蛮社の獄

渡辺崋山
 渡辺崋山は三河国・田原藩の家老を務め、国宝「鷹見泉石像」や数多くの重要文化財に属する傑作を遺す高名な画家でもあった。しかし海外の新しい知識を得るためにシーボルト門下の俊才たちと始めた蘭学研究が、幕府目付で儒者の林家の倅・鳥居耀蔵の憎しみをかい、1839の蘭学者弾圧の「蛮社の獄」に列座。同藩における自分の立場から、その影響が藩主や師、友人に累が及ぶのを案じて切腹自殺した。
 崋山は田原藩藩主、三宅家1万2000石の定府(江戸勤務)仮取次役15人扶持、渡辺市兵衛の嫡男として1793年麹町の田原藩邸で生まれた。幼少から貧困に苦しみ、8歳で若君の伽役として初出仕した崋山は、12歳のとき日本橋で誤って備前候世子(若君)の行列と接し、供侍から辱めを受けた。これに発憤した崋山は大学者への道を志し家老で儒者の鷹見星皐に学ぶ。
  だが家計の貧困を助けるため転向。平山文鏡、白川芝山について画法を学び、のち金子金陵、谷文晁に師事して南画の構図や画技を学ぶとともに、内職のために灯籠絵などを描いた。こうして近習役から納戸役、使番と累進した崋山は、晩年、家老末席に出世していた父の跡目を継いだ。遺禄80石。
 26歳のとき正確な写実と独自の風格を持つスケッチ『一掃百態』を描き、30歳で結婚。この頃から崋山は蘭学や西洋画に傾倒、西洋画特有の遠近法や陰影を駆使した作品を仕上げ、34歳の春、江戸に来たオランダ国のビュルゲルを訪ねて西洋の文物への関心を深めている。
 天保3年(1832)40歳で江戸家老に栄進し禄120石。崋山は農民救済を図るため、悪徳商人と結託した幕吏が計画した公儀新田の干拓や、農民の生活を脅かす領内21カ村への助郷割当の制度を、幕府に陳情、嘆願して廃止、免除させた。また飢饉に備えての養倉「報民倉」を建築。農学者、大倉永常を登用して甘蔗を栽培させて製糖事業を興すなど、藩政への貢献は大きい。
 また、田原藩主の異母弟で若くして隠居していた三宅友信に蘭学を勧め、大量の蘭書を購入。シーボルト門下の俊才で町医者の高野長英や岸和田藩医、小関三英、田原藩医の鈴木春山らに蘭書の翻訳をさせた。崋山はいつかこの蘭学研究グループの代表的立場に押し上げられていった。
そしてこの会が、憂国の情とともに、鎖国攘夷の幕政に批判的な色彩が強いものとなっていった。崋山自身も時事を討議し幕臣の腐敗無能ぶりを詰問した『慎機論』を著している。伊豆の代官で、西洋砲術家で海防策に心を砕いていた幕府きっての開明派の江川英龍のため、崋山は『西洋事情御答書』を書き送っている。
 これらのことが“蘭学嫌い”の幕府の目付、鳥居甲斐守耀蔵の異常な憎しみをかい、天保10年(1839)の“蛮社の獄”に発展、崋山も「幕政批判」の罪に問われて捕えられ、投獄7カ月。この後、崋山は藩地田原へ蟄居。幽閉所での崋山の暮らしぶりは窮乏をきわめている。母や妻子を抱えての貧窮生活を見かねた友人たちが、江戸で彼の絵を売ってやった。
ところが、かねてから開明派崋山の活躍ぶりを苦々しく思っていた守旧派の藩老や藩士たちは、謹慎中あるまじき行為と騒ぎたて、公儀から藩主までお咎めを被る-という噂を撒き散らした。こうした噂を耳にした崋山は藩主や周囲に累が及ぶのを案じて切腹、貧乏と闘い続けた生涯に幕を閉じた。

 

高野長英

 江戸時代の蘭学者・高野長英がすごいのはその脱獄である。蘭学者の弾圧「蛮社の獄」に巻き込まれて永牢(無期禁固)という刑を受け、郷里では年老いた母が釈放を心待ちにしていた。何よりも新たな知識を得られず、自らの知識も生かせないまま牢獄で一生を終えることは到底耐えられなかった。フォン・シーボルトが開いた鳴滝塾で塾頭を務めた長英には自分の学識は当代一流という強いプライドがあった。
 伝馬町牢屋敷(東京都中央区)に投獄されてから5年余りが過ぎた1844年、長英はついに脱獄を決行した。牢屋敷は高い塀で囲まれていたが、長英は塀を越えずに脱獄を成功させた。
 牢屋敷周辺で火災が起きると、受刑者は数日後に戻ってくることを条件に解放される。「切り放ち」と呼ばれるこの受刑者の救命措置は、1657年の明暦の大火で行われて以来、牢屋敷の慣例となっていた。長英は牢屋敷に出入りしていた雑役の男を買収し、牢屋敷に放火させて「切り放ち」で塀の外に出て逃走したのだった。
 脱走した長英は知人の蘭方医や蘭学の門人、親戚らを頼り、江戸-大間木(浦和)-大宮-熊谷-高崎を経て中之条(群馬県)へと逃避行を続けた。直江津(新潟県)などを経て郷里の前沢(岩手県)で母と再会を果たした後は、仙台-福島-米沢(山形県)-宇都宮を経由して江戸の麻布藪下に潜伏したとみられている。
 ただ門人らが逃走を手助けするために偽の情報を流した可能性もあり、実際の逃避行ルートには諸説がある。偽情報を流さなければならないほど、幕府の探索は厳しかった。全国に人相書きがばらまかれ、大勢の追っ手が放たれた。ようやく腰を落ち着けたのに数日で旅立つこともあったという。
 その一方で宇和島藩(愛媛県)藩主の伊達宗城や薩摩藩の島津斉彬は、幕府に捕まる前に長英を保護し、藩の海防や富国強兵に彼の知識を生かそうと、ひそかに行方を探っていた。長英は薩摩行きを望んでいたが、薩摩藩は当時、家督相続をめぐる内紛「お由羅騒動」に揺れていた。
 迷ったあげく長英は弟子の蘭学者を通じて接触してきた宇和島藩に身を寄せることを決意した。伊東瑞渓と名を変えて偽の通行手形を使った箱根の関所越えは、まさに命がけだった。
 宇和島では蘭書の翻訳や藩士への蘭学講義をしていたが、平穏は1年しか続かなかった。「幕府が長英の宇和島潜伏に気づいた」という早飛脚が江戸から届いたのだった。愛媛から広島へは泳いでではなく船で渡ったとみられる。広島―大坂-名古屋などを経て再び江戸に戻った長英は、「澤三伯」の偽名で青山百人町(港区南青山)で町医者を開業した。
 多くの患者と顔をあわせる町医者は危険な職業だったが、幕府が洋書の翻訳や購入を制限し、蘭書の翻訳では生計が立てられなかった。このころ幕府内に「これだけ捜しても見つからないのだから、長英はロシアに逃亡したのではないか」という声もあったというから、少し大胆になったのかもしれない。それでも長英は町医者を始めるにあたり、硝酸で自らの顔を焼き人相を変えたという。
 しかし思わぬところから足がついた。翻訳本には丁寧な注釈までついており、これほどの仕事ができるのは長英しかいなかった。学問では妥協を許さないプライドが長英を逃避行に走らせ、6年4か月の逃避行を終わらせた。急病人を装った奉行所の捕り方に踏み込まれた長英は、抵抗むなしく取り押さえられ、持っていた脇差しで喉を突いて自害した。

次のページ