護憲三派内閣の成立

大正10年11月に首相の原敬(たかし)が暗殺されると、後継として大蔵大臣を務めていた高橋是清(これきよ)が首相を兼任し、他の閣僚をすべて引き継ぐかたちで内閣を組織した。しかし高い政治力を誇っていた原敬が急死した影響は大きく、間もなく与党の立憲政友会内部で対立が深刻化し高橋是清内閣は短命に終わり、翌大正11年6月に政友会の支持を受けた海軍大将の加藤友三郎が内閣を組織したため、本格的な政党内閣は一旦消滅した。
加藤友三郎内閣はシベリアからの撤兵を実現させ、普通選挙制の検討を始めたが、翌大正12年8月24日に加藤友三郎が病死し、後任者を選任中の9月1日に関東大震災が発生しました。
 震災翌日の9月2日に山本権兵衛が急きょ第二次内閣を組閣して震災後の処理に奔走しましたが、同年12月27日に帝国議会の開会式に向かわれた摂政宮裕仁親王(昭和天皇)が無政府主義者の難波大助に狙撃されるという虎の門事件が起きた。摂政宮はご無事でしたが、第二次山本内閣は事件の責任を取って翌年1月に総辞職し、普通選挙制の実施は持ち越しとなった。
 第二次山本内閣が総辞職した後は枢密院議長だった清浦奎吾が首相になったが、政党から閣僚を選ばずに貴族院を背景とした超然内閣を組織した。清浦奎吾がこの時期に超然内閣を組織したのは、衆議院の任期満了が数ヵ月後に迫っており、選挙管理内閣として中立性を求められたために貴族院議員を中心とせざるを得なかったのである。しかし立憲政友会・憲政会・革新倶楽部のいわゆる護憲三派は清浦内閣に反発するかたちで憲政擁護運動を展開し、第二次護憲運動と呼ばれている。清浦内閣は立憲政友会の脱党者で組織された政友本党を味方につけて総選挙に臨みましたが、結果は護憲三派の圧勝に終わり清浦内閣は総辞職した。
 衆議院で絶対的な安定多数を獲得した護憲三派は連立内閣を組織し(護憲三派内閣)、第一党の憲政会の総裁であった加藤高明が首相となった。加藤高明内閣は大正14年に普通選挙法を成立させ、それまでの納税制限を撤廃して満25歳以上の男子すべてが選挙権を持つようになり、選挙人の割合も全人口の5.5%から4倍増の20.8%と一気に拡大した。さらに加藤高明内閣は治安維持法も成立させた。同年に日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立したので、普通選挙の実施によって活発化される共産主義運動を取り締まることが目的であった。
 加藤高明内閣の成立以後、昭和7年の五・一五事件で犬養毅内閣が崩壊するまで、衆議院で多数を占める政党のトップが内閣を組織する慣例が約8年間続きました。これを憲政の常道という。ただし勢力争いによって政党が分裂や連合を繰り返したこともあって政党政治は次第に国民の信頼を失っていくことになる。
 政党政治が国民の信頼を失ったのは、政治の腐敗も挙げられる。確かに多額の金銭が飛び交う金権政治には問題が多が、こうした腐敗が普通選挙制度の実施後に「ある理由」で一気に拡大した。
  日本では1925年になって、男子のみではあったが普通選挙が実現した。選挙権が財産や性別などで制限されている選挙では国民の意思を政治に生かすことはできないので、長い歴史を経て誕生した普通選挙制度は大切な制度であった。
 高校での一般的な歴史・公民教科書には概ね以上のように書かれており、普通選挙制度の重要性を訴えるのが通常となっていますが、確かに制限選挙よりも普通選挙のほうが制度として当然である。しかし日本で普通選挙の実施後に政治に、特に選挙に大変な費用がかかるようになったのもまた事実である。そもそも納税や財産による制限選挙の時代は大かりな選挙運動はほとんど必要がなかった。なぜなら選挙権を持っている国民の多くが農村では地主、都会では会社の経営者といった層であり、彼らのほとんどが支持政党を決めていたり、また普段から収入があってプライドも高く買収される恐れがなかったのである。
 ところが大正14年に普通選挙法が成立し、支持政党を持たずプライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生した。このような人々から票を集めようと思えばそれこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらした。しかし政党には多額の費用を負担する余裕などなく、当時の財閥からの大口の献金に頼るようになるのも当然といえますが、こうなると国民の生活よりも資金を提供している財閥の存在にどうしても政治が左右されるようになり、国民の目には「政治が腐敗している」ように見えることで、彼らの怒りが政党や財閥などに向けられ、やがて政党政治が崩壊していくことになる。
「政治の腐敗」に対して国民が怒り、またマスメディアが叩くのは無理もない話ではあるが、こうした問題は今から90年近くも前に普通選挙が実施されてからずっと続いているという現実も認識する必要がある。