文学と芸術

文学と芸術
 大正期の文学は「こゝろ」や「明暗」などの夏目漱石や「阿部一族 」などの森鴎外の影響を受けた若い作家たちが次々と登場した。人間社会の現実をありのままに描く自然主義が、作者自身のありのままを写しとる私小説へ変化し、芥川龍之介や菊池寛らは雑誌「新思潮」を発刊して知性を重視し、人間の心理を鋭くえぐる理知的な文学を発表し新思潮派と呼ばれた。芥川龍之介の作品には「羅生門」「鼻」「杜子春」「河童」などがあり、国語の教科書にも採用されている。菊池寛の代表的な作品には「恩讐の彼方に」「父帰る」などがある。また菊池寛は月刊誌「文藝春秋」を創刊している。
 明治43年に創刊した雑誌の「白樺」では武者小路実篤や志賀直哉、有島武郎らが活躍し、個人主義、人道主義、理想主義を追求する作風を残し白樺派と呼ばれた。武者小路実篤は「その妹」、志賀直哉は「暗夜行路」、有島武郎は「或る女」などの作品がある。また独自の耽美派があらわれ、永井荷風が「腕くらべ」、谷崎潤一郎が「痴人の愛」を著した。さらに横光利一や川端康成らは新しい感覚と表現を用いた新感覚派としてこれに続いた。
 詩では高村光太郎や萩原朔太郎らが口語による自由詩を発表し、短歌では伊藤左千夫門下の斎藤茂吉がアララギ派を確立した。この他、俳句では河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)らが従来の五七五調の形にとらわれない新自由律俳句を開拓している。
 第一次世界大戦を経て社会主義運動や労働運動が高まりプロレタリア文学運動が興り、雑誌「種蒔く人」「戦旗」などが創刊され、小林多喜二の「蟹工船」、徳永直の「太陽のない街」などが読まれた。
 大正時代には庶民の大衆文学も流行し、大正14年に大衆雑誌の「キング」が創刊され100万部を突破した。大正11年には「サンデー毎日」が創刊され、週刊誌も人気を集め、関東大震災後には「現代日本文学全集」のように一冊一円の円本や岩波文庫などの文庫本が登場した。その他の大衆文学としては、鈴木三重吉が創刊した児童文学雑誌「赤い鳥」、北原白秋らによる童謡運動が始まり、中里介山の「大菩薩峠」や吉川栄治・直木三十五らの時代小説、江戸川乱歩らの探偵小説などが人気を呼んだ。
 演劇では大正13年に小山内薫や土方与志らによって築地小劇場がつくられ、知識人を中心に反響をよんだ。
 音楽では山田耕筰が交響曲の作曲や演奏を行い、大正14年には日本初の交響楽団である日本交響楽協会が設立し、翌年には日本交響楽協会から近衛秀麿が脱退してNHK交響楽団の元である新交響楽団を立ち上げた。声楽家ではオペラ歌手の三浦環が国際的な名声をえた。
 大正から昭和にかけて文部省唱歌や童謡も親しまれ、山田耕筰は「この道」「からたちの花」「赤とんぼ」「ペチカ」「待ちぼうけ」など数多くの作品を残している。また山田耕筰は関西大の学歌も作曲している。
 美術では日本画の横山大観や下村観山、安田靫彦らによって大正3年に日本美術院が再興され、現代も続く院展(日本美術院主催の展覧会)が開催された。横山大観は「生々流転」、下村観山は「白狐(びゃっこ)」などの作品がある。
 洋画では文展から分離した美術団体の二科会の梅原龍三郎、安井曽太郎、春陽会の岸田劉生らが活躍した。岸田劉生は娘の麗子を描いた作品で知られており、二科会が開催する二科展は芸能人がしばしば入選することでも有名である。また彫刻では詩人でもある高村光太郎の「手」が知られている。