北条早雲

 小田原・北条氏の祖として名をはせた伊勢新九郎長氏(北条早雲は一介の伊勢の浪人とされ、かつての教科書では「伊勢の素浪人である北条早雲が妹の嫁ぎ先である今川家の食客となり、それを手がかりに伊豆を乗っ取り戦国大名にのし上がった」と書かれ下克上の典型例とされてきた。

 北条早雲は遅咲きの戦国武将で歴史に残るのは50歳過ぎからである。北条早雲の下剋上から「我も続け」とばかりに戦国が激化したが、では下剋上の見本のような北条早雲とは何者だったのだろう。

 伊勢新九郎長氏と名乗っていたので伊勢出身とされてきたが、しかしここで「一介の素浪人の妹がなぜ駿河守護・今川義忠の正室になれたのか」という疑問が浮かび上がってくる。この疑問に答えるように、現在では、北条早雲室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏を出自とする説が主流になっている。

 近年の研究によると、北条早雲は備中の荏原荘(井原市)で伊勢盛定の次男として生まれ、父・伊勢盛定は幕府政所執事・伊勢貞親とともに8代将軍・足利義政の申次衆をつとめていた。母は室町幕府の高級官史の娘で北条早雲は幼少時から厳しく教育され、京都に出て母の人脈をたよって幕府の役人として登用され将軍の側近となったいた。このことは最近の古文書解読から確実視されている。

 1467年に応仁の乱が起こり、北条早雲は応仁の乱を経験している。駿河守護・今川義忠が上洛して東軍に加わり、今川義忠はしばしば幕府を訪れ、その申次を早雲の父・盛定が務めていた。その縁で早雲の妹の北川殿が義忠の正室になった。備中伊勢氏は今川氏と家格的に遜色なく、これで今川義忠に北条早雲の妹が嫁いだ理由がわかる。

 また「北条早雲」という名は存命中には使われていなかった。そもそも北条を名乗るようになったのは2代目の氏綱の時代からで、鎌倉時代の北条氏とは何の関係もない。本文において本来「伊勢宗瑞」と書くべきであるが、通りのよい北条早雲を使うことにする。

今川の家督争い

 今川義忠と妹の北川殿には嫡男・龍王丸(今川氏親)がいるが、1476年に今川義忠が遠江の塩買坂の戦いで戦死した。このように龍王丸の父・今川義忠が急死し残された嫡男の龍王丸が幼少だったため、今川氏の家臣・三浦氏、朝比奈氏が一族の小鹿範満(義忠の弟)を擁立しようとして、今川家が二分されて家督争いとなった。今川義忠の妻(竜王丸の母親)は早雲の実妹で、竜王丸は早雲の甥にあたった。

 こ家督争いに堀越公方・足利政知と扇谷上杉家が介入し小鹿範満側についた。小鹿範満と上杉政憲は血縁があり、扇谷上杉家の家宰・太田道灌が兵を率いて圧力をかけたこともあり小鹿範満が今川家の家督を相続しようとした。
 龍王丸派にとって不利な情勢であったが、この家督争いの内紛に対して、北川殿の兄である北條早雲は京の室町幕府から駿河へ向かい「和睦に反対するなら攻撃する」と双方を騙して調停を行い「龍王丸が成人するまで小鹿範満が家督代行」することで決着した。

 龍王丸は母・北川殿と小川の法永長者(長谷川政宣)の小川城(焼津市)に身を寄せ、家督を代行する範満が駿河館に入った。

 1479年、将軍・足利義政は龍王丸(氏親)の今川家継承を認めて本領を安堵する内書を発給するが、15歳を過ぎても小鹿範満は家督を譲ろうとしなかった。そのため、早雲は1487年に将軍の親衛隊になった。室町幕府は各国の支配を守護に任せていたが、守護が国内の武士を家臣に加えて勢力を拡大することを防止するために親衛隊を作っていたのだった。
  親衛隊の早雲らは守護と同じく将軍の家臣であると言う誇りと独立心を持っていた。衛隊が戦に出陣するときは、将軍から命令を受けたうえで、守護の指揮下に入って先頭に加わっていた。

 北川殿に助けを求められていた早雲は、1487年11月に駿河館を襲撃して小鹿範満を自害させた。こうして2年後には竜王丸は今川氏親を名乗り、正式に今川家当主となった。北條早雲は今川氏義忠の死後の家督争いで妹が産んだ龍王丸(氏親)を跡継ぎとすることに成功し、早雲には恩賞として興国寺城が与えられた。また早雲は今川氏親の外叔父の立場として、今川氏家中の中心的存在にまでのぼりつめた。

 北條早雲は甥の龍王丸(氏親)後見役として駿河東部に領地を貰い乗り込んだ。この功績で早雲は駿河国の興国寺城を得て一城の主となった。この時、早雲は56歳だった。

 

伊豆乱入

 早雲が50代半ばの頃である。足利政知が鎌倉公方として鎌倉に下ってきたが、関東に勢力をはっていた足利成氏(古河公方のために、足利政知は鎌倉に入れず、伊豆の堀越にとどまり堀越公方と呼ばれるようになった。

 1491年、堀越公方・足利政知(義政の弟)が亡くなると、後継の足利潤童子が異母兄の茶々丸に殺され、茶々丸が堀越公方となった。

 この堀越公方の混乱を隣国の駿河で見ていた早雲は好機到来として、手勢500を率いて伊豆に侵入して、足利茶々丸を急襲して殺害すると一夜にて堀越公方を滅ぼし伊豆国を乗っ取った。鮮やかな「国盗り物語」であった。

 当時の伊豆は堀越公方・足利政知が治めていた。政知の長男・茶々丸は素行不良だったことから廃嫡されて土牢に軟禁されていたが、1491年に政知が没すると、牢番を殺して脱獄し後継者として堀越公方に決まっていた異母弟の潤童子と継母・円満院を殺害して強引に跡目を継いだ。
 茶々丸と潤童子の間にはもうひとり兄弟がいて三男の清晃(せいこう)は出家して京にいたが、管領・細川政元によるクーデター(明応の政変)で還俗して足利義遐(よしとお。義高、義澄に改名)として将軍に擁立された。
 早雲による伊豆乱入と足利茶々丸の追放は、この義遐に母と弟の敵討ちを命じられてのことだった。
 早雲は韮山城に本拠を移し、狩野城や深根城などを攻略して、6年がかりで伊豆を平定した。なおこの伊豆乱入を契機に出家して「早雲庵宗瑞」と名乗るようになった。

 伊豆一国の大名となった早雲は、韮山城に居城を移したが、この時すでに60歳になっていた。伊豆国の東方に広がる関東の政情は不安定で、関東公方や関東管領にとってかわれていた。

関東制覇

 まず関東制覇の足がかりとして隣国相模に目をつけた。早雲は小田原城主である大森藤頼に贈り物や書状を出し親交を深め藤頼の信頼させた。早雲は小田原領にて鹿狩りを行う許可を求め許されると、鹿狩りと偽って猟師に扮した兵を相模に入れて配下が小田原城をおとしたのである。謀略と奇襲攻撃によって小田原城を落とし、扇谷上杉家の家臣・大森藤頼を追い出すと、小田原城を占領して関東進出の拠点を築いた。

 1516年には平安時代以来の相模(神奈川県)の守護であった三浦義同(よしあつ)を攻め滅ぼしついに相模国を平定した。これを機に早雲は家督を今川氏綱に譲り、1519年に韮山城内で没した。享年88であった。

 

北條早雲の評価

 早雲は謀略を好む梟雄のイメージが強いが、裏切り、裏切られが堂々と行われていたのが戦国時代だといえる。当時の武将で早雲ほど民政を重視した人物はいない。足利茶々丸を急襲して伊豆国に乗り込んだとき、早雲がまず手がけたのは「風病」に苦しむ人々の救援だった。さらに年貢を五公五民から四公六民に軽減して荒廃から農民を救った。早雲は検地を実施し貫高制を採用して、それまで土豪や国人が支配してきた村落を直接把握した。守護領・荘園・国衙領などさまざまな支配体系が複雑に絡み合っていた村落を早雲の権力によって再編させた。この治世の巧みさは戦国大名の先駆けとしての早雲の真価を語るものと評価できる。

 壬申の乱により室町幕府と将軍の権威はなくなり、 守護大名や武士が命令に従わなくなり、守護大名がその領地を取り合う戦国時代に移っていった。