一休宗純

 一休さんで知られる一休宗純は室町時代の禅僧(臨済宗)で京都で生まれた。父は南朝方から神器を受け取り南北朝統一の象徴となった北朝の後小松天皇で、母は藤原一族の日野中納言の娘・伊予の局(つぼね)で、由緒のある家系の子であった。このように一休は高貴な血筋の人物である。

 母・伊予の局が一休を身篭ると、当時は南北朝の混乱期で、皇位の継承権を妬んだ人たちの謀略で「母が南朝と通じている」と誹謗され宮廷を追われた。そのため一休は南北統一から2年目の元旦に嵯峨の民家でひっそり誕生している。母は一休が政争に巻き込まれないように、一休が5歳になると臨済宗・安国寺に入れ出家させた。
  一休の幼名は千菊丸で、出家して「周建」と名乗るが、通称は「一休さん」である。一休はやがて禅の坊さんになるが、幼少時より頭の回転が速く成長と共に才気にとみ「とんち」で大人を負かした。そのとんち伝説が現在も語り継がれている。数々のとんちは臨済宗・安国寺にいるときのものである。


一休の「とんち」
 一休の「とんち」の中でも「このはし(橋)渡るべからず」は有名である。一休は「世間の束縛やくだらない慣習は無視して、堂々と橋の真ん中を渡れ」と、応援の意味を込めたのである。このとんちが生まれたのは8歳の時だった。現在では小学2年生でこの頭の回転なので利発とも生意気ともいえた。

 また将軍・足利義満は一休を邸に招き、困らせてやろうと食事に魚を出した。一休が美味しそうに食べるので「僧が魚を食べていいのか」と義満が問いただすと「喉はただの道で、八百屋でも魚屋でも何でも通します」と返事をした。義満は「ならば、この刀も通して見よ」と刀を突き出した。一休は「道には関所がございます。この口がそうです。この怪しい奴め。通ることまかりならぬ」そう答えて平然としていた。義満に屏風の虎の捕縛を命じられると「では屏風から追い出して下さい」と述べた。

 小僧時代からとんちに長けていた一休は、あるとき高いところにあるろうそくを息で吹き消した。師匠のお坊さんから「どうやって消したのか」ときかれ「吹き消した」と答えると「ろうそくの向こうの仏さまに息をかけるとは何事か」と叱られてしまった。しばらくして一休が仏さまに背をむけてお経を読んでいるので、師匠が何ごとかと尋ねると「息がかかっては申し訳ない」と答えた。

 一休の生涯を見ていると、ただのトンチの披露ではなく、世間の束縛やくだらない慣習は無視するまさに反逆のカリスマだった。


 自殺未遂
 安国寺で11年間の修行をすると、安国寺を出て学問・徳に優れた西金寺の謙翁和尚の弟子になる。謙翁は自身の名前・宗為から一字を一休に譲り、一休に「宗純」の法名を与えた。一休はこの謙翁和尚を心底から慕っており、20歳の時に謙翁和尚が他界すると、師匠の死に心を痛め、悲嘆のあまり来世で会おうとして瀬田川で入水自殺を図っている。

 一休は運良く助けられ、翌年から滋賀・堅田祥瑞庵の華叟(かそう)禅師の弟子となった。華叟は俗化した都の宗教界に閉口し、大津に庵を結んでいた。志は高かったが餓死しかねないほど貧しく、一休は内職をして家計を支えた。

 24歳時、盲目の歌方の平家物語を聞いて無常を感じ「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰る一休み 雨ふれば降れ 風ふかば吹け」と詠んだ。漏とは煩悩の意味で、この歌は「人生は煩悩溢れており、この世から来世までのほんの一休みの出来事である。雨が降ろうが、風が吹こうが大したことない」という意味である。

 これを聞いた華叟は歌の中から「一休」の号を授け、その後「一休」と呼ばれるようになる。

 26歳時の深夜、一休が琵琶湖岸の船上で座禅をしていると、カラスの鳴く声を暗闇に聞いて「カラスは見えなくてもそこにいる。仏もまた見えなくとも心の中にある」と悟りに至った。さらに後に、一休は「禅僧は悟りへの欲求さえも捨てるべきで、悟る必要はない」と語っている。

 華叟は一休を後継者として、印可(悟りの証明書)を授けようとしたが、権威を否定する一休はこれを頑として受け取らなかった。28歳時、大徳寺7世の追悼法要にボロ布をまとって参列し、この頃から奇人和尚と噂された。

 一休が辿り着いた境地が「ありのままに生きる」ことだった。 これから一休さんの破天荒が始まる。

 大切な印が押された証明書や由来ある文書を火中に投じ、僧侶には禁じられていた肉や酒を摂取し、男色はもとより女犯を行った。それでも人々には親しまれ「老若男女はもちろん、雀までなついた」と語られるほどであった。

 34歳、師の華叟が没し、これをきっかけに一休は庵から出て庶民の間に飛び込んで行く。1人でも多くの人々に仏教の教理を易しく説くためであった。そのため一休は一ヶ所に留まらず、一蓑一笠の姿で近畿一円を転々として説法して回った。38歳時には崩御する直前の実父・後小松天皇と初めて対面している。
 43歳時、17年前の印可状がまだ保管されていたことを知ると、一休は印可状を火中に焼き捨てた。53歳時には二度目の自殺未遂を起こしている。大徳寺の派閥争いから僧侶数人が投獄され、自殺者まで出たことに心を痛め、堕落した僧界に失望して山へ入って断食死を試みたのである。この時は天皇自らの説得を受けて自殺を思い留まった。

 

奇行伝説
 一休は高僧とは思えない風変わりな格好をして街を歩きまわると、いつも美しい朱塗りの鞘に入った刀を持っていた。ある時不思議に思った人が「なぜ刀を持っているか」と尋ねると、一休が抜いた刀は偽物の木刀であった。

 一休は「近頃の偉い僧侶どもはこれと同じ、派手な袈裟を着て外見は立派だが中身はこの通り何の役にもたたぬ。飾っておくしか使い道はござらん」と言い放った。外面を飾ることにしか興味のない当時の世相を風刺したのである。

 またある年のお正月には、一休は杖の頭にドクロを載せて汚い法衣で「ご用心、ご用心」「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」(元旦が来る度にあの世が近づいているのをお忘れなく)と歌いながら歩いた。

 このような戒律や形式に囚われない人間臭い生き方は民衆の共感を呼んだ。

 高価な法衣を着て大伽藍の奥に鎮座し、貴族のような扱いを受けていた当時の高僧たち。印可状を乱発し金さえ積めば高僧と呼ばれる腐敗した宗教界を一休は痛烈に批判した。禅僧でありながら酒を呑み、女性を愛し、肉を食し、頭も剃らず、戒律なんかどこ吹く風であった。一貫して権威に反発し、弱者の側に立ち、民衆と共に生き、笑い、泣いた。庶民と一緒になって貧困や飢餓にあえぎ、贅沢に溺れる権力者や、人々から偶像視され得意になり、地位を上げることしか眼中にない宗教者たちを口を極めて痛罵した。
  一休宗純には面白いエピソードがたくさんある。その破天荒っぷりは「大うつけ」といわれた織田信長以上である。一休の生き方は破天荒で自由奔放だった。仏教の戒律で禁止とされていたことはほとんどやってのけた。

 

一休の歌
 禅の民衆化に大きく貢献した一休は仏法を説くだけでなく、歌を詠み書画を描く風狂の人でもあった。一休の自戒集・狂雲集・仏鬼軍には戒律を守る真面目な僧侶にとっては、読めば読むほど恐ろしいことが書かれている。続狂雲集には「淫」「美人」といった言葉が30回以上も登場する。このような禅僧はいないが、中には美しい歌も多い。
  ・白露の おのが姿は 其のままに もみじにおける くれないの露(白露はありのままの自分でいながら紅葉の上では紅の露になる)
  ・持戒は驢(ろば)となり 破戒は人となる

(頑固に戒律を守るのは何も考えず使役されるロバと同じ。戒律を破って初めて人間になる)
  ・生まれては死ぬるなりけり おしなべて 釈迦も達磨も猫も杓子も(世の中のものは全て生まれて死んでゆく、釈迦も達磨も何もかも)
  ・釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな(釈迦という悪戯者が世に生まれて皆を迷わしたよ)
  ・花を見よ 色香も共に 散り果てて 心無くても 春は来にけり

(花から色も香りも消えてもちゃんと春は来るんだよ)
   ・秋風一夜百千年

(こうして秋風の中で貴女と過ごす一夜は、私にとって百年にも千年の歳月にも値するものです)

 その他

 花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖 はもみじ、花はみよしの
    女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む
    世の中は起きて箱して(糞して)寝て食って後は死ぬを待つばかりなり
    南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ
  一休は弟子・新右衛門に「仏法とは何ですか」と訊かれると、「仏法は 鍋の月代(さかやき) 石の髭 絵にかく竹のともずれの声」(石のヒゲや絵の中の竹の葉ずれの音と同じで、そんなの見たことも聞いたこともないわい)と答えた。

 

妙勝寺再興

 62歳時、200年前に尊敬する大応国師(臨済宗の高僧)が創建し、その後兵火に焼かれ荒廃していた妙勝寺を、一休は恩返しの為にと約20年以上かけて修復し新たに酬恩庵として再興した。以後、この庵が一休の活動の中心地となり、これを知った多くの文化人が一休を慕って訪れた。

 67歳時、浄土真宗の中興の祖・蓮如が営む親鸞200回忌に参列した。一休は19歳年下の蓮如と、宗派の違いや年の差を超えて深く親交を結んでいた。互いの思想を互いに敬意を払い、教えを学び合い一休は次の歌を残している。

 「分け登るふもとの道は多けれど同じ高嶺の月をこそ見れ」(真理の山に向かう道は違うけれど、同じ月を我らは見ているのう)。他宗と見れば排斥しあう風潮の中で、一休の器の大きさが感じられる。

 一休が73歳時、京都で応仁の乱が勃発した。一休は戦火を避けて奈良、大阪へと逃れ、翌年、大阪の摂津の住吉薬師堂で鼓を打つ盲目の美人旅芸人・森侍者(しんじしゃ)に出会う。森侍者は20代後半と若く、2人は50歳の年齢差があったが、一休は詩集「狂雲集」に「その美しいエクボの寝顔を見ると、腸(はらわた)もはちぎれんばかり…楊貴妃かくあらん」と刻むほどベタ惚れし、森侍者もまた一休の気持を受け入れ、翌年から一休が他界するまで10年間、2人は酬恩庵に戻って共に生活を送った。
 長年にわたって権力と距離を置き、野僧として清貧生活を送っていた一休だが、80歳時、戦乱で炎上した大徳寺復興の為に天皇の勅命で大徳寺の第47代住職(住持)にされてしまう。「さて再建費用をどうしたものか」、一休が向かったのは豪商が集まる堺であった。貿易が盛んで自由な空気の堺では、破戒僧一休の人気は絶大だった。「一休和尚に頼まれて、どうして断わることが出来ようか」。商人だけでなく、武士、茶人、庶民までが我れ先にと寄進してくれ、莫大な資金が集まった。5年後、大徳寺法堂が落成し、一休は見事に周囲の期待に応えた。

 

 

侘び茶

 侘び茶の創始者で茶室を考案した茶道の祖、堺の豪商・村田珠光(じゅこう)は一休の禅弟子である。もともと村田珠光は座禅の時の眠気防止に一休から茶を薦められたのである。座禅を繰り返すうちに、茶も禅も同じであるとして「茶禅一味」の悟りに達した。村田珠光が始めた「侘び茶」は、従来の派手で形式中心の「大名茶」とは異なるもので、小さな四帖半の茶室の中では身分に関係なく、そこにあるのは亭主のもてなしの心を受ける客だけであり、この心がまさに仏だとした。「仏は心の中にある」、村田珠光は仏の教えをお経からではなく、茶の湯から学ぶことになる。茶道のもてなしの心は武野紹鴎(じょうおう)を経て千利休へと受け継がれてゆく。

 一休は戒律や形式に捉われない人間臭さから、その権力に追従しない自由奔放な生き方は庶民の間で生き仏と慕われた。
   
仏さまにも背を向けた
  一休は死の前年に等身大の坐像を弟子に彫らせ、そこへ髪や髭を植え付けた。これは髪や髭のある像を残すことで「禅僧は髪を剃るもの」といったつまらない形式に捉われず精神を大切にしろという意味を残した。

 一休は「戒律なんて守らないほうが人間らしくて良い」と言って奇行という手段で世間に真実を訴え続けていたのである。

 辞世の句は「淡々として60年、末期の糞をさらして梵天(仏法の守護神)に捧ぐ」で、この破天荒な一休さんの臨終の言葉は「死にとうない」だった。悟りを得た高僧とは到底思えないが、一休らしい言葉で87歳の人生を酬恩庵(京都府京田辺市)で締めくくった。

 一休は他界する直前「この先、どうしても手に負えぬ深刻な事態が起きたら、この手紙を開けなさい」と弟子たちに1通の手紙を残した。数年後、弟子たちが今こそ師の知恵が必要という重大な局面が訪れ、固唾を呑んで開封した弟子たちの目に映ったのは「大丈夫。心配するな、何とかなる」であった。

 現在、酬恩庵は一休寺の名で親しまれ、一休が死の前年に建てた墓(慈揚塔)が境内にある。しかしながら一休が天皇の息子であったことから、その敷地だけは宮内庁の管轄にあり内部の墓は見ることができない。常に庶民と共に生き抜いた一休としては庶民から隔離されているのは不本意であろうが、菊の紋章の門から先は立入禁止となっている。
 境内には小僧の一休像もある。こちらは参拝者が自由に触れ、誰でも頭を撫でられる、目を細めないと直視できないほど頭部が光り輝いている。手にホウキを持っているのは、世の中の汚れを一掃して明るい世界にしたいとの願いが込められている。