政党内閣

政党内閣の成立
 大正5年10月に第二次大隈重信内閣が総辞職すると、元老の山県有朋(ありとも)は、長州閥の陸軍大将であり、自分の後輩にあたる寺内正毅(まさたけ)に、政党をよりどころとしない超然内閣を組織させました。このため、野党となった立憲同志会(りっけんどうしかい、後に憲政会などの反発を受けましたが、翌大正6年の衆議院総選挙で第一党となった立憲政友会が、準与党的立場を維持しました。
 寺内内閣は、軍閥割拠となった中国大陸における影響力の拡大を目指して、袁世凱の後継となった段祺瑞(だんきずい)政権に多額の借款を行いましたが(西原借款)、その大半が焦げ付いたり、あるいは他の軍閥の反感を買って排日運動の活性化をもたらしたりするなどして、失敗に終わりました。
 大正7年、寺内内閣はアメリカの要請もあって、当初は消極的だったシベリア出兵を決断しましたが、第一次世界大戦中ということで、ただでさえ諸物価が値上がりしている中において、大規模な出兵を当て込んだ、米の投機的な買い占めや売り惜しみが横行したことにより、米価は天井知らずの高騰を続けました。
米騒動
大正7年7月、富山県の漁村の主婦らが、米の販売を求めて米穀商に押しかけると、これがきっかけとなって全国で約70万人もの庶民が、米屋や高利貸しなどを次々と襲うようになりました。これらの動きは、今日では米騒動と呼ばれています。
米騒動のうち、京都や神戸などで起きた暴動が大規模になったことで、政府は鎮圧に軍隊を出さざるを得なくなったり、騒動の余波を受けて、兵庫県で行う予定だった第4回全国中等学校優勝野球大会が中止になったりしました。
寺内内閣は、米を安く売るなどして事態の鎮静化をはかりましたが、首相自身の体調悪化もあり、騒動の責任を取るかたちで、同年9月に総辞職しました。
なお、寺内自身が当時流行だったビリケン人形に似ていたことや、超然内閣で非立憲主義だったことに引っ掛けるかたちで、寺内内閣や寺内本人が、当時は「ビリケン内閣」「ビリケン宰相」と呼ばれていました。
一般庶民が暴徒と化した米騒動の影響は、寺内内閣総辞職後の政局にも大きく及びました。政党嫌いの山県有朋が、衆議院第一党の立憲政友会総裁である原敬を次期首相として認めざるを得なかったのです。
 指名を受けた原は、陸・海軍大臣と外務大臣以外のすべての閣僚を政友会員で固めるなど、我が国初めての本格的な政党内閣を組織しました。また原自身が歴代の首相と異なり、爵位を持つ華族でもなければ、藩閥出身者でもない平民であったため、当時の国民から「平民宰相」と呼ばれて歓迎されました。
平民宰相
 原内閣は様々な政策を行いましたが、政党の影響力を強めるのに特に効果的だったのは、大正10年に郡制を廃止したことでした。当時の郡は単なる行政の区分単位ではなく、郡長や郡役所・郡会が存在していましたが、郡長が政府の内務官僚であったため、藩閥政府の影響力が郡自体にまで及んでいたのです。
また原は、経済発展のために鉄道を積極的に拡張しましたが、なかでも地方への鉄道の敷設に重点を置いたことによって、郡制の廃止とともに、政党の影響力を地方にまで幅広く拡大させることに成功しましたが、こうした卓越した政治力が、原内閣の大きな強みでもありました。
原内閣は大正8年に選挙法を改正し、それまでの直接国税10円以上を3円以上に引き下げたほか、小選挙区制を導入した選挙制度に改めました。
しかし、憲政会などの野党が主張した、納税による制限を設けない普通選挙法案に関しては、「時期尚早」と拒否し、衆議院を解散しました。
原が普通選挙を拒否した理由としては、野党側からの要求という政争問題もありましたが、大正9年に起きた、普通選挙を要求した数万人の大示威行動(デモンストレーション)の中心者に社会主義者が含まれていたことで、普通選挙の実施が、社会主義者や共産主義者らによる階級闘争に利用されることを警戒したという説があります。
選挙において、原内閣は折からの大戦景気を背景として、先述した鉄道拡張計画や高等学校の増設といった、いわゆる積極政策を掲げて圧勝し、立憲政友会は衆議院で絶対多数を得ました。
原内閣は、軍部における改革にも着手し、朝鮮総督府や台湾総督府の長官である総督に文官がなれるようにするなど、軍部による影響力の削減にも成功しましたが、選挙が行われたのと同じ大正9年に起きた戦後恐慌が、それまでの大戦景気を吹き飛ばして、我が国が一気に財政難へと転落すると、原内閣は財政的に行き詰まりを見せるようになりました。
また、この頃までに立憲政友会に関係した汚職事件が続発したことで、野党や国民の間で、原内閣に対する反発が強まるとともに、腐敗をもたらした政党政治への不信感も高まりました。大正10年11月、原敬は関西での遊説のために東京駅に到着した直後に、一青年によって刺殺されてしまいました。高い政治力を誇っていた原内閣が突然崩壊した影響は大きく、後継として高橋是清が首相に選ばれたものの短命に終わり、以後しばらくの間は非政党内閣が続くことになるのです。