昭和の日

 平成19年(2007)から新しく「昭和の日」という祝日が加わった。かつては「みどりの日」とされていた4月29日が「昭和の日」です。「みどりの日」は、もともとは昭和天皇の誕生日でした。昭和64年(1989)1月7日に昭和天皇が崩御(お亡くなりになること)されたことを受けて年号が「平成」に改まり、当時の「天皇誕生日」であった4月29日は昭和天皇が自然を愛されたことにちなんで、平成元年から「みどりの日」と名称を変えて祝日として存続しました。しかし多くの国民の要望を受けて、平成17年(2005)に国会で「国民の祝日に関する法律」(祝日法)が改正され、平成19年より「昭和の日」とすることになったのです。
 昭和天皇は昭和元年(1926年)に即位された。初代の神武天皇から数えて124代目の天皇である。激動の「昭和」をまとめられた人物として多くの国民の心に刻まれている。両親や私たち多くは「昭和」生まれの人間で、「昭和」とは中国の書物『書経』の中の「百姓昭明、協和万邦」という言葉が語源で、これには国民の平和と世界各国の共存繁栄を願うという意味が込められている。
 昭和3年(1929年)、昭和天皇のご即位を祝う分列式と奉祝歌奉唱が行われました。しかし、当日は嵐に近い豪雨。宮内大臣は陛下に、「今日は非常な荒天でございますから、どうか天幕の中で御親閲を願いとうございます」とお伝えしたものの、陛下はお聞き入れにならず、天幕を取り除くようにおっしゃいました。会場では、天幕が取り外されたために、宮内庁の担当者に「なぜ、天幕を外すのか」という質問が相次ぎましたが、「陛下の思し召しによるものです」という回答を伝えると、間もなくそれが参加者約8万名に伝わりました。陛下の、「君たちがぬれるなら、私も濡れよう」というお気持ちを受け取った参加者は、大雨の中にもかかわらず外套(コート)を脱いで分列行進に参加しました。陛下は、青年たちが外套を着ていないのをご覧になり、側近がかけた防水マントをお脱ぎになってそれにお応えになりました。後ほど、側近がなぜマントを脱がれたかお尋ねしたところ、「皆が着ておらぬから」とのお言葉だったそうです。常に国民と共にあろうとされる昭和天皇のお人柄がうかがわれるエピソードです。
大東亜戦争(いわゆる太平洋戦争)が終戦し、その際に終戦の決断を下されたのも昭和天皇でした。昭和20年(1945年)8月9日、日本に対して提示されたポツダム宣言の受諾をめぐって御前会議(天皇陛下にご参加頂き行う会議)が開かれました。参加者は総理大臣、外務大臣、軍を統率する陸軍大臣・海軍大臣など11名でした。当時の状況としては、6日に広島に原子爆弾が落とされ、8日にソビエト連邦(現ロシア連邦)が日本に参戦し、会議の行われた9日には長崎にも原子爆弾が落とされるという、深刻な状況でした。会議ではポツダム宣言を受け入れるとする外務大臣を中心とした意見と、本土決戦を行おうとする陸軍大臣を中心とした意見に分かれ、まとまりませんでした。もちろん、どちらの意見も日本の将来を案じてのことです。そこで当時の鈴木貫太郎総理大臣が、「誠におそれ多いことではございますが、ここに天皇陛下の思し召しをお伺いして、それによって私どもの意見をまとめたいと思います」と昭和天皇のご聖断を仰ぎました。張り詰めた空気の中、陛下はおっしゃいました。
「それならば自分の意見を言おう。自分の意見は外務大臣の意見に同意である。」
その瞬間、参加者は涙を落とし、次の瞬間はすすり泣き、さらに次の瞬間は号泣でした。陛下もお泣きになり、しぼりだすようなお声で理由をおっしゃいました。
「自分の任務は祖先から受け継いだ、この日本を子孫に伝えることである。今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残っていてもらって、その人たちが将来再び起ち上がってもらう外に、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。それにこのまま戦を続けることは、世界人類にとっても不幸なことである。自分は明治天皇の三国干渉の時のお心持も考え、自分のことはどうなっても構わない。耐え難きこと忍び難きことであるが、この戦争をやめる決心をした次第である。」
 昭和天皇は、大東亜戦争(太平洋戦争)が終戦した翌年の昭和21年2月から昭和29年8月まで、全国の被災地を視察して国民を激励するため、行程33,000キロ、総日数165日にも及ぶ全国御巡幸を行われた。千葉県への御巡幸の際は、御召列車の中で御仮伯さした。「千葉県への御巡幸は6月6日・7日の両日にわたって行われ銚子でお泊りになるところを交渉したが、戦災で焼け到底お迎えできるような家でないと辞退したので、そこで困ったあげく、お召し列車を貨車引き込み線の新生(あらおい)駅に入れて、汽車の中で陛下にお休み願った。もちろん車内には寝台もなければ、入浴の施設もない。このことを陛下に申し上げると「戦災の国民のことを考えればなんでもない。10日間くらい風呂に入らなくてもかまわぬ」とのお返事を頂いた。
 千葉県への御巡幸を含め、昭和天皇が立ち寄られた場所は1,400箇所を越えるものでした。一時は、当時日本を統治していたGHQ(連合国最高司令官総司令部)の意向により、御巡幸が中止となる動きもありましたが、陛下御自身が御巡幸の復活を切実に願われ、自らGHQのマッカーサー元帥に面会されて、御巡幸は再開された。御巡幸先では、多くの国民が崇高な行脚のお姿に感動し涙を流す人も多くいた。昭和天皇から日本を復興させようというエネルギーを頂いたという国民も多かった。
 終戦後、GHQ(連合国最高司令官総司令部)のマッカーサー総司令官にも、同じように、「今回の戦争の責任は全く自分にあるのだから、自分に対してどのような処置をとられても依存はない」とおっしゃり、その様子を見たマッカーサー元帥は「私は初めて神のごとき帝王を見た」と述べています。
2回にわたって、64年続いた昭和という時代を支えられた昭和天皇を取り上げました。その時代は「激動」と言うにふさわしい時代の日本でしたが、昭和天皇は常に国民を第一に考えられ、見守っていらっしゃいました。その記憶をしっかりと後世に伝えていきたいものです。
昭和63(1988)年9月、昭和天皇は大量の吐血をされて危険な病状となりました。毎日流れるニュースを見ながら、「大変なことが起こっているんだな」と思った。その年の秋は雨が多く、その状態にあっても、昭和天皇はお見舞いに上がった宮内庁長官に「雨が続いているが、稲の方はどうか?」と、重篤な病状にある自己のことよりも、その年の稲の作柄を案じていらっしゃいました。どんな状態にあっても、日本の国民のことを一番に考えていらっしゃったのです。