加藤清正

 加藤清正といえば豊臣秀吉の武道派・武将として有名である。賤ヶ岳の闘いでは「賤ヶ岳の七本槍」の1人として、また朝鮮出兵時には「虎退治」の逸話を持ち、さらには肥後熊本藩・初代藩主でもある。豊臣秀吉の子飼いの家臣として、秀吉の出世とともに各地を転戦して武功を挙げたが、秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ケ原の戦いの後には肥後・熊本藩の初代藩主となった。

 加藤清正は石田三成と不仲で武断派だったことから猪突猛進型の猛勇と思われがちだが、意外に知的な武将であった。陰謀が渦巻く戦国の世において望まぬ骨肉の闘争に流血した時もあったが、その息苦しく緊張した時代に「人の価値は知恵や才覚ではなく、天地に恥じぬ生き方をしてこそ人の一生は意味あるもの」と堂々としていた。

 加藤清正は、終生、豊臣家への報恩(ほうおん)と忠誠を貫いたが、意外に内政が得意で、地元民からは今でも絶大な人気を得ている。情義の武将・加藤清正であったが、最期はナゾの死を遂げている。

 

加藤清正の生まれ

 加藤清正は現在の名古屋市中村区で生まれている。誕生の地は「秀吉清正記念館」がある場所で、秀吉の出生地に極めて近い所にあたる。それは秀吉の母(大政所)と加藤清正の母(伊都)は25ほど歳は離れていたが姉妹同士だったからである。つまり秀吉にとって加藤清正は甥っ子の関係にあった。

 1562年6月24日に生まれ、珍しいことに1611年6月24日の誕生日に死去している。父は鍛冶屋の加藤清忠であるが、清正が3歳のときに死去しており、母・伊都に女手一つで育てられている。幼名は夜叉若で元服後に虎之助清正と名乗っている。

 母・伊都は9歳の虎之助を連れて尾張を訪れ、秀吉母子に息子の将来を託した。血族を大変大事にする秀吉なので、清正は秀吉の遠戚として秀吉の妻・寧々からも我が子のように可愛がられ将来を期待された。

 秀吉は出世し身辺に人手が必要になった時だったこともあり、二つ返事で虎之助を引き取った。また秀吉の期待に清正は応じ忠義を尽くし、秀吉の小姓となり170石を与えられた。清正は中国攻めにも参加し、秀吉の主な戦いには必ず従軍しており、心から秀吉に従っていたことが分かる。

 1582年に本能寺の変が起きると、秀吉に従って山崎の合戦に参加し、翌年の賤ヶ岳の戦いでは敵将・山路正国を討ち取る武功を挙げ、秀吉から「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3000石の所領を与えられている。近江の守護大名・佐々木氏一族の名門・山崎片家の娘を娶り正室とした。

 1585年に秀吉が関白になると同時に、加藤清正は肥後国領主となった。肥後は佐々成政が九州征伐の功績で与えられていたが、佐々成政が一揆の鎮圧に失敗して切腹を命じられつと、佐々成政に代わって肥後北半国19万5000石が与えられた。肥後の残り半国は小西行長に与えらた。

 1589年、小西行長領の天草で一揆が起こると、小西行長は三千の兵を率いて戦うが一揆勢は思いのほか強く苦戦を強いられ行長は清正に助勢を頼んだ。小西の頼みを聞くと清正は小西が止めるのにも関わらず出兵して瞬く間に鎮圧した。元々仲の良くない二人であったが、清正は料簡の狭い男ではなかった。この時、清正はその風貌にふさわしい武闘派の片鱗をみせている。

 

加藤清正の容貌
 清正は宝蔵院胤栄に槍術を習い、秀吉の家中でもその腕前は有名だった。清正は身長六尺三寸(約190cm)の大男で、また清正の乗る馬・帝釈栗毛は普通の馬の丈が五尺なのに対し六尺三寸もあった。帝釈栗毛の「帝釈」とは仏教の守護神帝釈天のことで、清正は常に帝釈栗毛に乗って江戸市中を往来していた。清正は長いあごひげを伸ばしていたので、いやがうえにも目立っていた。

 さらに清正は銀のたたきの長烏帽子(ながえぼし)の兜を被り、その冑は六尺四寸もあり堂々とした容貌であった。甲冑は敵の攻撃から自分の身を守るだけでなく、敵を威嚇する目的があったため、長烏帽子形兜を被ることで背がさらに高く見えた。清正はこの威嚇効果を十分に生かしたのである。次々と敵を撃破する清正は、浮世絵の武者絵ではこの兜と蛇の目紋が清正を表し恐れられた。

 

熊本城と朝鮮出兵
 加藤清正といえば熊本城で有名である。熊本城は日本三名城といわれ、現代人も驚くほどの石垣を誇っている。この熊本城の築城は加藤清正の優れた土木治水技術により7年をかけてつくりあげたが、その築城の動機は「秀吉様はいずれ唐を攻めるから、先鋒でお役に立つために大陸に近いところに城を造る」というものであった。

 加藤清正は築城を得意としていたが、それは先々のことを予測する考えを持っていたからで、清正の予想通り唐入り(朝鮮の役)となり出兵を命じられた。釜山港に上陸すると向かうところ敵なしで漢城を攻略し、さらに北進して臨津江の戦いで朝鮮軍を破ると、海汀倉の戦いでも勝利して、朝鮮の二王子(臨海君・順和君)を捕虜にする手柄を上げた。清正は部下の略奪や焼き討ちを厳しく禁じ、捕虜にした王子達も鄭重に扱っいる。このように戦いでも築城でも加藤清正は大活躍して「鬼士官」と怖れられた。加藤清正の名は日本のみならず、朝鮮まで知れ渡たることになる。

 

虎退治

 清正の軍勢が朝鮮の大きな山の麓に陣営を構えていると、夜になり大きな虎がやって来て軍馬に襲いかかり、軍馬をくわえたまま陣営から逃げていった。虎はすっかり味をしめ、翌日には清正の小姓もかみ殺されてしまった。たび重なる襲撃に清正は激怒し、かくなる上は虎を退治してくれんと、家臣たちに命じて山を取り囲ませた。
 山を探索するうちに、やがて一匹の虎が萱原をかき分け、茂みから飛び出して加藤清正を目がけて疾走して来た。この時、清正はまったく慌てることはなく、鉄砲を携え虎に狙いをつけた。虎と清正はおおよそ三十間(54メートル)の距離で、当時の火縄銃でも十分な射程距離だった。清正の家臣たちも鉄砲を構えて虎を撃とうとするが、清正は「撃つな、わしがこの虎を撃ち殺してくれよう」と言い放った。

 やがて虎が清正に向かって突進し、間近まで迫るり口を開いて牙をむいて飛びかかろうとした。清正は虎の喉を目がけて銃弾を発射すると、ただの一発で虎は地面に倒れ伏した。虎は起き上がろうとするが、急所を撃たれそのまま絶命した。

 また別の虎退治では、清正は十文字の槍を愛用していたが、その片方の刃を折られ、その槍は「片鎌槍」と呼ばれるようになった。「清正愛用の片鎌槍」は現存している。

 朝鮮の役では終盤にはかなり苦しい戦いをしたが、餓死者や病死者が頻発していた中で無事帰ってきた。その際には、よほどの気に入ったのかセロリを持って帰ってきている。清正が朝鮮出兵の際、もち米や水あめ・砂糖などを原料とした長生飴を非常食として常備したが、長生飴は朝鮮飴と名を変え、今では熊本の銘菓となっている。

 これだけの功績があり、地元から慕われている人物であるが、加藤清正を主人公とする大河ドラマは未だに実現していない。これは隣国を攻めたせいで、清正は朝鮮半島を縦断して現在のロシア領まで攻めている。

 熊本城の築城や土木工事をする際には農閑期を選び、賃金きちんと払うなど常に民衆に気を遣っていた。清正は農民の出ではないが、身分的には農民に近かったので「農民を一年中こちらの都合でつきあわせてはいけない」と知っていたのである。

 秀吉の死後、関ヶ原の戦の後に加藤清正は肥後において領国経営に専念した。土木・治水工事、干拓・開墾事業、街道と城下町の整備、南蛮貿易などである。肥後の風景はまたたく間に変貌し、農作物の増産や町村の活況を目の当たりにした領民は清正に傾倒して慕うようになる。清正は田麦を特産品化して南蛮貿易の決済に充てるなど商業政策でも優れた手腕を発揮した。肥後の人たちは徴税や労役を課すだけの戦国領主とは別の姿を清正に実感したのである。

 清正が熊本にいたのは15年ほどであるが、仕事ができて思いやりがあることから、現在でも熊本では毎年7月第4日曜日「清正公」(せいしょこ)まつりが行われ、善政の思いが伝承されている。

 

関ヶ原の戦い

 清正は秀吉死去後、秀吉子飼いという立場で苦しむことになる。清正の行き方は戦場ではなく「五常(仁、義、礼、智、信)に潔癖な天地に恥じぬ生き方」であった。1600年の天下分け目の関ヶ原の戦いでみせた行動と情義こそが人間・加藤清正の本性である。

 清正は豊臣家の恩顧に報いるはずの西軍に参陣しなかったが、それは石田三成が信用できなかったからである。石田三成は朝鮮の役では極寒と飢えに耐えながら戦う将兵たちの苦難を知らず、ただ後方で指揮を執るだけの文治派官僚であった。さらに秀吉への讒訴(ざんそ)によって清正は謹慎させられ、関が原の戦いでは石田三成憎さから徳川方についたのである。

 しかし豊臣家への忠信との板ばさみで、東軍へは積極的に参戦せずに九州にとどまった。天下は将たる器を持つ家康との「関ヶ原の戦い」は無意味と悟っていた。「人は一代、名は末代」と清正は自覚していたのである。関ケ原の戦いの後、西軍に味方した小西行長が没落し、徳川家の家臣となった加藤清正が肥後一国52万石の熊本城主となった。

 加藤清正は関ヶ原で敗れた筑後・柳川の立花宗茂には玉砕を思いとどまらせ、禄を失った立花宗茂の家臣を召し抱えた。立花宗茂は朝鮮で苦楽をともにした戦友であり、朝鮮で窮地を救ってくれた恩人でもあった。また肥前の鍋島勝茂、薩摩の島津義弘にも家康に恭順するよう説得している。

 家康の天下となり、家康の命で徳川義直が尾張名古屋城に入ると城の普請を命じられた。このとき福島正則は「なんでタヌキジジイの息子(尾張藩初代・徳川義直)の城を建てなければならないのだ」と愚痴をこぼしたが、加藤清正は「嫌なら国元に帰って戦の準備をしろ」と告げている。豊臣家を大切に思っていたが、世の実権は家康が握っており豊臣家の時代は終わったことを知っていた。しかしそれでも豊臣家の家格を残すため、家康と秀頼の間に立って会見を促している。

 

加藤清正の死

 加藤清正は家康を信用していなかった。豊臣家への恩義と徳川政権との板挟みに心を悩ましていた。清正は1611年家康と秀頼のの歴史的会見を実現させ、両者の融和をはかったが、その時も秀頼の側を離れず家康に不穏の動きがあれば懐中にしのばせた短刀で刺し違える覚悟だった。

 秀頼と家康の会見に立ち合い熊本へ帰る船中で、清正は突如発病し口もきけなくなり、6月24日、熊本城で帰らぬ人となった。あまりにも突然だったため遺言や辞世の句はない。死因については脳溢血とされているが偶然か必然かは全く不明で、家康の毒殺説が根強く残されている。家康の毒殺説は、家康と秀頼の会見に立ち合ったからであるが、そもそも家康と秀頼の会見は京都・二条城で行われたのである。

 清正は赤尾口で荼毘に付され、そこには後に庵が建てられ静慶庵と名付けられた。現在、そこは九州森林管理局内にある。本葬は10月13日、嫡子虎藤(忠広公)の帰国後に日蓮宗京都本山本圀寺貫主によって行われた。清正公の遺骸は甲冑の武装のまま石棺に朱詰めにされ、現在の廟所内の清正公像の真下に埋葬されている。

 

加藤家の没落

 加藤清正には嫡男・虎熊、次男・熊之助(忠正)がいたが早世したため、11歳の三男の加藤虎藤が後を継ぐことになる。父・清正が没した時、若年を理由に幕府から国替えを命じられる可能性があった。加藤家は廃絶か小大名への転落かと藩内は激しく動揺したが、重臣たちが必死に奔走した結果、加藤虎藤が若年であったが幕府は五人の家老による合議制を条件に領地の引き継ぐことを許した。

 13歳の加藤熊之助は将軍徳川秀忠より一字を賜り、忠広と名乗ることになり、翌年、秀忠の養女・琴姫を娶り、家康の養女を継室に迎えた父と同様に将軍家の縁者となった。幕府は藩政に介入し、加藤正方が筆頭家老兼八代城代に昇格し、筆頭であった加藤美作が三千石に格下げとなった。このことがお家騒動のきっかけとなった。
  1618年、加藤家内部で対立していた二つの派閥のうち加藤右馬允派が加藤美作派に「大坂の陣で豊臣氏へ兵糧の扶助を行い謀叛の企みあり」と幕府に訴え内紛が公となった。ほどなく加藤美作派も加藤右馬允派を訴えたことから、両派の争いは幕閣では収まりがつかず、結局、将軍・秀忠が直接裁くことになる。このことで加藤右馬允派の勝利となり、美作派は全員、流罪・断罪となった。この時、忠広に累が及ばなかったのは、将軍の養女を娶っていたためである。

 

修羅の道をたどった忠広
 加藤忠広の収入は、全領地方73万石中、地方知行(家臣に土地で受給)を除けば、わずかに20万石で、年貢として納入されるのは8万石程度だった。加えて大地震による麦島城の倒壊や松江築城と出費はかさんだ。年貢を徹底して取り立てるより他、忠広にはなす術がなかった。鉄砲衆を村々に派遣して未納年貢を脅し、さらに農民から山野、藪、沢まで奪った。堪えかねた農民たちは人身売買や他領への逃散などでしのぐほどで、農地はたちまち荒廃した。
 2代将軍・徳川秀忠と妻のお江は、二男・竹千代(家光)より才能も容貌も勝れた三男・国松(忠長)を溺愛し、第2代将軍・徳川秀忠の後を国松(忠長)が継ぐものと誰もが思っていた。

 しかし竹千代(家光)の乳母・福(春日局)が駿府城へ駆け込み大御所・家康に竹千代(家光)が後を継ぐように直訴したのである。福は美濃国稲葉城主・稲葉正成の妻で、夫の愛妾を手に掛け、 夫と四人の子どもを捨て家出したほど気性の激しい女性があった。
 加藤忠広は3歳年下の家光より5歳下の国松(忠長)とウマが合い、国松(忠長)へのご機嫌伺いを楽しみにしていた。福の弟・斉藤俊光は五千石を拝領して加藤清正、忠広に仕えていたが、忠広と国松(忠長)の親交が深まると暇を願い出て熊本から退去し、幕府に召し抱えられていた。

 1623年、秀忠が引退して三代将軍は家光となった。将軍・家光の治世になると加藤忠広の立場は危ういものとなった。というのも家光が嫌っていた弟・忠長と忠広が懇意にしていからである。

 大御所・秀忠が死去すると、加藤忠広に「21ヶ条の不審の条々を申し渡す。至急出府せよ」との幕令が届いた。忠広が品川に着くと池上の本門寺で待機するように命じられ、「平素の行跡正しからず」と熊本藩54万石没収の幕命が下った。幕府の命令は幕府にとって目の上のたんこぶである加藤家を取り除くためであった。
 加藤忠広は出羽庄丸岡に一代限りの一万石(山形県)でお預けとなり直ちに配所へ出発した。従ったのは母の他、家臣など70余名で、忠広は丸岡で22年間を送り53歳で没している。和歌や音曲に親しむなど悠々自適の生活であった。

 幕命により福の子・稲葉正勝が熊本城受取りに来て、細川忠利が豊前小倉39万9000石から加増され入封し、以後、熊本藩は細川家によって治世されることになった。