お市の方

織田信長の妹
 戦国時代の女性はいずれも決まったように政略結婚の道具にされ、運命にもてあそばれて生涯を閉じている。織田信長は大名間の政略婚には育てた娘ではなく、養女を用いていた(形式上の養女)。実の妹や娘で他国に嫁いだのは、「お市の方」を除けば松平信康に嫁いだ徳姫(信長の娘)のみで、それ以外はすべて家臣か公家との縁組だった。織田信長の妹・「お市の方」は戦国一の美女と賞されたが、お市の方は数奇な生涯を送ることになる。
 お市の方の父は織田信秀で五女と伝えられているが母親は定かではない。織田家での待遇が良かったことから正室・土田御前の可能性が高い。なんせ父・織田信秀には24人の子供がおり、兄には織田信広、織田信長、織田信行、織田信包、織田信興・織田長益、弟に織田長利、姉・お犬の方などがいるが母親の記録がないのである。織田家系譜には「秀子」と記されていて信長とは13歳離れた妹になっている。
 18歳の時、兄・織田信長の「娘分」として京極氏の執権・近江の小谷山城主・浅井長政の正室として嫁ぎ、織田家と浅井家は同盟を結んだ。なお長政は主家である六角の家臣・平井定武の娘との婚約がなされていたが、お市の方との婚姻により破談となっている。

 浅井長政の父・浅井久政や浅井家の家臣らは、六角氏との婚姻を望みこの結婚には反対だった。また古くからの朝倉家との同盟を重視していたためである。
 当時すでに浅井家当主の座に就いていた長政としては織田家との同盟を望んだ上での結婚であり、お市の方の間は円満であった。お市の方と浅井長政との間は仲睦まじく、長男万福丸をはじめ、1569年には長女・茶々(淀殿)、1570年には二女お初、1573年には三女お江の浅井3姉妹を産んでいる。

 

浅井長政の正室

 お市の方は後の歴史に名を残す浅井3姉妹を得ているが、後に豊臣秀吉の側室となる茶々(淀君)をはじめ、最終的には徳川秀忠に嫁いで徳川家光や千姫を産むお江(ごう)、それに京極高次に嫁いだお初(はつ)の三人姉妹の母親である。このお市の方がいなければ豊臣秀頼も徳川家光も存在しなかった。

 1570年、兄・織田信長は浅井長政に「同盟者・朝倉は攻めない」と約束していたが、上洛の命令に従わないとして越前国(福井県)の朝倉義景を攻めた。浅井長政は織田信長が約束を破ったと怒り、織田軍勢の背後をつき挟み撃ちにしようとした。織田・浅井の同盟は破綻し、信長の有名な撤退劇が始まる(金ヶ崎の戦い)。

 この際、お市は手紙では怪しまれるので、小豆入りの袋の両端を縛った「小豆の袋」を陣中見舞いと称して織田信長に送り「袋の中のネズミ」として浅井長政の裏切りを伝えた。
 浅井長政の裏切りに怒った織田信長は帰国すると、長政の裏切りを信長が許すはずもなく、すぐさま兵を立て直して近江の小谷城に迫った。

 朝倉義景の援軍を得た浅井長政は、姉川にて織田信長・徳川家康勢を迎え撃つが大敗し大きく戦力を落とした。(姉川の戦い)
 1573年、越前の朝倉義景を滅ぼした織田信長は、その足で再び小谷城を包囲して攻め込んだ。浅井長政・久政親子は自害し、お市の方はともに自害しようとするが、浅井長政は子供たちの養育を頼み、3人の娘(茶々、お初、お江)と共に藤掛永勝らによって救出され織田家に引き取られた。お市の方と3人の娘には何の処分もなされなかった。やはり織田信長はお市の方を重んじていたのだろう。

 浅井長政には二人の男の子がいたが、お市の方の子ではなかったため、長男の万福丸は殺害され、二男の万寿丸は出家させられた。

 自害して果てた浅井長政・久政と朝倉義景はともに首を京中を引き回され獄門にさらされ、長政の母である小野殿は一日に一本づつ指を切り落とされたた。

 この処刑を行ったのは秀吉であり、また秀吉は浅井家の旧領を与えられ、今浜を長浜に、小谷城を廃して長浜城を築城した。お市の方は秀吉を恨んでいた。

 織田家に戻ったお市の方は、兄・織田信包の保護を受けて尾張・守山城などで娘の3姉妹と共に9年余りを平穏に過ごした。織田信長はお市の方や三姉妹のことを常に気にかけていた。織田信包も「浅井家の血が絶えるのは忍びない」と、お市を手厚く保護し3姉妹を養育した。

 

柴田勝家との再婚
 1582年、36歳のとき兄・信長が本能寺で明智光秀に殺されると、清洲会議を経て羽柴秀吉が織田家の実力者となった。お市の方は羽柴秀吉の仲介により織田家・筆頭家老だった柴田勝家と再婚し北ノ庄城に3姉妹と共に入った。柴田勝家はお市の方より25歳も年上で、お市の方は37歳であったが、実年齢よりもはるかに若い22、23歳に見えるほど若作りの美形であった。

 秀吉は勝家のお市への意向を汲んで清州会議の勝家の不満を抑える意味もあって、会議後に秀吉が動いたのである。婚儀は本能寺の変の4か月後の8月20日に、織田信孝の居城岐阜城において行われた。
 1583年羽柴秀吉が柴田勝家と対立し、柴田勝家は賤ヶ岳の戦いで敗れて北ノ庄城へ帰ってきた。賤ヶ岳と北ノ庄城は110kmしか離れていなかったため、すぐに秀吉勢がやってきて包囲戦が始まった。先鋒は柴田勝家軍を離脱した後、秀吉方についていた前田利家であった。
 羽柴秀吉の軍勢が北ノ庄城に迫り本丸に押し入ると、柴田勝家とお市の方は越前北ノ庄城内で自害し運命を共にした。享年37。

 豊臣秀吉との合戦の結果、北ノ庄城落城と夫・柴田勝家の切腹という悲惨な状況に立たされた。お市の方は生き抜くことの悲しみに絶えかね、勝家と運命をともにした。三人の娘は道連れにせず、秀吉のもとへ送り届けている。このとき詠んだのが次の辞世の句である。
 「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ ほととぎすかな」である。
 越前北ノ庄城での合戦で秀吉は敵であった。秀吉はお市の美しさに惹かれており、落城のとき夫・柴田勝家が勧めたように、城を出て生き延びようと思えば生きられたはずだが、なぜか夫に殉じて死を選んでいる。

 茶々(17歳)、お初(14歳)、お江(12歳)の3人の娘は「浅井と織田の血を絶やさぬように」と言い聞かせられて城から脱出し、羽柴秀吉が保護した。3人の娘たちの行く末を心配していた市の方は、北ノ庄城の落城の際には庇護を受ける羽柴秀吉に直筆の書状を送り3人の身柄の保障を求めた。

 その後、長女・茶々は豊臣秀吉の側室となり豊臣秀頼の生母となるが大坂の陣で自害した。二女・お初は、京極高次に嫁いだ。大阪の陣では豊臣側の交渉役として奔走した(常高院)。三女・お江は佐治一成の正室となったが、豊臣秀吉の命で豊臣秀勝の正室となり、豊臣秀勝の死後は徳川幕府2代将軍・徳川秀忠の正室となった。3代将軍・徳川家光を産んでいる(崇源院)。

 

戦国一の美女
 お市の方は戦国時代でも一番の美女と賞され、さらに聡明だったとも伝えられ、兄信長にもかわいがられた。私欲のため美貌を売り物ともせず、三度同じような流転の生涯をたどることをきっぱりと拒否した生き方にはさわやかさを感じさせられる。
 近年、お市の方は信長の実の妹ではなかった、実は信長とお市は男女の関係にあったとの説が出されている。信長がお市の嫁ぎ先の浅井長政のもとを訪ねた際の、様々な不自然な行動などがその根拠に挙げられている。またその後、信長が浅井長政を攻めた際のお市の対応も少し不自然な部分がある。もちろん確かな論拠に欠けるが、不可思議な点があるのは事実である。いずれにしてもお市の方は越前北ノ庄城で夫・柴田勝家とともに紅蓮の炎の中で、その生涯を閉じた。

 信長には妹や娘、正室、側室など何人も女性がいたが、お市の方だけは特別であった。平家物語の序文を引くでもなく、興る者がいれば滅びる者もいる。滅んだものに美学を見出すのは日本人ならではの感覚であるが、戦国一の美女の自害である。秀吉が嫌いだったから自害したともいわれており。猿に嫁ぐより自害という物語はなおさらのこと美的である。

(下左:長女の淀殿は父・長政の十七回忌、母・市の七回忌に菩提を弔うために、両親の肖像画を描かせた。この肖像画は高野山・持明院に伝えられており、戦国末から安土桃山時代にかけての貴婦人の正装の典型的なものである。下着を3枚かさね着にし、肩と裾だけに片身替わりの模様のある小袖を着て、その上に白綾の小袖をかさね、一番上の美しい模様の着物を肌ぬぎにしている。平安時代の宮廷の女官が着た十二衣のかさね着などと比べると、同じ正装でも著しく簡略化され、開放的になってきたことがわかる)