加藤清正

 加藤清正と言えば羽柴秀吉の武道派武将として「賤ヶ岳の七本槍」のひとりとして、また朝鮮出兵時の「虎退治の逸話」を持ち、熊本城の城主であったことが有名である。秀吉の出世とともに家臣として各地を転戦して武功を挙げた。秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ケ原の戦い後、肥後熊本藩の初代藩主となった。

 

加藤清正の生まれ

 加藤清正は秀吉の出生地に極めて近い名古屋市中村区に生まれた。現在「秀吉清正記念館がある場所である。それは秀吉の母(大政所)と加藤清正の母(伊都)は25歳ほど離れているが従姉妹同士であったからである。1562年6月24日に生まれ、珍しいことに1611年の同日に死去している。父は鍛冶屋の加藤清忠で、父は清正が幼いときに死去している。幼名は夜叉若で元服後に虎之助清正と名乗った。

 

加藤清正の闘い

 秀吉が出世し身辺に人手が必要になった頃、加藤清正は12才で召し出されて仕え始めた。近江長浜城主となった秀吉の小姓となり170石を与えられている。山崎の戦いなど、秀吉が関白になってからも主な戦いには必ず従軍しており、心から秀吉についていこうとしていたことが分かる。

 清正は秀吉の遠戚として将来を期待され、秀吉に可愛がられた。清正もこれに応え秀吉に忠義を尽くした。中国攻めにも参加し、1582年に本能寺の変が起こると、秀吉に従って山崎の合戦に参加した。翌年の賤ヶ岳の戦いでは敵将・山路正国を討ち取る武功を挙げ、秀吉から「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3000石の所領を与えられた。 

 1585年に秀吉が関白に就任すると同時に従五位下の主計頭に叙任、1586年からは秀吉の九州征伐に従い肥後国領主となった佐々成政が失政により改易されると、これに替わって肥後北半国19万5000石を与えられ熊本城を居城とした。

 

加藤清正の容貌
 清正は身長六尺三はあるほどの大男で、清正の乗馬・帝釈栗毛は普通の馬は丈が五尺であるが六尺三寸もあった。清正は常にこれに乗って江戸市中を往来した。清正はまた長いあごひげを伸ばしていたので、いやがうえにも目立っていた。

 さらに清正の長烏帽子(ながえぼし)の冑は六尺四寸もあり堂々たる威容があった。もともと甲冑は敵の攻撃から自分の身を守るだけでなく、敵を威嚇する目的があったことから、清正はこのへんの効果を考えて大きな冑をこしらえたのである。

熊本城
 加藤清正といえば熊本城の築城で有名だが、その熊本に来たのは「秀吉様はいずれ唐を攻めるらしいから、先鋒でお役に立つためにはより大陸に近いところにいなければ」というものだった。

 熊本城築城や土木工事をする際には農閑期を狙い、きちんと賃金を払うなど民衆に気を遣っていた。清正は農民の出ではないが、身分的には近かったので「農民を一年中こちらの都合でつきあわせてはいけない」ということがわかっていた。

 肥後において清正は熊本城以外にも、堤防や河川の改修について優れた治績を残している。清正というと土木・治水事業をまず想像するが、清正は田麦を特産品化し南蛮貿易の決済に充てるなど、治水事業同様、商業政策でも優れた手腕を発揮した。

 1589年、小西行長領の天草で一揆が起こると、小西行長の説得を無視して出兵を強行し瞬く間に鎮圧している。清正はその風貌にふさわしい武闘派の片鱗をみせた。

 清正が熊本にいたのはほんの15年ほどで、仕事ができて思いやりもあるとなれば、今も「清正公」(せいしょこ)さんと呼ばれ親しまれているのも頷ける。

豊臣と徳川の狭間
 予想通り唐入り(朝鮮の役)でも出兵を命じられ、戦でも築城でも大活躍した。終盤にはかなり苦しい戦いをしたが、餓死者病死者が頻発していた中で無事帰ってきた。それどころかセロリを持って帰ってきた。よほどの気に入ったのだろうか。

 しかし帰国し秀吉死去の後は秀吉子飼いという立場で苦しめられることになります。

 

関ヶ原の戦い

 関が原の戦いでは朝鮮の役の最中にもめてい不仲になった石田三成憎さで徳川方についたが、その後豊臣家との間で板ばさみになってしまう。家康の命で名古屋城を建てたときには「なんでタヌキジジイの息子(尾張藩初代・徳川義直)の城を建てるのだ」と愚痴る福島正則に対し「イヤなら国元に帰って戦支度でもしてこい」と諭した。もう豊臣家に実権が戻らないことはわかっていたのである。それでもできるだけ豊臣家の家格を高いままにしてもらうべく、家康と秀頼の間に立って会見を促したりした。
 関ケ原の戦いの後、西軍に味方した小西行長が没落し、徳川家の家臣となった加藤清正が肥後一国52万石の熊本城主となった。しかし清正の子、忠広のとき、徳川三代将軍家光の弟、駿河大納言忠長の失脚事件に連座し、1632年に加藤家は領地を没収され、忠広は出羽庄内(山形県櫛引町)に流罪となった。そこで細川忠利が豊前小倉39万9000石から加増され入封し、以後、熊本藩は細川家による治世が続くことになった。

 

加藤清正の死

 秀頼と家康の会見に立ち会った帰りの船で清正は突如発病し、帰らぬ人になった。あまりにも突然だったため遺言や辞世の句はなく毒殺説がある。そもそも家康と秀頼の会見は京都・二条城で行われていた。死因については不明であるが、清正は秀吉子飼いの中では特に内政が得意な人でしたので、地元民からは今も昔も絶大な人気を誇っている。