蘇我馬子

 蘇我馬子を悪役とする歴史観は、「日本書紀」に基づいたものだ。「古事記」「日本書紀」には潤色が加えられており、すべてを事実とは見做せない。馬子の実像も近年、従来とは異なる様々な見解が提唱されている。
 蘇我馬子は572年(敏達天皇元年)、大臣(おおおみ)に就き以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、54年にわたり権勢を振るい、蘇我氏の全盛を築いた。父は稲目。姉に堅塩媛(きたしひめ、欽明天皇妃)、妹に小姉君(おあねのきみ、欽明天皇妃)、子に刀自古郎女(聖徳太子妃)、蝦夷、河上娘(崇峻天皇妃)、法提郎女(田村皇子妃)などがいる。伝えられる馬子の生没年は551年(欽明天皇13年)~626年(推古天皇34年)だが、定かではない。
 馬子には様々な事績があるが、大きなものの一つは父、稲目と同様、日本における仏教の興隆に力を注いだことだ。百済の工人に飛鳥寺を建立させた。また、渡来人である善信尼を百済に派遣して仏教を学ばせている。善信尼は、日本で最初の尼僧となった人物だ。
このほか、聖徳太子の優れた事績となっているものの中に、馬子こそがその主体者ではなかったかと指摘されているものも少なくない。あるいは、聖徳太子のよき理解者としての馬子がいたからこそ、太子はあれだけの、様々な改革を推し進めることができたのだとみる向きもあるのだ。
 ただ、馬子は大臣として54年もの長きにわたり権勢を振るっただけに、最高権力者としての“驕り”の場面も数多かった。馬子にとっては大王=天皇も特別、畏怖しなければならない存在ではなかった。東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使っての崇峻天皇暗殺が好例であり、天皇選びの際は、有力豪族も馬子の顔色をうかがいながらしか、意見が言えない状態だったようだ。まさに、馬子は王権を無視し、政治をほしいままにしていたのだ。こうした状況が蝦夷、入鹿と三代続いたわけで、その報復として後世、蘇我氏が“悪役”に仕立て上げられた最大の要因がここにあるのではないか。
古代史で強大な権力を誇った蘇我氏だが、そもそもそのルーツが定かではない。蘇我の名に渡来人である証拠が隠されているという説があるその論者の一人が作家の松本清張氏だ。朝鮮の史書「三国遺事」によると、かつて新羅は「徐伐(そぼる)」と呼ばれたことがあった。徐(ソ)は、蘇の音に連なる。伐と我は1画しか違わず、極めてよく似ている。したがって、蘇我は徐伐が転じた名ではないかというわけだ。
さらに渡来人説に立ちながら、馬子こそ当時の天皇だったとする見方もある。馬子天皇説はまず渡来人の勢力をより強大なものだったとする視点に立つ。そして天皇の始祖を渡来氏族に求め、その直系の子孫である馬子は皇位継承権があったとするものだ。また馬子が残した飛鳥寺、そしてその墓とされる石舞台古墳も天皇説の根拠とされている。つまり、�@蘇我氏が氏寺とした飛鳥寺が法隆寺や四天王寺の2.5~3倍の規模を持つ�A石舞台古墳が崇峻天皇の墓より数段大きく、しかも当時の政治の中心地だった飛鳥に作られている-などから、天皇以外の誰にもそのような権力は持ち得ない、というのがその根拠だが果たして…。