前田慶次

 前田慶次は文武両道に秀でた戦国を代表する「傾奇(かぶき)者」で、前田慶次の人生ほど奇抜で面白いものはない。
 前田慶次は加賀100万石の前田利家の義理の甥で、武勇だけでなく古今の典籍にも通じており謎の多い人物である。慶次には面白い逸話が多いが、調べれば調べるほど自由人過ぎて煙に巻かれてしまう。逸話にはその裏付けの史料は乏しいが、少ない史料をつなぎ合わせるとまさに怪人である。前田慶次は現代の日本人男性に失われた男気を感じさせるのである。

 

前田慶次の生まれ
 前田慶次は尾張国旧海東郡荒子(名古屋市)で生まれ、幼名は宗兵衛で通称は慶次郎、慶二郎、啓次郎などと呼ばれたが、前田慶次を題材とした小説の影響で前田慶次の名前で呼ばれることが多い。創作作品ではどんな人物も魅力的に見せるため大げさに描かれることは仕方がないことであるが、慶次は創作作品に負けず劣らずの傾奇者だった。さまざまな逸話を残していることから、実際の慶次も十分に魅力的な人物だったのであろう。

 もともと慶次は滝川一族の出身である。当時の前田家当主・前田利久に子供がなく病弱だったため、織田信長の命令で慶次が前田利久の養子となり、前田利久の弟・前田利家が前田家の当主となった。

 前田慶次の母が前田利久の後妻となったため養子として送り出され前田姓を名乗ったた。前田利家とは「義理の叔父と甥」の関係になり、慶次は前田利家に仕えるようになった。しかし養父・前田利久が死去すると、前田家と縁がなくなったとして出奔したのである。慶次郎は早くから奇矯の士として知られ、文武両道に秀でた人物というよりも変わり者として知られていた。

 慶次は前田利家やその子・利長とは仲が良くなく、それが出奔の主な理由だったが、前田慶次はすでに50代で一男四女をもうけていた。この高齢での出奔には驚かされるが、嫡男の正虎が前田利常に仕えていたので慶次は安心して出奔したのであろう。

 

傾奇者
 「かぶき者」とは反体制的な行動をする武士や奉公人らを指す言葉で「異風を好み、派手な身なりをして常識を逸脱した行動に走る若者のこと」で、今でいえば「不良」と言えば分かりやすい。当時の男性の着物は浅黄や紺など地味な色合いが普通であるが、かぶき者は色鮮やかな女物の着物をマントのように羽織ったり、袴に動物皮をつぎはうなど常識を無視して非常に派手な服装を好んだ。

 かぶき者は多くは徒党を組み喧嘩に明け暮れ、粗暴な振舞いを行い、飲食代を踏み倒したり、因縁をふっかけて金品を奪ったり、家屋の障子を割ったり、乱暴・狼藉の連続であった。ケンカや刃傷沙汰は当たり前で、往来での無法行為を好んで行ったが、このような身なりや行動は、世間の常識や権力・秩序への反発・反骨の表現としての意味合いがあった。

 かぶき者の多くは没落した小領主や武家奉公人であったが、町人や旗本・御家人らがかぶき者になることもあった。彼らは狼藉を働いたため嫌われたが、かぶき者は命を惜しまない気概と生き方の美学を持っていて、その生き様に共感や賞賛が集まることがあった。「尾張のうつけ者」と称せられた織田信長もまた「かぶき者」であった。

 かぶきといえば歌舞伎を思い出すが、そもそも歌舞伎の源流「かぶき踊」は、1603年、出雲阿国が偏った異様な行動を示したもので、出雲阿国のかぶき踊りは全国的な流行となり、のちの歌舞伎の原型となった。そこから生まれた風俗・美意識をかぶき(傾き)と呼んだのである。どちらも異端という意味だった。

 かぶき者の文化は幕府や諸藩の取り締まりが厳しくなり、やがて姿を消していくが、その行動は侠客と呼ばれた無頼漢たちに、その美意識は歌舞伎という芸能の中に受け継がれていった。

 

傾奇者としての慶次前田利家湯船に入る

 慶次は「かぶき者」として知られているが、養父の前田利久が病没するとしがらみがなくなり、後を継いだ前田利家と決別した。

 慶次は常日から世を軽んじ、人を小馬鹿にする悪い癖があった。叔父の前田利家からこのことをよく説教されていた。慶次は前田利家の説教を良く思っていなかった。前田利家も若い頃は「かぶき者」であった。「昔はうつけ者で、信長公と一緒に尾張で悪さをしていたではないか。ただ信長に寵愛されていただけで、前田家の家督継いだこのうつけ者が」このように思っていたのだろう。人間は「過去の自分」を見せられることほど苦痛なものはない。かつての前田利家への腹いせから「かぶき者」を演じていたのかもしれない。何れにせよ慶次は何かに付けて叔父の前田利家に反発していた。

 ある時「これまで心配をかけて申し訳ない。これからは心を入れ替えて真面目に生きるつもりでございます。茶を一服もてなしたいので自宅に来ていただきたい」と利家に申し入れた。利家は慶次が改心したと大喜びで、さっそく慶次の家を訪ねると、慶次は「今日は寒かったので茶の前に風呂はどうでしょう」と勧めた。利家は「それは何よりのご馳走だ」と快諾し、二人で風呂場へ向かった。その後、慶次は丁度良い湯加減だと言ってその場を去るが、利家が入ってみると湯船は氷のような冷水であった。

 温厚な利家もこれには怒り「馬鹿者に欺かれたわ、引き連れて来い」と家来に怒鳴ったが、すでに慶次はいなかった。

 慶次は前田利家が自慢にしていた名馬「谷風」に乗って金沢を後にしたのである。利家の愛馬・松風に乗って国を去ったので利家は怒り心頭だった。

 叔父によって前田家を追われた慶次は、そのご上洛した慶次郎は浪人生活を始めた。浪人とはいっても連歌会に参加しているので、慶次にとっては風流で快適な暮らしだった。公家たちとは和漢古今や源氏物語などを読み合い楽しむだけでなく、連歌は当時の第一人者である里村紹巴(さとむらじょうは)に学び、茶道は千利休七哲の一人・古田織部に皆伝を受け、弓馬など武芸に秀でていたので、当時の武士としてはかなり高い教養があった。

 

豊臣秀吉からの太鼓判

 多数の文人と交流して慶次は洛中の有名人となっていた。慶次が京にいたころ、豊臣秀吉が諸国の大名を招いて盛大な宴を開いた。その席に紛れ込んだ慶次は、宴もたけなわとなった頃、末座から猿面をつけて手拭いで頬被りをして扇を振って面白おかしく踊り出した。さらに大名たちの膝の上に次々と腰掛けて踊った。

 普通なら無礼者と怒られるところであるが、もともと猿舞の座興だったため、その場にいる誰一人としてこの振る舞いをとがめる者はいなかった。名だたる大名を前にしても、物怖じするどころか翻弄する強気な性格は驚くばかりである。

 ただし慶次は上杉景勝の膝にだけは乗らなかった。後に慶次が語ったことによれば、景勝は威風凛然としていて侵してはならない雰囲気があったため、どうしても膝に乗ることができなかったと語っている。後に豊臣秀吉から「心のままにかぶいてよろしい」との「傾奇免許」を得ている。
 慶次は傾奇者の言葉に相応しい行動をとっていたが、高い教養を身に付け、浪人時代は「穀蔵院飄戸斎(こくぞういん・ひょっとさい)」「龍砕軒不便斎(りゅうさいけん・ふべんさい)」を名乗り「似生」と号して多くの連歌会に参加していた。

 

上杉家での慶次

 上杉景勝は慶次が見込んだ唯一の戦国大名で、寡黙でありながら武と真義を誇る景勝に惚れ込んだのである。上杉景勝の重臣・直江兼続は慶次の文武の友で、慶次は兼続を尊敬し意気投合していた。そもそも上杉家に仕官したのも直江兼続の紹介であった。二人とも妙心寺の南化和尚の弟子であり、連歌会に参加しており学問を通じて友人になったとされている。

 秀吉が亡くなると天下は再び動き始め、徳川家康が次の天下人を狙っていることを知ると、慶次郎は朱塗りの槍を抱えて上杉家に馳せ参じた。上杉家では米沢城主・直江兼続の与力となって自由な立場にあった。

 会津に移ったある日、酒宴で「傲慢な林泉寺の和尚を殴りつけてやりたい」と愚痴を洩らす者がいた。これを聞いた慶次は、早速、林泉寺を訪ね、碁盤を見つけると和尚に勝負を申し入れた。慶次は勝った方が負けた相手の頭を軽く叩く事を提案し、一局目に和尚が勝つと和尚は初め叩く事を拒むが、頑として聞かない慶次郎に折れ一指弾で慶次の頭をそっと叩いた。二局目は慶次郎が勝ち和尚を殴ることに躊躇いを見せるが、和尚は気になさらずにと言うと、それではと鉄拳を固めて和尚の眉間に振り下ろした。鼻血を出して倒れる和尚を後目に慶次は平然と寺を離れた。

 

上杉家の慶次

 1598年に秀吉が死去すると、次の天下人として徳川家康が台頭し、秀吉の家臣・石田三成と懇意にあった直江兼続は家康との対立を決意した。会津にいる上杉景勝に「謀反の疑いあり、じかに釈明せよ」という家康に対し、兼続は暗に家康こそが謀反を考えているのではないかという書状を送り、怒った家康は会津征伐を決意する。

 1600年、ついに徳川家康は会津征伐のために動き出すと、慶次は冥利を感じ武者ぶるをして戦いに挑んだ。家康が上杉家討伐するため軍勢を進めていたが、西で石田三成が挙兵したためあわてた家康軍勢は反転して西に向かった。

 家康軍勢が反転したのは「関ケ原の戦い」に臨むためだが、上杉軍としては家康を追撃し、石田三成率いる西軍と挟撃すべきだった。しかし上杉景勝は「謙信公の義の教えをもってすれば、上杉家に退却する敵を追い討ちする戦法はない」と挟撃を許さず、上杉家は隣の最上家の攻略に矛先を向けた。
 上杉家に仕官した慶次は浪人集団「組外衆」の大将として激戦地となった長谷堂城の戦いで優れた戦績を残した。ここで最上領を攻めていた上杉軍に「関ケ原の戦い」で東軍が1日で勝利するという想定外のことが起きた。家康がとって返して上杉家を攻めるのは目に見えており、最上領を早急に撤退して守りを固めるほかなかった。味方を無事に退却させるために、上杉家の名軍師といわれた直江兼続が3000騎を率いて殿軍(しんがり)を務め退却することになった。

 最上軍は2万騎と圧倒的な兵力差があった。瞬時に壊滅させられるところだったが、この殿軍は類をみないほどの頑強な抵抗を示した。この殿軍の抵抗は10時間の間にわずか6キロの間で28回の戦闘が行われた。
 しかし3000対20000の兵力の差は歴然としており、闘うたびに兵が減り、直江兼続は自分が相手に討ち取られる前に切腹しようとした。ここでこれを止めたのが前田慶次だった。前田慶次が駆けつけ直江兼続の馬前に立ちはだかり「ここは我らに任せて下され」と述べると、慶次は兼続に代わって殿軍を引き受けた。最上勢をくい止めていた殿軍のすぐ前は敵陣で「にらみ合い」の緊張した空気が張りつめていた。
 慶次は馬から飛び降りると槍を手に「朱槍の勇士」として知られた水野藤兵衛・韮塚理右衛門・宇佐美弥五右衛門・藤田森右衛門の四人を率いて駈けだした。
 慶次は大音で名乗りを上げると、槍を振りかざし敵陣へ突っ込んでいった。四人もこれに続き、叫びながら敵をなぎ倒していった。慶次郎はわずか4人を引き連れて最上軍に突進したのである。そこへ山中腹に配置された味方の鉄砲隊200が一斉に火を噴いた。
 慶次らは縦横無尽に戦い、鉄砲隊の援護射撃も敵に打撃を与え、この激戦では敵大将・最上義光も兜に銃弾を受け兜の一部が吹き飛ばされるほどであった。慶次郎の猛烈な攻撃に最上軍はまくりたてられ遂に逃げ出した。その間に兼続は堅固な陣を張り、虎口を脱することができた。慶次は自ら残兵を撤収させた。

 捨て身の策とはいえわずか5人で戦局をこれほど劇的に変えたことは信じ難いことであった。さらにこの時の慶次郎の年齢は67歳だった。当時の平均寿命は40歳で、それ以上は老兵といわれ、滅多に戦場に赴くことはかった。とても常人とは思えない活躍であった。
 こうして慶次の活躍で、兼続はなんとか10月4日に米沢へ帰り着くことができたが、多くの家臣を戦死させるなどその損害は大きかった。

 関ヶ原の戦いで上杉家は会津120万石から米沢30万石に減封になった際には、慶次も米沢近郊に移住して米沢藩に仕えた。兼続との関係はその後も続き、隠棲後は一緒に和歌や連歌を楽しんだりして過ごした。米沢市万世町堂森にある堂森善光寺の裏山近くに杉林があり、泉が昔の姿そのままにあるが、ここが「慶次清水」で、前田慶次はこの清水の近くの庵(無苦庵)で1612年73歳で没している。

 

創作作品の慶次
 慶次は漫画・花の慶次や、小説・一夢庵風流記などの作品で描かれた慶次は身長197cmもある大柄な武士である。慶次は体格の良い大男というイメージがあるが、実際には身長に関する記述は存在せず、残されている甲冑も他の戦国武将のものと変わらない大きさである。創作作品では慶次を良く見せるために大男にしたのだろうが、慶次の性格については多分同じである。新井白石は「世にかくれなき勇士なり」と慶次を賞賛している。