天海

江戸城の場所を選び東照大権現」を主張し権た。
 徳川幕府に仕えた天海の活躍ぶりには目を見張るものがあった。江戸城の築城には、風水術に長けていた天海が運気の強い場所を選び、東に東海道、西に隅田川や荒川、北に武蔵野台地、南に東京湾という好立地を決定した。

 また家康を神として祀る聖なる地・日光東照宮を建てたのも天海である。家康の神号である「東照大権現」は金地院崇伝と神龍院凡舜の大論争の末、天海が主張したものである。
 天海は江戸前期の天台宗の僧で、14歳のときから諸国名山霊区を遍歴した。1608年、65歳前後で徳川家康に招かれ駿府に赴き、帰依を受けて日光山を主宰し、三代将軍家光に至るまで幕府の信頼を受けた。この天海、家康に招かれたときから突如として、歴史の表舞台に登場している。不思議なことに、それ以前の足取りは一切掴めていない。生年月日や誕生地も不明だ。したがって死亡年齢は108歳、110歳、111歳、さらには135歳と様々に推測されている。
 東照宮は現在およそ300社あるが、江戸時代には倍近くの555社もあった。日光の東照宮から地方の東照宮へ社僧が派遣されており、天海は東照宮を中心に宗教界に君臨しようとしていたのではないかとみられている。
 そして近年、天海=明智光秀ではないかとの説が浮上している。光秀も天海と同様、いつ生まれたのか定かではない。文献によりまちまちで、「生年不詳」「享禄元年(1528年)」「大永6年(1526年)」などの説がある。出身地も岐阜県恵那郡明智町、岐阜県可児市と2つの説が挙げられており、確定していない。
  光秀は諸国遍歴後、1558年織田信長に仕え、1571年に近江国坂本城主となった。1582年に信長の宿所・本能寺を急襲し信長を自刃させる。そして山崎の戦で豊臣秀吉に敗れた光秀は、現在の京都府伏見区にあたる小栗栖(おぐるす)で農民に竹槍で突かれて死んだとされている。
  光秀がなぜ信長を討ったのかなどは謎に満ふれ、さらに「本能寺の変」同様、光秀最大の謎がその「死」についてである。江戸時代に書かれた「絵本太閤記」を前提に類推すると、光秀は真っ暗闇の中、総勢30人ほどの前から6番目あたりにいた。その横腹に百姓が見事に槍を刺したとされているが、光秀の前後を護衛していた武将は光秀が刺されたことになぜ気付かなかったのか、土中から発見された生首を光秀と断定した根拠が定かではないなどいくつかの疑問が残る。これを突き詰めると、光秀不死説が浮上する。行方をくらました光秀は数年後、天海となって再び、表舞台に姿を現したとする説である。
 では天海=光秀とした場合、符合する部分はどれくらいあるのか。また矛盾点はないのか。1.光秀が小栗栖で姿をくらましたとき、彼はおよそ57歳ころといわれている。仮にそうだとすると光秀は1525年生まれとなる。天海は1643年に110歳以上で死んだと推測されているが、1525年に誕生し1643年に亡くなったとすれば118歳でほぼ一致する。2.天海の諡号である慈眼大師は、光秀の木像と位牌が安置されている京都府周山村(京北町)の慈眼寺にちなんだものである。3.天海とゆかりの深い日光に明智平という場所があり、日光の建物の至る所に明智の紋がある。4.家光の乳母は春日局だが、彼女は光秀の姪でもあった。5.比叡山の松禅寺には光秀が亡くなったとされる年から33年後に光秀が寄進したという意味の言葉が刻まれた石灯篭がある。
 ただしここで新たな疑問が出てくる。天海=光秀なら、なぜ家康は宿敵、信長の重臣だった光秀をわざわざ迎え入れたのか。しかしその答えは「本能寺の変は家康と光秀の2人が共謀して起こした」とすれば解決する。光秀は自分より秀吉に信頼を置くようになった信長に不満や不信感を募らせ、信長と距離を置くようになった。そのところに家康が素早く眼をつけ手を組んだというわけである。とはいえ信長が死んでも織田軍団がそれほど簡単に破滅するはずがない。だから逆に自分の首が危うくなると考えた家康は、光秀が単独で信長を殺害したことにした。その光秀も死んですべては終わったと見せかけたが、実は天海として徳川家にブレーンとして迎え入れられたというのである。果たして本当に天海は光秀なのか。