ジョン万次郎

ジョン万次郎 
漂流してアメリカに渡り教育を受け、幕府通訳を務めた英才。ジョン万次郎が、アメリカ東部フェアヘブンの町に上陸したのは、1843年春だった。当時、16歳になったばかりの四国土佐出身の漂流漁民・万次郎のことを、町の人々はジョン・マンと呼んで親しんだ。幕末、彼の乗り組んだ小さな漁船が嵐に遭わなかったら、この少年の名は恐らく歴史に記録されることはなかったに違いない。ジョン万次郎(中浜万次郎)の生没年は1827~1898年。
 ジョン万次郎は1827年足摺岬に近い土佐国幡多郡中浜に生まれた。生家は代々の漁師だったが、万次郎が9歳のころ父を失ったため、万次郎は付近の漁師に雇われ鰹釣りの手伝いをして家計を助けていた。
 高知城下に近い高岡郡宇佐浦の漁師・筆之丞の持ち船に乗り組んで、筆之丞、五右衛門、寅右衛門、重助の4人の仲間とともに土佐湾を出漁したのは万次郎14歳の正月だった。この日を境に、万次郎は10年にわたる数奇な漂流生活に巻き込まれた。
 出漁から3日目、嵐に巻き込まれた万次郎たちの漁船は、黒潮に乗って東へ東へと流され無人島に漂着した。伊豆南方の孤島、鳥島だ。5人の漂流民は島の洞穴で雨露をしのぎ、アホウドリを食べて命をつなぐこと40日余りが経った時、たまたま通りかかったアメリカの捕鯨船に救助された。
万次郎は、その船長ホイット・フィールドの故郷、フェアへイブンで徹底的にアメリカ的な教育を受けた。万次郎にはもともと語学の才能があったようで、たちまち英語をマスターして現地の高等学校まで行った。彼の旺盛な知識欲とその学力の高まりにはアメリカ人たちは驚いたほどである。
万次郎はアメリカの政治・経済をはじめとして様々な制度を見聞し学び、23歳の青年・万次郎になり、捕鯨船の一等航海士として押しも押されもしない船乗りになっていた。だが万次郎にはどうしても諦めきれない思いがあった。それは日本への帰国だった。アメリカの進んだ制度や仕組みをどうしても日本に伝えたいと考えていたのだった。そして1851年、ペリーの黒船来航の2年前に万次郎は帰国した。
鎖国下の幕末だったが、幸運にも彼は幕府に通訳として採用された。それは幸運が重なった結果だった。まず最初に上陸したのが、開明派の島津斉彬が藩主だった薩摩だった。その当時の幕府の老中首座が斉彬と仲のよかった阿部正弘だったため、万次郎は見聞したことは精細に説明を求められることはあっても罪に問われることはなかった。
江戸時代、大黒屋光太夫をはじめ、漁師が嵐に遭い遭難、漂流して外国に漂着した事例は何件かあるが、鎖国令のもとで、帰国が許されても軟禁状態に置かれたり、日本の社会にうまく溶け込めずに、半ば隔離された状態で後の生涯を送ることが多かった。万次郎場合は数少ない成功例といってもよい。
 米フェアへイブンで、万次郎は「何でもみてやろう」という旺盛な精神を持っていた。だからアメリカのいろいろな制度に注目した。とくに彼の関心を惹いたのは政治だ。政府の要人は全市民の選挙によって選ばれる、任期は4年だ。どんな身分の者でも大統領になれる。日本のような身分制度はない。
議会があって、これが市民の代表として市民のニーズを掲げ、互いに議論する。経済は資本主義で行われている。海外事情に飢えていた幕末の日本にとって、万次郎は大きな話題となった。島津斉彬や阿部正弘に会った際、万次郎はアメリカの様々な仕組みや制度を余すところなく語ったのである。
 島津斉彬からジョン万次郎のことを聞かされて、老中阿部は「ぜひ、その万次郎の話を聞きたい」といった。当時これまで国際語だったオランダ語は、その座を滑り落ち英語に変わっていた。しかし日本には英語が読めたり話せたりする人間はほとんどいなかった。そこで阿部は万次郎を幕府の通訳に使えないかと考えたのだ。万次郎は幕府に召し出され、新しく設けられた蕃所調所(ばんしょしらべしょ)に通訳として採用された。
 老中阿部は万次郎を土佐藩に預けた。だが土佐藩は万次郎の始末に困り、当時海外のことに強い関心を持っている高知の画家・河田小龍(かわだしょうりゅう)に預けた。知識欲が旺盛な河田は、毎日飽きずに万次郎の話を聞いた。河田は万次郎から聞き取った内容を著作にまとめ、画家だけに挿絵をいれて藩に提出している。この河田小龍のところによく遊びにくるのが坂本龍馬だった。この小龍が後年、龍馬が亀山社「海援隊」を始めるヒントを与えたとされている。
 ジョン万次郎は適応力に富んだ人物で、帰国直後、万次郎は日本語を忘れていた。また元来、日本語の読み書きはできなかった。ところが、万次郎は当時の日本の多くの知識人に取り囲まれ、帰国当初はコミュニケーションにも苦労したが、万次郎は短期間に適応し、知識の力で階段を駆け登るように地位が上がってゆき 、最後は開成学校(後の東京大学)の教職に就いていた。生来の図抜けた適応力が、土佐の雇われ漁師を異例の大学教授にまで押し上げる原動力となった。