ワシントン会議とアメリカの野望

ワシントン会議とアメリカの野望
 第一次世界大戦への参戦をきっかけに、世界での発言権を高めたアメリカは大戦後の体制を自国主導の下に構しようと考え世界一の海軍国をめざし艦隊の増強計画を進めた。アメリカの思惑に気付いた日本は、これに対抗する目的で、艦齢8年未満の戦艦8隻と巡洋戦艦8隻を常備すべく、八八艦隊の建造計画を推進したが、果てしない軍拡競争に疲れたアメリカは世界各国に海軍の軍備制限を呼びかけた。
 大正10年に、アメリカ大統領ハーディングが中心となって、海軍軍備制限と極東及び太平洋問題に関する国際会議がワシントンで開かれた(ワシントン会議)。
 ワシントン会議にはアメリカや日本の他に、イギリス・フランス・イタリア・中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルの計9ヵ国が参加して行われ、日本からは海軍大臣で後に首相となった加藤友三郎を全権とする代表団が派遣された。この会議によってアメリカは大きな利益を得たが、日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)にもつながる国際社会での孤立を招くことになった。
 ワシントン会議で槍玉にあげられたのが日英同盟であった。明治35年に結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も、第一次世界大戦において日本のドイツへの参戦のきっかけになるなど、日英両国にとって価値の高いものであった。しかし満鉄の共同経営を我が国に拒否されて以来、様々な事情の末に、日本の存在を激しく憎むようになっていたアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔な存在でしかなかった。このためアメリカは、ドイツが敗れて同盟の必要がなくなったことを口実に、カナダとともに日英同盟の破棄を迫った。
 イギリスは日英同盟の破棄までは必要ないと考えていたが、第一次世界大戦において経済的あるいは軍事的に大きな恩恵を受けたアメリカの強硬な態度に抗しきれず、日英同盟を破棄する代わりに、イギリス・アメリカ・日本・フランスの四ヵ国条約が大正10年に結ばれた。しかし同盟というものは「1対1」だからこそ威力を発揮するのであり、数ヵ国が連帯すれば責任の所在が分からなくなり、何の意味もなくなってしまうのである。まさに「共同責任は無責任」で、太平洋の現状維持を取り決めた四ヵ国条約がこの後に役立つことはなかった。
 我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四ヵ国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎による軽率な判断があったからである。なお幣原はこの後に「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、日本に大きな影響を与えることになる。日英同盟の破棄によって、日本は強力な同盟国であるイギリスを失うことになった。この後、アメリカは事実上孤立無援となった日本を狙い撃ちし、我が国をますます追いつめるようになる。
 日英同盟の破棄はイギリスにとっても致命的であった。日英同盟があったからイギリスはアジアに気を配らずに済み、第一次世界大戦においてヨーロッパ大陸に兵力を集中させることができたのである。
 しかし日英同盟が破棄されてからわずか20年で大東亜戦争が始まり、イギリスは戦艦プリンス・オブ・ウェールズが日本によって轟沈させられるなど大きな損害を受けました。さらには同じ有色人種である日本の奮戦に勇気づけられた、インドやシンガポールなどが戦後に次々と独立し、気が付けば植民地の大半を失っていた。外交同盟の存在の有無が、世界中にかくも大きな影響をもたらすようになってしまう。日英同盟の終わりが、その後の我が国と世界の運命に甚大な影響を与えたことを、現代の日本人は忘れているが、この事実はもっと意識されるべきことである。
 さて、四ヵ国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだアメリカ・日本・イギリス・フランスにイタリアを加えた5ヵ国の間にワシントン海軍軍縮条約が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限された。
我が国の海軍は、米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱(とな)えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎が、これを抑(おさ)えるかたちで調印(ちょういん)しました。また、条約締結(ていけつ)後は各国が10年間戦艦(せんかん)を建造しないことも取り決められました。
軍縮条約によって、西太平洋における防備に関して各国が制限を受けることになりましたが、なぜかアメリカのハワイとイギリスのシンガポールはその例外とされました。つまり、「日本だけが西太平洋における防備を一方的に削(けず)られた」格好(かっこう)となったのです。
後に我が国が大東亜戦争の際に、結果としてハワイの真珠湾を最初に攻撃し、またシンガポールにも激しい攻撃を加えた理由には、この不平等ともいえる条約がもたらした軍事的な不均衡もその一つがありました。
ワシントン海軍軍縮条約と並行して、軍縮条約を結んだ5ヵ国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に九ヵ国条約が結ばれました。この条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸開放・機会均等の原則が国際条約によって成文化されましたが、これは、我が国が九ヵ国条約より先にアメリカと結んだ、石井・ランシング協定に明らかに反するものでした。
なぜなら、石井・ランシング協定で、アメリカは中国における日本の特殊権益(とくしゅけんえき)の保有を認めていたにもかかわらず、九ヵ国条約によって、中国の権益は「すべての国が平等」となってしまったからです。
アメリカにとって石井・ランシング協定は、自国が第一次世界大戦に参戦中に日本が中国大陸に対して余計な手出しをさせないために、その場しのぎで結んだに過ぎなかったのです。事実、この協定は九ヵ国条約が発効した大正12(1923)年に破棄(はき)されてしまいました。
この後、我が国が中国大陸に何らかの立場で関わる度に、アメリカを中心とする世界が九ヵ国条約違反を強硬に主張したことで、我が国のみが国際的な非難を浴びる遠因(えんいん)となりました。さらに、我が国は九ヵ国条約に基づいて、ヴェルサイユ条約という名の国際的にも「正当な手段」で手に入れた山東半島における旧ドイツ権益を、大正11年に中国に返還することになってしまいました。これを山東懸案解決条約(さんとうけんあんかいけつじょうやく)といいます。
ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調をめざしたものであり、当時はワシントン体制と呼ばれました。
ワシントン体制は、ヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに、第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては、第一次世界大戦で得た様々な権益を放棄(ほうき)させられるなど、アジアにおける政策に対して、列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄によって、国際的な孤立にもつながるようになりました。
しかも、このワシントン体制には大きな欠陥がありました。ワシントン会議後に成立したソビエト連邦が会議に参加していないことで、九ヵ国条約をはじめ数々の国際条約の制約を受けなかったことから、アジアにおいて他国に構うことなく、自由に侵略を行うことが可能だったのです。
巨大な軍事国家でもあったソ連の誕生は、やがてアジアの赤化をもたらすとともに、我が国を苦境に追いつめることになりましたが、そんな我が国に対して、別の方向からさらに追い打ちをかける法律が1924(大正13)年に成立しました。それは、アメリカによる日本人排斥移民法のことです。
これまで述べてきたように、アメリカの対日感情は年を経るごとに悪化していきましたが、それに追い打ちをかけたのが、国際連盟において我が国が提出した人種差別撤廃案でした。白色人種の有色人種に対する優越を否定する案に激高したアメリカは、ますます日本を追いつめるようになったのです。
1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止されました。続いて1922(大正11)年には、アメリカの最高裁判所で黄色人種、すなわち日本人のアメリカへの帰化権が否定されたのみならず、すでに帰化した日本人移民の帰化権まで奪われることになりました。
そして1924(大正13)年に日本人排斥移民法がアメリカ全土に適用される連邦法として成立し、アメリカは国家全体として日本人移民すべてを排斥することを宣言したのです。
アメリカによる一方的かつ冷酷な態度に、日本人の多くはアメリカに対するそれまでの感情を激変させ、敵視するようになりました。後に我が国がアメリカと大東亜戦争を始めた際、日本国民の多くが「大変なことになった」と思ったと同時に、「積年の思いが晴れてスッキリした」と考えた人々も決して少なくなかったのです。
なお、日本人排斥移民法が成立した当時は摂政宮であられた昭和天皇は、後年に「先の大戦の遠因はアメリカ移民の問題であり、近因は石油が禁輸されたことである」と仰られておられます。