前田慶次郎

前田慶次郎 文武両道に秀でた、戦国を代表する「かぶき者」

 前田慶次郎は戦国時代を代表する「傾奇(かぶき)者」といわれる。前田利家の義理の甥。武勇に優れ、古今の典籍にも通じた人物でもあったようだが、史料は少なく、謎の多い人物だ。面白い逸話が多いのだが、それが真実かどうか、それを裏付ける史料もまた少ない。しかし、その少ない史料をつなぎ合わせると、まさに怪人というほかない。

 前田利益(まえだとします、慶次郎)は尾張国旧海東郡荒子(現在の名古屋市中川区荒子)で生まれた。幼名は宗兵衛。通称は慶次郎、慶二郎、啓次郎など。彼を題材とした漫画「花の慶次」の影響で、前田慶次という名前で呼ばれることも多い。諱は利益のほか、いくつもあるが、史料では利太(としたか)あるいは利大(としひろ、としおき)、利貞(としさだ)などの名が伝わっている。
養父は前田利久(前田利家の兄)。妻は前田安勝の娘で、間に一男三女をもうけた。嫡男の前田正虎は従兄弟の前田利常に仕えた。慶次郎は早くから奇矯の士として知られていたが、単に変わり者というだけでなく、文武両道に秀でた人物だったようだ。

 慶次郎が有名なのは「傾奇者」としてだ。とくに養父の前田利久が病没して、しがらみがなくなってからは、利家との決別を決意。利家が自慢にしていた名馬「谷風」にこっそり乗って、金沢を出奔したという。その後、上洛した慶次郎は浪人生活を送りながら、里村紹巴・昌叱父子や九条○道・古田織部ら多数の文人と交流。たちまち洛中の有名人となり、後に豊臣秀吉から「心のままにかぶいてよろしいと」いう、いわゆる「傾奇免許」を得たという話もある。

 浪人時代は「穀蔵院○戸斎(こくぞういん・ひょっとさい)」「龍砕軒不便斎(りゅうさいけん・ふべんさい)」と名乗った。「鷹筑波」「源氏○宴之記」によると、「似生」と号し、多くの連歌会に参加した。

 秀吉が亡くなると、天下は再び動き始めた。徳川家康による上杉家討伐の話を聞くと、慶次郎は朱塗りの槍を抱え上杉家に馳せ参じた。上杉景勝は慶次郎が見込んだ唯一の戦国大名であり、その重臣の直江山城守兼続は慶次郎の文武の友だ。慶次郎は傾奇者として冥利を感じつつ、武者ぶるいして戦いに挑もうとしていたが、相手の家康が上杉家を攻める軍勢を進めていたときに、西で石田三成が挙兵。家康は反転して西に向かった。後に「関ケ原の戦い」と呼ばれる合戦に臨むためだ。上杉軍としては兵法の常識として家康を追撃し、石田三成率いる西軍と呼応して挟撃すべきだ。しかし、そうはしなかった。なぜだか、正確には分からない。そして、当面の相手を失った上杉家は隣の最上家の攻略に矛先を向ける。

 ここで最上領を攻めていた上杉軍に想定外のことが起こる。関ケ原の戦いが思いのほか、短時間で東軍が勝利を収め集結。こうなれば家康がとって返してくるのは目に見えている。最上領を早急に撤退して守りを固めるほかない。味方を無事に退却させるために、上杉家の名軍師といわれ、世に知られた直江兼続が3000騎を率いて殿軍(しんがり)を務め、退却戦を行うことになった。追う相手の最上軍は2万騎。圧倒的な兵力差だ。瞬時に壊滅させられてもおかしくないところだ。
しかし、この殿軍は類をみないほどの頑強な抵抗を示した。「北越○談」によると、この戦いは10時間の間、距離にしてわずか6キロの間で28回の戦闘が行われたという激烈なものだったという。

 しかし、3000対20000の兵力の差は歴然、闘うたびに兵が減ってどうにもならなくなり、兼続は自分が相手に討ち取られて味方の士気が落ちることを恐れ、切腹しようとした。それを止めたのが前田慶次郎だ。「上杉将士書上」によると、慶次郎はわずか5人ばかりを引き連れて最上軍に突進した。
慶次郎と、このたった5人の猛烈な攻撃に何と最上軍は右往左往にまくりたてられ、遂に逃げ出したという。その間に兼続は堅固な陣を張ることができ、虎口を脱することができたという。捨て身の策とはいえ、わずか5人で戦局がこれほど劇的に変わることあるのか、とても信じ難いことだ。

 さらに問題なのはこのときの慶次郎の年齢だ。「米沢史談」によると、慶次郎が生まれたのは1541年となっている。とすると、このとき満年齢にして59歳。また「加賀藩史料」にあるように1605年に73歳で亡くなったとすると、このとき67歳ということになる。平均寿命が短く、40歳にもなると老兵といわれ、滅多に戦場に赴くことなどなかったこの時代にである。どちらの年齢であったとしても、とても常人とは思えない。