板額御前

 板額御前(はんがくごぜん)は平家方の有力な武士・城資国の娘で、日本における数少ない「女武将」として知られている。板額御前が活躍したのは平安時代の末期から鎌倉時代の初め頃である。いつの世も「男勝り」は存在するが、板額御前は古くから木曽義仲の巴御前とともに女傑の代名詞として知られてきた。

 板額御前は越後国(新潟)の豪族・城資国の娘で、板額御前の兄弟に城資永、城長茂らがいる。長男兄・城資永(じょうすけなが)は平清盛のもと検非違使を務め、北国では有力豪族の筆頭であった。平清盛が死去したあと、平宗盛から信濃で挙兵した木曾義仲を追討するように命じられた。

 兄・城資永は平家の期待通り越後・会津四郡・出羽南部などから約1万の軍勢を集めたが、出陣直前に卒中を起こし翌日急死した。そのため急遽、弟の城長茂(ながもち)が家督を継いで信濃を出陣して長野の横田河原(千曲川)の戦いとなった。
 木曾義仲軍は千曲川対岸から平家の赤旗を用いて城軍に渡河し、城本軍に近づくと赤旗を捨てて源氏の白旗を掲げるという奇策を用いたのである。城長茂は軍略に欠け、1万の大軍でありながら、3000の木曾義仲に大敗を喫してしまう。城軍では9000騎余が討死・逃亡し、城長茂も負傷したため僅か300騎で越後に敗走した。それ以降も離反者が相次ぎ、そのまま会津へと撤退した。
 一方、木曽義仲は越後を抑えたことで北国を制覇し、1188年頃に城長茂は源頼朝に降伏して梶原景時に身柄を預けられたが、1189年の奥州合戦では梶原景時の仲介で鎌倉幕府軍に加わることが許された。しかし城氏を理解していた梶原景時が鎌倉幕府から追放されて滅ぼされてしまう。これをきっかけに城資永の子・城資盛(じょうすけもり)が越後にて挙兵した。この時の反乱軍に加わっていたのが叔母の坂額御前である。
 この挙兵は建仁の乱、または城長茂の乱とも呼ばれ、梶原景時追放の首謀者のひとりである小山朝政が大番役で京都守護のため在京していたが、1201年1月23日の夜に、城長茂がその小山朝政の邸宅を襲撃した。しかし小山朝政は不在で難を逃れてしまう。

 襲撃に失敗した城長茂は関東討伐の勅命を得ようと、土御門天皇がいる仙洞御所の二条東洞院殿に向かった。しかし鎌倉幕府追討の宣旨が拒否されたため、吉野山に潜伏した。しかし、1201年2月22日、小山朝政ら鎌倉幕府軍の追討を受け城長茂は討たれてしまう(享年50)。

 しかし越後においてこれに呼応するように、城資盛と坂額御前ら城一族約1000にて越後・鳥坂城で挙兵した。雪解けを待って、4月2日に近隣の鎌倉幕府・御家人が鳥坂城を襲うが敗北してしまう。これを受けて北条時政、大江広元、三善康信入道などの有力御家人と越後国守護・佐々木盛綱らが阿賀野川を渡ってきた。
 佐々木盛綱が鳥坂城(とっさか)に軍使を出すと、城資盛は鳥坂城の付近で戦闘を行うと返答してきた。圧倒的な数を誇る幕府軍を迎えて到底勝ち目はなく、籠城策を取るしかなかった。5月上旬から戦闘が始まり、籠城した城勢は少数ながらも善戦し佐々木盛季と海野幸氏は負傷した。

 しかし戦いが始まると寄せ手の側に驚きの声があがった。坂額御前は髪を結い上げ、腹巻きを身につけ、少年の姿になって櫓にあがり矢倉の上から弓で応戦した。放たれた矢の命中率は百発百中で、的となった兵をことごとく倒していった。吾妻鏡では「女性の身たりと雖も、百発百中の芸殆ど父兄に越ゆるなり」と明記されている。男を敵に回し弓を手に持ち戦ったのである。弓の腕前は男顔負けだった。

 攻撃側は一計を案じ、城の背後に回り込み坂額御前の後方の高みから、鎧からはずれたももを狙い打うちにすると、さすがの勇女もたまらず倒れ、ついに生け捕られてしう。

 これにより鳥坂城の城勢は総崩れとなり、城資盛は脱出して行方不明となった。出羽に潜伏したと伝わるが、その後の動向は不明である。本城の白鳥城は5月8日~9日に陥落している。
  顔立ちが良い板額御前は鎌倉に護送されて、6月28日、2代将軍・源頼家の目の前に差し出された。戦場で生け捕りとなり敵将たちの前に引き出され「好奇の視線」が浴びせられたが、板額御前は堂々とふるまった。男以上に、武士ならでは誇りを持っていたというべきであった。傷が癒えいないながらも全く臆した様子がなく、周囲の御家人を感心させた。
 坂額御前には遠国への流罪という運命が待っていた。ところが思わぬ事態が起きた。甲斐源氏の一族・浅利義遠が、翌日、将軍・頼家に「坂額御前を預かりたい」と申し出たのである。頼家は「朝敵となった女を、なぜ?」と問いかけた。
「かの女と夫婦の契りを交わし、たくましい男子を産ませ、朝廷を守り、将軍家も助け奉りたいのです」と述べた。何と率直な答えではないか。これを聞き頼家は義遠の申し出を許した。義遠は坂額御前を連れて甲斐に戻り、板額御前を妻として貰い受け、その後、一男一女をもうけた。板額御前は浅利義遠の妻として甲斐に移り住み、同地において生涯を過ごし死去したとされている。

 笛吹市境川町小黒坂には板額御前の墓所と伝わる板額塚があり、生誕地とされる熊野若宮神社(新潟県胎内市飯角)には、鳥坂城奮戦800年を記念した石碑が建てられてる。吾妻鏡では美人の範疇に入ると表現されているが、大日本史など後世に描かれた書物では不美人扱いしているものもある。これは美貌と武勇豪腕(弓)とのアンバランスを表現したものが誤解されたためと解釈される。

 板額についての伝説は他にもいくつかあり、城が水攻めにあい水不足に悩んだ時、その苦しみを敵にさとられぬため、白米を使って馬を洗い水に見せた話。鳥坂山の裾野の巨岩の多くは板額が足袋で蹴落したものであるとか、さらに領主が入浴中、夕立が降ってきたので領主ともども風呂桶を持って屋内に入れたなどの話が伝わっている。

(写真左:JR羽越線の中条駅前にある像)