紀伊國屋文左衛門

紀伊国屋文左衛門
 江戸時代の成金の代表者として挙げられるのが、元禄時代の豪商・紀文こと紀伊國屋文左衛門である。しかし紀文の生誕地は紀州(和歌山県)のどこかであるが諸説あって不明である。墓も東京深川に2ヵ所、埼玉県熊谷市に1ヵ所あるが本物かどうかは不明である。つまり紀文の実像は文献資料がないため霧の中ではっきりしない。だが日本史上、商人の中で最大で大衆的な人気者であることに間違いない。

ミカン船伝説
 講談や浪花節によると、暴風雨で荒天続きの熊野灘を乗り切って、紀州みかんを江戸へ運んで巨富を築いたということになっている。

 江戸の町にふいご祭り(11月8日)の日が近づいていた。「ふいご」とは火力を強める道具で、鍛冶屋など火を扱う職人にとっては、ふいご祭りは最大のお祭りであった。このふいご祭りでは景気よくミカンをばら撒くことが風習となっていた。
 ところがその年、悪天候が続き江戸にミカンがまったく入荷されなかった。節分に豆がなければ節分にならない。ミカンがなくてはふいご祭りは成立しないのと同じである。クリスマスにはケーキとチキン、バレンタインデーはチョコと同じようなものである。
 紀州の紀伊國屋文左衛門は男一世一代の大勝負と決断し、命知らずの水夫を8人を集めて、全員白装束の白鉢巻きで命がけの大博打をうった。荒れ狂う熊野灘、逆巻く遠州灘。暴風・荒波に帆柱は折れ、あわや全員ミカンもろとも海の藻くずになりかけた。
 必死の男気が通じたか、からくも船は江戸に到着した。太平の世に慣れた江戸庶民は文左衛門の決死の行動に拍手喝采し、「沖の暗いのに白帆が見える、あれは紀伊国屋のミカン船」と歌われ語り草となった。ミカンは超高値で即時完売し、紀伊國屋文左衛門は15万両の大金を手にして一気に豪商になった。

 この話は実話であろう。伊勢のある神社に文左衛門のものとされるみかん船のひな型が奉納されているからである。当時、諸藩は藩財政を潤すために領内の特産物を直轄にしていた。忠臣蔵の赤穂藩の塩、紀州藩のミカンもそうであった。

 有田みかんの歴史は古く室町時代にみかんを九州から導入し栽培増殖したのが始まりとされている。江戸時代に入り紀州徳川家がみかん産業を保護奨励し、1634年からみかんの江戸出荷が始まり、わが国の出荷組合第一号ともいうべき蜜柑方(みかんがた)が作られた。文左衛門のみかん船が事実だとすると20歳前後である。

 

木材商伝説
 また文左衛門は明暦の大火(振袖火事)の時、木曾の木材をわずかな手付け金で買い占めてボロ儲けしたと伝えられる。ところが、明暦の振袖火事の際、木曽の材木を買い占めて巨利を得たとされているが、これは間違いで木曾の木材を買い占めて巨利を博したのは河村瑞賢である。

 こうなると果たして紀文は実在したのか疑わしくなる。ただ周辺にはそのような人物はいる。紀文物語によると紀文は幼名を文平で、有田郡湯浅で生まれたという。その湯浅町栖原(すはら)の出身で栖原角兵衛(かくべい)、略して栖角という人物がいる。栖角は房総から奥州へ手を伸ばして漁場を開き、後に江戸へ進出して鉄砲洲に薪炭問屋の店を持った。さらに深川で材木問屋を始めるなど多角経営で事業を広げている。

 

奈良屋茂左衛門

 紀文が活躍した貞享から元禄期は、生活ばかり派手になって手元に金のない、いわば欲望過多の時代だった。そんな時代背景が「いてもおかしくない」という思いも加わって、講談や浪花節の世界で架空の人物・紀伊國屋文左衛門を生み出した可能性はある。当時の豪商としては奈良屋茂左衛門がいる。紀文とともに遊郭・吉原で贅を尽くしたとされている。江戸の当時の家屋は竹と土と紙とでできているので燃えやすく、ちょっと風が強いとすぐ火事が起こった。大火事があれば当然材木屋が儲かる。そのため江戸初期の富商は木材問屋が大部分を占めていた。ただ木材は投機性の強い商品で、いったん的中すると儲けは莫大なものになったが、狙いが外れると厖大な在庫を抱えて四苦八苦しなくてはならない。そんな浮き沈みの多い木材問屋の中で儲け頭は奈良屋茂左衛門だった。
  奈良茂は日光修復の工事入札で、普通の業者の半分にも満たない安値を入れて落札した。しかし本来そんな安値で木材を揃えることなどできるはずがない。ところがここに奈良茂のしたたかな計略があった。まず奈良茂は木曽の木材問屋・柏木屋へ行き、木材を売ってくれと頼んだ。もちろん柏木屋は断った。すると奈良茂は役人に訴え出て、柏木屋に木材を売るように命じてほしいと願った。そこで役人が柏木屋へ行き、木材はないのかと問うと、船が入らないのでありませんと口実をのべた。ところがそこが奈良茂の思う壺だった。同業の事情に明るい奈良茂は「そんなはずはありません、柏木屋の木材の隠し場所へご案内しましょう」といって貯木場へ案内した。

 柏木屋に体よくあしらわれた役人は怒って、柏木屋の隠し場所にあった木曽ヒノキに焼印を捺して奈良茂に下げ渡した。柏木屋の当主と番頭は三宅島へ島流しされ、奈良茂は柏木屋を没落させたばかりか、日光修復の工事用木材をタダ同然で手に入れて2万両分の余剰木材が残ったのである。

 

豪商の背景
  紀伊國屋文左衛門の出発点は不明だが、とにかく新興の商人になった紀文は、幕府発注の大工事を請け負うようになる。時代は5代将軍徳川綱吉の時代(将軍職在位1680〜1709)である。綱吉は盛んに神社仏閣の建立を始め、江戸城の金蔵が空になってしまうほど公共事業を実行した。
 紀文はこの空前の公共建築ブームを逃さなかった。その手段が柳沢吉保ら幕閣要人への大接待と大賄賂であった。その頃も接待・賄賂は悪という道徳はあるにはあったが、実際は接待・賄賂が当然視されていた。仕事受注の接待の結果は空前絶後のお大尽遊びとなった。 実際は豪商の詳細は分からないが、紀伊國屋文左衛門が当時の幕府の大物勘定奉行の荻原重秀を抱き込み、幕府の土木事業の指名を受けたことは確かである。中でも幕府が行った上野寛永寺の中堂建設の材木を一手に引き受けて50万両の儲け出した。彼が紀文大尽として、吉原の大門を締め切って千人の遊女がいる吉原を1人で一夜千両で買い占めること生涯に4回あった。勇名を馳せたのも事実である。

 

紀文の晩年
 紀文は江戸城の金蔵の巨大な資金を江戸市中に流通し、消費拡大の好景気に寄与したが、いつの日か幕府の金蔵は空になり、1709年、5代将軍徳川綱吉が死去すると側用人柳沢吉保の隠居した。

 これによって紀文の政商としての人脈が途絶えてしまう。次の時代は新井白石が推進する「正徳の治」である。質素倹約、公共事業激減の緊縮財政路線、儒教道徳の徹底で賄賂を禁止した。これで紀文の出る幕は完全になくなった。
 そこで紀文は深川へ隠居してしまう。引っ越しの際、千両箱が山のようにあり、隠居所といっても広大なお屋敷だった。そのため紀文の晩年を没落とか零落とか言うのは見当違いである。時代が去れば未練なく撤退、これは時代の波に乗ることよりも、はるかに難しいことである。紀文は時代の流れを読み切っていのだろう。