徳川綱吉

 徳川綱吉といえば、真っ先に思い浮かぶのが「生類憐れみの令」と、それに由来する「犬公方」というあだ名である。綱吉は気が触れたかのようにお犬様が大事、時には人よりお犬様が優先だった。この様に「生類憐れみの令」は悪く言われがちですが、悪法どころか日本人の倫理観を良い方向へ進めたとの見方もある。
命が軽かった時代の名残
 殺し合いが日常で、敵地の作物を強奪したり、人身売買も横行していた戦国時代。人心は荒廃し命も極めて軽いものだった。徳川家康から数えて五代目・綱吉の時代ともなれば戦国は過去のものであるが、武士階級をはじめ人々の心には依然としてその余韻が燻っていた。鎖国のために、訪日を許された数少ない外国人も、そうした残酷さを目撃するたびに恐れ慄いたと言われている。
 例えば「葉隠」のような武士の規範は、節義を通すためならば人の命を軽んじることこそ美しいとされ、そんな彼らに命の大切さを説いても効果はない。一般社会においても、捨て子や間引きはよく見られた。新生児の首に母親が足首を乗せて殺してしまう、そのような間引きがあった。
 日本には古来より「死の穢れ」を嫌う風習があり、それが時に彼らの性質を酷薄にした。旅先の宿で重病人が出ると、宿の主はその人を屋外に放置して死ぬに任せていた。これには他の客が「病」に感染することを防ぐという意味もありましたが、そもそも「死の穢れ」を自宅で発生させたくない――そんな意図があったのですね。当時の人にとって、病人を救うことよりも、まずは自宅で死者を出さないこと(死の穢れ)の方が優先事項。こうした結果、往来には動物だけでなく、人の死体も投げ捨てられていた。
理念はすばらしい「生類憐れみの令」
 なんと無情な世の中でしょう。太平の世と言われる江戸時代も、現代の倫理観からは考えられない殺伐としたものだった。そんな世の中を慈悲の光で照らしたいと考えたのが徳川綱吉と言えます。綱吉は命が軽んじられた世の中を、自分の治世で変えたいと願った。
生類憐れみの令、その理念は素晴らしいものであった。この「生類憐れみの令」は、一つの法律として一回で出されたものではなく、複数回に分けて発布されたものである。主な中身だけを抽出してみると。
・旅行中の人および動物が、慈悲深い扱いを受けるようにすること。このおかげで、旅人が宿から放置されて死を待つようなことはなくなった。
・馬の筋繊維の切除禁止。当時は馬の乗り心地をよくするため、馬の筋繊維に切れ込みを入れることがあった。
・鷹狩の廃止。狩りによる殺生を禁じるためだけではなく、鷹の餌となる犬の保護を目的としました。
その他にも
 囚人の境遇を改善し、捨て子や堕胎の禁止、動物遺棄の禁止、動物に芸を仕込んで金を稼ぐことを禁止、食用動物の生体販売禁止などがある。それまでの為政者では発想しなかった先進的で素晴らしい中身と言えるものである。彼は動物福祉の概念を先取りしていたのでした。
特権を剥奪された人々
 なぜ生類憐れみの令が稀代の悪法のように伝えられてきたのか。しれはこの法令に対し不満を持つ人々がいた。その最たる者たちが武士階級であった。
鷹狩や犬追物の禁止令は、彼らにとって受け入れがたいものであった。
現代でも伝統と動物愛護の狭間で難しい選択を迫られるものがある。スペインの闘牛や、イギリスのキツネ狩りも論争の的となっている。キツネ狩りはそもそも貴族の特権的娯楽だった。
 イギリスの貴族の財産である広大な領地、持ち馬、使用人、猟犬を利用して行う、選ばれた者だけの娯楽であった。馬で駆け回るため、軍事訓練の意味もあり、英国ではキツネを保護するため、貴族の特権を剥奪してよいのかと反対意見が出たのです。
動物愛護か特権か
「生類憐れみの令」について考えるとき、この、現代イギリスにおけるキツネ狩り論争が参考になる。武士にとって犬追者や鷹狩は、ただの娯楽ではなく戦闘訓練という意味合いがあり、彼らに与えられた特権でもああった。戦国時代は遠い昔であっても戦闘と流血こそが武士の本分である。他の階級との差別化をはかるためにも、時に残虐な動物殺傷が必要と見なされた。武士にとってこれらの禁止とは特権の剥奪であり、現代のイギリス貴族がキツネ狩り禁止を「権利の侵害」と嘆くように当時の武士も不満を抱きました。
人々は犬に残飯を与えなくなった
 武家の誇りを刺激した生類憐れみの令は当然ながら反発が出て、運用を始めても様々な問題が噴出した。

 たとえば「犬を殺せば死刑」という極刑。このために野良犬への餌やりが減りました。
野良犬に餌をあげて懐かれてしまうと、その犬が飼い犬とみなされる可能性が出てくる。そこで世話を続けなければ、飼い主としての義務を怠ったとして、処罰の対象になってしまう。ならばできるだけ距離をとった方がよいという流れであった。
「生類憐れみの令」以前は、人々はたびたび犬に残飯を与えていたが、皮肉なことに法令が発布されて以来、こうした行為がなくなってしまった。
犬を見かけても素知らぬ顔をしなければ下手すれば自分が処罰されてしまうからで当然であった。

 一方で、犬の増加も深刻な問題でした。現在と違って去勢や避妊がないため、おそろしいほど繁殖したのである。以前は子犬のうちに始末していましたが、これができなくなってしまったのですから増えてばかりです。野良犬はやがて「犬小屋=犬の収容所」に入れられるようになった。
 この犬小屋費用の負担が、武士に対して発生したばかりではなく、犬を捕縛する任務も彼らに回ってきました。町人たちが呆気にとられるその前で、お侍さんたちが犬を追い回すのですから、ご丁寧に「犬を捕縛する武士を笑わないように」という命令まで発せられるほどだった。
「生類憐れみの令」は、多くの人々を苦しめた悪法とされ、動物を殺傷した者は問答無用で殺された印象がある。しかしやむを得ない状況で殺傷してしまったとき、現実には無罪放免となる場合の方が多かった。
悪法ではない
 往来で寝転ぶ犬を大八車で轢いてしまう事故はよくあった。止まろうとしても、重たい荷を運ぶ大八車は、急には止まれません。この場合は当然ながら無罪となる。魚釣り程度は処罰されていませんし、誇張されるほど無茶苦茶な運用はされていなかった。
 来日したドイツ人医師ケンペルは、むしろ綱吉を名君であると評価している。
「生類憐れみの令」が厳格に運用されていたのは、身分を問わないという点においてであり、事情についてはむしろ考慮されていました。つまり以下のように至って真っ当な状況です。
・やむを得ない状況で犬を轢いてしまった町人は、無罪
・故意に動物を殺傷した武士は有罪
しかも公正な運用がなされており、そのことこそが武士に憎悪と嫌悪を抱かせる流れに至ってしまった。犯罪を見逃されるという特権を剥奪されたからである。
「生類憐れみの令」は、武士にもその他の人々にも負担がかかるものでした。しかし武士の方にとってより不利益が大きい。
 武士のプライドやアイデンティティを傷つけ、特権を奪うのです。ゆえに武士たちはこの法令を誇張して、いかに悪辣で人を苦しめるものか書き残したのである。
 
各国とは真逆の方針
 ケンペルのような外国人はこの法令を客観的に評価し肯定している。「生類憐れみの令」を考える時は武士の気持ちを差し引いて考える必要がある。綱吉の生きた時代は世界各地で残酷にも動物を残虐にいじめ、その様子を見て観客は喜んでいた。そんな時代に動物虐待の愚かさを指摘し、改めようとした為政者は、ケンペルの言う通り先進的と言えるのではないでしょうか。
 また「生類憐れみの令」は動物福祉ばかり注目されますが、前述の通り人間への残虐な仕打ちも取り締まるものでした。こうした部分は廃止されることはなく、幕府の基本方針として継続された。
「生類憐れみの令」以前とそのあとでは、日本人の命に対する考え方・態度は実際に変わっている。そのことを考えると単なる悪政とは言えないのではない。 

桂昌院

 桂昌院は徳川三代将軍家光の側室で五代将軍綱吉の生母となった。八百屋の娘からここまで登り詰め、その一方で悪法「生類憐みの令」発令のきっかけをつくったのである。
 桂昌院の生まれは京都・堀川通西藪屋町の八百屋仁左衛門の娘で、名前はお玉である。16歳で家光の側室、お万の方の腰元として江戸城に入るのだが、京都の八百屋の娘が江戸城の大奥に入るには少し込み入った事情がああった。それは京都の公卿のお嬢さんが伊勢・慶光院という門跡寺の尼になり、1639年3月、そのお礼のために家光のところに出向いた。江戸城で家光に拝謁したところ、家光はそのお嬢さんを一目見て「尼にしておくのはもったいない」と不心得を起こし、そのまま江戸に留め還俗させて、側室・お万の方が誕生することになった。そのお万の方の腰元としてお玉が行くことになった。
 腰元お玉の、いきいきした下町娘ふうな美しさが家光の目にとま理、身分制度のやかましかった徳川封建体制下ではラッキーなことだが、お玉は妊娠し男の子が生まれ、これが五代将軍綱吉となった。生まれたのが女だったら、桂昌院として歴史に名を残すようなことはなかった。その意味では彼女には幸運が続いた。

 家光には側室は彼女の他に4人いて、別の側室2人に長男家綱、二男網重と男の子が2人いたので、本来ならお玉の子は将軍にはなれないはずだった。ところが四代を継いだ家網は子供がなく早死にし、続いてその弟・網重も亡くなり、兄2人が死んで上州・館林の藩主だった綱吉に将軍の座が回ってきたのである。その頃はすでに家光に死別しており、お玉は未亡人になっていた。当時の慣例として剃髪し、桂昌院と呼ばれていたが、自分の意思や策謀なしにこれほどトントン拍子に出世した人はいない。稀有なケースといっていい。
 綱吉は学問好きの将軍として知られているが、これは桂昌院・お玉が教育ママで「勉強しなさい」といつも尻を叩いていたからだ。夫の家光が戦乱の余燼がまだおさまらない時代に成長し、学問をする時間がなかったので、子供たちには学問させたいと考えていたのだ。お玉はその言葉を守って綱吉にハッパをかけたので、綱吉は徳川歴代将軍の中でも特筆されるほどの好学将軍になった。四書五経、大学、中庸など彼の知識レベルは、学者はだしだったという。
 美貌とともに、伏魔殿のような大奥でうまく泳いでいく処世術を身につけていた桂昌院は、82歳まで生き幸福を享受し続けたが、その生涯の最大の汚点は悪法“生類憐みの令”発令のきっかけをつくったことだ。信仰心が篤かった桂昌院はそれが災いし、結果的に大奥に悪僧、隆光を引き入れ、その進言で“生類憐みの令”という未曾有の悪法を綱吉に進言。その結果、犬一匹殺しても死罪、魚、えび、しじみに至るまで食べるのを禁じるところまでエスカレートし、庶民の苦痛、不便、迷惑は大変なものだった。この悪法は1685年から綱吉が死ぬ1709年まで続く。この24年間は庶民にとって耐え難い時期だったといえる。
 通常、権力者の世界では“父母に忠孝”というのは建て前で、“天子に父母なし”といって、天子になったら父母のいうことを聞かなくてもいいという考えもあった。ところが、綱吉は儒教の忠孝の教えを守って、母・桂昌院のお膳の上げ下げまでしたという。それだけに、綱吉が“犬公方”と呼ばれ、後世の批判を浴びているのは、母・桂昌院のせいといえる。