山内一豊

 山内一豊は天下人・織田信長、豊臣秀吉、徳川家康とその時々の勝者に仕え、戦乱の時代を生き延びた武将である。山内一豊はそれほどの大きな武功を立ててはいないが、妻の千代の助けを得て着実に出世を遂げ、山内一豊というより内助の功を意味する「山内一豊の妻」の方が有名である。このように千代の内助の功によって、それほど才能のない山内一豊は出世したとされ、牢人の身から最後は土佐一国の主になった。山内一豊は誠実だけが取り柄とされているが、それは妻の内助の功がすざましかったからである。

 山内一豊はいくつかの戦いに臨み豊臣秀吉に仕え小大名になり、秀吉が亡くなってからは徳川家康につき、関ヶ原にも出陣している。波瀾万丈の戦国時代を乗り越え、山内一豊は戦国時代に生き抜くことを心にして、後継ぎに困っても側室は持たず、当時の武将としては一風変わった道を歩み、土佐の大名にまで登りつめた。

 

山内一豊の生い立ち
 1545年、山内一豊は尾張・黒田城の城主・山内盛豊の三男として誕生している。父・山内盛豊は尾張の岩倉城主・織田信賢の家老として仕えていた。母は尾張春日井郡羽黒城主(犬山市)・梶原源左衛門の娘・松千代である。

 山内一豊が少年時代、尾張の織田家は分家に分かれて抗争を続けていた。父・山内盛豊は尾張の岩倉城主・織田信賢の家老をしており、岩倉城主・織田信賢は尾張の北半分を支配し、織田信長は尾張の南半分を制し争っていた。最大勢力を誇っていたのが織田信長であった。

 1557年7月、尾張・黒田城が織田信長による夜討ちに遇い、父・盛豊が手傷を負い長兄・十郎は討死している。当時13歳であった山内一豊は、母や弟妹達とともに家臣に救われ難を逃れている。

 1559年には織田信長の岩倉城攻めにより落城し、父・盛豊は家老としての責任を取って自害した。これによって織田信長は尾張を統一したが、当主・織田信賢を失ったことから山内一族は離散して諸国を流浪することになる。

 山内一豊は母や幼い弟妹を連れ近江や美濃を転々として主を何度も変えている。美濃の松倉城主・前野長康や近江の勢多城主・山岡景隆ら少なくとも4人の武将に仕えている。

 最後に使えた山岡景隆はやがて美濃を制した織田信長の配下になるが、信長に逆らい逃亡してしまう。取り残された山内一豊は、後に身を寄せた牧村政倫が信長の家臣となったため、信長に仕えるようになった。桶狭間の戦い以後頭角を現してきた。

 父は織田信長と対立していた岩倉織田氏の家老で、織田信長と戦い戦死している。山内一豊にとって織田信長は仇敵になるが、この頃には問題にならなかった。山内一豊は信長から木下秀吉の与力に命じられた。与力とは信長の直臣でありながら、秀吉の配下となって指揮を受ける者をいう。こうして山内一豊は秀吉の指揮下に入るが、この秀吉との縁が後に幸運をもたらすことになる。


秀吉の家臣として転戦する
 山内一豊は秀吉の兵士として、1570年の「姉川の戦い」で初陣を飾った。この時25才だったので遅めの初陣だった。1573年、越前・刀根山の朝倉追撃戦で、朝倉家でも剛勇の誉れ高かった三段崎勘右衛門を組討の末に倒し首級を挙げた。

 勘右衛門は強弓の名手で、山内一豊は左目尻から右奥歯にかけて矢が貫通する深手を負いながらも勘右衛門を討ち取り劇的な殊勲を挙げている。この時、敵将を討ち取った山内一豊の頬には矢が突き刺さったままで家臣の五藤為浄(ためきよ)が一豊の顔面を草鞋のまま踏みつけてようやく矢を引き抜いた。その矢は現在は高知県の歴史民俗資料館に保管されている。

 この手柄により信長から秀吉の領国である近江唐国(滋賀県虎姫町)に400石を与えられた。これで10人を指揮する武士の立場になった。


千代と結婚する
  こうしてひとかどの武将として身を立てた頃、山内一豊は千代を娶った。千代は美濃の豪族の娘で、知識や教養を備えた聡明な女性であった。この当時の武将の妻は、夫を助け家を栄えさせる役割を担っており、言わば共同経営者の立場であった。このため頭の良かった千代に、山内一豊は出世の上でおおいに助けられる。いわゆる内助の功によって一豊は出世できたと言われている。

 秀吉の直臣となり加増を受け、新たに秀吉が獲得した播磨(兵庫県南部)で2000石の領地を与えられ、50人程度を指揮する武将に出世した。一豊は目立つことは少なかったが、戦いでは常にそれなりの戦功を立てていた。強くもなく弱くもないといった程度で穏当に出世を積み重ねていった。


馬揃えで名馬を得る
 1581年、信長は京都で「馬揃え」を開催した。馬揃えとは戦の前に馬を一堂に集めて検分をするものであった。山内一豊も「馬揃え」に参加することになったが、よい馬を持っていなかった。この当時の武将たちにとって良い馬を持つことは、その名声に関わる重要なことであった。

 馬揃えのために馬を探していた山内一豊は、安土城下で馬売りが連れてきた鏡栗毛という名馬を見つけが、あまりにも高価すぎて手が出なかった。ため息をつきながら家に帰るが、それに気付いた千代が「どうしたのか」と尋ねると、一豊が「残念だ、無念だ」と言いながら駿馬の話をした。すると妻・千代が化粧料(女性の個人資産)から嫁入りの持参金としていた黄金を即座に一豊に渡した。この金は夫に何かあったらと父から嫁入りの時に渡された10両であった。千代はその10両を一豊に渡し、一豊はその馬を買い、名馬に乗って馬揃えに参加した。

 このことが信長の目にとまり賞賛され加増されることになった。信長は「織田勢の者がこれほどの名馬を買ったことで、自分の面子も保てた」と喜ばれて褒美をもらった。この話は「内助の功」として広く知られており、かつての教科書にも採用されていた。

 この他にも一豊が築城の経費に困っていた時に、千代は髪を売ってこれをまかなっている。このように千代には夫を助けるよき妻としての逸話が豊富に存在している。このようにして何かと千代に助けられ、山内一豊は名声を得て無事に仕事を行った。


秀吉の元で転戦する
 1582年、織田信長が家臣の明智光秀に討たれる「本能寺の変」がおき、秀吉が謀反人の明智光秀を討伐したことで、一躍天下人を狙う立場になった。山内一豊はその統一戦に参加している。

 秀吉の運が大きく開けたが、その家臣である山内一豊の運もまた秀吉に引っ張られる形で開いてゆく。秀吉が伊勢で信長の重臣だった滝川一益と戦っていた際に、山内一豊は亀山城の攻城戦で一番乗りを果たすという軍功を立て、その代償として長く仕えていた五藤為浄が戦死したが、後にその一族を家老として遇しこれに報いている。

 また秀吉と徳川家康が対戦した「小牧・長久手の戦い」では、小牧山にこもった家康を包囲するために付城の築城を担当し、単なる戦場での武将としての働き以外の仕事を任されていた。こうした戦いの結果、秀吉は天下人としての立場を確立し、秀吉の元で働いていた一豊にも大きな出世の機会が訪れることになる。
 次に羽柴秀次の家老となり、1585年、小さいながらも大名となるになると秀吉は養子の羽柴秀次を後継者に定め、大幅にその領地を加増した。山内一豊はこの秀次付きの家老になり、その政務を補佐することになる。

 この人事はこれまでの一豊の地味ながらも積み重ねてきた功績が認められたからで、同僚には中村一氏や田中吉政など、低い身分から身を起こし諸事に熟達した武将たちが選ばれた。秀吉は経験豊富な武将たちに秀次の補佐をさせることで、秀次に自分の後継者にふさわしい見識と実力を身につけさせようとした。
 秀次は近江八幡を統治するが、山内一豊らのおかげで統治をうまくやりこなし善政をしいていると評判になった。一豊は秀次の家老となったことで大幅な加増を受け、近江長浜に2万石の領地を与えられた。こうして40才にして小さいながらも大名と呼ばれる身分になるが、その喜びもつかの間、山内一豊と千代は大きな災害に見舞われた。


天正大地震で娘を失う
  1586年の11月29日に、日本中部を巨大な「天正大地震」が襲った。これは日本海沿岸の若狭(福井県)から太平洋沿岸の三河(愛知県)にわたって甚大な被害を出し、日本史上最大規模の地震で、一豊の居城・長浜城も全壊した。この大地震で山内一豊と千代のひとり娘である与祢(よね)を亡くなくし、さらに与祢を救助しようとした家老の乾和信(いぬいかずのぶ)夫婦が死去するなど山内氏には大きな災害であった。一豊と千代には他に子はなく、この時に受けた衝撃は相当に大きなものであった。以後、この夫婦の間に子が生まれず、側室を迎えることもなかった。これは当時としては非常に珍しいことで、それだけ夫婦の絆は強かった。しかしそのために山内一豊と千代の血統が後世に受け継がれることはなかった。


掛川5万石の領主
  1590年から関東の北条氏征伐が行われ、山内一豊も秀次に従ってこれに参加した。山内一豊は北条氏の重要拠点である山中城の攻略戦に参加し、火矢の名手である家臣の市川信定が活躍するなどにより山内氏は軍功を立てた。この頃には山内一豊も500人程度の兵を率いるようになっていて、家臣の中には名の知れた武勇の士も加わっていた。この戦いの後、秀次が尾張や伊勢を加増され、これにともなって一豊は遠江(静岡県西部)の掛川に新たに領地を与えられた。この時の石高は5万1千石で、中級の大名の地位にまで出世したことになる。

 山内一豊が掛川に着任すると、城下町の整備や治水工事などを行い、領主としての治世を行なっている。このようにして大名としての経験を積み、城郭、城下町づくりや治水などに取り組み掛川を発展させた。

 秀次は秀吉の後継者であり、将来は多くの領地を担うことになるはずであった。そうなれば家老である一豊の将来もまた、さらに開けていくはずであった。しかし秀吉に実子・秀頼が生まれたことにより状況は大きく変化していった。


秀次が処刑される

 秀吉は側室の淀殿が実子の秀頼を生んだことで、それまで後継者とされていた養子の秀次を急に疎んじ、秀吉は秀次が謀反を企んでいると糾弾し、ついに関白の地位を剥奪してしまった。この時に秀次の側近であった前野長康は責任を追求され自害している。
  山内一豊、田中吉政、中村一氏らの秀次傘下の大名たちは、秀次を取り調べる立場に立たされ、山内一豊これを務めることで難を逃れたが、主君・秀次に「謀反の企みがあったか」と問するのは心苦しいことだった。秀次は謀反の嫌疑を否定し、高野山に上って出家するが、秀吉の命を受けた福島正則によって切腹させられている。

 こうして山内一豊は危機を生き延び、秀次の遺領から8000石を加増された。しかしこの加増はとても喜べるものではなかった。補佐役の山内一豊にも火の粉が飛んだが、朝鮮行きを命じられなんとか難を逃れた。

 秀吉は秀次を処刑したことで、豊臣家には地位をもった成男子がいなくなってしまい、政権の基盤はひどく不安定なものとなった。


秀吉の死と上杉景勝の討伐
  1599年、天下人であった秀吉が死去すると、権力争いの動きが始まり、再び戦乱の世へと傾いていった。徳川家康が台頭し他の大名の追い落としを狙い、5大老で会津に大きな領地を持つ上杉景勝に、徳川家康は豊臣家への謀反の疑いがありとして討伐を決意したのである。

 各地の大名たちにも動員され、山内一豊も家康に従って上杉景勝の討伐に赴くことになった。家康が上杉景勝討伐のため大坂から離れると、その隙をついて石田三成が家康打倒のために挙兵した。

 家康が自分の権力の増大と天下の簒奪を狙っていることは明らかで、これを防ぐのが石田三成の意図であった。三成は毛利輝元や宇喜多秀家といった大名たちと協力して家康討伐軍を編成した。こうして家康派と三成派に別れて大規模な戦いが起きることになる。


千代の手紙
 関ヶ原の戦いが始まる少し前、家康側の大名の妻子たちは人質として大坂の屋敷に集められた。大坂は石田三成らの手に落ちていたため、家康に味方をすれば千代が危険に晒される可能性があった。このため山内一豊は家臣の市川信定を千代の元に送り護衛させている。市川信定は北条征伐で活躍した武将で、火矢の名手であり戦場で活躍が期待できる人材であった。この信定をこれから大規模な合戦が起きる状況下で、あえて妻の元に送ったのである。それだけ山内一豊は千代の身を案じていた。

 一方でその時、千代も手紙を2通を書き、1通は文箱に、1通は使者の笠の緒に隠して持たせた。手紙と石田三成からの書簡を文箱に入れ、家康と共に関東に遠征している山内一豊の元に送った。一豊はこれを受け取ると、笠の緒に隠してあった千代の手紙通りに行動する。

 その助言とは、三成からの勧誘の手紙を文箱の封印を開けずに家康に献上し、自分からの手紙を読み上げて家康に聞かせてほしいというものだった。一豊は家康の元におもむくと、三成からの未封の書簡を文箱は開けずに家康に渡した。大坂城からの書状には家康に加担しないように書かれており、未開封の千代の手紙は家康に味方するように書いてあった。

 この書簡の封を開かなかったことは、山内一豊は妻を見限る覚悟で石田三成と戦うこと表明したことになり、さらに千代からの手紙には「かねてから話し合っていたとおり、自分はどうなってもよいから家康様に味方して力を尽くして欲しい」と書かれており、開封せずに家康に手渡すという行為は、家康にすべてを任せ忠誠を誓うという意味であった。渡された家康は大いに喜んだ。各武将たちの去就が不明な中で、山内一豊は自分に二心が無いことをいち早く家康に宣言したのである。これで味方を増やせるかどうか不安を抱えていた家康の心情を良くした。


小山評定
 家康は石田三成の挙兵を知ると、上杉景勝の討伐に従軍している武将たちに、小山に集合するように伝えた。山内一豊も小山に向かうが、道中で同じく東海道に領地を持つ大名の堀尾忠氏と出会う。この時、堀尾忠氏は評定の際にある提案をするつもりであると、自分の策を山内一豊に披露した。山内一豊はそれを聞いて感心しながら共に評定の席へと向かった。

 やがて小山に徳川家の重臣や大名たちが集まると評定が始まった。ここで家康は「石田三成に味方したいと思うのであれば、妻子のことも心配だろうし、遠慮なく大坂に戻っても構わない」と諸大名たちに告げた。

 これを受けて福島正則が立ち上がり「自分は家康に味方して、憎き三成を討つ」と宣言した。福島正則は秀吉子飼いの大名であった。福島正則が家康につくと宣言したことは、他の大名たちに大きな影響を与えた。福島正則が家康の味方するのだから、家康についても豊臣家に逆らうことにはならないと諸大名たちは安心したのである。

 これに続き山内一豊が「進軍路にある自分の城である掛川城と領地を家康に差し出すので、これを徳川家で自由に使って欲しい」と発言した。山内一豊は単に家康に味方するだけでなく、城と領地まで家康に差し出し、家康の勝利にすべてを賭けるとしたのである。この山内一豊の大胆な申し出に家康は驚き、やがて喜びを表して感謝した。これを見て他の東海道に領地を持つ大名たちが次々に同じく申し出て、家康は味方を得ることになった。

 こうした山内一豊の存在は、家康に強い印象を与えた。しかし実はこれは堀尾忠氏の策であった。堀尾忠氏から話を聞いていた一豊が、先に家康に言ってしまったのである。

 さらに山内一豊は豊臣家と縁の深い東海道の大名たちの取りまとめに尽力し、家康の勝利に貢献することになる。家康は大喜びで山内一豊を高く評価した。
 山内一豊は美濃の関ヶ原で行われた決戦では2500の兵を率いて参戦している。南宮山に陣を構える毛利氏の大軍と対峙したが、吉川広家は既に家康と内通しており終始軍を動かさなかった。このため山内一豊は関ヶ原では直接敵と戦うことはなく、家康の勝利を見守ることになる。前線は福島正則や黒田長政らの猛将たちが務めており、山内一豊は関ヶ原ではほとんど活躍しなかったが土佐の大名になった。


土佐一国の領主
  山内一豊は関ヶ原の戦いでは目立った武功はなかったが、小山評定での発言によって諸侯に家康の味方をするように促したことが評価され、土佐一国が与えられた。これによって一豊は10万石の国持ち大名に出世した。後に土佐の統治が安定して石高は24万石にまで増大した。
  この時、山内一豊は55才で土佐大名が一豊の出世の最終到達点となった。後に家康と会った時に、家康は山内一豊に土佐の石高を尋ねると、山内一豊は「10万石」と答えた。「そんなに少なかったのか、20万石はあると思って土佐の城主にしたのに、すまないことをした」と言って山内一豊を喜ばせた。もちろん家康は土佐の石高を把握していたが、それほどに山内一豊の働きを評価していたのである。皆が他者の動向をうかがう中、迷う様子を見せずにいち早く立場を鮮明にしたことには、それほどの大きな功績となった。千代はそういった道理を理解し、一豊に手紙で助言したのである。


土佐の統治を行う
 山内一豊は一国一城の主となったが、土佐入国は簡単には進まなかった。土佐はそれまで長宗我部氏が治めていたが、長宗我部氏が石田三成に味方して敗北したため、家康から領土を取り上げられた。しかし土佐は山内一豊が入府しても、それまで長宗我部氏が支配していたので一豊の統治を受け入れようとしなかったのである。
  土佐には「一領具足」という制度があり、「一領具足」は農民が軍役を果たすかわりに農地から税を取らないというものであった。この権益を守るために山内一豊に反抗したのである。有力農民の下級武士「一領具足」たちが浦戸城明け渡しを拒んで立てこもって抵抗した(浦戸一揆)。山内一豊は弟の康豊を向かわせ一領具足達273名を斬首した。

 土佐に入国した山内一豊は馬の駆初めや相撲大会を催して、民衆の不満をやわらげ、相撲見物に来ていた浦戸一揆の残党を捕らえて処刑するなど国の統治を心がけた。それでも再び一揆は起きてしまう。浦戸一揆より3年後に、滝山一揆が起き鎮圧に苦慮することになる。

 山内一豊はこれまで長年仕えてきた武将たちに大きな領地を与えてその功労に報い、長宗我部氏の旧臣の中から有能な者たちを見出して家臣として登用した。しかし領内の不安要素となる一領具足の制度を残すつもりはなく、これに対して反抗する者を厳しく処断した。一領具足を温存すれば税収が少なくなる上に、武装した民が土佐に多数存在することになり、大規模な反乱が起きる火種になってしまうからである。このような状況だったため、山内一豊は影武者を6人も用意し、土佐の各地の視察に赴く際には暗殺されないようにと警戒していた。1603年頃までには一領具足たちの反抗を鎮圧し、武器を取り上げて農民に戻している。これはかつて秀吉が行った刀狩りの政策を土佐でも実行したことになる。


家臣を上士と郷士に分ける
 またかつての長宗我部氏の旧臣の武士たちを「郷士」として低い身分に縛り付け、決して藩政には参加させなかった。長宗我部氏の一部の旧臣と、掛川から連れてきた家臣たちは「上士」と呼ばれ、こちらだけを藩政に参加させた。

 当時の土佐はかなり特異な土地で、よそからきた山内一豊とその家臣たちを容易に受け入れなかった。そのため身分を明確に分けることになった。こうして土佐の武士の身分は二段階の階級制となり、これが幕末の動乱期に坂本龍馬らのように脱藩して活動する志士たちが多数輩出される要因になった。土佐の下級武士は土佐藩の政務に参政して倒幕に向かわせることができないため、藩を出て広く天下で活動する志士が多くなったのである。
 山内一豊は築城の名人として名高い百々綱家(どどつないえ)を家臣に迎え、土佐の統治の拠点として高知城を築城した。高知城の周辺は低湿地であったため難工事であったが、百々綱家は石垣作りに長けた石工の技術者集団とつながりがあり、その力を借りて城下を整備した。こうして土佐の統治も軌道に乗り始め、1603年には朝廷から土佐守に叙任され公的な地位も得ることができた。

 このようにして統治の基礎を築くと、山内一豊は1605年に60才で病没した。山内氏の家督は一豊の弟・康豊の子の忠義が一豊の養子となって継承し、明治維新を迎えるまで山内氏は土佐の大名家として存続した。

 また城下町の整備の際、食中毒を心配した一豊は鰹を刺身で食べることを禁止し、焼いて食べるようにお触れを出した。領民はこれに納得がいかず、鰹の表面だけをあぶって食べた。これが高知の名物になっている鰹のタタキである。

 


千代のその後
  一豊と千代の間に後継ぎは生まれなかったが、それでも一豊は側室を持たなかった。お家断絶の危機にあったが、弟の康豊の子供・忠義を養子に迎えて後継者にした。

 土佐に入国してから5年目に山内一豊が死去すると、千代は出家して京都の妙心寺の近くに移り住み見性院(けんしょういん)となった。妙心寺は臨済宗の大本山で、山内一豊と千代がかつて拾い育てた湘南宗化(しょうなんそうけ)という名の僧侶が在住していた。湘南宗化は利発な子で山内一豊と千代は、この子を後継者にしようとしたが、捨て子であったことが広く知られていたため家臣に諌められて断念したのだった。千代はこの宗化と関わって暮らし1000石の隠居料を得ている。

 千代は隠居後も山内氏の創始者として、徳川幕府への忠誠に励んで家を保つように努め、また秀吉の未亡人・高台院に贈り物をするようにと手紙を書いている。またこの頃には「徒然草」や「古今和歌集」などの古典に親しみ、穏やかな日々を過ごし、1617年に60才で亡くなった。偶然にも山内一豊と同じ年齢で世を去った。湘南宗化は千代の最期を看取り、その17回忌には大規模な法要を営み、妙心寺に見性閣という供養のための施設を建てた。山内一豊と千代の廟所はこの妙心寺にある。大名の夫婦墓はきわめて稀で、夫妻の仲の良さを暗示している。


山内一豊の能力
 山内一豊は軍事においても内政においてもなかなかの手腕の持ち主であった。他の群雄たちと比べると、飛び抜けた能力はないが、無難に諸事をこなし家臣に有能な人材を迎えることに努め、運にも恵まれたが大名になれる資質を持っていた。関ヶ原での動きを見ると機略においては千代に劣っていたが、賢妻の助言や力をうまく活用し山内家の発展につなげた。
 山内一豊は自分が平凡な武将であることを自覚し、人の助けを借りたほうがよいと割り切れる性格だった。また人の策を奪うこともあった。妻の千代は世の情勢が正確に読めるほど聡明な人物で、これが篤実な山内一豊に不足していた点を補い、山内家を発展させることに貢献した。戦国時代において、武将とその妻は共に家を守って発展させるための協力者の関係にあったが、山内一豊と千代はその大きな成功例のひとつである。山内氏が治めていた高知城に行くと馬と女性が並んだ銅像を目にすることができる。