北条早雲

 小田原城主・北条氏の祖として名をはせた伊勢新九郎長氏(北条早雲は、一介の伊勢の浪人から、今川氏や足利氏のトラブルに乗じて戦国大名にのし上がった下剋上の典型例とかつての教科書に書いてあった

 また北条早雲は下剋上の典型例だけでなく、遅咲きの戦国武将で、歴史に名を残す活躍は50歳を過ぎてからである。北条早雲の下剋上から「我も続け」とばかりに戦国時代に入ったが、では下剋上の見本のような北条早雲とはどのような人物だったのだろうか。今回は相模に根付き、関東全域に影響を与えた豪快でありながら繊細な北条氏の始祖・北条早雲に注目したい。

 

伊勢新九郎長氏

 伊勢新九郎長氏と名乗っていたことから伊勢出身とされてきたが、しかしここで「一介の素浪人の妹がなぜ駿河守護・今川義忠の正室になれたのか」という疑問が浮かび上がってくる。この疑問に答えるように、現在では、北条早雲一介の浪人ではなく、元々は室町幕府の政所執事を務めた名門官僚・伊勢氏を出自とする説が確実になっている。

 近年の研究では北条早雲は備中の荏原荘(井原市)で父・伊勢盛定の次男として生まれ、若い頃は荏原荘を居住にしていた。父・伊勢盛定は幕府政所執事で8代将軍・足利義政の申次衆、つまり将軍と有力武士との取り次ぐ役目をしていた。母は室町幕府の高級官史の娘で、北条早雲は幼少時から厳しい教育を受け、京都に出て母の人脈を頼りに幕府の役人として登用されて将軍の側近となった。このことは最近の古文書解読検証によって確実とされている。

 

応仁の乱

 23歳の早雲は、足利義視の近侍(きんじ)となった。当時としては遅いスタートで、しかも仕えたのが将軍の義政ではなく、その弟の義視だったことが早雲のその後の人生に大きな影響を与えた。
 将軍・義政がすんなり将軍職を義視に譲っていれば、早雲はそのまま出世して、幕府の中枢で活躍したのだろうが、将軍・義政と日野富子夫妻の間に義尚(よしひさ)が生まれ、義視と義尚との将軍後継者争いが始まり、この争いが「応仁の乱」の引き金になった。つまり北条早雲は応仁の乱が始まる直前から室町幕府のまっただ中にいたわけである。

 1467年に応仁の乱が起こり、足利義視は東軍・細川勝元に擁立されたが、一時期、身の置き所がなく伊勢(三重県)に落ち行くことがあった。近侍である北条早雲も伊勢に下ったが、翌年、義視が京に迎えられたとき早雲は京には戻らず、そのまま伊勢に留まり浪人となった。ここで早雲・素浪人説との接点がみられる。その後、早雲は駿河(静岡県)ヘ下ったのである。

 応仁の乱が始まったとき、駿河守護・今川義忠が兵を率いて上洛し、東軍に加わり、その滞陣中に北条早雲の妹・北川殿を見初めて結婚した。

 駿河守護・今川義忠が上洛して東軍に加わり、しばしば幕府を訪れて、その申次を早雲の父・盛定が務めていた。その縁で早雲の妹の北川殿が義忠の正室になった。備中・伊勢氏は今川氏と家格的に遜色なく、これで今川義忠に北条早雲の妹が嫁いだ理由が理解できる。

 伊勢から駿河に下った早雲は、しばらくの間、目立った活躍をしていない。しかし皮肉なことに、妹の夫である今川義忠が戦死すると、にわかに早雲の出番がまわってきた。

 

 

伊勢盛時(北条早雲)

 北条早雲の父は、室町幕府の政所執事を務めた伊勢盛定(もりさだ)で、備中荏原郷(岡山県井原市)の高越山城主をかねていた。政所執事とは幕府の金銭出納、すなわち徴税の責任者で、今で言うと国税庁の長官である。さらにお金の貸し借りの民事訴訟の仲裁・判断も行い、その権力は絶大なものであった。この伊勢氏は代々室町幕府に仕えた名族で、各地に伊勢一族が散らばっていた。母は同族・伊勢貞国の娘(伊勢貞親の姉妹)とされている。北条早雲はこの伊勢盛定の子「伊勢盛時」として、1456年に、備中荏原荘(岡山県井原市)で誕生した。

 父・伊勢盛定には長男・伊勢貞興がおり、伊勢盛時(北条早雲)は次男で、他にも伊勢弥次郎や娘である北川殿(生年不明)の4人の子がいた。しかし、長男・伊勢貞興は申次衆に加わったあとの動向について記録がないので早世した可能性があり、またこのことから次男である北条早雲が早くから嫡男の立場にあったとされる。
 北条早雲が伊勢盛定の子であることは、江戸時代前期までは同様に周知のことだったが、江戸時代中期から「身分の低い者が実力で身を立てる話」が流行したため、北条早雲も浪人から出世した話になったのである。

 1467年に応仁の乱が起こると、将軍警護の為に駿河守護・今川義忠は1000騎を率いて上洛して東軍の花の御所に入った。
 この時、今川義忠は伊勢貞親の屋敷をしばしば訪れている。北条早雲の父・伊勢盛定の妻は、伊勢貞親の姉妹だった事もあり、申次衆(将軍に奏聞を取次ぐ人)を務めていた伊勢盛定は今川義忠とも親しくなった。その縁で、北条早雲の妹・北川殿が今川義忠(31歳)の正室として嫁いだのである。北川殿は駿河の駿府館にて長女・栄保、嫡男・龍王丸(今川氏親)を生んでいる。

 

今川家の家督争い

 1476年に今川義忠が忠義に背いた横地四郎兵衛と勝間田修理亮を討ち取ったが、帰路の途中、遠江の小笠郡・塩買坂(静岡県菊川市)で、横地氏と勝間田氏の残党による恨みから襲われ、今川義忠は馬に乗って指揮を取っていたが流れ矢に当たって討死した。

 今川義忠の突然の死により、早雲の妹の北川殿との間に生まれた嫡男・龍王丸(今川氏親)が残された。嫡男の龍王丸がまだ6歳と幼少だったため、当然のように家督争いとなった。今川氏の家臣・三浦氏、朝比奈氏が義忠の末弟・小鹿範満を擁立して、今川家は二分して家督争いとなった。

 今川義忠の正妻は早雲の実妹・北川殿で、竜王丸は北条早雲の甥にあたる。北川殿は龍王丸を連れて小山城(焼津市)城主・長谷川正宣の元に逃れた。

 嫡男・龍王丸と今川義忠のの末弟・小鹿範満との家督争いであったが、堀越公方・足利政知や関東執事・上杉政憲までもが小鹿範満を推し太田道灌が駿河へ出兵するなどした。

 北川殿は9代将軍・足利義尚の申次衆であった父・伊勢盛定を頼り、北条早雲(伊勢盛時)は父・伊勢盛定の代理として室町幕府の意向を受けて駿河へ下向した。

 龍王丸派にとって不利な情勢であったが、この家督争いの内紛に対し京の室町幕府から命を受けた北条早雲は駿河今川館の小鹿範満を急襲し「和睦に反対するなら攻撃する」と騙して「龍王丸が成人するまで小鹿範満が家督を代行する」ことで決着した。両派は浅間神社で神水を酌み交わして和議を誓い小鹿範満が駿府館で家督を代行することになった。このことが北条早雲と今川家との絆を強め、後の北条早雲の関東進出と後北条氏誕生の契機になった。
 この調停成功は、北条早雲の抜群の知略による立身出世の第一歩となった。当時、家督継承を決めるのは将軍であったので、早雲は龍王丸が家督を継げるように将軍を説得したのである。

 龍王丸は母・北川殿と焼津・小川城の法永長者(長谷川政宣)に身を寄せ、家督を代行する小鹿範満が駿河館に入った。今川氏の家督争いが収まると早雲は京都へ戻り、9代将軍義尚に仕えて奉公衆になっている。

 1479年、将軍・足利義政は龍王丸(氏親)の今川家継承を認め、本領を安堵する内書を発給するが、龍王丸が15歳を過ぎても小鹿範満は太田道灌の後ろ盾もあり家督を譲ろうとしなかった。室町幕府は各国の支配を守護に任せていたが、守護が勢力を拡大することを防ぐため、幕府は親衛隊を作っていた。

 将軍の親衛隊守護と同じく将軍の家臣であり、誇りと独立心を持っていた。衛隊が戦に出陣するときは、将軍から命令を受け制圧軍の先頭に立った。

 1487年、北川殿から助けを求められた早雲は再び駿河へ下り、龍王丸を補佐すると共に石脇城(焼津市)に入って同志を集め、同年11月、早雲は兵を起こし駿河館を襲撃して小鹿範満とその弟・小鹿孫五郎を追放した。龍王丸は駿河館に入り、元服すると、竜王丸は今川氏親を名乗り、正式に今川家当主となった。

 なお北川殿は駿府館付近の阿部川支流である「北川沿い」に別荘を建て移り住んでいたため北川殿と呼ばれていた。また早雲は曽祖父・細川氏の家臣・小笠原秀清の娘(南陽院殿)と結婚し、1487年に嫡男の氏綱が生まれている。

 北條早雲は龍王丸(今川氏親)の跡継ぎに成功すると、今川氏親を支援するため、京に戻らず今川氏親の家臣となった。また戦功の第一の功労者である早雲は恩賞として伊豆との国境に近い興国寺城(沼津)に所領を与えられた。北條早雲は甥の龍王丸(今川氏親)の後見役として駿河東部の富士下方12郷を貰い乗り込んだ。

 興国寺城を得て北條早雲は一城の主となったが、この時、北条早雲は56歳だった。北条早雲は今川氏の家臣となり、今川領国の東の守りを任された。また 今川氏親の外叔父の立場として、今川氏の中心的存在にのぼりつめた。この興国寺城が伊勢盛時(北条早雲)が伊豆、さらに相模へと進出する起点となる。

 なお「北条早雲」という名は亡くなる時点でも使用されたことはなく、そもそも北条を名乗ったのは2代目の北条氏綱の時代からで、相模や関東とゆかりの深い鎌倉時代の執権・北条氏の権威を受け継ごうとしたからで、同じ北条でも鎌倉時代の北条氏とは何の関係もないため、後北条とよぶことがある。また「早雲」と言う名前は「早雲庵宗瑞」との法名があり、北条家の菩提寺が箱根湯本にある「早雲寺」であることから、後世に名付けられたと考えられている。本文において本来は「伊勢宗瑞」と書くべきであるが、通りのよい北条早雲を使用した。

伊豆平定

 鎌倉公方・足利成氏が幕府に叛き、将軍の命を受けた今川氏が鎌倉を攻めて占領し、足利成氏は古河城に逃れて古河公方と呼ばれるようになった。足利成氏は幕府方の関東管領上杉氏と激しく戦い(享徳の乱)、将軍・義政は足利成氏に代る正式な鎌倉公方として異母兄の足利政知を送るが、足利成氏方の勢力が強く鎌倉に入ることができず堀越(静岡県伊豆の国市)に本拠を構え堀越公方と呼ばれた。

 北條早雲が50代中ばの頃、足利成氏と上杉氏との和睦が成立する頃になると、幕府の権力は衰退し足利政知の存在は宙に浮いてしまい、堀越公方は伊豆の単なる領主となった。

 北條早雲が興国寺城主となったあと、1489年には次男・北条氏時が誕生した。しかし堀越公方・足利政知が亡くなると、足利政知には長男の茶々丸がいたが、茶々丸は側近の嫡男であり、正室・円満院との間に生まれた清晃(義澄)、潤童子と堀越公方をめぐり家督争いが起きた。

 当時の堀越公方を治めていた足利政知は、政知の嫡男・茶々丸の素行が悪いことから、茶々丸を廃嫡されて土牢に軟禁していた。しかし1491年に足利政知が没すると、茶々丸は牢番を殺して脱獄し、堀越公方に決まっていた異母弟の潤童子と継母・円満院を殺害して強引に跡目を継いだ。

 この堀越公方の混乱を隣国の駿河で見ていた早雲は好機到来として、手勢500を率いて伊豆に侵入し、足利茶々丸を急襲して討伐すると一夜にて堀越公方を滅ぼし伊豆国を乗っ取った。

 扇谷上杉家の上杉定正が手引したとの見方もあるが、鮮やかな「国盗り物語」であった。いずれにせよこの伊豆討入りが戦国時代の幕開けとされている。
 茶々丸と潤童子は対立していたが、二人の間には三男の清晃(せいこう)が出家して京にいた。この
清晃は管領・細川政元によるクーデター(明応の政変)で還俗して、足利義澄と改名して将軍に擁立された。北条早雲による伊豆乱入と足利茶々丸の追放は、この足利義澄に母と弟の敵討ちを命じられてのことだった。
 早雲は
本拠地を韮山城に移し、狩野城や深根城などを攻略して、6年がかりで伊豆を平定した。なおこの伊豆乱入を契機に出家して「早雲庵宗瑞」と名乗るようになった。

 伊豆一国の大名となった早雲は、新たな居城として韮山城に居城を移し、伊豆国の統治を始めたが、この時すでに60歳になっていた。

 早雲は高札を立て味方に参じれば本領を安堵すると約束し、参じなければ作物を荒らして住居を破壊すると布告した。このように従う者の身の安全は保障するが、背く者の屋敷は焼き払うとしている。また兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、病人を看護するなどの善政を施した。茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の小領主や領民はたちまち早雲に従い、それまで重い税制を廃止して四公六民の租税を定めた。当時はどこの国の領民も重税にあえいでおり五公五民なら仁政と言われ、七公三民という酷税も珍しくなかった。この減税に領民は歓喜し、飴と鞭の使い分けにより伊豆一国は30日で平定された。他にも領地を検地したり家法を制定したりと領民が暮らしやすい国づくりを行った。

 北条早雲が動員できた兵力は2000位で伊豆の狩野城も攻略し、最後まで抵抗した関戸吉信の深根城(下田市)も陥落させた。関戸吉信の妻・尉奈の前(じょうなのまえ/上杉憲実の娘)もて夫の後を追い自刃し、早雲は城に籠った約700人を皆殺しにして武力を示した。このように約5年掛かって伊豆を平定している。早雲は伊豆の平定をする一方で、今川氏の武将として活動しており、1494年頃から今川氏の兵を指揮して遠江へ侵攻して、中遠まで制圧している。早雲と今川氏親は連携して領国を拡大したが、伊豆国の東方に広がる関東の政情は不安定で、相模国の守護は扇谷上杉家・上杉朝良で関東の勢力は関東管領にとってかわっていた。

小田原城奪取

 北条早雲まず関東制覇の足がかりとして隣国相模に目をつけた。早雲は小田原城主である大森藤頼に贈り物や書状を繰り返し、親交を深め藤頼を信頼させた。頃合いよしとみた早雲は、あるとき一通の手紙をしたため、藤頼に届けさせた。その文面は「伊豆で鹿狩りをやっていたら、鹿がみな小田原城の裏山に逃げてしまった。伊豆に追い返すため、勢子(せこ)を入れさせてほしい」というものであった。大森藤頼はこれを受け入れたが、早雲は鹿狩りと偽って猟師に扮した屈強の兵を相模に入れ、その夜、千頭の牛の角に松明を灯して多勢を装い、勢子に扮して背後の箱根山に伏せていた兵たちが鬨の声を上げて火を放った。

 早雲の兵が小田原城へ迫ると、数万の兵が攻めてきたと、おびえた小田原城は大混乱になり、藤頼は命からがら逃げ出して、早雲は易々と小田原城を手に入れた。謀略と奇襲攻撃によって小田原城を落とし、扇谷上杉家の家臣・大森藤頼を追い出すと、小田原城を占領して関東進出の拠点を築いた。

 この小田原城占領は典型的な城盗り物語であるが、どこまでが史実なのかは分かっていない。そもそも早雲が小田原城を奪取した時期が明確にはなっていない。しかしいずれにせよ小田原城を奪取し後に北条氏の本城としたことは間違いない。早雲は小田原城を奪取したが、終生、伊豆韮山城を居城としている。

 小田原城を占拠したが、そこから東にはなかなか進めず、1516年になって平安時代以来の相模(神奈川)の守護であった三浦義同(よしあつ)を攻め滅ぼし相模国を平定した。これを機に早雲は家督を今川氏綱に譲り、1519年に韮山城内で没した。享年88。

 早雲は遅咲きの武将で、人生50年の時代にもかかわらず,その歴史的な活躍は50代以降という桁外れな大器晩成の人物である。早雲の後を継いだ氏綱は北条氏(後北条氏)を称して武蔵国へ領国を拡大し、武田信玄や上杉謙信と五分に渡り合った。氏康、氏政、氏直が勢力を伸ばし、北条氏(後北条氏)は5代に渡って関東を征した。孫の北条氏直が豊臣秀吉に小田原征伐で滅ぼされるが、降伏する1590年まで北条は関東でも最大の大名であった。

 

北條早雲の評価

 北条早雲は謀略を好む梟雄の印象が強いが、裏切り、裏切られが堂々と行われていたのが戦国時代である。また当時の武将で早雲ほど民政を重視した人物はいない。領地の主体は農民であるという信念に基づき善政を敷した。

 足利茶々丸を急襲して伊豆国に乗り込んだとき、早雲がまず手がけたのは「風病」に苦しむ人々の救援だった。さらに年貢を五公五民から四公六民に軽減して農民を救った。早雲は検地を行い、貫高制により土豪や国人が支配してきた村落を直接把握した。守護領・荘園・国衙領など複雑に絡み合っていた村落を早雲は権力によって再編させた。

 なお斎藤道三、松永久秀、北条早雲は世間では梟雄と呼ばれているが、梟とはふくろうのことで、ふくろうの子どもが母鳥を食べて成長するということで「残忍で強く荒々しい悪者などの首領」の意味であるが、民生を重んじた北条早雲は梟雄には当てはまらないであろう。

 北条早雲が残した家訓の中に「上下万民に対し、一言半句であっても嘘を言ってはならない」とある。この治世は戦国大名の先駆けとしての早雲の真価を表している。

 壬申の乱により室町幕府と将軍の権威は衰弱し、 守護大名や武士が命令に従わなくなり、守護大名がその領地を取り合う戦国時代に移った。北條早雲はその歴史の流れを読み、独自の方法で時代を乗り切ったのである。北條早雲が何より民生の安定を優先したのは、若年時に遭遇した「応仁の乱」の騒乱を目にし、政治の乱れは人心を惑わし、民衆の信頼を失った為政者は滅びることを知ったのであろう。人心を掌握するには民衆の実情に通じていなければならない。これこそが治世の基本と自得したのだろう。

 早雲は伊豆守や相模守といった官位(官途受領名)を希望しなかった。朝廷公家や幕府政治は崩壊しつつある。関東に新国家を構想する早雲にとって、血筋や家柄など意味も意義もない、もはや無用の長物でしかなかった。さらに豊臣秀吉の20万の大軍によって小田原攻められるまで、北条氏は関東のほぼ全域を版図に五代約100年にわたって戦国舞台を演ずることになる。また戦国時代の中で唯一、北条家には家臣・領民で大きな争い、お家騒動がなかったことも評価できる。