細川勝元

 細川氏はもとは清和源氏の足利氏の支流で、初代の義秀が三河国額田郡細川郷(現在の岡崎市)に居住したことから地名を氏とした。

 細川京兆家は足利尊氏に従って軍功があり、特に六代・頼春は尊氏の側近となり、阿波・備後の守護に任命されている、以後、細川氏は阿波、讃岐、摂津、丹波など畿内周辺と四国、7~8カ国の守護職となり、惣領家は室町幕府の三管領(細川氏、斯波氏、畠山氏)の筆頭となった。細川氏は三管領家のひとつとして、室町幕府の中枢を担う由緒ある家柄である。

 細川勝元は1442年、父が死去したため13歳で京兆家11代当主として家督を継承した。このとき室町幕府の第七代将軍・足利義勝から偏諱を受けて勝元と名乗り、叔父の細川持賢に後見を受けて、摂津、丹波、讃岐、土佐の守護となった。

 1445年、細川勝元は畠山持国に代わって16歳で管領職になると、以後3度にわたり通算23年間も管領職を歴任した。細川勝元は名門出身の若き陰謀家で、室町幕政に影響力を及ぼし続けた。この細川勝元は京を焦土と化した不毛の戦いである「応仁の乱」の東軍の総大将である。

 山名氏は同じ清和源氏だが、新田氏の流れをくむ家柄である。南北朝の動乱では足利尊氏についたことから、室町政権では山陰地方で勢力を伸ばしていた。山名氏は侍所の長官をつとめる家柄「四職」の家であり、嘉吉の乱では赤松氏を討伐して武功をあげ、その功績により山名宗全の時代には8ヶ国の守護をつとめるほどになった。

 

細川勝元の誕生

 細川勝元は三管領の一つである、細川氏嫡流の父・細川持之の嫡男として生まれた。幼名は聡明丸、通称は六郎である。正室は山名宗全の娘の春林寺殿である。勝元は山名宗全の娘(養女)を正室に迎えており、宗全は勝元にとって義理父でありは親子ほどの年の差があった。ふたりは応仁の乱を起こす東軍西軍の大将であるが、はじめから勝元と宗全の仲が悪かったわけではない。

 たとえば畠山氏のお家騒動では、畠山持国の力を削ぐため、細川勝元と山名宗全は協調路線をとっている。また赤松氏再興問題で宗全が将軍・義政の勘気を被ったときには、勝元がとりなして山名追討を撤回させている。
  細川勝元は当初、山名宗全(持豊)の女婿となることで、宗全と共同して政敵・畠山持国を退け、細川氏の勢力維持を図り、幕政の実権を掌握した。しかし「嘉吉の乱」(1441年)で没落した赤松氏の再興運動が起こると、細川勝元は赤松氏を支援したため、赤松氏と敵対関係にある宗全と対立することになる。また勝元は畠山政長と畠山義就による畠山氏の家督争いには政長派を支持し、斯波義廉と斯波義敏の家督争いには義敏派を支持するなど、山名宗全とことごとく対立した。

 さらには8代将軍・足利義政の後継争いにおいて、細川勝元は足利義視を支持。山名宗全は義尚とその母・日野富子に与したため、両派の対立は一層激化した。
  これらはすべて名門出身の若き陰謀家・細川勝元が、山名宗全の勢力拡大を抑えるため、意識的に取ったことだった。さらにこの対立が、やがて有力守護大名を巻き込み「応仁の乱」を引き起こすことになる。

 1467年から11年間にわたる「応仁の乱」により、京の都は廃墟となってしまう。山名宗全は細川勝元にとって義理の父親で、しかも宗全は26歳年上であった。

 細川勝元は陰謀家あるいは策謀家の面をみせつが、禅宗に帰依し京都に龍安寺、丹波国に龍興寺を建立している。また、和歌・絵画などを嗜む文化人でもあった。医術を研究して医書「霊蘭集」を著すなど多才だった。

 

勝元と宗全

 勝元は宗全を完全に信頼していなかった。斯波氏で家督争いがおこると、宗全が娘婿の斯波義廉を支持したのに対して、勝元は対立する斯波義敏を支持している。また宗全が強行に反対する赤松氏の再興問題では、赤松政則を加賀半国の守護にして、山名氏の勢力拡大を牽制している。これには舅である宗全も面白いはずはなかった。宗全は勘合貿易の利害で勝元と敵対している周防長門の守護・大内政弘を支援し、両者の間には少しずつ溝が生まれてきた。

 この細川・山名の関係を見透かしたのが、将軍義政の側近である伊勢貞親と季瓊真蘂で、将軍権力の強化に向けて暗躍しはじめる。まず1463年、義政の母・日野重子の死去にともない、大赦として失脚していた畠山義就と斯波義敏を赦免し、ふたりを自分の勢力に取り込もうとした。これにより河内に逼塞していた畠山義就は上洛の動きをみせ、将軍・義政は斯波義廉の家督を剥奪して義敏に与えた。さらに細川勝元と敵対して罪を得ていた大内政弘をも赦免し、山名との戦いを有利にした。さらに伊勢貞親は将軍後継の足利義視を廃嫡し、新たに日野富子と義政の子・義尚を後継にすえようとした。義政に義視の謀反を讒言し、将軍・義政も義視の誅殺を決意した。
  しかしこの動きを察知した義視は山名宗全と細川勝元に助けを求め、勝元と宗全は共通の敵を前に共闘し、諸大名の総意として将軍・義政に反発した。かくして義政は伊勢貞親、季瓊真蘂、斯波義敏らを追放する。これが世に言う「文正の政変」である。この政変により将軍・足利義政の権力は失墜し、細川勝元と山名宗全は「大名頭」として、幕府政治を取り仕切る体制ができあがった。だが「両雄並び立たず」は歴史の必然であり、勝元と宗全の激突は次第に避けがたいものになっていく。


応仁の乱の勃発
  文正の政変により側近を失った将軍・義政の政権基盤は弱体化した。この時期、力を持ったのは後継とされた弟の義視であった。とくに山名宗全は将軍・義政を排し、義視の将軍就任を望んだ。だが義政は義視に敵意がないことを表明すると、細川勝元、畠山政長は将軍・義政を支持し、その後も幕政主導を目論んだ。
  これに山名宗全は不満をつのらせた。そこで宗全が目をつけたのが畠山政長との政争に敗れて失脚していた畠山義就だった。義就は戦いは強く、娘婿の斯波義廉と通じている。義就を復権させ斯波義廉を管領につければ、宗全と勝元の立場は逆転するはずであった。かくして宗全は義就と提携し、応仁の乱の端緒となる御霊合戦が始まった。
    朝倉孝景らの援軍が到着する前に畠山義就は政長を破っており、義就は単独でも政長に勝利できた。孝景は敗走する政長を追撃しただけだった。一対一の戦いで政長が敗れたのならば、敗れた結果を細川勝元も受け入れただろうが、山名宗全は義就の勝利を確実にするために加勢したことが、細川勝元の怒りをよんだ。

 細川勝元はこの戦で盟友の畠山政長を見捨てる結果となってしまい面子をつぶされてしまった。勝元としてはこの屈辱をどうしても晴らしたく、勝元は自派の諸大名に呼びかけ、軍勢を京都に集結させた。これに対して宗全も軍勢を動員したのである。

 細川勝元は細川邸と花の御所を中心とした京都北部に軍勢をかまえ、宗全は堀川西岸の山名邸と京都中央の斯波義廉の屋敷を拠点に陣を敷いた。軍勢の数は東軍16万、西軍11万で、ついに戦端が開かれた。
  戦闘は京都の各所で丸2日にわたって繰り広げられたが決着がつかず、将軍・義政の停戦命令で両軍はいったんは矛を収めた。ただ東軍は花の御所を押さえており、勝元は将軍・義政にせまり、将軍旗を得ることに成功し首尾よく官軍となった。

 大義名分を得た東軍は有利となり、西軍の諸将から降伏を申し出るものが続出した。だが畠山義就、朝倉孝景の抵抗はすさまじく決定的な勝利を収められずにいた。そこで山名宗全は大内政弘に出陣を要請。大内軍の東進により、内乱はいよいよ全国規模に拡大していった。

いつの時代も人は同じことを繰り返す
  1473年3月18日に山名宗全が、同年5月11日には細川勝元が死去した。長い戦いで厭戦気分が続く中、両軍の総帥の死去をきっかけに、翌年4月3日、後を継いだ細川政元と山名持豊は和睦した。だがもつれにもつれた両軍の利害関係者の糸は絡まったままで、惰性的な争いは勝敗がつかずに続いていくことになる。
  東西数十万の兵が11年にも渡って内乱を繰り広げた応仁の乱、この不毛な戦いの直接の原因は新興勢力・山名氏が覇権勢力・細川氏を中心とした幕府秩序に挑戦した戦いといえる。だが山名宗全は最初から細川勝元との全面戦争を望んだわけではなく、畠山義就と政長の間の局地戦である御霊合戦に軍事介入し、義就を勝たせるという以上の目標を持っていなかった。

 勝元の反撃にしても、山名氏の打倒という積極的・攻撃的なものではなく、同盟者の政長を見捨てれば大名として面目を失うという危機感からやむなく報復に出たのである。
 要するに幕府内での権力闘争、派閥争いに勝つことしか考えてなかったのである。そうこうしているうちに戦は長引き、室町幕府の権威は失墜、参戦大名たちは疲弊没落し、やがて戦国大名が台頭し、細川も山名も、畠山も斯波も、そして足利幕府も下克上の波に跡形もなく飲まれてしまうことになる。
  いつの時代も人は同じようなことを繰り返すが、これは人間には権力欲というものがあるからである。まさに、人世虚しい応仁の乱である。この未曾有の大乱の原因は、将軍・足利義政の無為無策があった。

 

細川氏

 細川氏嫡流は京兆家と呼ばれている。ガラシャ夫人の夫・細川忠興は細川家の一族であるが、嫡流の京兆家ではなく和泉上守護家と呼ばれる和泉国の守護を務めた一族である。なお総理大臣になった細川護煕は細川忠興の子孫であるが、途中で養子が入っているため細川ガラシャ、その父・明智光秀の子孫ではない。