宮本武蔵

 数ある剣術家の中でも宮本武蔵ほど強い者はいないであろう。生涯で60数回の決闘にすべて勝ち、巌流島での佐々木小次郎との決闘は伝説化され、決闘といえば巌流島の決闘というほど有名である。二刀流の使い手といえば宮本武蔵をおいて他になく、また二刀流といえば宮本武蔵である。ただし宮本武蔵の伝記には不明な点が多い。
 宮本武蔵は文武両道において天才肌で、宮本武蔵は武芸だけでなく「五輪書」を書き残し、五輪書は外国でも翻訳され出版されている。

 そもそも宮本武蔵という人物は後世の江戸時代から演劇、小説の題材になっているので脚色されている可能性が高く、作家・吉川英治が書いた不朽の名作「宮本武蔵」の影響が大きく本当の姿が見えないのである。
 吉川英治氏の小説「宮本武蔵」は関ケ原の合戦後から始まり、巌流島の決闘を頂点として終わっている。だが吉川英治氏本人が語っているように「宮本武蔵の小説は史実を明らかにするのが目的ではなく、剣の道に己を求めていく一人の男をテーマにした歴史小説であってフィクションである」と記ていえるが、どこまでがフィクションなのか分からない。あの「恋人おつうや沢庵和尚の話」はどこまで本当なのだろうか。はたして宮本武蔵はどのような人物だったのか。
 
宮本武蔵の生涯
 1584年頃に宮本武蔵は名家赤松氏の支流・新免無二の子として生まれた。母は不詳で名字は「宮本」または「新免」で武蔵は通称である。幼名は辨助(弁助)であり、宮本武蔵の著書「五輪書」では自らを新免武蔵守、または藤原玄信と名乗っている。出身地は播磨(兵庫県太子町宮本)とされているが、美作国宮本村(岡山県)で生まれたので「宮本」と称したともされている。
「宮本武蔵がまだ幼い頃、腕力は大人と同じくらいで、最初から決闘を望んでいた。13歳の時に初めて新当流の諸国を修行中の有馬喜兵衛と決闘をして勝利した。有馬喜兵衛はまだ幼い宮本武蔵を見くびっくりしていたが、武蔵は左手に持った薪で喜兵衛の腕を狙い叩くと、右手の太刀で切り捨てたのである。子供ながら見事な剣さばきであった。真剣勝負をする相手が現れず、16歳の時に但馬の秋山と言う兵法者の噂を耳にした。秋山という男は猛獣のような男で、仲間の荒くれ坑夫を連れて常に悪さをしていた。宮本武蔵は秋山を探し出し、切り捨てたのである。
 1600年、宮本武蔵は17歳で関ヶ原の戦いに参加している。関ヶ原の戦いでは石田三成の西軍側についた。宮本武蔵は播磨にいたので、周囲は西軍に味方する大名が多かったからである。関ヶ原の戦いは集団戦でそれまでの果たし合いとは違っていた。

 剣豪・宮本武蔵は次から次と押し寄せる兵を斬りまくったが、当時はまだ無名であったが、黒田家の家臣に加わっていたとする文書が残されている。剣豪としてではなく雑兵として参加したのであろう。関ヶ原の戦いは初めは互角であったが、小早川秀忠の裏切るにより、勝敗は一気に東軍に移った。宮本武蔵は奮闘するが時の流れには勝てず敗者となった。そのため落人狩りから逃れるため、4年間も身を隠すようになる。

 その後、おとぼりの冷めた21歳の頃に京に赴くと、京で名の知れた吉岡一門の吉岡清十郎などの剣豪らにすべて勝利している。29歳までに60数回の真剣勝負にすべて勝ったと五輪書に記載されている。
 
巌流島の決闘
 武蔵が行った勝負の中で最も知られているのは、俗に「巌流島の決闘」といわれる佐々木小次郎との決闘である。しかし決闘の時期などについては諸説があり定かではない。宮本武蔵が決闘にわざと遅れたというのは作家・吉川英治の創作で、小倉にある顕彰碑「小倉碑文」では宮本武蔵は遅刻しておらず「木刀の一撃」で佐々木小次郎を倒したとある。一部の史料のは佐々木小次郎は気絶したが息を吹き返したともあり、その他にも決闘時に宮本武蔵は最低でも50歳以上だったとあるなど、巌流島の決闘に関しても不明な点が多い。また巌流島の決闘を最後に歴史の舞台から姿を消している。
 1614年、大阪冬の陣の際に宮本武蔵は水野勝成の客将となり、水野勝成の嫡子・水野勝重の側にいていたことが複数の資料に見られる。その後・姫路城主となった本多忠刻に仕え剣術などの流儀を披露している。また水野家臣・中川志摩助の3男・三木之助と、その弟・九郎太郎の2人を養子として迎え、宮本三木之助は1618年頃、宮本武蔵の推挙もあり本多忠刻の小姓となっている。
 1626年には、播磨の地侍・田原久光の次男・伊織を新たに養子にしている。この宮本伊織は、5歳のときに明石城主・小笠原忠真に出仕したが、のち弱冠20歳で執政職(家老)となっている。
 1638年の島原の乱の際に宮本武蔵は出陣して中津城主・小笠原長次を後見したとあるが、天草四郎の一揆軍の投石により負傷している。小倉城主・小笠原忠真のもと侍大将と惣軍奉行となっていた養子・宮本伊織も出陣し、戦功により4000石となって筆頭家老に躍り出ている。
 その後、宮本武蔵は松井興長を介して、1640年に熊本城主・細川忠利に軍事顧問として招かれた。この時、細川家から7人扶持18石に合力米300石が支給され、熊本城の東にある千葉城跡に屋敷が与えられた。限られた史料に基づいて終盤の武蔵の人生をたどってみよう。

宮本武蔵の屋敷跡
 武蔵が藩主・細川忠利の客分として熊本にきたのは1640年、57歳のときである。剣を通して人生を探求し続け、武蔵は晩年までの5年を熊本で過ごしている。熊本で宮本武蔵は鷹狩りを許されるなどかなりの待遇で迎えられている。この頃、熊本藩に足利義輝の遺児・足利道鑑も客分となっており、共に細川忠利と山鹿温泉に招かれている。なお細川忠利の命で武道の奥義に関する「兵法三十五箇篠」を上書した。1641年、細川忠利が急死するが、2代藩主・細川光尚からも引き続き300石が与えられ、この頃より余暇を使って水墨画や工芸品などを制作している。

 現在残る宮本武蔵の作品の多くは、細川家の家老で八代城主であった松井寄之や、武蔵の晩年に世話をした家臣・寺尾求馬助信行の手元にあったもので、太平洋戦争で八代が戦火を免れたために現在に伝わったり一部は重要文化財となっている。細川忠利の三回忌にあたる1643年からは金峰山にある岩戸に赴いている。肥後の千葉城跡には、現在NHK熊本があるが、その入口付近に57歳頃と推定される宮本武蔵が使用した井戸跡などが残されている。

 

金峰山の岩戸
 さらに岩戸の霊巌洞(れいがんどう)に籠って、兵法の極意となる「五輪書」の執筆を始めた。霊巌洞は熊本市内から約14kmの山の中にあり、現在、霊巌禅寺がある場所で、その境内奥に霊巌洞がある。霊巌禅寺の入口からすぐのころで五百羅漢像が出迎えてくれる。この五百羅漢は熊本の商人・渕田屋儀平(ふちだやぎへい)が、1779年から24年掛けて奉納したもので、宮本武蔵存命の頃にはまだなかった。
 霊巌洞は洞窟になっており、急な階段をのぼり堂内に入れる。この霊巌堂は昔から知られており、平安時代中期の女流歌人・檜垣は、何度も訪れている。桧垣は京都で歌舞の名手として有名だが、博多を経て熊本に住みんでいた。のちの世阿弥は檜垣(桧垣)をモデルにして、能・夢幻能(むげんのう)が作られた。霊巌洞の内部には岩戸観音の名で知られる石体四面の観音像がある。宮本武蔵は、臨終の7日前にしたためた「独行道」もここ霊巌洞にて書いたとされている。亡くなる数日前に「独行道」「五輪書」などの兵法書の弟子・寺尾孫之允に渡し、1645年5月19日、千葉城跡の屋敷にて宮本武蔵は亡くなった。墓所は熊本にも数箇所ありますが、一番有名なのは下記の武蔵塚公園内にある通称「武蔵塚」である。死後も藩主を見守りたいという遺言から、参勤交代の行列が通る大津街道沿いとなっており、鎧・甲冑に身に着けて立ったままの姿で葬られたとされている。墓石には「新免武蔵居士石塔」と刻んである。

 ちなみに宮本武蔵が亡くなる3ヶ月前に細川光尚は総勢2720人の大行列で江戸へ参勤に出発していました。その翌年6月、細川光尚が帰国した際には、ここに宮本武蔵が葬られていたと言う事になる。参勤交代が廃止となるので100回を超す参勤交代の行列を武蔵は見守ったと言う事になる。武蔵塚公園には二本の剣を持った宮本武蔵の像がある。


五輪書
 これまで多くの歴史家が重視してきたのは武蔵自身が著した兵法書「五輪書」である。しかし現存する「五輪書」は武蔵が晩年を頼った細川家の家臣が書いた写しで直筆のものではない。

 さらに「五輪書」の書き出し部分に、本当に武蔵自身が書いたのか信じ難い部分がある。「自分は13歳の時から29歳までの間に60数回の決闘をしたが一度も負けたことがない。これは自分が兵法を究めたのではなく天才だったからだ」とある。果たして自分で自分のことを天才と表現するだろうか。剣術指南として大名に仕官するチャンスを意識して、自分の腕を誇張しての表現したと取れなくもない。
 さらに古文書をもとに武蔵の人物像に迫ろうとすると、いくつも違う名前の武蔵が出てくるのだ。「新免武蔵」というのが本名だが、彼をよく知る旗本の渡辺幸庵は、彼のことを「竹村武蔵」と書き残している。
 また武蔵の墓が熊本に5つもある。熊本は武蔵が最後の人生を過ごした細川家のあるところで、現存している「五輪書」もここで書き写されたとすれば、武蔵が相当手厚いもてなしを受けていた見て間違いはない。そうであれば死後に供養された墓もきちんと作られているに違いない。

 滝田町弓削には「新免武蔵居士」の名前が刻まれた石塔があり、島崎町には武蔵のことを指す「貞岳玄信居士」の名前の入った墓が、また細川家歴代の墓のある場所にも「武蔵の供養塔」が建っているのである。このほか小倉手向山、宮本村の平田家の墓地にも武蔵が眠っているとされている。こうなると複数の武蔵がいたのではないかと思わざるを得ない。
 武蔵複数説は武蔵が自らの刀さばきを二天一流と呼び、二刀流という言葉も含めて自らが考案しただが、二天一流の呼び方は晩年になってからで、それ以前に円明流という二刀流があった。円明流をたどれば武蔵に行き着くはずであだが、この流派をたどってみると2人の武蔵が登場する。1人は宮本武蔵守吉元で、もう1人は宮本武蔵守義貞である。どちらも実在の人物なら武蔵という名の2人の二刀流の達人がいたことになる。

 「五輪書」は1643年、武蔵60歳のとき熊本市西方の金峰山麓「霊巖洞」に籠って書き綴ったもので、完成は1645年春である。武蔵の死は同年5月なので「五輪書」は死の間際まで筆を執り続けた書となる。

「五輪書」は地・水・火・風・空の5巻から成り、「地之巻」は兵法の全体像を、「水之巻」は剣法の技術を、「火之巻」は駆け引きや戦局の読み方を、「風之巻」では他流派の兵法を評論し、「空之巻」では武蔵の考える兵法の意義・哲学を書いている。「空」は武蔵晩年の心境を書いたもので「兵法を究めることが善の道」と説いている。
 宮本武蔵は「兵法の道」の極意を究めたほか「詩歌」「茶道」「彫刻」「文章」「碁」「将棋」などでも秀でた才能を発揮している。