、火を放ち、もがき苦しんで死ぬ様を「蓑虫踊り」と称して見物したとも伝えられ、久秀の死を領内の民は農具を売って酒にかえ大いに祝ったとされている。このようなことから松永久秀は梟雄として後世に名を残すこにとなったが、大和を武家政権で支配しようとして大和を支配してきた寺社勢力から嫌悪されていおり、下剋上を成し遂げた久秀に周囲のやっかみがあったことも確かである。しかし松永久秀は美男子で立振る舞いの優雅な教養人であったともされ領国では善政を敷いて民に名君として慕われていたともされている。悪人なのか善人だったのかは分からないが、それだけに謎の多い人物である。