鎌倉公方

地方分権制度としての鎌倉公方

 室町幕府は全国を統一したわけでなく、室町幕府を中心とした地方分権制度を取り入れた。室町幕府は足利尊氏が築いたが、その政治基盤はかなり脆弱だった。いわゆる南北朝問題や尊氏と弟の直義の間に確執があり、そこに執事の高師直(こうのもろなお)がからみ、室町時代の初期の政局はかなり不安定だった。
 将軍が京都を離れると有力者に南朝に天皇を奪われ、クーデターが起きる危険があった。そのため室町幕府を鎌倉ではなく京都にせざるをえなかった。かつて鎌倉幕府があった関東は豪族(国人、国衆)の勢力が強かったため、室町幕府は関東にも目を光らせるため、鎌倉に公方府(くぼうふ)をおいて関東を統治させた。これが鎌倉公方府(鎌倉府)の始まりでで、その長官を「鎌倉公方」と呼んだ。

 

鎌倉公方と関東管領

 この鎌倉公方と関東管領の関係は、室町幕府における将軍・管領と同じである。足利尊氏は鎌倉幕府の基盤であった関東をとくに重視し、最初の鎌倉公方に尊氏の4男・足利基氏(もとうじ)を任命して関東8カ国(相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、上野、下野)に加え伊豆・甲斐の計10か国を支配させた。

 鎌倉府は奥州探題や九州探題と同様に、あくまでも幕府が設置した地方機関に過ぎない。しかし実際の鎌倉公方は単なる地方機関の長とは言えないほどの強大な権限を持ち、守護と関東管領の任免権以外は、京都の室町将軍に匹敵する力を持っていた。そのため鎌倉府は、関東に於ける「幕府」であるかのように存在し、室町幕府とは別の独立した政府のような様相があった。

 鎌倉公方は幕府の忠実な手足となって働くどころか、時には京都の幕府と露骨に対立すした。さらに鎌倉公方の座を巡って足利一族で争い、鎌倉公方、堀越公方、古河公方が乱立した。

 つまり室町時代とその後に続く応仁の乱・戦国時代を正確に理解するには、まず関東の鎌倉公方と関東管領を理解しなければならない。関東の内乱はまさに応仁の乱・戦国時代と同じである。

 

公方(くぼう)の意味

 公方とはもともとは天皇や朝廷を意味していたが「室町幕府を開いた将軍・足利尊氏が朝廷より授かった号」から、将軍を敬称する呼び名になった。鎌倉時代末期から幕府の家人が将軍を公方と呼び、室町時代には将軍以外にも、将軍の代行者である鎌倉御所や九州探題の長も公方と呼ばれるようになった。

 10代将軍・足利義稙は、有力大名に政権を追われて各地を転々としたことから「流れ公方」と呼ばれ、江戸幕府でも5代将軍徳川綱吉は「犬公方」と呼ばれ、徳川吉宗は豊作と飢饉が繰り返され米価が大きく変動したことから、その対策に追われ「米公方」と呼ぼれていたことはよく知られている。

 「征夷大将軍」「執権」「管領」「大老」「老中」「奉行」などの武家政権における役職に比べると「鎌倉公方」や「関東管領」はなじみの薄い役名であるが、それでも鎌倉公方や関東管領を理解しないと日本の中世史を理解することは困難である。


鎌倉公方

 1349年、室町幕府の初代将軍・足利尊氏の4男である10歳の足利基氏(もとうじ)が、関東の政務・治安維持・基盤安定の為に鎌倉に入って初代鎌倉公方となった。

 鎌倉公方は足利基氏の子孫が受け継ぎ、京都に将軍を補佐する執事が「管領」と言われたように、関東の政務を補佐する者も「関東管領」と呼ばれた。足利基氏が鎌倉公方になったのはまだ10歳だったので、補佐役(関東管領)が事実上の政務を執った。最初に補佐した関東管領はひとりの武将ではなく畠山国清、宇都宮氏綱など複数いたが、やがて関東管領を上杉憲顕(のりあき)が独占し、それ以降、上杉家が世襲することになる。

 関東管領・上杉憲顕は鎌倉公方・足利基氏の補佐役として関東十か国を支配したが、観応の擾乱(じょうらん)で足利尊氏の怒りをかい、上杉憲顕は信濃に追放された。しかし足利尊氏が死去すると、鎌倉公方・足利基氏は上杉憲顕を越後守護に任じて復帰させ上条城を築城させた。これが越後上杉家の発祥となる。

 足利義満が京都の室町に館を構えると、室町幕府将軍は「室町殿」と呼ばれるようになり、鎌倉公方は足利家の分家で鎌倉に住んでいたため「鎌倉殿」と呼ばれるようになった。

 初代鎌倉公方は足利尊氏の4男の足利基氏であったが、その頃は比較的室町幕府とうまくいっていた。しかし2代目、3代目となると鎌倉府はしだいに室町幕府とは別の独立した国家的様相を見せ、幕府の忠実な手足となって働くどころか、時には京都の幕府と露骨に対立するようになった。第4代鎌倉公方の足利持氏はことごとく室町幕府に逆らい、ついに永享の乱に発展した。(下左:足利基氏、下右:鎌倉公方跡)

鎌倉公方・足利持氏

 足利義満が急死すると、次の第4代将軍の足利義持は管領・斯波義将らに支えられ、室町幕府は比較的安定していた。鎌倉公方も関東管領によって補佐されていたが、やがて上杉氏は山内、犬懸、詫間、扇谷の4家に分裂して争うことになる。

 鎌倉3代公方・足利満兼が32歳で亡くなると、12歳の足利持氏が4代鎌倉公方となり、関東管領には犬懸家の上杉禅秀となった。しかしこの足利持氏と上杉禅秀は仲が悪く両者は対立した。

 鎌倉公方・足利持氏はその名が示すように足利将軍の血を引いていたが、くじ引きさえも参加させてもらえなかった。結果くじ引きで選ばれた義弟の暴君・足利義教(くじ引き将軍)が6代将軍になった。

 足利持氏は自分が将軍になるつもりでいたので将軍・足利義教と仲が悪く、鎌倉公方・足利持氏は「くじ引き将軍足利義教」にことごとく反発した。将軍・足利義教を「還俗将軍」と見下し、将軍へ祝いの使者も送らなかった。元号が正長から永享に改元されても、鎌倉公方の持氏は正長の元号を用い続け、幕府に対する不服従の態度をとった。また本来なら将軍が任命する鎌倉の格式ある寺の住職を勝手に任命し、徹底的に幕府と対立した。鎌倉公方・足利持氏には「自分は将軍に劣らない」という誇りがあったのである。

 しかし相手はあの暴君・足利義教である。万人恐怖の足利義教は全国制覇を目指していたので、足利持氏を潰すため持氏の反乱を密かに期待していた。足利持氏の強すぎる自己主張が持氏の破滅を招くことになる。

 鎌倉公方の足利持氏は上杉禅秀を罷免すると、山内家の上杉憲基を関東管領に代え、さらに叔父の足利満隆の補佐を受けた。ところがこの叔父の足利満隆が持氏へ謀反を企てているという噂が立った。

 いっぽう関東管領を罷免された上杉禅秀は領地を没収されたので、これに憤慨した上杉禅秀は足利満隆、甲斐守護の武田信満、相模守護の三浦高明、持氏の弟・持仲らを味方につけて挙兵した。

 上杉禅秀は策を練り、油断していた足利持氏は上杉禅秀の挙兵を知ると、鎌倉を脱出して山を越え海岸沿いの上杉憲基邸に逃げ込み、さらに駿河の今川範政を頼って脱出した。

 鎌倉公方不在となった鎌倉は、元関東管領・上杉禅秀の制圧下に置かれた。駿河の今川範政が足利持氏を擁して室町幕府に援助を求めると、将軍・足利義持が天皇から上杉禅秀討伐の命を受け幕府軍を派遣した。室町幕府と鎌倉公方は仲が悪かったが、将軍と鎌倉公方は同族なので表面上は対立しなかった。

 幕府から討伐軍が出たため、上杉禅秀から多くの武士が離れ大勢が逆転した。足利持氏を擁した今川範政が鎌倉に軍を進めると、上杉禅秀らは鶴岡八幡宮のの雪ノ下の坊(僧坊)に籠もり自刃した。上杉禅秀邸があった佐助ヶ谷は戦火に巻き込まれ、上杉禅秀が建立した国清寺が焼失した。この上杉禅秀の反乱によって犬懸・上杉家は没落し、また足利義満が可愛がっていた義持の異母弟・足利義嗣(よしつぐ)は上杉禅秀に通じていたとして処刑された。

 上杉禅秀の乱が鎮圧されると、足利持氏が鎌倉に戻ったが、その翌年に関東管領の上杉憲基(のりもと)が27歳の若さで急死し、後任にはわずか10歳の上杉憲実(のりざね)が就任した。

 本来鎌倉公方を補佐するべき関東管領が、公方より若年ということになると鎌倉公方・足利持氏を諌める者はいなくなり、足利持氏は独裁的にふるまい室町幕府を軽視するようになった。なおこの上杉憲実こそが足利持氏の最後に関わることになる。

 

室町幕府との対立

 京都の情勢が安定するにつれて、室町6代将軍・足利義教は関東を支配しようとした。室町将軍・足利義教と鎌倉公方・足利持氏は互いに敵対心を見抜いていたので、室町将軍と鎌倉公方の対立は当然の成り行きであった。このような犬猿の仲を取り持っていたのが関東管領・上杉憲実であった。持氏が改元を無視したことを幕府に謝罪し、武装して上洛しようとする持氏を止めた。

 このように関東管領・上杉憲実は幕府と鎌倉府との関係改善に努めたが、足利持氏は上杉憲実を遠ざけるようになった。

 足利持氏は嫡子・賢王丸(足利義久)の元服を幕府に無断で行い、これを諌めた上杉憲実に暗殺の噂まで出はじめた。そのため上杉憲実は管領職を辞職して上野国へ下った。しかしこれを反逆とみなした足利持氏は討伐軍を差し向け、持氏も武蔵府中高安寺(東京都府中市)に陣を構えた。上杉憲実は室町幕府に救援を請うことになる。

 室町幕府の6代将軍・義教はこれを持氏をつぶすチャンスとばかりに、上杉憲実の救援を命じ幕府軍を派遣した。その上、6代将軍・義教は朝廷の権威を利用し、後花園天皇に足利持氏追討令をださせ、錦御旗を要請して足利持氏を朝敵としたのである。

 こうなれば持氏は不利となり、味方の裏切りが相次ぎ孤立してしまった。持氏は出家して幽閉されるが、上杉憲実は「足利持氏の助命と嫡男・義久の公方就任」を将軍・足利義教に懸命に嘆願するが、足利義教はこれを許さず、持氏と義久は自害させられた。足利持氏、享年43。これで鎌倉府は滅亡し、鎌倉は将軍・足利義教の支配下となった。

 義教は自らの子を鎌倉公方に据えようとするが、関東管領・上杉憲実らの反対で実現しなかった。

 

結城合戦

 ところが2年後の1440年、関東が6代将軍・足利義教の支配下に入ることに不満をもった結城氏が、足利持氏の遺児・安王と春王を担ぎ出し、下総国結城城を拠点に倒幕活動を始めた。これを関東管領代行の上杉清方が鎮圧し結城氏朝は討死した。将軍・義教は足利持氏の血を断とうとして安王と春王を殺害したが、永寿王(成氏)だけは未だ幼児だったことから処分されずにいた。

応仁の乱の関東版

 1441年、万人恐怖の将軍・義教が赤松満祐に暗殺され、結城合戦で処分が下されずにいた4男・永寿王丸(成氏)は、暴君将軍・義教の死によって命が助けられ、生き延び永寿王丸が(足利成氏)が鎌倉府に戻り鎌倉公方となった。

 鎌倉府が再興できたのは「万人恐怖」と恐れられた将軍・義教が暗殺され、室町幕府は関東地方の安定を確保すめ永寿王丸(足利成氏)を立てることを許したのである。 

 鎌倉府が復活し、第5代鎌倉公方に足利持氏の子・足利成氏が就いた。この足利成氏が30年にわたる関東の戦国時代の発端となる。まさに複雑な政治状況と豪族の思案がからみあった「応仁の乱の関東版」である。

 関東管領となった上杉憲忠は、前の関東管領を務めた上杉憲実の嫡男であったが、同時に足利成氏の父・足利持氏を殺害した人物でもあった。鎌倉公方・足利成氏は父を殺害した上杉憲忠を右腕にしなければならなかった。上杉憲忠は室町将軍の命令に従い父・足利持氏を殺害したのだが後味の悪いことになった。しかも持氏を支持する旧持氏派と上杉憲忠を支持する反成氏派の間で対立が生じ、これではうまく行くはずはなかった。

 

享徳の乱・古河公方

 父・足利持氏を殺された足利成氏の激しい恨みにより、1454年に関東管領・上杉憲忠は暗殺されてしまう。この暗殺事件により28年間の享徳の乱が始まる。

 室町幕府は管領が畠山持国から細川勝元に替わり、細川勝元は鎌倉公方から関東の支配権を奪おうとした。そのため駿河国の今川範忠を関東に派遣し、足利成氏の鎌倉を制圧することに成功した。

 今川範忠は足利成氏を破って鎌倉に入ったが、足利成氏は古河に敗走し「古河公方」を称するようになる。以後、関東は利根川を挟んで古河公方と上杉氏が対立した。

 足利成氏が鎌倉から離れたことによって、源頼朝以来、武家の街として栄えてきた鎌倉は政治の中心から離れることになる。

 

堀越公方
  足利成氏の代わりに鎌倉公方として、室町幕府から足利政知が鎌倉に送られた。しかし室町幕府の権力は低下しており、上杉家の内紛などもあって、足利政知は鎌倉に入れず、伊豆の堀越に御所を定めた。そのため「堀越公方」と呼ばれた。これにより鎌倉公方という肩書きはなくなってしまう。

 関東公方の中では鎌倉公方の存在が最もよく知られおり、そのため「関東公方=鎌倉公方」と認識している人が多いと思われる。しかし鎌倉公方は消滅しても、関東では古河公方が頂点となって関東諸豪族の勢力を抑え、さらに幕府方の堀越公方・関東管領山内上杉家・扇谷上杉家と関東を東西に二分して戦いが続いた。

 堀越公方は僅か2代で弱体化し、今川氏親を盛り立てていた興国寺城主・伊勢宗瑞(北条早雲)が堀越公方を討ち取り戦国時代へと入った。

 

篠川公方と稲村公方
 鎌倉公方は広い意味で鎌倉公方の後身である「古河公方」の二つの総称であり、更にもっと広い意味では、鎌倉公方や古河公方に加え、古河公方の傍流である「小弓公方」や、古河公方とは対立関係にあった、8代将軍 足利義政の弟足利政知に始まる「堀越公方」なども含めた総称として使われています。

 さらに時代が戻るが公方には篠川公方、稲村公方、小弓公方がいた。稲村公方は1399年に3代目鎌倉公方・足利満兼の弟・足利満直(みつなお)が、奥州統治のため伊達家や斯波家への抑えとして陸奥の安積郡篠川(福島県郡山市)に派遣され「篠川公方」と呼ばれた。
 稲村公方も同様で、足利満兼の弟・足利満貞(みつさだ)が同じく陸奥の岩瀬郡稲村(福島県須賀川市)に派遣されので「稲村公方」と呼ばれている。
  小弓公方は古河公方の傍流であるが、古河公方・足利高基と対立しており、1518年に真里谷城主・真里谷信清が足利義明を下総・小弓城へ迎え入れて擁立した。古河公方に対抗したことが始まりであるが、1538年に北条氏綱・足利晴氏連合軍との戦いにて敗れて安房へと逃れ、小弓公方は消滅した。

その後の関東管領
 室町時代の関東の状況は教科書では皆無だったため、日本の中世史に於ける関東公方の意義や重要性を認識していないのが大部分である。そのため、関東公方や、鎌倉公方を補佐する関東管領、その他の関連事項については試験にも出ないし無視されがちである。

 しかし室町時代の関東の状況は重要である。関東はやがて小田原城主・北条早雲の嫡男である北条氏康が、古河公方、関東管領・山内上杉家、扇谷上杉家を駆逐して関東を制覇したが、この時、北条氏康に敗れた関東管領・上杉憲政は、越後に逃れると長尾景虎(上杉謙信)に関東管領職と山内上杉家の家督を譲った。

 やがて関東は上杉謙信、武田信玄、北条氏による「関東・三国志」の時代となり、関東は戦国時代に突入することになる。

 戦国時代では武田信玄・上杉謙信が病死し、武田勝頼が自害して武田家が滅亡すると、前橋城に入った織田信長の家臣・滝川一益が「関東管領」を名乗ったが、織田信長が本能寺の変で死去すると、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼし、関東・三国志の時代は終わった。

 

考察
 武家にとっての権威である室町幕府や鎌倉府が分裂すれば、それに従う諸豪の家中においても、どちらに従うべきかの意見が分裂するのは当然で、それに家督相続が影響を及ぼした。
 応仁の乱は足利将軍が武力を待たない名ばかりの権威であったために泥沼化したが、関東においても同様の大乱が巻き起こっていた。

 なぜあの戦国時代が起きたのか、それは室町幕府の抱える権力の低下を裏付けるもので、江戸幕府よりも力が弱かったという事と、室町幕府の初代将軍・足利尊氏の長男である2代将軍義詮の血統である足利将軍家と、尊氏の三男である基氏の血統である鎌倉公方・足利家の激しい対立にあった。このような混沌とした状況が北条早雲に付け入る隙を与え、その経緯を経て関東が全国に先駆けて戦国時代に突入した。京都でも幕府の地位低下から、将軍職の継承と管領家の家督相続をめぐって応仁の大乱が起こり、日本は全国的に本格的な戦国時代に突入する事になった。
 つまり歴史を遡っていくと、関東公方の存在に触れる必要がある。歴史というのは、過去から未来への絶える事のない連綿と続く長い時間の経過であり、その経過の一部分を輪切りにして着目しても、その事柄・事件・人物等の本質は見えてこない。この意味で、現代の日本へと続く歴史を考える上で関東公方は避けて通れない存在である。