細川幽斎

 細川幽斎(藤孝)は戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、大名でありながら古今集秘事の伝統を受け継ぐ唯一の歌人として有名であった。細川幽斎(藤孝)は室町幕府の管領である細川家の分家に生まれ、家柄の良さから初め室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、義輝の死後には15代将軍・足利義昭の擁立に尽力するが、後に織田信長に従い丹後宮津11万石の大名となった。

 本能寺の変では、信長の死に殉じて剃髪して家督を嫡男・忠興に譲り、明智光秀の親戚なのに光秀に味方しなかった。

 その後も豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され肥後(熊本)・細川家の礎となる。関ヶ原の合戦直前には東軍として西軍の1500もの大軍をわずか500の兵で60日間守り抜き東軍大勝のきっかけをつくった。
 また二条流の歌道を三条西実枝から伝授され、近世の歌学を大成した当代一流の文化人であり、そのため細川藤孝よりも雅号の細川幽斎のほうが有名である。また長男・忠興が細川ガラシャを娶っており、細川幽斎はガラシャの義父にあたる。


幕臣時代
 
1534年4月22日、細川幽斎は将軍・足利義晴の側近・三淵晴員の次男として京都東山で生まれた。幼名は萬吉(まんきち)で、5歳で将軍に謁見して、7歳で伯父の細川元常の養子となり13歳で元服した。

 細川家は室町幕府の三管領(細川・斯波・畠山)のひとつであり、細川家は将軍を補佐する重要な役職にあった。

 母は学者・清原宣賢の娘であり、12代将軍の足利義晴の側室で懐妊したまま下された。このことから細川幽斎は足利義晴の子である可能性が高い。幽斎は刀・弓といった武術に優れており、和歌・茶道・蹴鞠・囲碁・料理などの教養はこの母親から教え込まれたのであろう。
 藤孝32歳のとき、剣豪将軍として名高かった13代将軍・足利義輝に幕臣として仕え、1546年には将軍・足利義藤(足利義輝)の名を受けて藤孝と名乗った。細川幽斎には家柄と腕前と風流が全部揃っていたが、順調なのはそこまでであった。

 1565年の「永禄の変」で足利義輝が三好三人衆に暗殺され、義輝の弟・足利義昭も興福寺に幽閉された。しかし細川幽斎は兄・三淵藤英と一色藤長、和田惟政、仁木義政、米田求政らと足利義昭を救出すると、足利義昭の将軍任官のために幕府再興を狙って、近江国の六角義賢、若狭国の武田義統、越前国の朝倉義景らを頼って奔走した。

 当時は貧窮しており、あまりにお金がなく照明用の油すら買えず、仕方なく社殿から油を頂戴(盗む)するほどだった。神社から油を盗んだという話は「名家の生まれにしては現実主義者だった」ことを物語っている。

 その後、明智光秀を通じて尾張国の織田信長に助力を求め、1567年7月27日、足利義昭と信長は立政寺で初めて会見した。この仲介をしたのが明智光秀と細川藤孝である。

 さらに明智光秀と共同して足利義昭の上洛を計画し、織田信長の援助で上洛に成功した。1568年9月に信長が足利義昭を奉じて入京すると細川幽斎(藤孝)もこれに従った。藤孝は主君・義昭と信長との取次ぎ役であったが、信長とも主従関係を結び、幽斎は三好三人衆の岩成友通から山城勝竜寺城(青竜寺城)を奪還するなど大和国や摂津国で転戦した。


信長家臣時代

 足利義昭と信長との対立が表面化すると、細川幽斎は信長側につき、上洛した信長を軍勢を率いて出迎え、信長に義昭が逆心を抱いていることを伝えている。

 義昭が追放された後に、桂川の西にある山城国長岡一帯の知行を許され、細川幽斎は名字を一時改めて長岡藤孝と名乗っていた。余談なことになるが藤孝と信長は同じ年に生まれていたので親近感があったのかもしれない。 

 岩成友通を山城淀城の戦い(第二次淀古城の戦い)で滅ぼすと、以後は信長の武将として畿内各地を転戦した。高屋城の戦い、越前一向一揆征伐、石山合戦、紀州征伐のほか、山陰方面軍総大将の明智光秀の与力として活躍した(黒井城の戦い)。さらに信長に反旗を翻した松永久秀の籠る大和信貴山城を明智光秀と共に落としている(信貴山城の戦い)。

 1578年、信長の命によって嫡男・忠興が明智光秀の娘・玉(ガラシャ)を娶り、それに前後して明智光秀と行動を共にすることが多くなった。明智光秀も信長に臣従するまでは将軍・足利義昭の元にいたので、細川幽斎(藤孝)とは同等の関係であったが、実際には、軍事面では幽斎は光秀の指揮下に入っていた。

 1580年、細川幽斎は明智光秀の与力とし単独で丹後国に進攻するが、同国守護の一色氏に反撃され失敗している。後に明智光秀の加勢によって丹後南部を平定すると、信長から丹後南半国の領有を認められ宮津城を居城とした。丹後の北半国は信長から一色満信の領地として認められた。

 信長は知多半島で捕れた鯨肉を朝廷に献上し、家臣である藤孝にも裾分けをしたと手紙に書いてある。当時は鯨を多くの人に分ける習慣があった。


本能寺の変以後
 1582年の本能寺の変で明智光秀が信長を自害に追い込むと、細川幽斎(藤孝)は上役であり親戚でもある明智光秀の再三の要請を断り「私は信長様の死に哀悼を示し出家する。後のことは息子に任せてある」という返事をして、剃髪して雅号を幽斎とし、田辺城に隠居した。幽斎は明智光秀の支配下に入ることを潔しとしなかったのである。家督を譲られた細川忠興も光秀への協力を拒否した。明智光秀と関係の深い筒井順慶も参戦を断り、窮地に陥った明智光秀は山崎の戦いで敗死することになる。

 このよう本来協力して然るべき姻戚関係の家や、旧知の仲である大名への根回しが事前にできていなかったことが明智光秀が天下を取れなかった理由とされている。

 その後、豊臣秀吉が明智光秀を討ち天下になると、細川幽斎は秀吉に重用され山城西ヶ岡に3,000石を与えられた。紀州征伐、九州平定にも参加し、島津家の家臣が起こした梅北一揆では上使として薩摩国に赴き、島津家蔵入地の改革を行い(薩摩御仕置)、この功により大隅国に3,000石を加増された。その後、幽斎はその教養を高く買われ、武士としてよりも文化人として茶会や歌会など多くの仕事をするようになる。足利義昭が死去した際、葬儀を執り行ったのも幽斎であった。

 

朝鮮侵攻

 豊臣秀吉は日本を統一すると、明国制圧のため朝鮮への侵攻を目論んだ。幽斎は前野長康との会話の中で「今度の争場はそもそも大義もなく、仁愛もない。国を離れること数千里、たとえ勝利を得ても延々と見渡す限り皆敵である」と反対の立場をとっている。幽斎は「朝鮮侵攻は負担が重く消耗するのは西国大名や豊臣家譜代の諸将で、一兵も兵を出さない徳川家康や前田利家は損害をこうむる心配がない。後日、徳川家康や前田利家の勢いが強大になるだろう」幽斎にはこの戦争の結果と日本国内に及ぼす影響を見ていた。
 このように幽斎は先を読んでいたが、大勢は秀吉の望む征服戦争へと流れていった。幽斎自身も名護屋に在陣し、嫡男の細川忠興は渡海して第一次晋州城の戦いで苦戦を強いられている。

 

田辺城の籠城戦

 1598年に秀吉が死去し、文禄・慶長の役が幕を閉じると、細川幽斎は親交があった徳川家康に接近した。

 1600年6月、嫡男・忠興が家康の会津征伐に丹後から細川家の軍勢を引きつれて参加した。さらに7月には石田三成が家康討伐の兵を挙げ、大坂にいた忠興の妻・ガラシャ夫人は石田三成の捕虜になることを拒み屋敷に火を放って自害した。

 細川幽斎の見せ場は、関が原の直前である。細川幽斎は既に豊臣一門を見限っており、家康に接近していたので当然東軍側についた。そこで丹後・田辺城(京都府舞鶴市)の守将になっていたが、田辺城は西軍の大軍に取り囲まれ、幽斎は田辺城に籠城した。田辺城は大軍に包囲されたが、幽斎が指揮する籠城勢の抵抗は激しく、また攻める攻囲軍の中には幽斎の歌道の弟子が多く戦闘意欲に乏しかった。この田辺城の戦いは関が原本戦の直前に行われ、兵数だけでも3倍の戦力差があったが、15,00の西軍に対し、幽斎は三男の細川幸隆と共に500に満たない手勢で60日に渡り丹後田辺城を守った。

 細川藤孝(幽斎)は戦国きっての文化人で、若くして歌道を志し、三条西実枝より古今和歌集の秘伝を受け、九条稙通より源氏物語の奥義を授けられていた。幽斎は和歌や古典籍に関する教養が深く「古今伝授」という秘伝を受け継いだ唯一の人物だった。勅撰和歌集・古今和歌集の解釈は代々語り伝えられた秘伝で、藤孝以外に解釈を知る人物はいなかった。この田辺城の戦いで慌てたのは、石田三成でも徳川家康でもなく朝廷、皇室の人々であった。

 後陽成天皇は「もし細川幽斎が死ねば、古今集秘事の解釈について代々語り伝えてきたことが絶える」と惜しんだ。幽斎以外にそれを知る人物はいなかったからである。後陽成天皇は勅命をもって田辺城を開城するように幽斎に伝えた。天皇による開城命令である。

 戦国時代の天皇は軽視されがちだが、さすがの幽斎も天皇の命令に意地を張り続けることはできず、講和により田辺城が開城したのは関ヶ原の戦いの2日前であった。この時点で既に幽斎は70歳近かったが、2ヶ月に及ぶ籠城戦を終えて城を明け渡した。

 細川藤孝(幽斎)が東軍として西軍の大軍を引き寄せたため「関ヶ原の戦い」で東軍が勝利したとされている。そのため徳川家康は細川幽玄を高待遇している。また嫡男の細川忠興は関ヶ原の戦いにおいて石田三成と戦い、その功績により豊前小倉藩39万9,000石を得ている。

 細川幽斎はその後、京都吉田で悠々自適な隠居生活を送り、1610年8月20日、京都三条車屋町の自邸で死去した。享年77。細川幽斎は生涯側室を持たず、死去時も正室が存命しており、老夫婦で仲良く暮らしていたのであろう。 

 幽斎の所領6,000石やそのほかの資産は死後に整理され、次男の興元は下野茂木藩1万石の足しとして、さらに幽斎の孫の長岡休無(細川忠隆)は京都隠居料(3,000石)として受け継いだ。

 
文化人としての幽斎
    細川幽斎の父は足利将軍家の幕臣である三淵晴員で、母は学者の清原宣賢の娘であるため文化人として遺伝的・環境的側面が大きかった。60を過ぎでも和歌集や風土記を書き写す勉強家であり、また戦国時代を乗り切るために武将としての任務をこなしている。

  剣術の他に武芸百般に優れ、また和歌・茶道・連歌・蹴鞠等の文芸を修め、さらには囲碁・料理・猿楽なの造詣が深く、当代随一の教養人であった。また腕力も強く、京都の路上で突進してきた牛の角をつかみ投げ倒したほどである。
    細川幽斎は三条西実枝から古今伝授を受け、その子・三条西公国、さらにはその子・三条西実条に伝授するまでの間、二条派正統を継承した。幽斎は当時唯一の古今伝授の伝承者であり、関ヶ原の戦いの際、後陽成天皇が勅命により幽斎を助命したのも古今伝授が途絶える事を恐れたからであった。
    門人には後陽成天皇の弟宮・八条宮智仁親王、公家の中院通勝、烏丸光広がおり、また松永貞徳、木下長嘯子らも幽斎の指導を受けた。薩摩の島津義久は幽斎が足利義昭に仕えていた頃から交流があり直接古今伝授を受けている。


墓所

 幽斎の墓は京都・南禅寺の塔頭寺院にある。南禅寺の他に孫・忠利以降、肥後熊本藩54万石の藩主となったことより、熊本の立田山の麓に細川家菩提寺の泰勝寺(立田自然公園)がある。

 八条宮が幽斎から古今伝授を受けた「古今伝授の間」は、幽斎の孫・細川忠利が造営した水前寺成趣園(熊本市)に大正時代に移築され、平成22年には熊本で幽斎没後四百年祭が開催され、また翌年には水前寺成趣園内に銅像が建てられている。

 なお元首相の細川護熙は幽斎の末裔にあたる。