フランシスコ・ザビエル

不可解な死と日本占領計画
   フランシスコ・ザビエルはカトリック教会の宣教師で、イエズス会の創設者の一人だった。1547年、ザビエルはマラッカで布教活動中に鹿児島県出身のヤジロウ(弥次郎)という日本人に出会い、日本で宣教したいと思い立ち、1549年、鹿児島に上陸すると鹿児島をはじめ平戸、山口、岩国、堺、京都などで2年3カ月にわたって布教活動を行い、日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。
  その後、ザビエルは日本を離れ、厳しい鎖国下の中国・明へ渡り、布教する予定だったが、明への中継地であるマラッカで4カ月近くも足止めされているうちに肋膜にかかり46歳の若さで病死した。ただこの死には不可解な部分が多い。
 また7つの海をまたにかけた大航海時代は、植民地化の時代でもあった。ポルトガルから見ればザビエルが最果ての地、日本にやって来たのは、単なる宣教活動だけではなかった。現実に交易などの裏にはポルトガルによる日本占領計画も見え隠れしている。果たして実体はどうだったのか。
 ザビエルがゴアに送った書簡は、日本に関する情報がふんだんに書き込まれた調査報告書だった。ところが、ある一時期を境にその内容が、手の平を返すように変わっている。それは日本を離れすぐに書かれた書簡から分かる。最初は日本を金銀に満ちた豊かな市場として、有望な交易国として商売の促進を呼びかけていたが、日本を離れると、今までの魅力的な市場については触れず、いかに日本に来る途中の海賊が危険であるか、また日本人は好戦的で貧しく積極的な関係を持つには値しないと正反対の内容になっている。
 これは明らかにニセ情報である。ある歴史家はザビエルが日本を離れると、金銀に惹かれたポルトガル人が武力で日本を占領することを危惧したためだとしている。果たして、ポルトガルが日本に本当に内政干渉してくる可能性があったのだろうか。
  実は具体的な形として記録に残っている文書がある。ザビエルの死後38年経った1589年、豊臣秀吉が宣教師の追放令を出したときに書かれた彼らのメモがそれである。このときすでにキリスト信者は15万人を超え、教会は美濃から薩摩にかけて200以上もあった。しかし突如として発令された追放令はイエズス会の宣教師たちを震撼させ、強い危機感となって表れる。布教で日本を手なずけることは出来ないとザビエルは確信するのだった。そこで彼らはキリシタンに改宗している大名たちに反乱を起こさせ、自国の軍隊も上陸させて一挙に植民地にする計画に変えた。
 この衝撃的な文書は、イエズス会本部の文書館から発見されたもので、それは後極秘扱いとなり、外部に一切出されていない。結局、当時の日本侵略計画そのものは、実行に移されることはなく、机上論に終わったが、布教がダメなら最終手段は軍事力しかないという当時の列強の国々の思想を知ることができる。
 いずれにしても清新な心の持ち主だったザビエルが日本を戦禍に巻き込むことを望まなかったことは、残されている書簡や史実が物語っている。彼以外の宣教師が最初に来日していたら、日本はどうなっていたか分からない。日本の中世史が変わっていたかも知れない。中世ヨーロッパの植民地政策の先兵として宣教師を送り込んだがザビエルの死を早めてしまったのである。
 ザビエルは現在のスペインのナバラ地方、バンブローナに近いザビエル城で地方貴族の家に育地、5人姉弟(兄2人、姉2人)の末っ子であった。1525年、19歳で名門パリ大学に留学し、バルバラ学院に入った。そこで自由学芸を修め、哲学を学んでいるときにビエール・ファーブルに出会い、さらに同じバスクからきた学生イニゴ(イグナチオ・デ・ロヨラ)と出会い、これがザビエルの人生を大きく変えることになる。ザビエルはイグナチオから強い影響を受け、俗世での栄達より大切な何かがあるのと考えるようになり、聖職者を志すことになる。

 1534年、イグナチオを中心とした7人のグループはモンマルトルで生涯を神に捧げるという誓いを立てた。その中にザビエルの姿もあ理、それがイエズス会の起こりである。
  ザビエルは聖パウロを超えるほどの多くの人々をキリスト信者にした。ザビエルはカトリック教会の聖人でザビエルの名前はバスク語で「新しい家」の意味である。生没年は1506~1552年とされている。