満州事変

 1931年9月(昭和6年)ついに満州事変が勃発した。満州事変とは中国の遼東半島に駐屯していた日本の関東軍が中華民国・奉天郊外にある柳条湖にて南満州鉄道を爆破し、これを中国軍の仕業と決めつけ、またこれを口実に関東軍がわずか5か月の間に満州全土を占領し軍事的にまれに見る成功を収めた。

 天皇や日本政府はこの事変の軍事行動を怖れ、軍の拡大に反対し、これ以上戦線を広げないように戦線不拡大の指示を出した。しかし関東軍はこれを無視して満州の大半を占領したのである。その後、清の最後の皇帝にあたる溥儀(ふぎ)を担ぎ出し、満州国という日本の傀儡国を作り上げた。

 満州事変(柳条湖事件)が関東軍の陰謀であることが指摘されると、国際連盟が調査に乗り出し、日本は各国から批判を受け、最終的に国際連盟から脱退して世界から孤立してゆく事になる。

 

満州事変まで
 満州事変を理解するには、1894年の日清戦争まで遡らなければいけない。日本は日清戦争で清(中国)に勝利すると、遼東半島を清から割譲を受けることになっていた。しかしフランス、ドイツ、ロシアの三国干渉により、本来戦利地である遼東半島を清に返す事になった。

 ヨーロッパ列強は清朝の衰退に乗じて「清国の分割」を虎視眈眈と狙っていたが、清国内の抵抗を危惧してその動きは緩慢であった。しかしロシアは極東進出のために不凍港が必要であり、そのため南下政策を取り、満州における権益拡大をはかろうとしたのである。

 日本は遼東半島を清に返すが、抜け目のないロシアは、日本が返した遼東半島の旅順、大連を清から借りる契約を結んだのである。ロシアは南下政策を進めるため満州地域を支配することになる。 
 このロシアの南下政策に、日本は危機感を抱いた。ロシアは朝鮮半島にまで南下しようとして日本と戦争となったが、これが日露戦争である。
 日本は1904年の日露戦争で勝利すると、南満州にある鉄道利権をロシアより譲り受け、満州の荒地に鉄道を敷き、産業を興して繁栄を築いた。また関東軍が駐屯して治安を確保したため、満州は中国とは異なり内乱のない平和な別天地として発展した。満州は日本の主導によって大発展した。

 

満州事変の背景

 日露戦争から満州事変まで、大日本帝国は最も安定した時代を迎えていた。1911年における不平等条約の解消からおよそ20年の間、日本はさしずめ小春日和と呼んで良い状態にあった。

 当時の日本は第一次世界大戦にてアジア唯一の勝利国となり、日本には好景気が訪れていた。しかし国内では、1923年に関東大震災、1927年には金融恐慌、1930年には昭和恐慌と続き、日本の軍部の中には現状を打破しようと大陸進出を訴える者が多く出てくるようになる。

 また不況による生活苦と権謀渦巻く帝国主義の世界の中で、日本はその生命線を「大陸」に求めていた。ロシアの南進を食い止めるための戦争、つまり日露戦争に勝利し、勝利した日本はポーツマス条約によってロシアを満州の地から追い払い、日露戦争で満州を清国に返還した。その代わりにロシアが持っていた権益の一部を譲り受けて南満洲鉄道(満鉄)の経営を始めた。欧州が第1次世界大戦の戦乱に明け暮れる中、満州を中心にした中国への侵略を進めた。最も遅れて列強入りした真面目で幼稚な日本は軍国主義化に歯止めがかからずにいた。

 もともと満州は人口は多くなかったが、日露戦争(1904年)のころには1000万人、辛亥革命(1911年)のころには1800万人だった満州の人口は、満州事変(1931年)の頃には3000万人にまで増えていた。また満州の貿易額は支那の2.5倍にもなっており、これは満州の治安がよかったことを示している。

 

中華民国の状況
 中華民国と呼ばれていた当時の中国で、1911年の辛亥革命で清朝が滅亡した後、誰が中華民国を統治するかで揉めていた。彼らは一枚岩ではなく、毛沢東率いる共産党と、蔣介石率いる国民党、さらに共産党にも国民党にも属さない軍閥との三つ巴の内戦となっていた。「自分こそが中華民国の正当な支配者である」と主張する軍閥が互いに争い統制がとれずにいた。

 満州には強力な日本軍(関東軍)がいるために戦争にまきこまれなかった。このことから支那の戦乱を逃れて毎年100万人もの漢民族が満州に流れ込んだのである。満州人は自分たちの郷里である満州に漢民族が入ることを嫌っていた。

排日宣伝
 清朝が崩壊するとに支那の治安は乱れ、日本を追い出せという運動が始まった。満州だけでなく支那においても侮日行為・鉄道妨害などの事件が多発した。日本人の子供たちに悪罵や石を投げつけるといった陰湿ないじめは日常化し、日本の企業に勤めている支那人に対しても脅迫行為が行われ、町のいたるところにビラが貼られて反日スローガンで埋め尽くされた。さらに日本人が殺され、日本人の経営する鉱山が爆弾で爆破されることが頻発した。これらの反日運動の背後には国民党・支那共産党がおり、さらにその背後にはアメリカ、イギリス、ソ連(コミンテルン)がいた。

 大正4年(1915)の日華条約では南満州での日本人が商工業・農業を営む支那の土地を租借する権利が認められていたが、張作霖・張学良は日本人に土地を貸した者を死刑とした。さらに排日教育により反日感情を煽り続けた。学校では排日教育を行い、軍隊では排日宣伝を行い、排日唱歌、排日軍歌を歌わせ、満州の人々に反日感情を植えつけたのである。
 満州における排日運動が強まるにつれ、日本人と支那人の間の衝突が増加し続けた。在満朝鮮人の迫害やテロを含めると、昭和6年(1931)9月ごろには満州を巡る日本と支那の間の懸案は実に300件を上回っていた。しかしその一方で、日本の利権に対する侵害が行なわれていた。南満州鉄道(東支鉄道の南支線)と競合する鉄道の建設は禁止されていたが、張作霖・張学良は東西に二大平行線を敷設した。このため日本の満鉄は衰微してしまった。

 

満州事変の背景

 日露戦争からこの満州事変まで、それでも大日本帝国は最も安定した時代を迎えていた。1911年における不平等条約の解消からおよそ20年の間、日本はさしずめ小春日和と呼んで良い状態にあった。

 当時の日本は第一次世界大戦にてアジア唯一の勝利国となり、日本には好景気が訪れていた。しかし国内では、1923年に関東大震災、1927年には金融恐慌、1930年には昭和恐慌と続き、日本の軍部の中には現状を打破しようと大陸進出を訴える者が多く出てくるようになる。

 また権謀渦巻く帝国主義の世界の中で、日本はその生命線を「大陸」に求めていた。ロシアの南進を食い止めるための戦争、つまり日露戦争に勝利し、勝利した日本はポーツマス条約によってロシアを満州の地から追い払い、日露戦争で満州を清国に返還した。その代わりにロシアが持っていた権益の一部を譲り受けて南満洲鉄道(満鉄)の経営を始めた。欧州が第1次世界大戦の戦乱に明け暮れる中、満州を中心にした中国への侵略を進めた。最も遅れて列強入りした真面目で幼稚な日本は軍国主義化に歯止めがかからずにいた。

 

ソ連の動き

 またそのころ五ヵ年計画を成功させたソ連は、満州付近に大軍を集結させていた。ソ連との軍事力の差は日露戦争当時よりも拡大しており、満州に駐屯していた関東軍の危機感は高まる一方だった。そして万宝山事件、中村大尉殺害事件などで満州は限界まで緊迫した状態になった。支那側が中村大尉の殺害を認めた日の夜、柳条湖事件(満洲事変)が勃発したのである。ソ連の軍事的脅威をはねのけ、日本人居留民を保護しようというのが、満州事変のそもそもの目的だった。
 大正時代は政治や社会は一定の進化を遂げ、大正デモクラシーと呼ばれる政党政治や成人男子による普通選挙が実施された。しかし1930年に入ると、軍人を中心に「構造改革」の声が高くなってきた。当時、兵士志望者は相対的に貧しい者が多く、より社会の矛盾に関して敏感だった。

 天皇を頂点とした日本の国体と相容れない共産主義への嫌悪と恐怖もあり、若手が中心に日本軍は国家社会主義的な方向へと日本を向かわせていた。
 共産党の軍隊である中国軍は西欧的な民主主義に対して嫌悪と恐怖を感じていた。いっぽうヨーロッパでは既に、帝国主義のほころびが目立ち始め、帝国主義の象徴である大英帝国では、第一次世界大戦の勝利にもかかわらず各地で独立に向けた民族運動や紛争に直面し、帝国主義に対する批判的な世論は徐々に高まっていた。

 日本は大きな時代の流れに逆らうように満州事変から満州国建国、そして八紘一宇の精神に基づく「大東亜共栄圏」の幻想に向けて突き進んでいった。大局観を持った国家としての戦略を時代の流れの先に描く人たちは、息をひそめて見守る事しか出来なかった。
 満州事変から満州国建国、軍による幾多のクーデター未遂に1つの大きなテロと呼んでも良いクーデターの失敗の間、ジュネーブの総会で国際連盟脱退を流暢な英語で宣言して来た全権・松岡洋右を、国民は喝采で迎え、日本のマスコミは大日本帝国は「名誉ある孤立」を選択したと論陣を張った。
 国家社会主義で成功を収めているように見えたナチスドイツとの同盟から日中戦争の泥沼への突入へ、シビリアンである政府と軍、軍中枢と関東軍を始めとする現地軍とに制御がきかない状態になった。軍部に対して制御が効かない状況の中で、関東軍は満州を実質支配し、それを軍中枢で支えるようになる。志に燃えたかつての青年将校たちは、皇道派と統制派に分かれ血なまぐさい争いと内ゲバを繰り返し、日本を戦争への一本道に駆り立てて行いった。そして多くの国民およびメディアの熱狂的な支持のもと、日本は太平洋戦争に突入することになる。

柳条湖事件
  1931年9月 18日夜、中国奉天 (瀋陽) 北部の柳条湖ちかくの南満州鉄道で爆発が起きた(柳条湖事件)。この満州鉄道は日露戦争によりロシアから日本が権利を譲り受けたもので、それが何者かによって爆破されたのである。

 当時、満州駐在の日本陸軍(関東軍)は軍閥や国民党よりも先に満州を占領しようとしており、関東軍はこの爆破を北伐に呼応して抗日の色を濃くしていた奉天軍閥・張学良軍正規兵によるものとして、全線全関東軍出動,奉天軍攻撃の命令を発し,張学良軍の宿営する北大営を砲撃し、奉天などの都市を含め満州全域を占領した。

 この満州鉄道爆破事件は日本の陸軍が自作自演でやったもので、爆破したのは奉天独立守備隊の河本末守中尉らで,満州での兵力行使の口実をつくるため石原莞爾,板垣征四郎ら関東軍幹部が仕組んだものであった。そのうえ林銑十郎が朝鮮軍を満州に越境進撃させるなど,たちまち全満州に軍事行動が拡大した。

 1932年には清の最後の皇帝・溥儀(ふぎ)を担ぎ出し、満州国という国家を建国させてしまう。清の皇帝といっても、清政府は日本の関東軍の命令に従う人達で固められ、満州国は日本の操り人形状態(傀儡政権)であった。

 このとき日本本土の政府は中国とは戦争をしない方針だった。それはイギリスが中国を支持していたため、イギリスと戦争したくない日本政府は中国とも戦争しない方針だった。しかし満州の日本人居留民への中国人からの暴力事件などがあいつぎ、日本の世論が中国と協調しようとする日本政府を弱腰だと批判し、このような背景のもと陸軍は事変を強行して満州を占領をしたのである。

 中国はこれら日本の行動について侵略行為だとして満州国を認めないと国際連盟に訴えた。国際連盟ではリットン調査団を派遣、満州を調査させた結果「中国の言うとおりで、日本が悪い」ということになるが、日本はそれを認めず国際連盟を脱退した。


満州事変の原因

 満州事変は日本の陸軍の自作自演がとされているが、その原因は複数考えらる。
原因1:中華民国の国内情勢
 中華民国と呼ばれていた当時の中国は、1911年の辛亥革命で清朝が滅亡し、各地で「自分こそが中華民国の正当な支配者である」と主張する多くの軍閥が互いに争っていた。満州を支配していたのは張作霖(ちょう さくりん)で、張作霖は満州および北京を支配し、日本と協力することで満州を支配していた。いっぽう中国大陸の南部では、国民党の蒋介石が南京を中心地に支配していた。蒋介石はアメリカ・イギリスとの外交を重視し、中国統一を目指して張作霖ひきいる北京政府を倒すために戦いを始めた。この蒋介石の闘いを北伐(ほくばつ) と言う。

 当時は誰が中華民国を統治するかで揉めていた。彼らは一枚岩ではなく、毛沢東率いる共産党と、孫文の亡くなった後、共産主義に反対する蔣介石が率いる国民党、さらに共産党にも国民党にも属さない軍閥との三つ巴の内戦となっていた。

 蒋介石ひきいる北伐軍が北京にせまってきたので、張作霖は北京から奉天に引き上げようとして、その列車の中で張作霖は日本の軍人の陰謀により爆殺された。張作霖が日本のいうことを聞かなくなったので、張作霖を殺害しようとする陰謀だった。

 日本は日露戦争に勝ち、南満州にある鉄道利権をロシアより譲り受けていた。また第一次世界大戦ではドイツに宣戦布告し、中国にあるドイツの租借地だった青島を攻撃して勝利し、その後、ドイツは中国へ租借地を返させた後、中国から対華21箇条要求を介し改めて満州のあらゆる利権を譲り受けた。日本の持っていた中国権益、さらに内戦状態は、日本のさらなる領土拡大、資源獲得のための絶好のチャンスであった。
 原因2:関東軍の独断行動
 満州事変の関東軍の表立った口実は「敵による攻撃から守るための自衛行動」、「満州にいる居留民の保護」だったようですが、実際は関東軍が満州利権の獲得という目的達成のためにおこした独断行動だったといわれている。そのうちの極端な例が、1928年、田中義一が内閣総理大臣のときに起きた張作霖爆殺事件です。
 張作霖は中国内戦中の軍閥のひとりで、日本政府が支援していた人物です。彼は当初日本の支援に好意的でしたが、共産党と国民党が仲間割れしたことをきっかけに欧米に接近し、南満州鉄道や関東軍をないがしろにする行動が多くなった。当時から満州国の建国計画を立てていた関東軍からすると、張作霖は目の上のたんこぶともいえる存在になっていった。張作霖の立場が悪くなっても田中総理大臣は「張作霖に利用価値あり」と、支援の継続を希望し、関東軍の張作霖排除の意見を却下した。すると関東軍は、張作霖が乗っていた列車ごと爆破し強行排除したのである。
 原因3:日本政府(内閣)と軍部の意識のズレ、パワーバランスの崩壊
 当時の日本政府の外交方針は、ワシントン体制と呼ばれるワシントン軍縮会議で決められた世界秩序を守るため、協力者である張作霖の力を温存しつつ、日本の影響力を維持する方向でした。つまり、外交努力によって国際協調しようという考えだったのです。一方で、軍部のなかには来たる戦争に備えて満州国を建国し、利権を確保しようという強硬的な意見を持つ軍人もいました。このような意見の対立は、国際協調路線を主導していた浜口雄幸首相によって絶妙なバランスが保たれていたのですが、浜口が暗殺未遂事件に遭って首相職を辞職し、若槻礼次郎が首相になると、そのパワーバランスが崩れて軍部の動きが加速することになったのです。
 原因4:中村大尉事件と柳条湖事件
 この2つが満州事変の直接の原因だといわれています。これらは満州での関東軍の行動を正当化するための口実として利用されました。軍事地誌の作成のために満州を調査していた旧日本軍中尉・中村震太郎が国民党軍からスパイとみなされ、殺害された事件によって、日中関係の悪化が決定的になりました。(中村中尉は死後大尉に特進)
それに加えて関東軍は、先述したように日本が所有する満州鉄道に破壊工作を仕掛け、それを中国軍の策略として中国軍を攻撃しました。

関東軍の目的
 満州事変は関東軍の独断行動によるとされています。関東軍によって満州事変が引き起こされたが、その目的は言うまでもなく満州を獲得したいがためでしあった。満州の利権を獲得すためであるが、関東軍参謀のひとり石原莞爾は関係が悪化しつつあったアメリカや、共産主義国家ソ連との戦争に備えるために、満州を手に入れようと考えていたと思われる。また日本政府に不満をもっていた人物が関東軍内にいたことがさらなる拍車をかけました。張作霖爆殺事件の首謀者、関東軍参謀の河本大作は、日本政府側の国際協調路線を「お人好し」と非難し、「満州の鉄道利権を守るためにはクーデターのひとつでも起こすほかない」と友人に伝えている。

 
満洲開発
 日本が開発した満州はいい土地でした。もし日本が日露戦争で負けていたら、満洲・朝鮮はロシア領になっていたはずである。
 満州は日本人によって、今のように金を生み出す土地になりました。やはり日本人の投資によって現代の中国があるのです。例えばアメリカ合衆国では西部の開発にしても、ユタ州やミネソタ州などでは開発が進んでいません。日本はそれに近い奥地を開発して生産性のある土地に変えました。日本人が満洲へ行く前は、狩猟民と農民だけがいて、何も生み出さない土地でした。コーリャン畑しかなく、モンゴル人と漢人が喧嘩ばかりしていました。
 二十世紀の歴史は、日本がまず日露戦争でそれまでの白人絶対の歴史を変えて、満洲事変でも世界の仕組みを大きく変えました。第一次世界大戦以外は、すべて日本のせいで世界史が動いたのです。そこのところを日本人は自覚しなすぎです。今でも、「私たちはこんなに弱くて、いい子にしていたのに、どうしてこんなにいじめられるのだろう」と思っているのが間違いです。実は日本はアジアの超大国だったのです。日本は謀略でなく正論を以て戦争を行ったので、他の白人諸国はおおやけに文句を言うことができません。「植民地主義がひどすぎる。なぜ人種が違うだけで奴隷扱いするのか。白人はけしからんのでアジアの人たちを救ってやりたい」というのが日本の主張で本当に正道の理由でした。
 そして白人の圧力を跳ね返して日本人が強くなったので、白人は正面切って文句を言えなくなりました。そのため、「日本をなんとかおさえなくてはいけない」と背後に回って組んだというのが世界の歴史なのです。
 「日本人は本当はすごい。本当は他国も日本のようにやりたいけれども、みんなできないのだ」と言う日下公人さんの意見に、私は非常に賛同します。今はそういったことを言うのは、日下さんくらいです。現代のアメリカ国内の悲惨な状況を見ても、どこがいい民主主義の国でしょうか。アメリカに生まれたら、お金がなければ大学へも行けず、軍隊に入って死ななければなりません。中国に生まれたら、一握りの高級幹部以外は、どんなにひどい目に遭うでしょうか。私たちは日本に生まれたおかげで、しっかりとよい生活を送ることができているのです。それなのに、なぜ、みんな日本の悪口ばかり言うのでしょうか。「日本人が一所懸命したことに対して、中国や日本がひたすら非難するのは、前政権を否定しなければ、自分たちの正統性が証明できないから、という向こうの理由であって、日本人がそれをそのまま認める必要はまったくありません。

戦時中の満洲
 大東亜戦争中の満洲はほとんど空襲もなく、資源も比較的豊富で平穏であった。満州においても治安維持は最重要の課題であり、満洲人が日本人に協力するのは当然のことであった。かつての張学良の施策はひどいもので、ソ連の恐怖もあった。満州には満州人、朝鮮人、モンゴル人などいろいろな人たちがいたが、自分たちが生き延びるために日本人に協力するのが一番の道だと考えていた。 しかし山海関の南の中華民国の人たちが、抗日のナショナリズムを煽り立て「日本の帝国主義」対「中国民衆」という単純化された言説ではやされ、国人の反発を引き出したのです。
 彼らは遠いところにいて現地のことなど何も知らないのですが、遠くにいるからこそ煽るのが便利だったのである。何も知らない反日運動と言えば、最近の反日運動もそうです。日本の尖閣諸島国有化に反対するデモに参加している人は、それまで尖閣諸島などどこにあるかも知らなかった人たちばかりです。知らない方がスローガンを信じこみやすく、煽動する人にとって便利なのである。
 日本人が満洲国を建国したとたんに、「中国人」というものができました。中国人らしさ、中国ナショナリズムというものがつくられたのです。満洲国でない場所で騒ぎが始まりましたが、満洲国内では抗日、反日と言っていたのは、共産党の息のかかった本当に一握りの人だった。庶民たちにとって中国民衆の抵抗などというのは戦後の言説である。

 建国後の満州国は、日本からの投資もあり好景気になって経済や工業が発展していき、工業国になっていき、満州では自動車なども生産できるようになった。当時は世界恐慌の影響がある時代だったが、日本では国策による満洲関連の投資や、軍需産業への投資などが始まり、日本では、あらたに成長する新興の財閥があらわれた。また農村ではひきつづき不景気が続いていた。

 日本政府は満州を「王道楽土」(おうどう らくど)、「五族協和」(ごぞく きょうわ)と宣伝した。また満州を開拓するための満蒙開拓団などを募集したので、日本から多くの移住者が満州に移り住んだ。そのほか朝鮮や中国など周辺の地域からも多くの者が満州に移住した。

 日中戦争の原因は、中国を支配したいと同時に日本を滅ぼしたいアメリカ、ロシアの策略が第一です。アメリカは蒋介石の国民党を使い、ロシアは毛沢東の共産党を使いました。ロシアと毛沢東の方が一枚上手で、結局、アメリカは、中国を失います。問題は、戦争を拡大し、日本の敗北を画策した近衛文麿首相に代表される日本の隠れ共産主義者が日本の政府の中枢にいたことです。残念ながら、このような事実がいまだに国民共有の歴史観になっていないのは、いまなお共産主義社会を理想とする隠れ共産主義者が、日本政府、学者たちマスコミの主流勢力であるということです。
 満洲国のなかの騒動は、前からいた匪賊や馬賊の生き残りとか、朝鮮人共産主義者とか、ソ連のコミンテルンの煽動とかで、もちろん日本国内の安定した生活から見れば治安は悪いが、それは日本人が主導権を握ったからではなく、ソ連やモンゴルや朝鮮や中国に取り囲まれた、満洲という土地の持つ宿命のようなものであった。関東軍はそれほど人数がいませんし、基本的には国民党政府時代の組織をそのまま利用して、現地の治安維持を図っていた。現地の勢力も日本と組んでいたが、それを侵略・暴動といったのは南の国民党で、国民党は外国に向けて日本侵略を訴えていた。いつも中国のプロパガンダに日本はやられるのである。実際には満洲事変も満洲国建国も、日本の一方的な占領工作ではない。しかし戦後、中華人民共和国が政権を取ったあと、すべての歴史を塗り替えて今に至ります。

リットン調査団派遣・日本の国際連盟脱退
  中国側は日本の行動に不満を持地、「爆破事件で変な言いがかりをつけられ、日本は勝手に国まで作った」と国際連盟へを訴え、国際連盟はイギリスのリットンを団長とする「リットン調査団」を派遣し事件の真相究明にあたルことになる。

 リットン調査団は調査後「日本の主張を認めず、日本の侵略行為」とする報告書を国際連盟へ提出し、満州から兵を撤退させるる決議案が国際連盟総会で採択されることになった。この決定に日本は納得いくわけがない。

 日本から国際連盟におくられた全権の松岡洋介は抗議の意思を示し、日本はこの採択に唯一反対し、他の国が賛成する中で「自分たちは悪くない」と松岡洋右は会場から引き揚げた。松岡洋介は収集のための連盟での演説に努力をしたが、この間にも満州では陸軍が占領地を拡大していき(熱河作戦)、こうして日本は国際的な信用をうしなってしまい、日本は国際的に孤立していき、ついに日本は1933年(昭和8年)3月に国際連盟から脱退した。なおドイツも翌年に国際連盟を脱退し、主要国である日本とドイツが脱退してしまったので国際連盟は紛争の調停の場所としての役割が弱まってしまった。
    なお国際連盟で満州国建国の自発性が否定されたとは言っても、満洲国は日本以外にも、いくつかの国家から国家として承認を受け外交関係が結ばれていた。ドイツやイタリアが満州国を承認したほか、フィンランドやタイやクロアチア、スペインやバチカン、デンマークをはじめ20か国が満州国を承認している。
  また日本と中国とのあいだで、1933年5月には停戦協定がむすばれ、満州事変はひとまずはおわった。しかし国際的組織から外れた日本は、この後国際的孤立への道を歩んでいくことになる。日本の世論および政府は「満州国の建国をみとめるべきでない」と主張してるリットン報告を日本に不利な内容と思い反発した。

 

五・一五事件
 大正時代に衆議院の第一党の党首が首相になるという「憲政の常道」が確立したことで当時の日本は議会制民主主義が根付き始めたが、1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発した大不況により企業倒産が相次いで社会不安が増していた。犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932年(昭和7年)2月の総選挙で大勝をおさめたが、一方で満州事変を黙認し陸軍との関係も悪くなかった。しかし1930年(昭和5年)ロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理若槻禮次郎に対し不満を持っていた海軍将校は若槻襲撃の機会を狙っていた。ところが、立憲民政党(民政党)は選挙で大敗、若槻内閣は退陣を余儀なくされた。これで事なきを得たかに思われたがそうではなかった。
 1931年(昭和6年)には関東軍の一部が満州事変を引き起こしたが、政府はこれを収拾できずかえって引きずられる形だった。

 満州事変という関東軍の暴走を最終的に政府が是認したため、日本国内ではしだいに政府よりも軍部の発言力が上回るようになった。ある議員が国会で軍部より派遣された説明員を批判したところ「黙れ」と一喝され、そのまま引き下がってしまったことがあるくらいだった。そんな空気のなかで日本政府や外交に不満を持っていた軍人が天皇を中心とした国家主義に燃え五.一五事件が起こる。

 このころ日本政府は満州の問題を、中国との話し合いで解決しようとしていた。首相の犬養毅は満州国の承認には反対していた。

 しかし1932年(昭和7年) の5月15日、日本海軍の一部の青年将校らが総理官邸に乱入して、首相の犬養毅(つよし)を殺す事件をおこした。犬養毅は乱入してきた海軍の青年将校たちに「話せば分かる」と語ったが、将校は「問答無用」と答え犬養毅を殺害した。この事件を 五・一五事件と言い、犯人の青年将校らは処罰されることになった。だが当時は政党の評判がわるかったので、世論では刑を軽くするべきだという意見が強く、犯人の軍人への刑罰を軽くした。このような決定のせいで、後に軍人による政治に圧力をくわえるための殺人事件がふえていく。
 首相だった犬養毅が死んでしまったので、つぎの首相を決めることになり、そして次の首相は齊藤実(まこと)に決まった。斉藤は海軍出身であった。そして斉藤内閣は満州国を承認した。犬養毅のあとの首相は、しばらく軍人出身や官僚出身の首相がつづき、第二次世界大戦のおわりまで政党出身の首相は出なくなった。現在の学校教科書などでは五・一五事件で政党政治が終わったと書かれている。

中華民国の軍閥指導者が暗殺
 1928年(昭和3年)6月4日には中華民国の軍閥・奉天派(ほうてんは)の指導者・張作霖が爆殺される事件が起きる(奉天事件)。奉天派の指導者を務めていた張作霖は満州の実権を握っていた実力者で、1924年には北京の実権を握るほどの存在になっていたが、「21か条の要求」などの存在により反日的な考えも持っていた。
 そのような中、北京に蒋介石(しょうかいせき)が指揮する国民革命軍の「北伐」が迫ってくると、張作霖は決戦を断念して満州に引き上げろうとする。この事態に日本政府は満州を支配していた日本の領土を取られてしまっては困るので「張作霖が満州に戻るのは良いが、戻る前に武装解除してくること」を条件とした。

 しかし張作霖と知り合いでもあった当時の首相・田中義一らは直前になって武装解除の決定を中止した。

 この決定について不満に思った関東軍大佐・河本大作(こうもとだいさく)は「武将解除をするには張作霖を殺し、軍閥を解体するしかない」と考えたのである。こうして河本ら関東軍は満州へ引き上げようとする作霖の乗った列車を狙うことを決め、満鉄線の橋脚に火薬300キロを仕掛け張作霖を列車ごと爆破してしまった。

 関東軍司令部では張作霖を暗殺を国民党の犯行に見せ掛けるため、予め買収しておいた中国人アヘン中毒患者3名を現場近くに連れ出して銃剣で刺突し、死体を放置して「犯行は蒋介石軍の便衣隊(ゲリラ)によるもの」と発表した。しかし3名のうち1名は死んだふりをして現場から逃亡し、張学良のもとに駆け込んで事情を話したため真相が中国側に伝わったのである。

 この事件では事件の真相を国民に知らされることはなく、昭和天皇からの信頼を失った田中が首相を辞めることに。さらに父親を殺された息子・張学良が軍閥をまとめ、蒋介石の指揮下に入り反日政策を進めていくことことになる。

 当時の中国では、蒋介石の国民党と毛沢東の共産党が政権争いをしていたが、この2つの派閥は国の一大事に手を組み日本軍に対抗することになる。当時の派閥争いでは国民党が有利だったので蒋介石は手を組むのを嫌がったが、張作霖の息子・張学良が蒋介石を軟禁して説得したのである。

第二次上海事変
  日本軍は1937年の8月に上海に海軍陸戦隊を派兵して戦闘する。この戦闘を 第二次上海事変と言う。あるいは上海戦とも言う。宣戦布告をしてないので「事変」というが、実際には戦争の開始と同じなので、現代では、この上海事変をきっかけに、日中戦争が始まったとされているが、盧溝橋事件を日中戦争の始めと考える学説もある。
「日中戦争のはじまりの時期を、いつと考えるか」には多くの説があるが、多くの事情があるので日中戦争の開始の時期にはこだわる必要がない。もし日本が宣戦布告をしていれば、日本は中立国のアメリカからの輸入をできなくなるので「戦争」とは言わずに「事変」という用語をもちいた。