高山彦九郎

 高山彦九郎は戦前の人たちにとっては馴染み深いの名前であるが、戦後ではその名を知る者は少ないであろう。もし知っていても「寛政の3奇人」のうちの1人というぐらいの認識であろう。(寛政の3奇人のあとの2人は林子平と蒲生君平)。
 現代では奇人=ヘンな人という印象が強いが、その当時は奇人とは「優れている」「人とは異なる個性を持つ人」という良い意味である。彦九郎は「超個性的な人」という意味で確かに「奇人」であった。

 1747年5月、高山彦九郎は上野(群馬県)の豪農・高山良左衛門正教の二男として生まれている。彦九郎は教育熱心な祖母から自分の祖先が新田義貞に仕えた新田十六騎の一人である高山遠江守だと聞かされ、彦九郎13歳のとき南北朝時代の軍記物語「太平記」を読んだのをきっかけに尊王思想に目覚めた。
 後醍醐天皇が親政の世を作り上げたが、足利尊氏の離反で天皇は吉野へ逃れ、足利尊氏は京に別の天皇を立て、朝廷は南北に分裂して果てしない抗争の結果、新田義貞ら南朝の臣は道半ばに倒れていく。「新田義貞をはじめ帝に尽くした忠臣が、なぜ倒れねばならないのか」。このような憤慨から、18歳になった彦九郎は置き手紙を残して京都へ向かった。
 京・三条大橋の手前まで来たとき、彦九郎は通りかかった地元の人に京都御所の方角を聞くと突然、地面にひれ伏して感激のあまり号泣し、「草莽の臣、高山彦九郎」と何度も叫んだ。彦九郎の周りには野次馬が何重にも取り囲み、中には指さして笑う姿もいたが、彦九郎はまったく意に介さなかった。草莽の臣とは、国の大事のとき国のために行動する民間人のことで、幕末になるとこの思想は重要な意味を持つことになる。この後、彦九郎は全国を行脚し、、前野良沢・大槻玄沢・林子平・藤田幽谷・上杉鷹山・広瀬淡窓・蒲池崑山など多くの人々と交友し各地で遊歴しながら勤皇論を説いてて多くの思想家・文筆家たちと交流していき、ある意味で狂信的ともとれる尊皇思想はいよいよ強固なものとなっていった。

 京都市の金閣寺あたりの一角に建つ足利家の菩提寺・等持院から「ビシッ、ビシッ」といった音が何度も響き渡たった。そして間に聞こえる男の叫び声は不気味だった。「この国賊が!」と大声を張り上げながら境内にある足利尊氏の墓に鞭を打っているのは彦九郎だった。新田義貞の家臣の家柄だった高山家からすれば尊氏は先祖の敵。さらに後醍醐帝をないがしろにした尊氏が許せなかった。
 南朝に対する尊氏の罪状をひとつ、ひとつ挙げては300回尊氏の墓に向かって力いっぱいに鞭を打った。このときに使われた鞭は箒尻(ほうきじり)と呼ばれる刑具で、約60センチの2本の割竹を麻の糸やこよりで補強し、持つ所に革を巻いている。罪人への拷問や「たたき」などの刑罰に使われたもので、彦九郎にとって尊氏は天下の大罪人だったのだろう。
 この後、各地を巡って尊王思想を説いては、自説に磨きをかける。京では彦九郎は岩倉具選宅に寄留し、にめでたい前兆とされる「奇瑞の亀」を献上したことにより光格天皇にも拝謁した。その感激を詠った歌は「我を我としろしめすかやすべらぎの玉のみ声のかかる嬉しさ」で、愛国百人一首にもとられており名高い。彦九郎にとっては天にも昇るような気持ちだっただろう。ますます尊王の意を強くするが、当時は光格天皇が父・典仁親王に太上天皇の尊号を贈る問題で朝廷と幕府の対立が深まっていた。
 親王が摂関家より格下とされた当時の定めに不満を持つ天皇が父へ尊号の贈呈を幕府に願うも、幕府は「皇位に就かずに太上天皇になった例はない」と保留する。
 この事実、悪を徹底的に憎み、善は涙を流すほどに喜んだ真っすぐな気性な彦九郎が知ると、その年の7月19日、あわただしく九州へ向かう。尊王派の大藩・薩摩に頼ろうとしたが、薩摩は彦九郎の話に耳を傾けなかった。また尊号一件と呼ばれる事件で公家中山愛親の知遇を得たことが老中の松平定信など幕府の警戒を呼ぶ。幕府に警戒された彦九郎は捕らえられ、いったんは釈放になるも警戒の目からは逃れることはできなかった。

 そんな中、彦九郎は友人である筑後・久留米の森嘉膳宅で自刀して果てる。享年46。腹に刀を突き刺して苦しむ中で強い口調で森に自説を語り、その後に来た役人が理由を問いただすと、ただ「気が触れただけだ」と森嘉膳はいった。死後、友人や知人に自殺の理由を聞くも、わからなかったという。ただ尊号の件が大きく関わっているように思える。

 彦九郎は長年にわたる日記を残しており、吉田松陰はじめ、幕末の志士と呼ばれる人々に多くの影響を与えている。また二宮尊徳や楠木正成と並んで戦前の修身教育で取り上げられた人物である。
 京阪電鉄の鴨川にかかる三条大橋駅の前に土下座する侍の銅像がある。京都に住んでいる方ならよくご存知のこの土下座の像こそが高山彦九郎である。この像の正式名称は「高山彦九郎先生皇居望拝趾」で、京都御所に向かって「望拝」している姿なのである。現代の土下座は謝罪の意味が強くなっているが、もともと「土下座」は土の上に座り伏して敬仰の礼をあらわすものであった。
 彦九郎は生涯に5回京都を訪れ、そのたびに三条大橋の上から御所を拝み「草莽の臣、高山彦九郎」と叫んだ。「草莽の臣」とは民間人ながら国に身を捧げる臣下という意味です。入京前に京都御所を望拝する姿を表している。

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