山田長政

  私は戦後生まれだが、小学生の頃、漫画で山田長政を読んだ記憶がる。日本刀を振りかざす甲冑の武者姿、しかも馬ではなくて象に乗っていた。不思議なコントラスであったが、今でもその絵を記憶している。多分、現在の子供達は知らないだろうが、山田長政は徳川二代将軍秀忠の時代に東南アジアへ渡った貿易商人で、シャム(タイ)で老中並み地位についた。かつての国策として「南進先駆者」、つまりは「正義の侵略者の先駆者」として官製ブームに乗り、小説や研究書だけでなく、修身の教科書にも登場し、映画化され、東海林太郎の「山田長政」もレコード化された。外国へ行った日本人で山田長政ほど高い地位にのぼりつめた人はいないであろう。大正時代には山田長政が活躍したシャムのアユタヤの日本人町の発掘調査が開始され、戦後も日タイ友好親善を基調に発掘作業が実施され「アユタヤ日本人町跡と山田長政」と題する顕彰碑が建てられ、日タイ親善のシンボルとなっている。

 山田長政の出身地とされる静岡市の大浜海岸公園には、甲冑姿の長政が象にまたがり太平洋をみつめる像が造られたのだが、進駐軍が静岡市へ進駐する前夜、誰の命令なのか取り壊されている。時の権力者におもねる自己規制のなせる業である。

 

山田長政の生まれ
 山田仁左衛門長政は1590年頃、駿府国(静岡県)馬場町の染物屋の子として生まれた。少年時代の長政はよく学問を好む半面、はなはだ乱暴で、周囲からは疎んじられとされていうが、それを裏付ける史料は残されていない。親の家業は染物屋であるが、家業を継ぐ気はなく武士となって立身出世を夢見る若者であった。

 徳川家康の側近である金地院崇伝が幕府の公文書を写した「異国日記」には、長政は沼津藩主・大久保治右衛門忠佐(ただすけ)の駕籠かきをしていたと記されている。駕籠であれ武士のはしくれである。これが長政の前歴を語る唯一の史料である。

 時代は関ヶ原の合戦後である。手柄を立てる合戦がない。しかたなく長政は駿府に帰ると、徳川家康の隠居城・駿府城の天下普請が開始され、駿府は日本の中心の町になっていた。全国の大名から人夫・材木・石材が駿府に運び込まれ、合戦なき徳川時代では武士として合戦で手柄を立てて立身出世は時代遅れであった。また駿府には海外情報もあふれていた。
 若き山田長政は夢を海外へ求めて、駿府の豪商の船に乗り(密航)、堺、長崎、台湾を経てシャム(タイ)の王都アユタヤへ入る。長政23歳の頃である。

 

東南アジアの日本人町
 鎖国以前の日本は、豊臣秀吉の時代に始まった朱印船貿易が盛んで、それに伴い多くの日本人が海外に出奔し東南アジア各地の日本人町を拠点に活躍していた。いわば日本の大航海時代であった。海外貿易は最大の利潤をもたらす事業で、一攫千金の夢を求めて中国、台湾、東南アジアへと日本商船は航海し貿易拠点に日本人が移り住んだ。当時の日本人にすれば、関東人が鹿児島へ行くのもルソン島へ行くのも同じような感覚であった。
 さらに戦国時代が終わり膨大な浪人が発生し、切支丹は弾圧され、その事情から生きる道を海外へ求めた人が多かった。さらに人身売買から奴隷として連れていかれた人も大勢いた。
 そのようなことで東南アジア各地には日本人町が形成された。ベトナム中部のフェフとツーラン、カンボジアのプノンペンとピニヤール、ルソン島のサン・ミゲル、シャムのアユタヤ、ビルマのアラカンに日本人町が建設された。
 その最盛期にはルソン島のサン・ミゲルに約3000人、シャムのアヤタヤには1500〜3000人、他の日本人村には300〜500人の日本人が住んでいた。日本人村といっても現地の人も住んでいたので、町としてはその数倍の規模になる。
 日本人町は治外法権で日本人の最有力者が頭領として統括していた。

山田仁左衛門はシャム(タイ)のアユタヤ王朝から官位を授けられ、リゴールの長官に任じられたとされる。ただその実像は不明で、太平洋戦争時に東南アジア政策の下で作り上げられた「英雄的日本人」とされているが詳細は定かではない。

 

王都アヤタヤ
 アヤタヤはバンコクからメナム川上流90キロにあり、アユタヤ王朝の王都である。その人口は15万人といわれ、当時の江戸やロンドンと肩を並べる大都市である。アユタヤの繁栄は貿易によることが大きく、日本人町、中国人町、オランダ人町、ポルトガル人町、マレー人町、ペグー人(当時のビルマを支配していた人種)町などが形成されていて、最盛期には40ヵ国の人が住む国際都市であった。
 アヤタヤの日本人は普段は貿易商を営んでいたが、王宮に事件が発生すると傭兵部隊として行動していた。戦国時代を体験した多数の浪人武士を含む日本人は、いわば戦闘ノウハウを身につけている最強軍団に即時に変身するのであった。
  若き長政も海外で名を成そうとして、シャムに栄えたアユタヤ王朝の国都・アユタヤを目指した。山田長政がアユタヤへ到着した時の日本人町の頭領はオープラ純広(すみひろ)であった。シャムの官位は6階級あり、オープラは第2階級の地位に当たる。そのため日本人町はすでに相当の実力を持っていたと言える。オープラ純広は、山陰の因幡の大名である亀井氏と緊密な関係を持つ商人武士であった。

 長政はオープラ純広の下で働くが、やがて才能を認められ日本人町の頭領の座に就いた。戦国時代の熾烈な戦乱を経験した関ケ原浪人や大坂浪人などで構成された日本人傭兵隊を率いて数々の戦果を挙げた。

 

スペイン艦隊を撃破

 山田長政が提案し日本人町が建造した大型軍船は、艦首に巨砲2門、舷側に大砲8門を有し、それが活躍する出番が到来した。
 1621年、5隻のスペイン艦隊がメナム川をさかのぼり略奪を繰り返したのである。長政率いる日本人軍団はスペイン艦隊を一夜にして5隻とも撃沈した。スペイン艦隊の略奪を傍観するしかなかったシャム王室にとって神業的武功であった。
 さらに、1624年には再びスペイン艦隊が略奪を開始すると、これも見事に撃退した。この武勲により国王ソンタムは長政に「オムプラ」という貴族の官位を与えた。長政は日本人町の頭領として貿易商人として活動し、さらに王宮の親衛隊長として大臣級の扱いを受けたのである。このことは金地院崇伝の日記「異国日記」で裏付けられている。1621年4月11日付で、長政が幕府の老中・土井利勝と本多正純に書簡を出していたことが分かっている。「異国日記」にその全文が写しとたれているので間違いない。内容は「シャム国王が日本の将軍に国書を贈ったので、そのとりなしを願う」というものである。その頃の書簡のやり取りには書札礼という厳しい決まりがあり、書簡を出すときは対等の人間に出すしきたりがあった。シャム国王は二代将軍・徳川秀忠に国書を出し、長政が土井利勝・本多正純にそのために書簡を出しているのである。このことは長政はシャム王朝で日本の老中と対等の地位にあったことを示している。

 日本人町が扱う貿易量はオランダ商館やポルトガル商館の約10倍あったとれている。そのため大型軍船の建造も可能だったし、シャム王室へ莫大な献金もしてきた。このことからソンタム王の長政への信頼は一層深まった。
 なお長政は大型軍船の絵馬を駿府浅間神社へ奉納している。自分の大出世を故郷に大いに自慢するための奉納であろう。いわば故郷に錦を飾ったのである。


シャム・カンボジア戦争
 1622年、カンボジアはシャムの属国であったが、カンボジアの独立戦争が勃発した。カンボジアはプノンペンの日本人部隊(小西行長の遺臣)を傭兵として起用していた。プノンペン日本人町とアヤタヤ日本人町(頭領・山田長政)の間に、「日本人町同士の戦闘は避けよう」という密約があった。そのためソンタム王の出陣要請に対して、長政は拒否した。
 ソンタム王が率いるシャム軍はカンボジアへ進軍したが、鬼人のごとく平然と殺人を行うプノンペン日本人部隊のため完敗を喫する。ソンタム王は、改めて日本人軍団を見直し、ますます長政を重んじた。ソンタム王は合戦敗退の直後に、日本へ使者を派遣し、「カンボジアの日本人がシャムとの戦争に参加しないように将軍の命令を出してほしい」と要請している。幕府は快諾したが関ヶ原の合戦や大坂の陣の残党たる反徳川の武士を抱えるプノンペンの日本人部隊にはなんの効果もなかった。
カンボジアは独立戦争のため、平気で殺人をできる日本人武士をひとりでも多く欲していた。プノンペンにも山田長政と同じように活躍した日本人武士がいたはずなのだがその人物像は不明であるが、ソンタム王の幕府への要請からもわかるように、ソンタム王およびシャム政府の高官は日本人部隊の戦闘能力に恐れを抱いていたことに間違いない。山田長政(日本人)への信頼と恐れが入り混じった心理状況だった。


ソンタム王の死
 1628年12月、ソンタム王が突然倒れ、山田長政の悲運・悲劇はここから始まる。アユタヤ王朝の王位継承の内紛がソンタム王の嫡男派とソンタム王の弟派の間で展開されたのである。
 シャムの慣習では弟がいる場合は弟が王位を継承するが、病床のソンタム王は我が子可愛さで嫡男を望んだ。長政は日本・中国では長子相続であるとしてソンタム王の望む嫡男擁立に加担することになった。
 王宮で日本人軍団が大挙武装している中で、嫡男の載冠式を強行した。長政はクーデターの中枢にいたが「単純に腕力をふるって出世」することと「政治の中枢での暗闘」とは大きく異なる。長政はその区別がわかっていなかった。
 嫡男推進派のボス(カラホム)はソンタム王の一族である。彼は若い頃、喧嘩で王の護衛官を殺害して投獄され、王の親族の暗殺を企て投獄されたり、さらにはソンタム王の侍妾を誘惑して死刑宣告を受けたりした人物であった。何回も悪事が発覚して死刑寸前になりながらも、画策・謀議によって助命され、それにもかかわらず宮内庁長官にまで出世した男で、並々ならぬ権謀術数の持ち主だった。
 カラホムは長政の助力を得てクーデターを成功させると、一気に弟派高官の大粛清を決行した。弟は逮捕され死の寸前のところを脱出して、挙兵する。弟は優秀で人望も高かった。弟軍は優勢で長子軍は悪戦苦闘。しかし嫡男軍は長政の日本人軍団の援軍で勝利し、弟は死刑になった。内紛がここで終結すれば長政の悲劇はなかった。


長子(新王)殺害
 新王は15歳の苦労知らずで、カラホムは摂政に就任する。カラホムは新王を無能に仕立て、王宮世論が新王から離反させることに成功すた。
 カラホムは新王の軍司令官カバイン(王族のひとり)を「次期、王に」と誘惑して味方に引き込み、王宮を占拠して新王を処刑してしまう。そして、カラホムは今度はカバインを謀反罪で処刑した。カラホムは、最初から王位を狙っていたのである。
 長政はソンタム王に恩義を感じ、その嫡男のために忠誠を尽くしておりやりきれない気持ちであった。
 カラホムと長政の談合の結果、ソンタム王の次男10歳が王位を継ぐことになった。長政は10歳の幼王に忠誠を表明する実力者のひとりである。長政さえいなければカラホムの王権奪取は完成する段階に至った。


長政リゴール王に
 カラホムは長政をアユタヤから遠く離れたリゴールへ飛ばした。リゴールはマレー半島中部で、現在のナコンシータムマトラである。リゴールでは住民が2派に分かれて内戦状態で、さらに南のパタニ軍(回教軍)が侵攻しようとしていた。カラホムは長政をリゴールへ追いやれば、当分の間はアユタヤへ帰れないと考えたのだった。
 リゴール長官任命式に際して、幼王は金の冠を長政に授けた。これは異例のことで、リゴール長官兼リゴール王の意味を有していた。なんとしても長政をリゴールという辺境の地へ飛ばしたいカラホムの策謀であった。長政のソンタム王への恩義とその子への忠義を利用した王命という名の策謀であった。しかもリゴール王という破格の命令である。長政にとっては拒否できるものではなかった。


長政の左遷
 長政がリゴールへ出発するや、カラホムは幼王を処刑し、自分が王(プラサート王)となる。幼王の在位はわずか38日間であった。
 長政はリゴールに到着するや、またたく間に内戦を平定した。さらに南のパタニ軍(回教軍)7万人と長政軍5万人(日本人部隊4000人、アユタヤからのシャム軍6000人、リゴールの現地軍4万人)の大激戦が、水陸で7日7晩続いた。陸上戦で最大激戦が行われた平原は、今でも現地では「戦場」と呼ばれている。
 長政軍は大勝利を収めたが、長政も足に矢傷を受ける。長政はすぐにもアユタヤへ凱旋し、幼王死去を詰問したいが、傷のため動けなかった。
 カラホムことプラサート王は、リゴール問題が短期間で解決するとは思っていなかったので、仰天するとともに長政が軍を率いてアユタヤに進軍されては大変だった。
 しかし策謀家の策謀は尽きることがない。カラホム(プラサート王)は、リゴール内戦終結とパタニ軍撃破の功績に対して、リゴールの長政へ莫大な恩賞と数名の美女を贈った。贈られた美女から妻を選ぶのが風習であった。その美女のひとりはカラホムの妹と称していたが、長政暗殺の密命を帯びた刺客だった。ところがこの美女は長政に惚れてしまい密命を白状してしまう。
 長政は暗殺者を発見し安心し、長政と美女の婚礼の式典となった。しかし、実は侍女の中に本命の暗殺者がいたのだった。謀略家というのは、二重三重の仕掛けをするもので、それで毒殺に成功した。1630年8月末日、享年40であった。

 

日本人、その後の運命
 リゴール王の地位は長政の息子オクンが継いだ。しかし、元リゴール長官の策謀で日本人とリゴール人の戦争となる。オクンはリゴール人を大虐殺し、町の大半を焼き払った。リゴールの住民の間では、今でも長政およびオクンの恐怖政治が民謡として歌いつがれている。
 リゴールは無人の焦土となったため、オクンら日本人軍団は定住できず、カンボジアのプノンペンへ行くことになった。カンボジアはシャムからの独立戦争のため日本人軍団大歓迎だった。
 かつてソンタム軍がカンボジア攻撃をした時、長政が加担しなかったこともあって、カンボジア王はオクンをリゴール王として遇した。
 カンボジア軍は、プノンペン日本人部隊とオクン軍団を加えて、シャムへ攻め込んだ。オクンは父の復讐戦であるとして率先参陣した。ところがプラサート王(カラホム)は、あっさりとカンボジアの完全独立を認めてしまった。その結果、カンボジア軍のアユタヤ攻撃は中止され、オクンの復讐は実現できなかった。
 カンボジアは完全独立を果たしたが、カンボジアでも王位継承の紛争が勃発しそこでオクンは戦死した。

 

アヤタヤの日本人町は
 プラサート王はアヤタヤの日本人町を焼き払ったため、日本人の多くはカンボジアのプノンペンへ逃れた。カンボジアでは国王が門前に迎え出たというぐらいに歓迎された。反シャムの日本人大歓迎だった。
 数年後、プラサート王のシャムでは、新たにオランダ問題が焦点となった。オランダがシャムの一部地方の独立をバックアップする気配が出たのである。
 1633年、プラサート王は貿易面でオランダを牽制するためアユタヤ日本人町の復興を許可した。とはいっても全盛時の日本人町3000人の十分の一程度だった。ちょうど1633年は、徳川幕府の第1次鎖国令の年にあたる。それでも日本人はシャムとオランダの仲介業者として活発に商売をしていた。
 1656年、プラサート王が死去したが、恒例の王位継承の内紛が発生した。その中で「オランダ人と日本人が王宮を占拠しようとしている」という流言が流れた。そのためアヤタヤ日本人町は漸次衰退し、18世紀初頭には消滅した。


ギヨマー夫人
 鎖国政策によって海外に置き去りになった日本人では、「あら日本恋しや、ゆかしや見たや見たや」のジャガタラお春が有名である。
 アユタヤの日系人の中では、ギリシャ人ファルコンの妻になった在シャム2世のギヨマー夫人の生涯が目立っている。ファルコンはシャムの宰相にまでなったが、政争の結果、処刑された。
 しかし、その後、ギヨマー夫人はアユタヤ・キリスト教神学校を再建して、多くの子女教育にあたり、王宮の信頼を獲得し王宮の女宮頭となり、聖女マリアのように慕われた。


ミャンマー(ビルマ)へ
 なおオクンのリゴール撤退の際、62人の日本人武士団がミャンマー(ビルマ)のケントン州ゴン・シャン族の村へ落ち延び、その地で結婚し平和に暮らし、同化していったという伝説がある。村の古老がその伝説を話してい流のがテレビで放映されている。