パリ講和会議と民族運動

パリ講和会議と民族運動
 4年以上も続いた第一次世界大戦であったが、アメリカ大統領ウィルソンが提唱した十四ヵ条の平和原則を、ドイツが大正7年11月に受けいれ休戦となった。翌大正8)年1月にフランスのパリで講和会議が開かれ、日本も連合国の一国として原敬内閣が、西園寺公望(さいおんじきんもち)を全権として会議に派遣した。
 会議の結果、ドイツと連合国との間で講和条約が結ばれたが、ドイツは全植民地を失い本国領土の一部を割譲させられ、軍事を制限され多額の賠償金が課せられた。なおこの講和条約はヴェルサイユ条約と呼ばれ、また、ヴェルサイユ条約に基づくヨーロッパの国際秩序をヴェルサイユ体制という。
 ヴェルサイユ条約によって、日本は山東半島におけるドイツの権益を譲り受、赤道以北のドイツ領南洋諸島の委任統治権を得た。このときに日本が委任統治した島々の一つにパラオ共和国がある。
 パリ講和会議は敗戦国ドイツにとって厳しい内容となったが、日本は権益など得たが、国際的に苦しい立場に追い込まれることになった、そうなった原因はアメリカと中国であった。
 日本は連合国の一員としてパリ講和会議に参加したが、会議において最も発言権が強かったのはアメリカであった。アメリカはヨーロッパで多くの血を流し戦ったからで、山東半島など限定的な戦闘に留まった日本とでは連合国であるイギリスやフランスの感謝度が違っていたからである。
 講和会議はアメリカ・イギリス・フランスを中心に行われ、アメリカは自国の立場を利用してオブザーバーとして参加した中国の発言権を認めた。中国はドイツの旧権益を、日本ではなく直接返還することを申し出てヴェルサイユ条約の調印を拒否した。また中国国内での排日活動もアメリカの支持を得て激しくなっていった。またアメリカのウィルソン大統領が提案した十四ヵ条の平和原則に基づいて、国際紛争の平和的解決と国際協力のための機関として、大正9年に国際連盟が設立されたが、連盟の会議において日米両国は激しく対立することになった。
 国際連盟で、日本は世界史上初めて人種差別撤廃案を提出した。当時はアメリカで多くの日本人移民が相次ぐ排日運動で迫害されていたため、有色人種への差別を解消するには、同じ有色人種で国際連盟の常任理事国という強い立場だった日本が果たすべき責任があると自負していた。
 日本が提出した撤廃案は、16ヵ国中11ヵ国という多数の賛成を得たが、議長であったアメリカのウィルソン大統領が、「このような重要な事項は全会一致でないと認められない」と主張して強引に否決した。アメリカにすれば、日本人移民の迫害ができず、欧米列強にとってこれまでの「白人を中心とする世界秩序」や「有色人種を奴隷扱いする植民地制度」を破壊する可能性が高い提案は、「危険思想」以外の何物でもなかったのである。
このことから日本はアジアやアフリカの独立諸国や植民地支配を受けていた有色人種に大きな勇気を与えたが、欧米列強から警戒され、特にアメリカの日本敵視はさらに強くなった。
 国際連盟は世界平和のために期待が寄せられたが、常任理事国は日本・イギリス・フランス・イタリアが選ばれたが、アメリカが上院の反対で加盟できず、またロシアや敗戦国であったドイツが除外され、運営は当初から順調ではなかった。
 パリ講和会議において中国は、本来はオブザーバーの立場に過ぎなかったが、アメリカの支持を受けて、日本の権益の無効を主張し、ヴェルサイユ条約の調印も拒否した。アメリカによる支援は中国大陸内にも及び、日本人と日本製品の排斥運動が次々と起きた。またそれ以前の大正4年に、日本が中国に行った提案を、袁世凱)が「二十一箇条の要求」と捏造し、要求を受けいれた5月9日を「国恥記念日(こくち)」とし、袁世凱亡き後の北京政府が、西原借款によって日本と癒着していた格好となったり中国国民の反発を招いた。
 大正8年5月4日に、北京で学生のデモ行進をきっかけに、中国各地で学生・商人・労働者らによる激しい反日運動が起きた。これを五・四運動という。五・四運動は反日運動であるとともに、中国国内におけるナショナリズムを高めた効果があったとされていますが、実は、同じ年に同じ東アジアで広がった事件も大きな影響を与えていました。
その事件とは、当時我が国が併合していた朝鮮で起きた、三・一事件のことである。日本は国際的にも正当な手法で日韓併合を行い朝鮮を自国の領土としたが、それが合法的であったとしても、朝鮮半島の人々の自尊心を傷つけ朝鮮独立を求める声が高まってきた。大正8年3月1日、京城(ソウル)のパゴダ公園(現在のタプッコル公園)で独立宣言が読み上げられたのをきっかけとして、独立を求める大衆運動が展開されました。運動はやがて朝鮮全土に広がりを見せ、示威行動の高まりによって警察との衝突が起こり、最後には軍隊も出動して流血の惨事となった。これを三・一事件、あるいは万歳事件とう。三・一事件は不幸な出来事であったたが、裁判によって死刑を宣告された者は一人もいなかった。当時の朝鮮総督である斎藤実が融和策をとったからである。斎藤総督はその後も集会や言論、あるいは出版に一定の自由を認めるなど、事件の反省を受けて、朝鮮半島における統治政策を緩和した。